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2016年4月17日 (日)

増谷文雄「仏教入門」―⑲―

 4.修行の宗教

 私ども人間は、ありとあらゆる欲望のかたまりである。美食を欲し、美衣を欲し、異性を欲し、金銭を欲し、名誉を欲し、健康を欲し、長寿を欲し、病めば恢復の早やからんことを欲し、雨降れば天晴れんことを欲し、戦えば敵に勝たんことを欲し、死すれば天に生ぜんことを欲する。

 かぞえ挙げれば、人間の欲望の種類には限りがない。それも、身のほどに適い、道理にあったものならばよいが、中には、欲すべからざるものを欲する欲望も、また少なからず存しておる。したがって、それらがすべて満たされることは不可能であり、また満たされないのが当然である。

 また、人間の欲望は、たとえそれが一応充たされて、しばし満足を感ずることがあっても、新しい欲望はすぐその後から生まれてくる。「得るを貪る者は、金を分かちて玉を得ざるを恨み、公に封ぜられて侯を受けざるを恨む」と『菜根譚』の著者も嘆いておる。充足すればするほど、いよいよ高ずるのが、人間の欲望の運命的な性質である。その満たしがたきことは、「海の流れを呑むが如し」と喩えられておる。

 しかも人間は、欲望のついに満たされざることを知っても、それで追及を止めるわけではない。人間の力で駄目だとなると、神仏の力によって充足されんことを求め、世俗的手段が尽きると、宗教的手段によって到達せんことを企てる。かくて、宗教の世界には、人間の抱くさまざまの欲望があつまってくる。

 また宗教の側からも、どの神を信ずれば金を儲けることを得、どの仏を拝すれば長寿を得、どの本を読めば病気恢復をうるなど、人間の欲望に対して迎合的な態度をとる。その結果、宗教の世界には、人間のいかがわしい欲望がうづまき集まって来て、あたかも宗教は、人間欲望の解決所のような観を呈するに至っておる。

 だが、さまざまな宗教の中にあって、仏教―少なくとも原始仏教―のみは、いささか態度を異にするものであった。仏教は決して人間の欲望に迎合する宗教ではなかった。

 人間は欲望の塊のようなものであるが、いろいろな宗教の中で「原始仏教」だけは人間の欲望に迎合するものではなかったということは極めて核心をつく大事なことである。しかし、釈迦入滅後時間が流れるに連れて原始仏教の精神が変貌し、人間の欲望に迎合するものとなって広がって行ったのである。

 南伝仏教では今でも僧侶はカーキ色の衣を着て、妻をもたないとか酒をのまないなどの割合厳しい戒律を守るようだが、北伝仏教は僧侶は位が上になるほど豪華な衣装を纏うし、葷酒山門に入るを禁ずと札を立てながら酒や臭い物を食し、妻帯もしている。生臭坊主は人間の欲望の塊と言えよう。

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