若い人に70年前は「昔話」?!
今年は戦後70年という節目の年であった。集団的自衛権行使容認の安保法制がどさくさのうちに決められて日本の将来に決定的な禍根をのこすことになった。
あの戦争を知る人はだんだんと少なくなっている。あの忌まわしい戦争の時代をどう語り継いでいくかは大きな課題となっている。
そんな中で山田洋次監督は長崎原爆をもとにした「母と暮らせば」という映画を作ったが、これは一つの貴重な資料となって残るであろう。
18日のNHK番組「未来のために」で、山田監督と「母と暮らせば」に出演した二宮和也と歌手の美輪明宏さんが鼎談をした。32歳の二宮さんが84歳の山田監督と80歳の美輪さんに聞くという形であった。
美輪さんは10歳の時長崎で原爆に遭ったそうで、その様子を話したが、それについて山田監督が「美輪さんは表現者だから相手に伝わるように話すことができる」と評したのが印象的であった。
小学校という小学校の校庭に死体が並べられ、つぶれた家の材木でその死体が焼かれた話とか、子どもをかばってしっかりと抱いたまま亡くなった死体の話など地獄絵を見たことを話した。 同じ年齢の私だが田舎にいたのでそういうもの凄い体験はしていない。
美輪さんは戦時中のことをよく覚えていて、「戦時中は色が禁止され国防服とかモンペのような地味なものだけであったとか、母親がドレスを作って着たら警察に呼ばれて切り裂かれたという話しをした。
また、美輪さんの知り合いの青年が出征するとき、汽車が動きだしたら母親が飛び出してきて青年の足にしがみついて「死ぬのではない。生きて帰ってくるのだよ」と言ったら、近くの人が「非国民!」と言って母親を投げ飛ばし母は額に大けがをしたという。その顔を見ながら離れていく青年の目が今も焼き付いていると話した。青年は戦死したそうだ。
二宮さんが「ぼくたちにとって、歴史というより、昔話だ」と言ったとき、美輪さんは「私の70年前は明治の初めか幕末だからね」と言ったのを聞いてハッとした。戦後70年という言葉を何十回となく聞いたが、若者の70年前を自分の70年前に置き換える発想はなかった。
確かに今の若い人から見ればあの戦争は昔話なのだ。美輪さんと私の若いころの70年前が明治維新前後であり昔話であったように。
私は田舎に暮らしていたとはいえ、戦時中の暮らしや国家統制のことやB29の爆撃などを体験しているので70年は現実のものである。それは山田監督も同じで、監督は映画を作るとき当時のことをいろいろ二宮さんや黒木さんに話して聞かせたそうだ。
山田監督は「想像することが大事」と言っていた。その通りで自分が知らないことは想像力を働かせてイメージを広げるしかないのだ。
二宮さんは収録が終わって「昔話に色が付いた」と感想を述べていたが、山田監督と美輪さんの話しを聞いてモノクロの世界に色が付いて戦争の時代を少し感じ取ることができたようだ。
特別秘密保護法、安保法制さらには教育改革などで戦前回帰を急ピッチで進めようとしている安倍政権のもとで、戦争時代を知らない人たちにとって、今、国家統制の怖さ、不自由さをきちんと知ることがどんなに大事なことかと改めて思う。
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日曜日の映像の20世紀をみて私はとても驚いた。というのは当初、アメリカの資本がナチス政権を全面的にバックアップし育てたという事実を解説したのだ。すなわちフォード社やデュポン社はドイツの軍備拡充に直接貢献し、金融資本は多額の融資をドイツにつぎ込んだ。ちなみにフォードⅡ世は反ユダヤ主義の急先鋒であったし、リンドバークは熱烈なヒットラー崇拝者であった等々。ナチスは合法的に政権を奪取し、経済をV次回服させ、国民の圧倒的支持を得て、かつ今で言う社会福祉対策にも力を注いだという。国民も議論ばかりで何も決められない民主主義よりもファシズムを喜んで受け入れたのだ。安倍政権とナチス政権を重ね合わせるのは酷かもしれないが何か根底に流れるものは同じような気がしてならない。国民は煽動に弱く愚かで女性的だとはナチスの宣伝大臣ゲッペルスの有名な言葉だが昔も今も変わらない?
投稿: toshi | 2015年12月22日 (火) 09時21分