パリ銃撃事件に思う
パリの中心地でイスラム教徒とみられる男たちによって、悲惨なテロが起こった。彼らは「神は偉大なり」と言って、カラシニコフ銃を乱射したようだ。
パリという国際都市のど真ん中で、銃が乱射されるということ自体不思議でならない。私はパリに行ったとき、あの辺りを歩いたが、シャンゼリゼ通り近辺には銃を持った警官がパトロールしていた。日本では考えられないことだと思った。
日本でも暴力団関係の短銃使用は見られるが、自動小銃の発砲は聞かない。アメリカなど銃規制が厳しくない国では、発砲事件が頻繁に起きているが、フランスでも起きたということは衝撃である。
ヨーロッパは、隣国だけでなく、道路や鉄道でつながっているから、銃の移動も容易なのであろうか。犠牲となった人々には、心から哀悼の意を表したい。
犯人は射殺されてしまったから、真相の解明は十分には進まないだろうと思われる。新聞などの報道では、イスラム共和国関連だと言われている。
そこで思うことは、どんな宗教でも、祈願をすれば戦争に味方をするということである。かつて日本も戦前は戦勝必勝祈願が盛んに行われた。国民学校に入ると、隊列を組んで速玉神社へ行き、みんなで戦勝の祈願をしたのであった。
キリスト教でもイスラム教でも、他のどんな宗教でも、信者や関係者が戦勝祈願をすれば、それを聞き入れるに違いない。というか聞き入れられたかどうかは主観的な問題であり、祈願者がそう思えばそれまでなのである。
だから過激派と言われるイスラム原理主義でも、穏健派でも共にアッラーを信じてその加護を頼りにしているのだ。キリスト教を信じるアメリカは、イラク戦争に飛び込んだ。
もし、普遍的に人々を愛する神がいたならば、自分の信者だけに味方をしたり、戦争という暴力に加担をするはずがないと思うのだ。人々はそんなエゴの神を互いに頼りにして自分だけには願いが通じると信じてる。矛盾しているとは思わないのだ。
日本は太平洋戦争には負けてしまった。神の加護はなかったという証明になると思うのだが、誰もそんなことは言わない。
宗教がしばしば排他的になるというのは悲しいことである。ヒンズー教や日本の神道のような多神教は別として、イスラム教もユダヤ教もキリスト教も一神教である。しかも、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は同じである。
しかし、同じ神を信じながらいくつかの宗派に分かれている。そして互いに争いをしているのだ。
日本のように、イワシの頭も信心からで、どんな神にでも祈願をするといういい加減さ、神の寛容さは世界では珍しい存在なのだ。
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