増谷文雄「仏教入門」―⑮―
原始仏教の経典は、釈尊に帰依した弟子たちが、入信に際しての師と法に対する感懐を、しばしば次のような言葉で伝えておる。
「妙なる哉。妙なる哉。譬えば倒れたるを起こすが如く、覆われたるを露わすが如く、迷える者に道を教えるが如く、暗中に灯火を掲げて眼ある者をして色を見せしむるが如く、かくの如く世尊は、種々の方便を以て法を顕示したまえり。我ここに世尊と法と比丘衆とに帰依したてまつる」
また、次のような感懐もしばしば述べてられておる。
「己に法を見、法を得、法を知り、法に悟入し、疑惑を超え、猶予を除き、無畏を得、師の教を措きて他によることなく、世尊に白(まを)して言えり。『我願わくは世尊のみ許に於いて出家して具足戒を得ん』と」
釈尊の法を説くや、理路整然、懇切丁寧、次第段階を経て、人々が自らの経験にかえりみ、その知識と理性を以てすれば、必ず理解しうるが如き説き方をした。弟子たちはそれによって、よく法を理解し、その法によって自覚人格を開発しうることを確信し、その理解と確信の上に、釈尊に対する信頼帰依の情がうちたてられた。この態度を仏教では「聞法随順」という言葉で表現しておる。弟子たちがその師の人格と智慧とに心からなる帰依と信頼を寄せていたことはいうまでもないが、その帰依と信頼とは、さらにその根底に教法に対する理解と確信とが存するのである。
法を聞き、理解し、確信をして、そこにはじめて帰依し随順するのである。したがって、仏教との帰依信頼は、本来、絶対憑依のそれではなかった。単に教祖の人格に信頼をよせるのが仏教徒の能事ではなかった。教祖の説き教えられたる法を理解し、その教法の理解によって、自分自身の心のなかには自覚人格を開発することこそ、仏教徒の第一義でなければなrなかった。
釈尊はその入滅に程遠からぬ頃、巴陵弗に遊行して、恒河の渡船場のほとりに立ち、多くの人々が舟を求め筏を求めて渡る様を見て、頌を説いて言ったことがあった。
仏は海の船師たり。
法橋にして河津を渡す。
ここで釈尊は自らを「船師」にたとえ、また「法橋」ち呼んでいるが、原始仏教における釈尊の地位は、この言葉の中にも充分に観取せられるのである。第一義はどもまでも法の開発であって、釈尊はそれへの「橋」であり、「船」であり、最も適切な言葉でいうと「導師」であったのである。
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