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2016年3月14日 (月)

増谷文雄「仏教入門」―⑪―

 仏教は仏陀となる宗教、自覚人格の建設を目標であるとするならば、仏教においえて最も大切な要素は自分自身でなければならぬ。自覚とは自分自身が覚醒することである。自分自身の中に埋もれている宝は、ただ自分だけが掘り出すことができる。自分自身が目覚め自分自身で実践するのでなければ、何にもならないのである。自覚人格を建立するという仕事において、本当に頼りとすることのできるものは、ただこの自分自身だけである。

  「自己の依所は自己のみなり。他に如何なる依所あらん。自己のよく調御せられたる時、人は得難き依所を獲得す」

  法句経の一句はかく述べられてある。また、釈尊は、曾てこのことを「自らを燈明とし、自らを依所となし、また他の依所によるなかれ」と教えたこともあった。またある時には、『他人の牛を算うることなかれ」という言い方で諭されたこともあった。

  釈尊の晩年に近いころのことであったと思われる。彼は数多の比丘たちとともに舎衞国の祇樹給孤独園に止住しておった。そのとき、目連の弟子一人と阿難の弟子の一人とが、経唄を誦することの上手下手を競い争ったことがあった。あとでそのことを聞いた釈尊は、二人を呼び出して、つぎのように諭して言った。

 「無益のことをいくら誦したからとて、何の役にも立つものではない。他人の牛を数えることとおなじことである。さようなことは、道を求むる者のなすべきっことではない」

  『法句経』はこの教訓を頌にして、つぎのごとく記しておる。

  たとい経典を誦すること多くとも、放逸にしてこれを実行せざる人は、他人の牛を算うる牧者にひとしく、真の沙門の列に入らず。

  たとい経典を誦すること少なくとも、法に遵いて挙止し、貪欲と:瞋恚(シンケイ)と愚痴とを捨て、正智を得て心よく解脱し、この世に於いてもかの世に於いても執着なきものは真の沙門の列に入る

  大切なことは、正しき法の覚知と実践とである。仏性を開発することである。これを蔽い碍げるものを、仏教の術語では「蓋」と名づける。貪欲、瞋恚、無智などがそれであって、それらを払い却けて覚者となることこそ、釈尊の徒にとって第一の関心事である。仏陀となる宗教に於いては、これを措いて他に重大の事どもはないのである。したがって、釈尊は、誦経を巧みにすることも、呪文を暗ずることも教えなかった。

 先に述べたように、祈祷を献げたり、祭祀を施行したり、そのために牛や羊を犠牲として供することも教えなかった。また祈祷や祭祀の対象となる神々の功徳をも説かなかった。それらはすべて他人の牛を算えるに等しいとするのであった。

 仏教の経典を読んでおると、時たまには釈尊の言葉の中にも、神々の名が出てこないではない。だがそれは崇拝の対象として、礼拝を行ったり祈祷を献げるなどということは全くなかった。そしてそれらの神々と自覚したる者とを比ぶれば、確かに自覚人格の方がまさっているというのが、釈尊の主張するところであった。(P.23中ほどまで)

 仏陀(仏=覚者)になるには、自分自身が釈迦の教えに従って努力をすることで可能であるということだと理解している。それには読経も呪文も祈祷も全く関係がないのである。神は人が不安にかられて依所するものである。その存在を信じてひたすらに頼ることで安心を得るという対象である。釈迦が神を認めないのは当然である。

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