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2016年3月18日 (金)

増谷文雄「仏教入門」―⑫―

 その点よりして、仏教学者のあいだには仏教を無神論であるとする考え方が行われておる。実をいうと、私もまたその主張をなす者の一人である。だが、おなじく無神論とはいっても、むろん左翼の思想家たちのいう無神論とは、一緒に考えるわけには行かない。左翼理論によると、神とは社会の階級性の不合理によって生まれたものである。したがって、人々はこの理論の実践によって、神をその根底とともに葬り去らねばならないとするものである。それに対して、釈尊の立場は全く異なるものであった。

 神がいかにして生じたか、神が存するか否かなどのことは、釈尊にとっては、大した問題ではなかった。釈尊にとって、たった一つの重大なことは、自覚人格の建設ということであった。この自覚人格の建設という大業に参加しうるものは、ただ自分自身のみであった。たとえこの世の中に神なるものが存在していようとも、自覚人格の建設については、何の役に立つものではなかった。釈尊はかように考えていたのである。

  ともあれ、釈尊の宗教は神を必要とせざる、自覚の宗教であった。その意味よりして、仏教を無神論ということも差し支えないことであると思う。だが、後世の仏教に於いては、無神論としての仏教の特色は、いつのまにか失われてしまっていた。一代の富貴をのぞんで歓喜天に祈る仏教徒もある。災厄を免れんがために観世音菩薩の護符を懐にする仏教信者もある。米相場に勝たんがために不動尊を拝する仏陀の末徒もある。

  「他人の牛を算うるなかれ」と教えた釈尊のおしえは忘れさられて、今や仏教徒は他人の牛を算えることのみに夢中になっている。それは決して仏教の本質ではない。仏教の本質とするところは、どこまでも自覚の宗教たることにある。世のもろもろの宗教は、すべて神をたて、神によって、福祉をもとめ、救済をねがう。それに対して、仏教はただ自覚人格の建設を説くのみであって、あえて神を立てず、福祉をもとめず、救済を願わなかった。これは実に驚くべき特色である。仏教の仏教たる所以は、まずこの特色より出発しているのである。(←P.35)

 日本の仏教は葬式仏教と言われて久しい。それは寺や僧自らが牛を算するからである。戒名料は信士が40万円とか居士は80万円、院号はうん百万円などと言っている。お経も通夜、葬儀で何十万ととられる。それもお布施という美名のもとにである。これは釈迦の教えを全く理解していない行為である。布施の本来の意味を歪曲しているのだ。良寛は托鉢に出かけたがそれが本来の布施の意味である。彼は草庵に暮らし、托鉢の椀で簡素な食事をしたと言われる。良寛のような清貧に甘んじる僧はいなくなった。高級車で檀家回りをし、寺院の改築には多額の寄付を要求するなどは間違っている。自覚の僧はどこにいるのであろうか。

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