転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵)⑰
(40)金がかかる手術におおもめ、献体の手続きをしてくださり
今のように保険証は使えず、当時のお金で五十万円か六十万円以上かかると言われ、大変な出費を覚悟しました。何もしない兄弟が手術を止めさせようと、
「死ぬ事が分かっていて手術をするのは医者の金儲けだ!止めさせないかん!」
と、勝手放題の事を言い本当に大変でした。私は必死でした。
「外に出ろ!」
と怒鳴り、
「金は全部家が出す!」
と、病院の外で大喧嘩をして、手術をする事になりました。それを知った先生があまりにひどいガンなので、献体のむつかしい手続きをしてくださったのです。そのおかげで手術が無料になり大変助かりました。
「一年以上も世話になっていても米一升持たせてくれない!」
と言い続けて泣く姑に、私は、
「お母さんに財産があったなら私は見てあげられなかったよ」
と慰めていました。働きに働いた母親への思いやりのなさに、私は耐えられませんでした。その上お酒の支度がいる、姑とも殆ど一緒だったので、住み込みの四人の若い衆と病人食の三度の支度、その上に朝と夜の姑のお酒の支度、次々と訪れる八人兄弟のもてなしで本当に疲れました。
(41)手術のすべてを見ていた私
手術室は手術が一部始終見られるように出来ていました。手術室の隣に一部屋あり、そのドアの窓が「透明ガラス」になっていたのです。姑の足が私の目の前にあり、両側におおぜいの先生と看護婦さんがいました。私はあの隆起して来た憎い固まりはどこにあるか?と思い、息を飲んで見守りました。
(42)蜘蛛の巣のようなガン細胞に包まれていた内臓
開かれたお腹を見て「ゾーッ!」と、身震いをしました。お腹の中は血豆をパーッと散らせたように、数えきれない程の肝色の「ガン」でした。その上に、蜘蛛の巣のように白い網の筋が内蔵のすべてをおおっていて、一つの白い網のふくろに包まれているようでした。取ることは出来ないからと言われていた胃が不思議にもはがれてとれたのです。胃を切り取った上の部分をひっくり返されたそこにも、大豆ほどの大きさの血豆が無数ありました。私は思わず「わぁっ・・」と声を出してしまいました。お腹の中はピンク色でとても綺麗でした。
(43)長々と続いたガンの筋取り
「ガン」の筋をつまむ医師。それを、切り取る医師とに分かれ、長い時間、長々と続いたのです。 それは、それは大変な大手術だったのです。岐阜の大学病院から、
「あのお婆さんを手術した町医者がいた」
と言い、是非取り出した内臓を見せて欲しいと連絡があり、院長先生にお願いに行きました。姑のガンは見た事も聞いたこともない大きなガンだったと言われました。
(44)痛々しい包帯の姑をまたしても働かせたい男達
先生を始め必死の看病のかいがあり姑は二ヶ月後に退院してきました。胃はもちろんのこと、沢山の内臓を取った姑の食事は大変でした。
しかし、苦しさから解放された姑の喜びは、私の苦労も消える思いでした。命拾いをしたばかりの姑にまたしても卑劣な男の電話が来たのです。
「お婆を返してくれや!」
と、残酷な電話にあきれてものもいえませんでした。
姑は痛々しい大きな包帯を胸から腹の下まで巻き、田舎へ帰って行きました。それきり医者にもかからせない男達に、いたしかたなく痛み止めと栄養剤を運ぶ私達でした。姑を返した事で私は小学生の息子に叱られてしまったのです。
「あの体でなぜ返したの!やっと苦しさから解放されて楽になったばっかりなのに!お婆ちゃんは苦しんでまた働くんだよ!」
と。息子に叱られたのは後にも先にもこれが初めてでした。
(45) 医者にも行かせず「たらの木」だけで何と十三年間も生き
その姑が医者にも行かず痛み止めと「たらの木」を煎じたお茶を飲むだけになりました。術後によくある痛さのあった時だけに私達が迎えに行き、医者に連れて行って痛み止めをもらいました。飲み続けたのは「たらの木」だけだったのです。そして何と十三年も生き「八十一歳」になり老衰で亡くなりました。
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