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2015年1月29日 (木)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵)⑮

34)やせ細った手足!ポンポンに腫れ上がったお腹

  姑の体はテレビで見た事のある黒人の人と全く同じでした。手足はやせ細りお腹はポンポンに腫れ上がっていました。

  レントゲンのない町医者から岐阜医大へ回され「手術は全く出来ない」と言われ、もっても三ヶ月から長くて半年と言われたのです。

  年が明け、一月四日に姑を迎えに行き、何とか手術をしてもらえる医者はいないか?と夫と二人で何軒かの医者を廻りましたが駄目でした。もう少ない命、むごい田舎には置いておけないと思い、自分の手でせめて最後だけでも大切に過ごさせてあげたいと私が看る決心をしました。夫の反対!兄弟の反対を押し切り、最後を私の家で看取る事に決めたのです。

 35)  そんな体でお勝手も畑仕事もしていた姑

  迎えに行った日も畑仕事をしていた姑でした。そして嫁入りしてきてから休日などなく、姑はどんな物でも自分の姑からは一円のお金も貰った事もなく、大人になった子供達から貰ったお金と老齢年金で手にした金が初めてだったと言うのです。許せない女性への侮辱なのです。もう姑は私の手から誰にも渡さない!と決めました。

 36)  せめて最後は幸せにと決意

  しかし、毎日の看病は打つ手はなく、一日おきの栄養剤の注射を医師に打って貰うだけで、後は果物をジュースにしたのと栄養があり食べられそうな軟らかい食事だけでした。痛さに苦しみこらえる姑に私も一緒に泣きました。私は考えました。助からない命なら痛みを止める事に全力投球する事に決めたのです。薬局の人から

 「いくら助からない人でも三倍も痛み止めを飲ませてはけない!」

 と叱られましたが、私はせめて痛みの止まっている間に、姑と笑い楽しい時間を作る事にしたのです。

  地獄の時間が来た時にお腹をさすると、不思議な事にこぶし程の固まりが隆起するのです。その位置がそのつど場所が違っていたのです。泣いたり笑ったりの毎日でした。

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