増谷文雄「仏教入門」―⑬―
3 真理の宗教
仏教の原動力は、釈尊その人の自覚人格を出発点としている。仏教の理想も、その実践の方法も、すべて釈尊の人格を中心としておる。原始仏教もまた一種の人格中心の宗教であったことは疑いの余地もない。古い経典は、弟子たちが釈尊に寄せた帰依信頼の胸をうつ記録のかずかずを記しとどめている。
賓祇耶大仙は、年老い、色衰え、目も耳もその力を失わんとすること、はじっめて世尊に法をきき、随喜して弟子となった。彼が元の師婆和利婆羅門に対して述べた述懐は。つぎのごとき偈となって遺っている。
婆羅門よ、我は、現に見らるる
即時に果てある,喝愛を盡滅する、
悩みなき法を我に説示したまえる、
譬うべきものもあることなき、
かの広慧ある瞿曇(くうん 瞿はおそれる)
かの広智ある瞿曇より、
須ユ(ユの字が出てこない 意味はしばらくの)間といえども、
離れて住することなし、
婆羅門よ、不放逸にして、昼夜に、
我は意(こころ)の眼もて彼世尊を見る、
彼を礼拝しつつ夜を過ごす、
故に我は、離れ住せず思惟す。
我が信と喜と意と念との
これら四法は瞿曇の教えより離れず。
広慧者世尊が赴きたまう方に、
その方に必ず我は帰向しおれり。
我が老いて力弱き身は、
その故に彼処に至ることなし。
されど思いをやりて常に赴く。
婆羅門よ、我が意は彼と結合し居ればなり。
その切々の情は、掬すべきものがある。
ある年、舎衞国の祇園精舎での夏安居が了ったとき、比丘たちは食道に集まって、衣を縫い繕っておった。衣がととのえば、世尊はまた旅に出られるのである。それを聞いて、長者梨師達多と富蘭那の二人は、精舎に詣り、世尊を拝して言った。
「大徳よ、世尊舎衞城より构薩羅に遊行に出たまわんと聞くとき、世尊我等を遠ざかりたまわんとて、悦なく、憂あり。・・・・大徳よ、世尊、构薩羅より摩羅に遊行に出たまわんと聞くときは、世尊我等を遠ざかりたまわんとて、悦なく、憂あり。・・・・大徳よ、世尊摩羅より跋耆(キ)に、跋耆より伽戸に、伽戸より、摩竭陀に遊行に出たまわんと聞くときは、世尊我等を遠ざかりたまわんとて、悦なく、憂あり。・・・・大徳よ、世尊摩竭陀より伽戸に遊行に出たまわんと聞く時は、世尊我らに近づきたまわんとて、悦あり喜あり、・・・・大徳よ、世尊伽戸より跋耆に、跋耆より舎衞城に遊行にい出たまわんと聞く時は、世尊我等に近づきたまわんとて、悦あり、喜あり。大徳よ、世尊舎衞城、祇樹林、給孤独園に住したまうと聞く時は、世尊我らに近く在すとて、少なからず悦あり、少なからず喜あり。」
ここにもまた、師を慕う情の恋々として尽きざるものが述べられておる。
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