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2016年2月27日 (土)

増谷文雄「仏教入門」―⑦―

 それらに対し、仏教にもまた教祖釈尊に対する信仰告白が存ずる。曾て原始仏教の人々は、仏教僧伽の人となるにあたって、先ず三宝帰依を三度称することを命じられた。

  仏に帰依したてまつる

  法に帰依したてまつる

  僧に帰依したてまつる

 仏教が釈尊その人の智慧と人格とに出発しておることはいうまでもなく、それに対して仏弟子は心からなる帰依と信頼を寄せた。正法は彼によりて示され、その実践は彼によって垂範せられた。彼は弟子たちにとって最も信頼すべき「信行の導師」であった。もし釈尊の導きがなかったならば、彼らは法を知ることを得ず、また法を行ずる新年を獲得することが出来なかったであろう。

 だが、それ以外には、彼は神との中保者でもなく、審判者でもなく、また預言者でも使徒でもなかった。「神なき宗教」である仏教に於いては、当然、その教祖にも神的属性を付与する余地はなかったのであって、釈尊が結局単なる「信行の導師」たるに止まったことこそ、仏教の教祖としての特色が感得せらるべきである。

 この点については、重ねて詳述する機会があると思うが、もしも読者の中に、教祖に関する先入観念として、イエス・キリストやマホメットに於けるがごとき、神性に関するものを包蔵しておられるならば―発達仏教の信者たる人々にもかかる先入観が予想せられる―仏教の正しい理解のために、一応これを払拭されることが希ましいのである。

※三宝とは「仏」「法」「僧」なりと経典にある。そこには「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」のような「神依存」の思想はない。私の理解するところでは、「仏」は悟りの境地であり、「法」は仏になる道筋であり、「僧」は自らそれを実践する者または法を説いて成仏(悟り)の手助けをする者である。

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