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2015年1月

2015年1月31日 (土)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵)⑰

40)金がかかる手術におおもめ、献体の手続きをしてくださり

  今のように保険証は使えず、当時のお金で五十万円か六十万円以上かかると言われ、大変な出費を覚悟しました。何もしない兄弟が手術を止めさせようと、

 「死ぬ事が分かっていて手術をするのは医者の金儲けだ!止めさせないかん!」

 と、勝手放題の事を言い本当に大変でした。私は必死でした。

 「外に出ろ!」

 と怒鳴り、

 「金は全部家が出す!」

 と、病院の外で大喧嘩をして、手術をする事になりました。それを知った先生があまりにひどいガンなので、献体のむつかしい手続きをしてくださったのです。そのおかげで手術が無料になり大変助かりました。

 「一年以上も世話になっていても米一升持たせてくれない!」

 と言い続けて泣く姑に、私は、

 「お母さんに財産があったなら私は見てあげられなかったよ」

 と慰めていました。働きに働いた母親への思いやりのなさに、私は耐えられませんでした。その上お酒の支度がいる、姑とも殆ど一緒だったので、住み込みの四人の若い衆と病人食の三度の支度、その上に朝と夜の姑のお酒の支度、次々と訪れる八人兄弟のもてなしで本当に疲れました。 

 41)手術のすべてを見ていた私

 

 手術室は手術が一部始終見られるように出来ていました。手術室の隣に一部屋あり、そのドアの窓が「透明ガラス」になっていたのです。姑の足が私の目の前にあり、両側におおぜいの先生と看護婦さんがいました。私はあの隆起して来た憎い固まりはどこにあるか?と思い、息を飲んで見守りました。

 42)蜘蛛の巣のようなガン細胞に包まれていた内臓

  開かれたお腹を見て「ゾーッ!」と、身震いをしました。お腹の中は血豆をパーッと散らせたように、数えきれない程の肝色の「ガン」でした。その上に、蜘蛛の巣のように白い網の筋が内蔵のすべてをおおっていて、一つの白い網のふくろに包まれているようでした。取ることは出来ないからと言われていた胃が不思議にもはがれてとれたのです。胃を切り取った上の部分をひっくり返されたそこにも、大豆ほどの大きさの血豆が無数ありました。私は思わず「わぁっ・・」と声を出してしまいました。お腹の中はピンク色でとても綺麗でした。

 (43)長々と続いたガンの筋取り

  「ガン」の筋をつまむ医師。それを、切り取る医師とに分かれ、長い時間、長々と続いたのです。 それは、それは大変な大手術だったのです。岐阜の大学病院から、

 「あのお婆さんを手術した町医者がいた」

 と言い、是非取り出した内臓を見せて欲しいと連絡があり、院長先生にお願いに行きました。姑のガンは見た事も聞いたこともない大きなガンだったと言われました。

 (44)痛々しい包帯の姑をまたしても働かせたい男達

  先生を始め必死の看病のかいがあり姑は二ヶ月後に退院してきました。胃はもちろんのこと、沢山の内臓を取った姑の食事は大変でした。

  しかし、苦しさから解放された姑の喜びは、私の苦労も消える思いでした。命拾いをしたばかりの姑にまたしても卑劣な男の電話が来たのです。

 「お婆を返してくれや!」

 と、残酷な電話にあきれてものもいえませんでした。

 姑は痛々しい大きな包帯を胸から腹の下まで巻き、田舎へ帰って行きました。それきり医者にもかからせない男達に、いたしかたなく痛み止めと栄養剤を運ぶ私達でした。姑を返した事で私は小学生の息子に叱られてしまったのです。

 「あの体でなぜ返したの!やっと苦しさから解放されて楽になったばっかりなのに!お婆ちゃんは苦しんでまた働くんだよ!」

 と。息子に叱られたのは後にも先にもこれが初めてでした。

 (45) 医者にも行かせず「たらの木」だけで何と十三年間も生き

  その姑が医者にも行かず痛み止めと「たらの木」を煎じたお茶を飲むだけになりました。術後によくある痛さのあった時だけに私達が迎えに行き、医者に連れて行って痛み止めをもらいました。飲み続けたのは「たらの木」だけだったのです。そして何と十三年も生き「八十一歳」になり老衰で亡くなりました。

 

 

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2015年1月30日 (金)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵)⑯

(37)タラの木が、ガンに良いと聞いて

  お爺さんが、どこからかタラの木を煎じて飲むと「ガン」に、効くそうだ!と聞いてきました。良いという事は何でもしたい私でした。

  陰干しにした「タラらの木」を削り、土びんや土なべで煎じて、お茶のように飲ませました。胃がいつ詰まってしまうのかしらと目の離せない日も続きました。一日一日が宝のような時間に思え、姑の笑顔を求めての毎日でした。

 そして一月四日から十ヶ月が過ぎました。もう支えないと歩くのも一人では心配になり、風呂も一緒入りました。気分の良い時は、私の民踊教室にも我が子のように腕を組み連れて歩きました。

 「死ぬまで働き、働き者だったいたと言われたい!」という姑の願で、姑と腕を組み支えて庭掃きもさせていました。

 38)支えて歩く姑に、驚きの電話が!

  秋の取り入れになり、無休無給で使っていた姑がいなくなり、不自由な生活になった田舎の男達から、

 「お婆を返してくれ!留守番だけでええで!」

 と言って来たのです。怒った私は、

 「年中開けっ放しの留守の家にどうして留守番がいる!冗談じゃないっ!」

 と怒鳴り返しました。しかし、厳しい生活をして来た姑は、

 「家に帰った時悲しい目に会うのはわしだで・・やっぱり這ってでも、お勝手や洗濯ぐらいはしないと・・・」

 と言ったのです。がっくりした私は、姑を田舎へ帰す事になったのです。

 「困っても二度と世話はしない!」

 と夫の兄に怒りましたが、病める姑が心配で、何とか楽に最後を送らせてあげたいと思い悩みました。

 39)手術をした人は、楽な最後と聞き

  痛み止めも効かなくなり、隆起する「ガン」に姑は泣いていました。苦しむ姑に心が痛み、尊敬していた院長先生へ相談に行きました。もう何も食べられず、少しの牛乳と酒杯一杯のお酒と、タラの木の煎じたお茶だけでした「何とか楽な最後はないでしょうか?」

 と聞く私に、先生は、

 「手術をされた方は最後が楽のようですね」

 と言われたのです。何が何でも楽な最後が迎えさせたい私は、無理を言い院長先生を田舎まで行って貰いたいと拝みました。

  姑を思う私の心に、先生はうなずき、遠い診察に出て下さったのです。

 「末期といってもこれはひどい!胃から内臓のほとんどがくっついているな・・胃は取れないと思うから、胃はそのままにしておいて腸を引き上げ、胃の入り口とつなぐかな・・」

 と言われました。何でもいいからほんの少しの望みでも持たせて上げたらと思い、忙しい秋の取り入れも済んだ事だからと、また私の家に姑を連れて帰りました。

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2015年1月29日 (木)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵)⑮

34)やせ細った手足!ポンポンに腫れ上がったお腹

  姑の体はテレビで見た事のある黒人の人と全く同じでした。手足はやせ細りお腹はポンポンに腫れ上がっていました。

  レントゲンのない町医者から岐阜医大へ回され「手術は全く出来ない」と言われ、もっても三ヶ月から長くて半年と言われたのです。

  年が明け、一月四日に姑を迎えに行き、何とか手術をしてもらえる医者はいないか?と夫と二人で何軒かの医者を廻りましたが駄目でした。もう少ない命、むごい田舎には置いておけないと思い、自分の手でせめて最後だけでも大切に過ごさせてあげたいと私が看る決心をしました。夫の反対!兄弟の反対を押し切り、最後を私の家で看取る事に決めたのです。

 35)  そんな体でお勝手も畑仕事もしていた姑

  迎えに行った日も畑仕事をしていた姑でした。そして嫁入りしてきてから休日などなく、姑はどんな物でも自分の姑からは一円のお金も貰った事もなく、大人になった子供達から貰ったお金と老齢年金で手にした金が初めてだったと言うのです。許せない女性への侮辱なのです。もう姑は私の手から誰にも渡さない!と決めました。

 36)  せめて最後は幸せにと決意

  しかし、毎日の看病は打つ手はなく、一日おきの栄養剤の注射を医師に打って貰うだけで、後は果物をジュースにしたのと栄養があり食べられそうな軟らかい食事だけでした。痛さに苦しみこらえる姑に私も一緒に泣きました。私は考えました。助からない命なら痛みを止める事に全力投球する事に決めたのです。薬局の人から

 「いくら助からない人でも三倍も痛み止めを飲ませてはけない!」

 と叱られましたが、私はせめて痛みの止まっている間に、姑と笑い楽しい時間を作る事にしたのです。

  地獄の時間が来た時にお腹をさすると、不思議な事にこぶし程の固まりが隆起するのです。その位置がそのつど場所が違っていたのです。泣いたり笑ったりの毎日でした。

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2015年1月28日 (水)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵著⑭

32)  先達だった夫の父

  夫の父親が御嶽山で霊人になっていると聞いていましたので、御嶽山にも頼んでありました。

 「助ける!」

 という返事を貰っていました。しかし、不安は大きく、信じられない私でした。 げっそりやせた私に、友は、

 「食べなきゃー駄目!

 と言い、病院から連れ出してくれました。

 「そうだ!食べなきゃー」

 といつもの勇気が少しでました。目についた店は「トンチャン屋さん」でした。「これが腸か?」と思って食べました。あわただしい毎日に、ろくに食べていませんでしたので、とても美味しく久しぶりの嬉しい友にホッとしました。

 

33)  末期ガンの姑を助けた事が自信に

 手術室に夫が入り、手術室の前の椅子に二人の息子と三人で座りました。不安で落ち着かなく色んな事を考えて、息子達に思いつく事をオオムのように同じ事を何度も話していました。 

  長い手術の待ち時間、頭の中はあの末期も末期、死寸前の姑が生き返って十三年も生きた事実だけが自信となって、医師の言葉を必死でうち消していました。

 あれは姑ヒナさんが六十七歳の時でした。十二月三十日、一年で一番忙しい日の事でした。突然電話で姑の末期ガンが知らされました。夜はもう痛みで眠られない日がずーっと続いていたというのです。

 「もう長くないでひまを見つけて会いに来てくれ!」

 それが姑からの電話でした。何て事だ!田舎の女性の人生は本当にむごい!そこまでひどくならないと、医者にも行かせて貰えないのかと涙がこぼれました。

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2015年1月27日 (火)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵著⑬

30)  命がけの日に母が

  私の母がこちらを向いて座っていたのです。

 「アレーッ」

 と、びっくりする母。岩田の伯母さんも驚き、もう駄目だ!と思い伯母さんは

 「中をよう見て入ってこないかんわーハハハ・・・」

 と言いました。変な空気の中、驚いたことにもう一人の加藤の伯母さん九十歳が後ろ向きに座っていたのです。加藤の伯母さんは、岩田の伯母さんに

 「何て事いやーす!おみゃーさんは!ハハハ・・・」

 と、重い空気の中で笑いました。私はもう駄目だ!と思ったがとっさに気を取り直し、岩田の伯母さんに、

 「あーら!伯母さんお元気そうで・・」

 と、初めて会ったように芝居をしました。びっくりした岩田の伯母さんは、

 「へエーお陰さまで・・」

 と言い直しました。が、母の六感が私にピリピリとささりました。母と話しをする時間はなく、言い訳をするひまは有りませんでした。 笑って飛び出すしかなかったのです。

  岩田の伯母さんはきっと鋭い質問に会っているのでは?と思いましたが年は八十六歳でも賢い伯母さんです。何とか切り抜けて欲しい!と手を合わせて祈りました。一人住まいの母がどんなに悲しむかと思い、知られぬようにと祈りました。

 

31)  苦しい時の神だのみ 

 家政婦さんが見え、私の親友が駆けつけてくれました。

 手術と決った時、友の近くにある神様に「無事の手術の成功と命ごい」をお願いしたのです。その返事を持って来てくれた友達は笑って言いました。

 「二人の息子を嫁に渡したら絶対別れる!と言い切っているあんたが、何で命ごいの電話なんかしてくるのよ!ハハハ・・・」

 と、意地悪を少しのぞかせ笑ったのです。私もおかしくなり、泣き笑いをしました。心配の固まりの私に友達は笑顔で言いました。

 「神様が言われるのにはね、貴女にすごい徳があって、貴女が生きて欲しいと願えば、ご主人は死ぬ事はない!と言われたの。助かるように祈りなさい!」

 と伝えてくれました。不信心な私は半信半疑で聞いていましたが、駄目!と言われるよりは嬉しく思いました。

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2015年1月26日 (月)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵著⑫

28)  年老いた母を気遣う

  私の母は七十九歳で一人で住んでいました。心配を掛けまいと気ずかれないように心を配っていました。いつも電話をしたり訪ねて行ったりして、買い物をしたり出来るだけ訪ねていたのに、ぱったり行けない日が続いていました。驚いた事に母の姉、岩田の伯母さんが、夫の病室の隣に入院していたのです。きっと廊下で会ってしまう!と思い、手術前の忙しい時にちょっと会いに行きました。そして手短に夫の事を話し、絶対母に言わないようにと、くれぐれも頼みました。おばさんは「分かった!」と、約束をしてくれました。

 

29)  恐ろしい会話 

 伯母さんと別れ、戻った部屋は大勢の白衣の人々でごったがえしていました。

 「バンドは、いつも何処にしていますか?人工肛門の位置が決めたいので すが・・・」

 「はい・・・」

 と、夫は、医師に素直に従っていました。

 「この当たりは、どうでしょう?」

 「はい・・・」

 穴を開ける丸い印に私は胸が詰まり、震えをこらえていました。恐ろしい会話が続き、うろうろする私に、先生は、

 「外に出て行って下さい!」

言いました。致し方なく外にでました。入院用品の足りない物を今の内に買って来ておこう・・と思い、病院を出ようとした時、私はそうだ!伯母さんも何か欲しい物があるかも知れない!聞いてあげよう・・と思い勢いよく隣の部屋のドアを開けびっくり仰天しました。

 

 

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2015年1月25日 (日)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵⑫

25)  今日が最後なら言いたい事が山ほどあって

 生意気盛りの若い衆と父の大好きな二人の子供は男だったため、父をけなされてはどんなに傷つくかと思い、話して分からぬ男に私は無念な人生を送ったのです。姑にも何度も頼みました。

「ここは田舎ではない!毎日使うお金だけは家に置いておくように」

と。しかし、姑は決まって、

「お爺さんがそのとおりだで、しようがないわ、おまはん!」

で終わりでした。

田舎の兄にも頼みました。しかし答えは姑と全く同じでした。今日が最後なら言いたい事は山ほどありました。もう夜中、時間がなく何にも言えずただ涙だけが勝手にあふれ出ていました。

26) おだやかな朝が来ました。

 朝になり、夫はあらためて、

「後の事は頼むぞ!」

「がんばってね!」

と私。夫は、

「うん・・・」

と答えました。

嫁が朝風呂を沸かしてくれ、入ろうとした時です。長い間お世話になった大工さんの棟りょうが見えたのです。私は急いで夫に言いました。

「お父さん!暫く留守なるから顔だけでもちゃっと(早く)見せときな!」

「うん」

と答えて、急いで出て来て笑顔で挨拶をして、後は長男に任せて風呂に入りました。

27)  幸せだったと感謝の言葉が夫から

 木のお風呂・・たっぷりのお湯・・明るくさわやかな朝風呂・・いつもと同じ風呂なのに、今日の風呂は夫をとても幸せにしてくれました。

 ゆっくり入った夫は、昨日とはうって変わって落ち着いていました。

「お前に会えて幸せな人生だった・・二人の良い息子にめぐり会い、良い孫にも恵まれ、本当に幸せな人生だった!」   

などとしみじみおだやかに言いました。夫の運転で私も一緒に病院へ行きました。

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2015年1月24日 (土)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵著⑪

23) 息子の父をけなせない堪忍の人生

 

 子供を背におぶって、座って編み物をする姿が気に入らず、

「座ってする仕事は寝るひまにせよ!」

と怒鳴り、家族が寝静まってから夜中に働けと言うのです。朝は早い時は四時には起こしました。

「明るくなったで起きよ!」

と言う夫。妻の動きを一日中監視をしつづけ、次々と仕事を言いつけ世話をやきとおす毎日なのです。夫は自分の父親が母親にしていた通りにしているのでした。男は、そして夫とは、そういうものだ!と思い込んでいる人種に打つ手はありませんでした。

24)  田舎と街の暮らしの違いが分からぬ夫

 妻には年中一円たりとも、持たせない夫に泣きました。住み込みの若い衆が何人もいて、毎日の買い物に本当に困りました。お昼の買い物と夕食の買い物を一度にすることは許さず、その都度、

「何を買うか?」

と聞きくのです。

「行ってみないとわからない」

と答えるのが毎日のきまった会話なのです。

 そして帰るのを待ち受けていて、職人の前で私のポケットの中に手を入れ、一円残らず取り上げるのです。ゾーッとする姿でした。せめて毎日の子供の「小遣い」くらい残してくれたら・・と、思って暮らしました。

 外仕事の多い夫に本当に泣かされました。年中あちら、こちらで若い衆の毎日の食事の支度のお金を借り歩くのです。税務署の帳面は全部つけさせてお金の出入りは一切秘密です。あきれてものも言えません。自分の身内には驚く程の大金を出したがり、食事の買い物以外私に必要なお金は一切出し渋り出しません。私の身内には義理も恥もすべてかきどうしでした。

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2015年1月23日 (金)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵著)⑩

21)  宝の道具と涙の別れ

  仕事を終えた夜遅く、自分の仕事をする台の上に、夫は自分の道具を全部並べて私を呼びました。

 「これからは、おれの道具を使って仕事をせよ!」

 と、くちゃくちゃの泣き顔の夫が覚悟の道具との別れを口にしました。

  夫の道具は手入れが行き届きそれは良く切れるのです。

 私の「かんな」「のみ」は使うだけで手入れは夫任せです。自分の道具が切れなくなると、時々内緒でそっと夫の道具を使って怒鳴られていました。命の次に大切な道具なのです。

  夫の気持ちを思い、へなへなと倒れそうに泣きました。私は、

 「うん・・・」

 とうなずき、

 「後の事は何にも心配せんでもええよ!明日は手術だで、早く寝ないといかんよ!」  

 と言いました。

  

(22) この世の別れ、自分との葛藤 

 「明日の朝もう一度風呂に入ってから病院に行く!手術は二時だぞ!」

 と夫が言いました。私は、今日が最後になるかも知れない!と、 

 「そうだ!父さんの喜ぶ返事をしなくては!」と、ふと思いましたが止めました。

 「生まれ変わってもまた一緒にならうね」なんて、この口が言ってはくれません。良い返事をするには、その返事の前に、今までしてきたひどい女性差別の仕打ちに対する心からの詫びの言葉がどうしても必要。

  風習とはいえ、女性の人権を余りにも無視したひどすぎる態度の夫でした。妻は下女か道具としか思わず、無休無給で何年間も下着一枚も私の物は買う事を許しませんでした。むごい仕打ちをしている事にも気づいていないのです。

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2015年1月22日 (木)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵著)⑨

18)  怒鳴りつける夫

 そして手術の前日、血相を変えて帰って来た夫は、いきなり私を怒鳴りつけました。

 「おれをだましたな!ガンだと分かっていたなら、手術なんかしなかったのに!」

 と。八月三十一日、その日は台風の上陸で物凄い雨と風の日でした。トタン屋根の工場はすざましい音をたて、丁度私達と同じく大荒れでした。

  

19)  泣き!叫び合った二人

  大声で話さないと聞こえない事を幸いに、私は初めて大声で泣きわめきながら腹の底から夫に怒りをぶつけました。

 「そんな事を言って、まだ修治がいるじゃない!まだ死ぬわけには、いかんでしょうがっ!あんたが死ねば修治は片親の子となる!結婚式で誰が親の挨拶をするのよ!嫁を貰ってからなら、いつ死んでもええ!痛くたって苦しくたって生きるよりしょうがないでしょうが!」

 と私は耐えに耐え、こらえにこらえていた悔しさが爆発してしまったのです。私の半狂乱の攻撃にびっくりした夫は、

 「分かった!分かった!明日は手術と決まってる!今さら止める訳にはいかん!」

 と言い、二人は台風に負けない程の声で泣きました。

  

20)  こんな重い仕事を一人でしていたのか?

  ドッと入った仕事は、八個も額の入った重い玄関の扉が四十五本でした。重い扉を横にして、扉のふちを機械で貼る仕事をしていた私に、夫も手伝い

 「こんな重い戸を一人で作っていたのか?」

 「うん・・・」

 「かわいそうに・・・」

 と言って、また泣きました。

 息子も朝早くから夜、遅くまで必死で働いていました。医師から夫のショックが大き過ぎるから、親戚には当分の間知らせないでほしい!と言われ、夫の病気を隠しました。

  三人の仕事を二人でする事になり、ふらふらで命がけでした。

 「父さんがいなくなったら、こんな重い戸も、一人でせならん!(しなければならない)手術をして治ってくれなきゃー困るよ!工場を建てた借金と機械を買った借金を返し、修治が嫁を貰ったらいつ死んでもええ!それまでは死んではいかん!」

 「馬鹿!」

 と夫が怒鳴り、トタンを叩くすごい雨の音の中で、思い切り泣いたりしゃべったりしました。二人はすっきりした気分になって、夜遅くまでもくもくと仕事をしました。三人分を二人でしている苦しさを見て、病める体で夫もおそく迄手伝ってくれました。

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2015年1月21日 (水)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵著)⑧

15)  生まれ変わっても一緒に!という夫

「今度生まれ変わっても一緒になろうな!」

と言う夫に、いつも返事は無く笑っているだけの私に、

「いいが! お前は男に生まれれば・・おれが女に生まれるで・・」

と言っている夫。色んな事が頭に浮かんだり消えたりしました。

 

16)  ガンと分かって十日目の手術

  手遅れであっても、何としても助けたい私は、「すぐには手術は出来ない!」と困っておられる医師に、必死に拝み倒し、無理矢理「ガン」と分かってからわずか十日目の手術と決まりました。初めて医者に掛かってからわずか半月目でした。ガンと分かってから、三日目に入院し、検査、検査でした。手術の前日、医師から詳しい説明があるという事で長男と私は診察室へ行きました。

  

17)  長男の目から涙が落ちて

  「肛門を中心に、缶詰めのパイナップルを抜くように、お尻と直腸全部と大腸をこのあたりまでスポンと切り取ります。切って見ないと分からないがかなり沢山取る手術になり、人工肛門になります」

 と一気言われた。たまりかねた長男は、

 「人工肛門の事は、父に言わないでおく事は出来ませんか?」

 と言いました。先生は、

 「目がさめた時人工肛門だったら、それこそショックが大きい・・・」

と言われ、がっくりした長男の目から涙が落ちました。先生は例をあげ、

「魚をいきなり捕まえると、大暴れするでしょう?大網に入れて、少しづつ縮め納得させた方がいい・・・」

と言われて、うなだれ涙する二人でした。二人の哀れな姿に先生は、

 「人工肛門の事はぼくのから言います」

 と言って下さいました。 

 手術の成功率は五分五分とのこと、命さえ危ない時に障害が残る事は致し方ない!と思うしかありませんでした。

 

 

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2015年1月20日 (火)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵著)⑦

12)  血まるけの直腸 

 夫は、初めて内視鏡で検査をした時、先生に、

「見てご覧?」

と言われ、自分の内蔵を見せて貰ったそうです。腸の中は血まるけで、何度も何度も見えなくなったそうです「ガンだな!」と思った夫は、

 「先生! ガンですね!」

 と言ったそうです。先生は、

 「ガンと決まった訳ではないが、良くないポリープだからどっち道取らないといけない!」

 と言われたと話しました。やはり夫は一抹の望みを持っていたのです。そして夫は、

 「お前を置いて死ねんぞ!お前を大切にして先に送ってから俺は死ぬつもりだったのに・・・」

 と言いました。私は嬉しいような、そうでないような変な気がしました。

  「もっと早く医者に行けば良かった!」

 と夫の顔は後悔と悔しさに落胆が隠せませんでした。

  

13 夫の、言い訳

  そして夫は、

 「実はお前が腸閉塞で入院した時、おれは、御嶽山にお参りに行き願掛けをした。子供にとって、わし(自分)より家内の方が大切です。私の命にかえて、家内を助けて下さい!とお願いした。お前が助かって帰って来たのに、自分を治すのは神様に気が引けて病院には行けなかった」

 と、私に医者に行かなかった言い訳をしました。 

14 男らしい私 女性らしい夫

 私は、料理を作る事、建具を作る事、細かい、手芸をする事など、考えて物を作る事はなんでも好きですが、後片づけけや、掃除洗濯それに自分の身なりをかまう事は全く手がすくみ、苦手なのです。

 夫はとてもきれい好きで、掃除、洗濯はそれは上手です。私は几帳面できれい好きな夫をいつも上手に使っていました。捜し物など面倒な事はいつも夫をおだてて

「お父さんがいないと、夜も日もくれんわ!」

と言って、家の中の事をして貰ったり、面倒な事は夫に任せたりする私に、自分が居てやらねばと思う気持ちも分かるような気もしました。

「お前は、総理大臣の言うような事を言うかと思うと三つ子にも劣る!」

といつも嘆いていました。いつも掃除をする夫は、掃除機が出始めた時、私に、

「掃除機を、買おうか?」

と相談をしました。掃除は私の係でないので、

「掃除機がひとりでに掃除をするわけでなし、掃除機の掃除をするなんて 御免だよ!」

と言う私でした。暫くして夫は新しい掃除機を手に嬉しそうに掃除をしていました。

 

              

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2015年1月19日 (月)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵著)⑥

10)  風習とはいえ許せない数々 

 「お前のために俺は働いて居るんだぞ!」と言い続けられ、その上私を暗い内から叩き起こし働かせ、難産で退院した次の日ですら、苦しいからと言っても

 「ぼつぼつで、いいで働け!」

 と言い働かされてたのです。それなのに全財産を渡された時には、夫の治療費がやっととは・・・ガンのショックの上に又も私は、二つ目のショックに出会ったのです。

 暫くしてやっと気を取り戻し、

 「わかった・・・」

 と返事をしました。次男の土地を買い家は建ててありましたが、あとは山を売った金が次男の結婚式のために別にしてあっただけでした。それと夫の反対を押し切って私が借金をし、値上がりを見越して買った土地が三百六十五坪あっただけでした。老後の生活資金のためにと、寝る間の時間に編み物をし、漬物を漬け昼休みに売り歩き、買っておいた私の土地だけだったとは

 

11)  子を思う父 父を思う息子

  暫くして夫は、

 「今夜がこの家の最後かも知れない!」

 としみじみ言いました。そして夫は自分に言い聞かせるように、

 「でも看護婦さんが、『早く見つかって良かったね・・・』と言ってくれていた・・まだ手遅れじゃーなし・・がんばるしかない!」

 と言いました。私も、

 「そうよ!修治が嫁を貰うまではね!」

 と言ったのです。

 「うん・・・」

 と答えた夫は、悲しさがこらえ切れず、急に怒り出し、

 「修治の馬鹿が、早く嫁をもらわんで、おれは死ぬ事も出来ん!」 

 と言って声を上げて泣きました。私もただ、ただ、泣きに泣きました。

  次男は自分の事で父が悲しんでいる事を知り悔やんでいました。それを知った長男は弟に、

 「修治! 何を言っている!お前に嫁がなかったお陰で父さんは生きる気力が出たのだ!良かったのだぞ!」

 と慰めていました。

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2015年1月18日 (日)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵著)⑤

8)  胸が詰まりのどを通らない食事

  胸が詰まり、なかなかうどんがのどを通りません。 むりむり食べていた長男が、

 「僕、もう食べられない・・・」

 と言って箸を置きました。続いて次男も、

 「僕も、食べられない・・・」

 と言って箸を置きました。お爺ちゃんが大好きな孫は、夫の横に座り、美味しそうに黙って食べていました。静まり返った中で私は、

 「こんなに美味しいうどん、残しちゃー勿体ないよ! 母さん食べるよ!」 と言って長男の残したうどんを食べました。そして、

 「あんたのも食べるよ!」

 と言って次男の残したのも食べました。息子達はがっくりして笑い、

 「ほんとによく食べられるねー」

 と言っていました。夫もいつもの笑顔に戻り、

 「おっかにはまいる・・・」

 と言って笑いました。二人の孫をじっと見つめていた夫は、

 「さあー 帰ろうか・・・」

 と言ってゆっくり立ち上がりました。

  

9)  腰の抜けた二重のショック

  家に着いた夫は、金庫から「カンカン」を一つ取り出しました。

 「何かしら?」

 と思っている私に、夫は、

 「ここに、金がこれだけある・・・」

 と言ったのです。私は「ドキン」としました。結婚以来ゼロから二人で作った財産なのに、なぜか隠しに隠し、全部のお金などたったの一度も見せた事が無かったのです。

  自分だけは驚くほどの大金を持ち歩き、妻の必要なお金など一さい出さず、耳もかさず、自分の身内の事には驚く程の大金を出し、私の身内には義理も恥もかき通して来た人です。いつもの口ぐせは、

 「おれが何に使う! お前や子供のために働いているのだぞ! おれが死んだ後困らんように貯めてるだけだ!」 

 と言い、その言葉をいやと言うほど聞き続けて暮らした三十五年間でした。

 緊張の一瞬でした。一千万か? 二千万か? いや三千万か? と思い、息を飲んで待ちました。しかし目の前にあるのは、十センチ角の高さ十五センチのドロップのカンカン一つでした。

 「おやっ?このカンカンはたしか小銭が入っているはずだが?」

 と思いました。重いのは知っていました。そうだこの中に大金の定期預金通帳が・・・と思い直し、目を皿のようにして、息を飲み中から出て来る物を待ちました。夫は新聞紙を敷き、カンカンをひっくり返し、小銭をあけました。私は急いで中をのぞき込んで見ました。

  久しく見た事のない昔の一万円札がひしゃけて、入っていました。

 「おやっ?まさか・・・これきり?」

 と不安がよぎりました。

 いや!その下に通帳が・・・と、また思い直し、早く!早く!と、なぜか気があせる私でした。

  ギュンギュンに詰め込まれたお札はなかなか出て来ません。

 やっと「スポンー」と出た!急いでカンカンの中をのぞいて驚きました。底は、さびかかったカンカンの底だけしかなかったのです。

 「これで、全部?」

 と思わず言ってしまったのです。

 「うん!」 

  と悪びれる様子もなく夫は答えました。そして、

 「五十万円はある! これで医者代を払ってくれ!」

 と言ったのです。私は「ぺたん!」とついたお尻がもう動けなくなってしまい、口も聞けない状態になってしまったのです。

  銀行にも預けず、穴を掘り何十年もしまって置いただけのお金は、四十分の一以下の値打ちしか無くなり、オイルショックもあり、値打ちのない一万円札になってばたばたと消えて行ったようでした。一ヶ月一万円の給料が手に出来ない時に初めて出来た一万円札は骨董品でしかありませんでした。一ヶ月三十万円、四十万円の給料の時代に出て来たお金が哀れでした。

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2015年1月17日 (土)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵著)④

6)  気が立ち、何をしていいか分からない日々

 「早く帰る」と、言って家を出た私があまり遅いので、待っていた夫は、

 「あんまり遅いので心配したぞ!お前はバスで帰ると言ったではないか!」

 と怒りました。

 「そうだった・・・電話でもすれば良かった・・・」

 と思いました。そして夫は、

 「先生は、直ぐ手術をした方がいいと言ったけど、そんなわけにはいかん!」

 と言いました。

 次の日、夫は朝早く起きて畑に行き、帰って来ました。

 「耕して、大根の種をまいて来た!}

 と言い、いやな事を忘れたいかのように建具作りに忙しく働いていました。私は「やめなさい!」と、怒鳴りたい気持ちを押さえて、

 「手術の前だで、疲れたらいかん!止めた方がええ!」

 とやっとおだやかに言いました。助からない命と気づかれてはと思い、出来る限り私も息子も笑顔を作りました。

 「おれが畑をせねば誰がする!正月のナッパも食べれんぞ!」

 と、夫はいつものように、私に世話をやいていました。もっと大切な会話が、ありそうなのに何も頭に浮かびません。夫は思いついた事を次々としゃべっていました

 「大根の芽が出たら、ちゃんと間引きをせよ!肥もやれ!草も取れ!」

 と言って、出来上がっている建具を取り付けに、重い道具箱を持って気ぜわしく仕事に行きました。

  

7) 最後の外食

  夜遅く次男が驚いて駆けつけて来ました。夫に知れぬようにと私は外に出て、真っ暗な所で声を上げて泣きながら父さんの短い命を話しました。次男も余りにも唐突な、父の短い命に体を震わせて泣きました。私もやっと大泣きして話せた事で、苦しい胸が少し楽になりました。

  孫が気づき不思議な光景に、

 「お母さん!お婆ちゃんが叔父ちゃんと泣いてお話をしているよ!」

 と嫁に告げていました。きっと嫁も長男から聞いて知っているのでは?と思いました。ただ泣くだけの二人でした。

 次男は、この時からタバコを止め、神様に必死に祈り、父の命ごいをしたのです。   

 次の夜、長男は家族に、

 「今夜は、修治を(次男)呼んで、食事に行こう!」

 と言いました。

 会社で忙しい次男は少し遅れて駆けつけました。長男は、

 「軽い食事が、ええ・・・」

 と言って皆をうどん屋へ連れて行きました。いつものような賑やかさはなく誰の顔も父とはこれが最後と思っている様子でした。

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2015年1月16日 (金)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵著)③

4)  危ない! 車に乗りりな!

  車の中は無言で涙だけが、ポトポトと落ちていました。暫くして息子が、

 「母さん!・・・」

 と、口を開きました。私は、

 「うん・・・」

 と、答えました。息子は、

 「こんな悲しい事は、うち(嫁)のには言えんん! 母さん頼むよ!」

 と言いました。私は、

 「うん・・・」

 と、何にも考えられずうなずきました。そして、

 「じゃあーバスで帰るから・・・」

 と言って、信号の手前で降り歩き出しました。その時突然、

 「危ない!」

 と大声がしたのです「ハッ!」と我に返り、前を見て仰天し、後ろに飛びのき戻りました。赤信号で車の来ている前を、さっさと歩き出していたのです。

 「車に乗りなっ!」

 と、また大きな声がしました。

 夢遊病者のように言われるまま、急いで息子の車に乗り込みました。次から次ぎへと涙はあふれ、ぽたぽたと膝に落ちていました。これから仕事に行く息子は、真っ青の顔になっていましたが、涙は見せず歯を食いしばり、必死にこらえているようでした。

  私はお客さんの家に着き、お客様の前で涙を見せてはいけないと耐えようとしましたか、涙はとめどなくあふれ出ていました。

  沢山の建具を作る材料を積みおえて家路につきました。二人は口も聞けない状態が続いていました。家に近くなって来た時、息子は重い口を開きました。

  

5)  母を思う息子

 「母さん!父さんの事は、母さんの友達には、話さない方がいいと思うよ・・・もし父さんの事が知れたら、そんな大変な時に!と言って友達みんなが、来てくれなくなってしまうと、思うよ・・・」

 と言いました。私は黙ってうなずきました。息子は続けて、

 「家へ友達に来てもらう事が、母さんのたった一つの楽しみだものね・・・ 皆に来てもらえなくなったら、母さんはもっと落ち込んでしまうと思うよ・・・寝ていてもいいから、来てもらわなくてはね・・・」

 と付け加えました。私はからっぽになった頭で、こくりとうなずきました。何も思い浮かばない私は、息子を眺め、「男って、すごいなー」と思いました。三十二歳になった息子なのに私の頭の中はまだ子供だ、子供だと思っていたのです。今日の息子は、生まれて初めて見る、立派な大人でした。

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2015年1月15日 (木)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵著)②

2)医者に行きたくない夫

 そして、一ヶ月ほどがたった時、夫はまた、

 「トイレの後には、必ず出血が続いている」

 と言うのです。

 「どんな色?」

 と聞く私に、夫は、

 「真っ赤な血だ!」

 と答えました。私は胃ガンの末期で、死、寸前の姑を家に引き取り、この手で看て来ましたので、「真っ赤」と聞いて少し安心しました。

 そして四ヶ月がたった時、私が腸閉塞になり入院し、さらに、二ヶ月が過ぎていました。私は、夫の病状の事はすっかり忘れていました。

  そんなある日、夫はまた、ぽつんと言ったのです。

 「おれ、まだ血が止まらん!」

  びっくり仰天した私は、直ぐ医者に行くようにと強くすすめました。何となく医者に行きたくない夫は、

 「痔だで、ええ!」

 と言って医者へ行きません。私は、

 「病気を大きくしてから行く事はないでしょう!」

 と怒りました。

 すでに大出血から半年がたっていました。それでも夫は、忙しい仕事に気をまぎらわせ、行きませんでした。八月に入り、

 「盆休みにでも、行くか・・・」

 と、やっと行く気になったのです。出血から十ヶ月がたっていました。

  

3)詰まる寸前の肛門

  夫は、細いミミズほどの便が、やっと少しずつしか出ないと、言って、一日に、八回も九回もトイレに入っていました。

  盆休みになり、病院へ行った夫は、真っ青な顔をして帰り、

 「医者が、出来るだけ早く、家族に来て貰うようにと、言ったから直ぐ二人で病院へ行ってくれ!」

 と言いました。私は、

 「わかった!」

 と言って、仕事に出かける長男と、トラックに乗って直ぐ家を出る事にしました。心配そうな夫に、私は、

 「父さん!私は、病院からバスで、直ぐ帰って来るからね!」

 と言い残し家を出ました。

 車の中の二人は、不安で言葉はありませんでした。病院に着き、先生の前に黙って二人は並んで座りました。

 「手遅れです。仮に手術が成功しても、必ず三ヶ月後には、再発します。そして半年と思って下さい!」

 と、一気に言われたのです。 私は、後頭部を「ガーン」と、バットで一撃されたような衝撃を受け、頭がぼんやりしてぼーっとなりました。

 気を取り戻した私は、

 「先生!万が一助かる!という事は、ありませんか?」

 と、震える心をおさえて聞きました。先生は首を横に振り、

 「そういう事は、考えない方がいい・・・」

 と、ぽつんと言われました。そして、

 「ガンも悪性で当然、肝臓にも転移していると思う・・・お尻の出口はガンが大きく、詰まる寸前だった」

 と言われ、あ然としました。

  私は、あふれる涙もふかず、黙って息子の車に乗りました。真っ青な息子は、見た事もない程のけわしい顔をしていました。

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2015年1月14日 (水)

転載「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」(河村光恵著)①

 

 しばらくの間、河村光恵さんの著書「タラの木のふしぎ 末期がんからの生還」を掲載していきます。

 野生の、「とげのあるタラの木」を煎じて飲むことによって医者から見放されたガンから生還したというドキュメンタリ物語です。この本に出てくるご主人は、88歳の現在も元気に生活をしておられます。

 

 

 河村さんは、この本にあるご経験をもとに、現在「とげのあるタラの木」を増やす運動をしておられます。

 

 早くお読みになりたい方は、河村さんのbllog「タラの木おばさんのブログ」をご覧ください。

 なお、タラの木を福島県から取り寄せておられましたが、あの忌まわしい原発事故以来、禁輸措置を受けて県外に持ち出せなくなっているそうです。非常に残念なことです。

タラの木のふしぎ 末期ガンからの生還

 まえがき

  どなたも同じですが、突然の驚きに私の家族も、うろたえ必死で過ごしました。助かる事はない!と言われても奇跡を信じ、薄氷の毎日から色々な体験をしました。しかし、末期の人が沢山助かっている事も事実なのです。

 私は、ただ不思議だと思っているだけではいけないと考え、多くの方に、こんなにひどい人達に奇跡が起きている事を知らせ、奇跡を信じて生きる勇気を持って頂きたいと思うのです。

 苦しい時を通り過ぎた私達家族の日々をそのままを書きました。この「タラの木」が、一日もはやくも証明される事を夢見ています。医学的に嬉しいニユースが聞ける日まで、今日一日を元気に!と希望を持って暮らしていただきたいと切に願う者です。 

                       河村光恵    かしこ

 

 平成十二年四月十二日

1)  突然の不安

 

 夫六十一歳、私五十五歳、跡継ぎの長男夫婦と孫二人の六人家族で、家族で助け合って建具屋を営み、私も建具を作る職人として、忙しい日々を送っていました。

  昭和六十二年十一月の、そんなある日の事でした。夫が突然、

 

「今、しっこをしていたら、お尻がぬくぬくとしたので、びっくりしてトイレに入って見たら、真っ赤な血がどっと出ていた」

 

と言ったのです。私もびっくりして、

 

「それは大変じゃない!直ぐ医者に行ったほうがいい!」

 

と言うと、夫は、かかりつけの内科医へと走りました。 医者は、

 

「どうしましたか?」

 

と聞き、夫は、

 

「また、痔が悪くなったようですわ・・・」

 

と答えたというのです。そして何の検査もしなく、痔の薬を貰って帰って来ました。何の検査もしないで帰った事で、とても不安になった私は、

 

「痔が悪いというのは、医者の言う事で、あんたは、病状だけを言えばいいのよ!」

 

とぐちりました。

 

 

 

 

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2015年1月13日 (火)

パリの100万人大デモに感動

 世界を震撼させた、フランスの週刊誌「シャルリー・エブド」に対するテロ事件に関連して、テロには屈しない決意を示す大デモが11日に行われた。

 朝日新聞の見出しは、「反テロ 100万人行進」であるが、」リードには各地で計200万人が参加したと書いてあった。NHKのニュースでは、160万人参加のデモと報じていた。

 いずれにしても非常に大規模なデモで、フランスでは過去最大のデモであるという。このデモには、フランスの大統領だけでなく、ドイツのメルケル首相やイギリスのキャメロン首相の他、イスラエルのメタニヤフ首相、パレスチナ自治政府のアッバス議長らも参加した。

 言論の自由を象徴する鉛筆をかざしたり、胸に付けた人も多くいたという。キリスト教徒もユダヤ教徒もイスラム教徒も参加したことに大きな意義がある。しかも100万人という壮大な数の人々がデモに結集したのだ。

 出発地点のパリ中心部、共和国広場を埋め尽くした参加者の映像を見て大きな感動を覚えた。テロに屈せず言論の自由を守ろうという人々の気持ちが、世界に向かって発信されたのだ。

 フランス革命を経験したフランスには、「自由、平等、博愛」を大切に守ろうという気概がある。残念ながら日本同じ事件があったとしてもこのような大規模なデモにはならないであろう。

 特定秘密保護法のときも集団的自衛権行使容認の閣議決定でも小規模なデモと集会であったので、安倍政権には痛くも痒くもなかった。

 デモは投票行動以外には最も効果的な意思表示行動である。日本でもかつて60年安保の時には大規模なデモや集会が行われたが、経済の高度成長とともにそのエネルギーは消失してしまった。

 フランスでは、まだ意思表示行動へのエネルギーが健在であることを世界に示したのだ。今回160万人(NHK)も集まったのに何の事故もなかったことは本当によかった。もし、この中で自爆テロや銃の乱射あれば悲惨なものになったであろうと思うと胸を撫で下ろした。

 新聞の報道では、今回のテロを引き金として、更なるテロが心配されている。実際アルカイダの宗教指導者は、「イスラム教徒に対する攻撃をやめず戦争を仕掛けるなら、我々からの『吉報』を待つがよい」と新たなテロを示唆したという。

 今回のデモは平和的手段でテロ廃絶への大きな決意を示したことに最大の意義がある。一人ひとりが自由・平等・博愛の精神でテロに対処することが望まれる。

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2015年1月12日 (月)

新聞の書籍広告から

 11日の朝日新聞に、次のような書籍広告が出ていた。一つは「将来の学力は10歳までの読書量で決まる!」というものであり、もう一つは「億万長者ボードを重ねるだけでロト7が当たる本」というものだ。

 

 前者の題名を見たとき、直観的に思ったことは、もし、この題名の通りだとしたら、戦時中に育った自分はどうなんだ?ということであった。

 

 日中戦争から始まって、次第に戦線が拡大する中で、「物資」が不足し、食糧や衣類などが欠乏し、配給制となった。生活必需品さえそんな具合であったから、本などは手に入らなかった。

 

 近所の友人の家に、「冒険ダン吉」とか「ノラクロ」の漫画本があり、題名は忘れてしまったが、南方のジャングルの探検を描いた本があり、それを借りて読んだのを覚えている。しかし、読書とはとても言えないものであった。

 

 それに太平洋戦争が始まると、勉強どころではなくなっていった。国民学校の児童でも野外にかり出され、軍馬の餌となる草を刈らされたり、飛行機の油になる松の根を運ばされたりした。

 

 本など読む機会は全くなかった。学校には図書館があり、蔵書があることを知ったのは、戦後2年ちかく経ってからであった。まだ貸し出しをしていなかったのを担任の先生の計らいで借りてきて読んだ。

 

 「丹那トンネル」という、東海道線の熱海付近にあるトンネルの掘削の話と、「ファーブル昆虫記」であった。それをむさぼり読んだのだ。

 そういう訳で、先の書籍の広告に従えば、10歳までは読書はほぼゼロであったのだ。10歳までの読書量が将来を決めるというのなら、私の今あるのは読書ゼロのせいだということになる。けれどもあの時代、誰もが同じ境遇にあったと思うのだ。よほど恵まれた子供だけが本を読めたかもしれないが。

 私は少年少女時代の読書が大切であることを否定する気持ちは毛頭ない。私も勤めている頃は読書の大切さを説いて、父母の協力を得て学級に本を揃えたりしたし、読み聞かせも毎日やった。

 私の子供は、いくら言っても本を読まなかったが、大人になって本に興味を持ち、いつも本を手放してはいない。本人が必要だと自覚して初めて本気で本に向かいだしたのだ。

 だから、先述の書名のように、刺激的に書かれると、思わず「ウッ」となってしまうのだ。10歳までの読書量が将来を決める!に惑わされるなと言いたいのだ。

 もう一つの本の題名もセンセイショナルである。もし、それが真実であるならば、この本を読んで、その通りにやった人は、全員がロト7に大当たりということになる。そんなことがあるはずがないのは、ちょっと考えれば分かるはずである。

 だいたい宝くじを買ったり、馬券を買ったりする人は、自分だけは幸運が来ることを願っている。運を信じるしかないのだ。それを科学的に必ず当たる法則があるかのようにいうのはおかしいということに気付くべきである。

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2015年1月11日 (日)

パリ銃撃事件に思う

 パリの中心地でイスラム教徒とみられる男たちによって、悲惨なテロが起こった。彼らは「神は偉大なり」と言って、カラシニコフ銃を乱射したようだ。

 パリという国際都市のど真ん中で、銃が乱射されるということ自体不思議でならない。私はパリに行ったとき、あの辺りを歩いたが、シャンゼリゼ通り近辺には銃を持った警官がパトロールしていた。日本では考えられないことだと思った。

 日本でも暴力団関係の短銃使用は見られるが、自動小銃の発砲は聞かない。アメリカなど銃規制が厳しくない国では、発砲事件が頻繁に起きているが、フランスでも起きたということは衝撃である。

 ヨーロッパは、隣国だけでなく、道路や鉄道でつながっているから、銃の移動も容易なのであろうか。犠牲となった人々には、心から哀悼の意を表したい。

 犯人は射殺されてしまったから、真相の解明は十分には進まないだろうと思われる。新聞などの報道では、イスラム共和国関連だと言われている。

 そこで思うことは、どんな宗教でも、祈願をすれば戦争に味方をするということである。かつて日本も戦前は戦勝必勝祈願が盛んに行われた。国民学校に入ると、隊列を組んで速玉神社へ行き、みんなで戦勝の祈願をしたのであった。

 キリスト教でもイスラム教でも、他のどんな宗教でも、信者や関係者が戦勝祈願をすれば、それを聞き入れるに違いない。というか聞き入れられたかどうかは主観的な問題であり、祈願者がそう思えばそれまでなのである。

 だから過激派と言われるイスラム原理主義でも、穏健派でも共にアッラーを信じてその加護を頼りにしているのだ。キリスト教を信じるアメリカは、イラク戦争に飛び込んだ。

 もし、普遍的に人々を愛する神がいたならば、自分の信者だけに味方をしたり、戦争という暴力に加担をするはずがないと思うのだ。人々はそんなエゴの神を互いに頼りにして自分だけには願いが通じると信じてる。矛盾しているとは思わないのだ。

 日本は太平洋戦争には負けてしまった。神の加護はなかったという証明になると思うのだが、誰もそんなことは言わない。

 宗教がしばしば排他的になるというのは悲しいことである。ヒンズー教や日本の神道のような多神教は別として、イスラム教もユダヤ教もキリスト教も一神教である。しかも、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は同じである。

 しかし、同じ神を信じながらいくつかの宗派に分かれている。そして互いに争いをしているのだ。

 日本のように、イワシの頭も信心からで、どんな神にでも祈願をするといういい加減さ、神の寛容さは世界では珍しい存在なのだ。

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2015年1月10日 (土)

洗濯機を買い替えた

 この前も書いたように、電気製品の故障はどういう訳か続くものである。最初に故障をしたのは、パナソニックのドラム式洗濯機であった。この洗濯機は買ってから7年余りであるが、これまでに6回故障をし、修理をしてもらった。今回で7回目である。

 5年保証のあるうちはよかったが、保証が切れてからも2回故障し、今回は3回目であった。年末に水漏れが発見されたので連絡をした。故障の受付は365日やってくれるので有難いが、修理は1月5日からということで予約をした。

 ところが、年が明けると、乾燥ができなくなった。それで修理依頼を追加した。5日に修理に来てくれたが、結局乾燥の方は部品の取り換えが要るという。だいたい2万円~2万5千円かかるだろうということであった。それでしばらく考えることにして、出張点検の費用を3880円払った。

 妻と相談をし、故障がよく起きるし、部品を取り換えてもモーターなどが故障するかもしれないと言っていたので、それなら思い切って新しいのを買おうということになった。

 エディオンに行って店員から詳しく説明を聞いた。パナソニックを買ったときは17万円ぐらいだったと記憶するが、25万円前後の札がついていた。

 店員は日立製品がよいと言ったが、東芝の製品の説明も聞いて東芝にした。パナソニックはこりごりしたので目もくれなかった。店員は「家もパナソニックの洗濯機なので心配になってきた」と言っていた。

 東芝のTW-Z96V2MRという機種を買った。最初の札には305000円の値がついていたが、この日の値札は新春売り出しで245000円であった。

 まけてほしいと言うと、税別で21万8000円にすると言った。それで20万円に値引きしてほしいと言った。店員は店長に聞いてくると言って戻ってきて、すべて込みで208000円にすると言ったのでそれで手を打った。

 次の日、試しにネットの価格.comで調べたら、税込み166380円が最安であった。(ちなみに先ほど調べたら158000円が最安)ネットの場合送料が1万円ほどかかるから177000円ぐらいになるだろう。それでも私が買った値段より3万円余り安い。

 反省点として、事前にネットで調べなかったことだ。ネットで調べておけばもっと強く値引き交渉がやれたはずだということである。

 ネットは確かに安く買えるが、大型製品の場合は、保証がどれだけあるかも大事で、一般に1年のメーカー保証だけである。家電店の場合は5年保証になるので高くても我慢することになる。

 さて、東芝の洗濯機はどのぐらいもつのであろうか?

 

 TW-Z96V2MR <---->9.0kg ドラム式洗濯乾燥機【右開き】グランホワイトTOSHIBA マジックドラム ピコイオン(TW-Z96V2MR(W)) 東芝

 

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2015年1月 9日 (金)

NHKスペシャル「ネクストワールド 私たちの未来 寿命はどこまで延びるかを見て

 1月4日に、NHKのネクストワールドは「私たちの寿命はどこまで伸びるか」を放送した。興味があったので録画をしておいて見た。

 人間の寿命は延び続けていて、1日に5時間延び、2045年ごろには平均寿命が100歳になると予測されているそうだ。私の実感からでも男性の平均寿命がこの間78歳だったと思ったら、今では80歳を超えている。

 昔は平均年齢は40歳ぐらいで推移していたというから、大変なことである。食糧事情と医療の進歩によるところが大きいのだと思う。

 番組では、寿命を延ばす可能性を医療の面から取り上げていた。その一つはNMNという物質である。アメリカのワシントン大学の今井真一郎教授などが研究しているものである。

 教授は薬瓶に入った白い粉を見せていた。NMNの粉なのだという。糖尿病のマウスに与えたら大きく改善したそうだ。今井教授は2000年にサーチュイン遺伝子の働きを明らかにしている。

コンピュータの発達で、遺伝子情報の読み取りは素晴らしく速くなり、それが医学の進歩にも役立っている。長寿遺伝子と言われるサーチュイン遺伝子に働きかけることで、活性化させれば老化を防ぐことができると考えられている。NMNはそれに有効だと言われる。

 また、ハーバード大学のデイヴィッド・シンクレア教授は、NMNが脳の視床下部を刺激して、老化を食い止め若返らせることをマウスを使って確かめた。

 NMNは日清製粉(子会社オリエンタル酵母)が将来の需要を見越して生産体制をととのえているようだ。

 NMNの臨床実験は今年にも開始されると言っていた。この番組の中のミニドラマでは、2035年ごろを背景に、長寿薬を飲むか飲まないかで世論が二つに割れている様子をやっていた。実際に有効な薬ができたら自分はどうするであろう。

 ドラマでは、手首につけた装置が身体の異常を発見して教えてくれ、すぐに治療をすることができるから病気にも罹りにくくなると言っていた。そうなると人間はどうやって死をむかえるのであろうか。

食糧問題とか、紛争とか、地球温暖化とか、そういった問題が解決されない限り寿命だけ延びてもどうしようもない。

3D印刷機を使って、臓器などを作ることができるというのも驚きであった。人工的に細胞を増殖し、それを立体化できるようになったというのだ。なんらかの事情で身体に障害ができた人にとっては嬉しい情報である。

 ナノ・マシンというのも凄い。東京大学の片岡一則教授によって研究されている。ナノの大きさのポリマーのカプセルに癌治療薬を入れて、がん組織に送り込みピンポイントで癌をやっつけるというのだ。アメリカがアフガニスタンなどで無人機を使って敵を攻撃しているが、それに似ている。戦争の道具としては感心しないが、癌との戦いの武器としては大変なものだと感心した。

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2015年1月 8日 (木)

牛乳やチーズは体によくないのか?

 Yahooニュースを見ていたら、「牛乳・チーズ・ヨーグルト、発がん性の危険 寿命短縮や骨折増加との調査も」という記事があった。

 牛乳など乳製品については、以前にもベストセラーの本で、食べない方がよいということを読んだことがある。何人かの著名な医師が本に書いているが、それでも私は牛乳を飲んだりヨーグルトを食べたりしてきた。

 バターについても、以前はバターよりマーガリンの方がよいと言われたことがあったが、この頃では、マーガリンには飽和脂肪酸があり体によくないとか、アメリカでは禁止されているとかでバターが復権している。そういうこともあって何が正しいのかは分かり難い。

 Yahooの記事では、イギリスの医学誌British Medical Jurnalの記事から「牛乳をたくさん飲む人は、寿命が短く骨折をしやすい」という研究結果を紹介している。骨粗鬆症予防に女性は牛乳を飲むことを推奨されてきたがこれはどういうことなのだろう。

 この研究では、チーズやヨーグルトなどにも疑問を呈しているという。これらの発酵食品に多く含まれる「ガラクトース」という物質が、動物実験で老化を促進し寿命ちじめることが分かったというのだ。

 チーズなどの発酵食品では、乳酸菌によって「乳糖(ラクトース)」が分解されて、ガラクターゼができるのだそうだ。それが人間の体によくないというのである。

 日本人はもともと牛乳を飲む習慣はなく、西洋人と違って牛乳を消化する力が弱いと言われている。日本人の85%は、牛乳の主成分である乳糖を分解する消化酵素・ラクターゼを持っていないという。消化吸収できないものを飲んでも無駄だというのだ。

 また、牛の赤ちゃんが飲むものを人間が飲んでよいはずがないと言っているが、日本人が牛乳を飲むようになったのは戦後アメリカ軍の援助で粉ミルクが提供されて、学校給食で飲んだからである。

 あの粉ミルクを溶かしたミルクは、臭くて飲みたくなかったが叱られるから仕方なしに飲んだものであった。私が就職したころでもまだ粉ミルク給食であった。それが牛乳に代わったときは嬉しかった。

 牛乳は栄養があり、健康に良いと家庭科などの授業で日本人の頭に叩き込まれてきた。しかし、ミルクを援助物資として日本人に与えたのは、アメリカの戦略的な、将来を見通した政策であった。それは牛の飼料を買わせることであった。日本で酪農が進めば、アメリカから飼料用のトウモロコシなどを輸出でき、アメリカの農業を発展させることができるので、まさにその狙いは当たったのだ。

 この記事では、乳房炎になる牛が多くいて、その牛の治療薬として与える抗生物資や消炎剤が牛乳に含まれるという。また、妊娠中の牛からも搾乳するので卵胞ホルモンや黄体ホルモンがふくまれていて、乳がん・卵巣がん・子宮がんや前立腺がんなどホルモン依存性の悪性がんになるという医者も多いそうだ。

 そういうわけで、牛乳を飲むのは控えた方がよいとこの記事はいうのだが・・・・。ちなみに私はヨーグルトは豆乳で作ることに切り替えて2年ほどになる。

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2015年1月 7日 (水)

電話機を買い替える

 暮れから正月にかけて電気製品が続けて不調となった。その一つが電話機で、ブラザーの電話機を使っていたのだが、子機の電気がついたり消えたりするようになった。バッテリーは買って間もなくで消耗していないので、変圧器から出ている線の断線だと思った。というのはコンセントを差し替えたり、線をいじると灯りがつくからだ。

 2日ほどはそうやってだましだまし使っていたが、とうとうつかなくなった。それでやむを得ず新しいのを買うことにした。

 シャンピアのエディオンに行きファックス付の電話機を見た。ファックスは1年に数回しか使わないのでなくてもよいのだが、ないと寂しい気がするのでファックス付を買おうと思ったのだ。

 最初にファックス付電話機を買ったときは、NECので4万円以上したと思う。その次にブラザーの製品を買ったのだが、2万円近くだったように思う。

 今出ている機種は、1万3千円から1万5千円ぐらいであった。しかし、メーカーはパナソニックとシャープだけであった。ブラザーやNECは撤退したのだという。どうやらファックス付はemail時代には売れなくなったらしい。

 電話機は種類が豊富で、価格も5000円を切るものもあった。でも、ファックスにこだわったのである。

 今の電話機はいろいろと便利な機能が付いていて、パナソニックのには、かかってきた相手に名乗らせてから受話器を取る安心通話機能が付いていた。それにインクリボンもシャープより安かったのでパナソニック製品に決めた。

 だた、パナソニックは展示品で現品だけであったが、安くなればよいと思って値段を交渉して13000円にしてもらった。

 一晩子機の充電をして、次の日に設置をした。マニュアルをところどころ読んだが、分かりにくかったので、サポートに電話をしたら親切に教えてくれた。

 パナソニックは録音するためにSDカードが使えるので、手持ちの4Gのカードを入れた。電話帳の登録は、SDカードにホームページから「電話帳編集」というのを開いてそこで電話帳を作り、親機に登録するのだ。子機へは転送をするだけであった。

 このように書くと簡単そうだが、サポートを2回頼んでやっと使えるようにできた。でも、まだ機能がいっぱいついているので、それらを使えるようにするにはかなり時間がかかりそうである。

 いいなと思ったのは、電話が掛かってくると、ボタンやアンテナがピカピカ光ることや、電話番号を入れるときに、音声で言ってくれるので打ち間違いが防げそうである。目が不自由な人のためだろうが、音声読み上げもできる。それに電話機の親機が薄く小型になったのも嬉しい。

 固定電話を使うことは少ないが、新年は新しい電話機からというのもよいものだ。

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2015年1月 6日 (火)

NHKスペシャル「ネクストワールド 私たちの未来 未来はどこまで予測できるか」を見たが

 1月3日に放送された、NHKスペシャル「ネクストワールド 私たちの未来 未来はどこまでよそくできるか」を見た。お屠蘇が回って寝むたい目で見た。

 「コンピュータの爆発的な発達で、未来予測の精度は飛躍的に高まり、仕事から消費行動、犯罪の防止、さらには人生の進路まで、選択肢が提示される社会が到来しつつある」ということでいくつかの事例が紹介された。

 例えば、アメリカでは、蓄積された犯罪データを使って、次の犯罪がどこで起きるかを予測し、実際にその現場に行って犯人を逮捕する様子が映された。これなどは大変有用な例だと思った。

 また、ヒット曲のデータを集積してどんな曲がヒットするかを予測する「ヒット曲予測サイト」があり、そのサイトを利用することで、見事に自分の曲をヒットさせた女性歌手の例もあった。これも大変有用な例だと感心した。

 しかし、占いのように人の人生の未来を予測するという例には納得できないものがあった。占いは当たるも八卦、当たらないも八卦だからいいが、コンピュータが計算して80%以上の確率で予測できるようになったら、それは操られた人生になってしまう。だんだん精度がまして100%に近くなったら?(そんなことはないと思うが)恐ろしい。

 30年後には確率80%を超えるというから、そうなると人はそれに頼って生活をすることになるだろう。番組では、ある日の午後○○時ごろに大変なアクシデントが、その人の行先の△△で起きるから行かないようにと警告していた。

 もし、それが当たってその通りになるのなら、そのアクシデントが起こらないようにすべきである。その辺に矛盾を感じた。

 恋愛についても、その人との相性が細かく予測され、かなり親しく付き合うところまでは行くが、結婚はできないという予測の例があった。将来相手の考えていることを脳の働きで読み取る研究が進んでいることは知っていたが、それが現実のものとなると面白味はなくなる。

 ミニドラマでは、腕に知能端末を付けた青年がいて、人と会うと相手の気持ちが瞬間瞬間に分かってしまうという設定であった。

 分からないから人生は面白いし、ワクワクしたりがっかりしたりするのである。すべてわかってしまえば、「ハイ、それまでよ」(このギャグが分かる人は年配者だけだろう)である。

入試に受かるかどうか、希望の就職ができるかどうかなどすべて事前に分かるようになるというのだ。そうなると初詣もなくなるであろう。おみくじを引く楽しみもなくなる。占い師は仕事が無くなる。

 国と国との交渉でも結末が分かるのだから、日中、日韓関係も予測されてしまうのだ。戦争を避けたり、平和がもたらされるようにコンピュータ予測が使えるのならよい。そんな時代が来るであろうか?

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2015年1月 5日 (月)

今年初ウオーキング

 今年の正月は1日、2日に雪が舞い、2日は早朝少し積もった。それでウオーキングにはいかなかった。ただ、1日は娘夫婦と初詣などに出かけたので割合長い距離を歩くことができた。

 私は日ごろ歩いているので、娘は「お父さん、まだ元気に歩けるね」と言ってくれた。若い二人に負けることなく歩けたのが嬉しい。

 3日の朝は、何時もの通り早く起きてウオーキングに出かけた。空を見ると白い雲が少しあったが、木星も出ていた。それに寒さを感じなかったのでよかった。

 2日間歩いてないせいか歩き出すと身が軽かった。元気よく早足で歩いた。歩きながら今年の初歩きだと思った。家を5時20分ごろに出発したが、正月だからか人には会わなかった。山崎川沿いに出ても歩いている人はいなくて、家から1200m余り歩いてやっと歩いている人に出会った。

 それからはときどき歩いている人に出会ったが、いつもと比べても少なかった。山崎川沿いの往復の道で会った人は8人ぐらいであった。反対側を歩くのを見かけた人を入れても12人ぐらいであった。

 歩きながらいろいろと短歌を考えたが、書留めなかったので忘れてしまった。帰宅して作ったのが次の2首である。

◎三日の朝 雪がやんで暖かく 身も軽やかに初歩きする

◎初歩き 健康なるを感謝して 今年もまた歩き続けん

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2015年1月 4日 (日)

初詣に八事興正寺に行って

 今年も初詣に出かけた。最初に行ったのは川原神社だ。神社に着くと長い行列ができていた。40分ぐらいはかかりそうなので、婿がななめ参りをしようと言った。それで本殿の近くまで行き斜めから参拝をした。

 その後娘と婿はおみくじを引いたが私はひかなかった。川原神社の後は興正寺まで歩いて行こうというので歩き出した。朝から降っている細かい雪が相変わらず降っていた。

  1月1日の朝日新聞に、一面全部を使った興正寺の広告が載っていた。興正寺もそこまでやるかと商業主義に毒されたと感じた。

 途中地下鉄杁中駅に来たので、1区だけ乗ることにした。一日乗車券を買えば後で大須などに出ることができるからだ。

 八事興正寺に着くとそこもやはり長い行列ができていた。門前には屋台が並んでいたが、テキヤのではなく、一般の屋台ばかりであった。

 たい焼きを売っている店があり、餡こがたくさん入って150円だった。婿がそれを買った。その店は瑞浪からきているというので驚いた。たい焼きはいい餡でおいしかった。

 その店の隣に、コーヒーを売る店があった。コーヒーを目の前で挽いて点ててくれるこだわりのコーヒーであった。飲みやすくておいしいコーヒーであった。奥さんの方は甘酒を売っていた。話をしながら飲んだのだが、その店は三重県から来ていて、何と東京の深大寺にも行くというので驚いた。婿は必ず行くからと言っていた。

 屋台が並ぶ裏の空き地に、写真のような可愛い地蔵があった。表情がよかったのでカメラに収めた。五重塔に行くと、前に大きな仏像が立っていた。昨年はなかったのにと思って見ると昨年10月頃建立した金銅大仏だと分かった。

 高さ7m余りということだが、何も五重塔の真ん前に建てることはないだろうと思う。どう見ても違和感があるのだ。大仏を建てるのなら広い空地にすべきである。折角の愛知県文化財の五重塔が大仏に邪魔されて存在感がゼロとなった。誰がそこに建てることを決めたのか知らないが、美的センス全くなしの高僧のやったことであろう。

 参拝の列に並んだが、どうも40分ぐらいはかかりそうであった。隣の人がどのくらいかかるのでしょうと聞いたので、40分ぐらいかかるのではと答えた。結局ななめ参拝をすることにした。

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2015年1月 3日 (土)

この年になって初めて食べた毛ガニ

 大晦日に、買い忘れた品を買いにスーパータチヤへ行った。12時半ごろ着いたら、品物によってはデスカウントセールが始まっていた。

  レンコンが半額、大根は50円などで、鮮魚類はみな100円引きや半額の値札が貼ってあった。ふとみたら、毛ガニがあり、値札に500円と貼ってあった。その札は900円の札の上に貼ってあり、900円の札は1200円の最初の値札の上に貼ってあった。

  私はこれまで毛ガニを食べたことがない。北海道旅行をしたときも毛ガニを食べたいと思ったが、本場でも値段が高くて諦めたのであった。

  柳橋の食品市場でも、「生きた毛ガニ、おいしいいよ!」と売っていたが、値段が2800円ぐらいしてとても買えるものではなかった。

  それがたった500円なのだ。古くなったので安くしたのか、売れ残りを売りつくすために安くしたのか、と思いながら1匹手に取ってみると、足がモゾモゾを動いた。「アッ」生きてる」と思い、他のも取り上げたら、やはり少し動いた。

  買うことに決めて、大きそうなのを3匹選んだ。そして 店の人に値段を下げてきたのか尋ねたらそうだと言った。調理の仕方を聞いたら、20分ぐらい茹でればいいと言った。これで毛ガニが食べられると思い嬉しくなった。

  家に帰って妻に毛ガニを買ったことを話したら、「何、カニは買ってあるよ」と言った。タラバ蟹を買ってあったようだ。

   夕食のとき、毛ガニとタラバカニを皿に盛ってみんなで食べた。毛ガニは半分に割って一人分は半分しかなかったが、娘は要らないと言ったので、味噌のある甲羅は私と婿と妻がもらった。

 足は頑丈な甲で覆われているので、鋏で切って割ったら、身がきれいに取れた。小さな関節やカニの鋏にも身が詰まっていた。胴体はカニを食べる専用のナイフで身を掻き出して食べた。白くてもっちりした身であった。妻が一番上手に食べた。子供のころから越前ガニなどを食べているので慣れていたのだ。

 一緒に食べたタラバカニは大きくて食べやすかったが、毛ガニと比べると明らかに毛ガニの方が味がよかった。みんなの意見は、茹でて冷凍して売っているタラバは味が落ちているのだということになった。毛ガニは生きているのを茹でたのでおいしいのだ。

 この年になって初めて食べた毛ガニ。まさに中国語でいう「有口福」であった。

 

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2015年1月 2日 (金)

贈与非課税枠拡大の恩恵は富裕層だけ

 朝日新聞によると、自民党税制調査会が結婚や子育ての資金として、親や祖父母から、子や孫がまとまったお金をもらっても、一人につき1千万円までは贈与税がかからないようにする方針を決めた。来年度から実施するという。

  その狙いは、高齢世代が持っている金を若い世代に回し、少子化対策や消費の活性化につなげたいということだそうだ。高齢者世代は若い世代より金を持っていると言われるが、それにしても、1000万円を贈与できるほどの余裕の金を持っているのは富裕層だけである。

   学校の授業料など教育資金については、2013年4月から同じような非課税の仕組み(1500万円まで)が15年までの期間限定で導入されたが、それを16年以降も継続するという。

   これまでのところ、この教育資金の贈与は、10月末までで約9万4千件の利用であったそうだ。この数字を見ても、孫に資金を贈与できるのはごく限られた富裕層だけであることを示している。

  今度の税制改革では、結婚、妊娠、出産、子育て以外にも、住宅購入資金を非課税で贈与できる仕組みも、現在の1000万円から、来年度は1500万円、16年は9月までが1200万円、10月以降は3000万円にするという。

  大変結構な税制改革だと思われるが、その恩恵を受けるのは、富裕層だけであることは誰が考えてもわかることだ。

  非正規雇用が2012万人に達し、年金が減額され、介護・医療費が増やされ、貧困層が増大している。貧困層ではなくても、日々の生活は圧迫され、まさかの時のための僅かの貯金も目減りしている。現在、年に110万円までの贈与は非課税であるが、それすら利用できる、または利用している世帯はそう多くはないであろう。

  法人税減税といい、贈与税非課税枠拡大といい、自民党・公明党政権がやろうとしているのは、持てる者優遇政策以外の何物でもない。

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2015年1月 1日 (木)

2015年を迎えて―歴史的転換の年

 2015年が明けた。昨年は安倍首相の奇策による突然の衆議院解散、そして総選挙の結果衆議院に74%もの議席を獲得し、公明党と向う年の安定政権を作ることに成功した。30%の得票で議席を74%というのは、まさに小選挙区制のトリックである。

  700億円もの大金を無駄遣いしてまでも、年の暮れに総選挙をしたのは大暴挙であるが、今更言ってもらちがあかない。この選挙を安倍首相に指南した軍師黒田官兵衛はいったい誰であろうか。大した策士がいるものである。

  昨年の特別秘密保護法施行、そして集団的自衛権行使容認の閣議決定で、いよいよ今年は集団的自衛権行使への法整備がなされる。しかし、統一地方選挙への影響を避けるために選挙後の国会に出されるというずるいやり方である。

  今年は戦後70周年という節目の年でもある。70年間も戦争をしないて平和を守ってきたというのは素晴らしいことである。それも戦争放棄を謳った憲法九条があったからである。この世界に誇るべき憲法九条が事実上存在価値をなくしてしまうのだ。

  安倍政権は、自衛隊がいつでも海外へ出かけられるように恒久法にするという。アメリカの尻にくっついての後方支援を想定していると言われるが、戦争に参加すれば後方だから安全だとは言えない。戦後はじめて発砲するという事態になるやもしれぬ。

  昨年亡くなった映画俳優の菅原文太さんが「一番大事なことは、戦争だけは絶対にしてはならない!」と叫んでいる姿が、31日の朝のNHK番組「耳をすませて 未来への提言」で放映された。それを見て彼の信念に感動をした。菅原さんは、日本が再び戦争への道を走り出すことを憂えながら亡くなったに違いない。

 同じ「耳をすませて 未来への提言」番組の中で、昨年亡くなった経済学者宇沢弘文さんを取り上げていた。

 宇沢さんは「儲けるためには何をやってもよい」という、ミルトン・フリードマンの新自由主義経済を厳しく批判した。社会のすべてを極力市場に委ね、競争にさせた方が効率的に成長すると主張したのに対し、効率を優先し、過ぎた市場競争は、格差を拡大し社会を不安定にすると反論したのだ。

  新自由主義こそがレーガン元大統領やブッシュ元大統領が推し進めたもので、日本でも小泉元首相や安倍首相などがその立場である。

 昨年暮れに「アベハラス」のblogで書いたような、様々な庶民いじめの施策が今年は加速するのだ。宇沢さんも格差がますます広がる日本を憂えながら世を去られたに違いない。

「市場で取り引きされるものは、人間の営みのほんの一部でしかない。 医療制度とか、学校制度とか、そういうのがあることによって社会が円滑に機能して、そして一人一人の人々の生活が豊かになる。
 人間らしく生きていくということが可能になる制度を考えていくのが、我々経済学者の役割。」 

として、「社会共通資本」という概念を導入された行動的経済学者の宇沢さんを亡くしたことは非常に大きな痛手である。

 社会に大きな影響力を行使できるお二人が亡くなり、安倍政権はますますやりたい放題である。何と運のよい星を持って生まれた人であろう。

 31日の朝日新聞の山田紳さんの風刺漫画は、2014という煙がを銃口から出ている拳銃を片手に、にやっと笑っている安倍ガンマンで、「長老・若手。反対派 みな黙らせて年も暮れ」というキャプションがついている傑作である。

 きっとしてやったりの美酒を傾けての新年を祝っていることであろう。「法人減税は3.29%にしたし、金持ち優遇の贈与税は1000万円にしたし、憲法9条は無力にしたし・・・・株がもっと高くなってくれれば万々歳だ」

 今年は日本にとって「戦争放棄から戦争参加へ」「貧富の格差拡大へ」の歴史的転換の年である。

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