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2014年12月24日 (水)

名古屋大学レクチャー2014公開講演会を聴く―⑤―

 講演要旨からそのまま転載する。

講演要旨Ⅰ 思想史への成長 1919―1939―1945

  ぼく(水田洋博士)がものを考え始めたころの日本社会には、貧困と差別があふれていて、それを批判し乗り越えようとする社会科学は、危険思想として治安維持法(1925―45、大正14―昭和20)の監視下に置かれていた。

  『日本資本主義発達史講座』(1932)はそのような日本の社会の後進性を明らかにした共同研究であったが、執筆者の一人として指導にあたった野呂栄太郎(1900―34)は、警察のスパイに欺かれて逮捕され、拷問によって体調が悪化して死亡した。

  その1年前には、小説『蟹工船』の著者小林多喜二(1903年―33)が同じようにいsて拷問で殺されていた。彼が逮捕された場所は14歳の中学生(水田博士のこと)の通学路上にあった。

  犠牲者はいわゆる大物だけではなかった(山下智恵子『幻の塔 ハウスキーパー熊沢光子の場合』1985)。彼らは秘密をまもって拷問を受け、死に至ったが、死に値する秘密というものが、そこにはありうるだろうか。

  もっと光を、とゲーテは死に面して言ったが、日本の少年はこれから生きるために二つの方向で光を求めた。

  1つは人類史の最も明るい時代と場所、すなわち西ヨーロッパ・ルネサンス(マキャベリとミケランジェロ)に目を向け実を置くことであり、もう1つは貧困と差別を超えて、明るい社会を作りだそうとした歴代の社会学者、社会思想家たち、その中で特に、カール・マルクスを学ぶことであった。

 一方、すなわち近代思想の始まりでは、すでに1651年のイギリスで、基本的人権が、各個人の不可侵の自然権としての、生存権・自己保存権として主張されていたが、他方の現実の日本では、学生の研究グループでさえ危険思想として逮捕されていた。ここからぼくの社会思想史の研究が始まる。

  1938年7月5日の関西風水害に対する学生の救援運動が、反戦運動に転化する恐れありというので検挙が始まり、東京商科大学でも上級生10人が検挙されてそれぞれ不利益処分(除籍その他)を受け、一橋学会という学生の研究団体は、委員長以下幹部を検挙されて壊滅した。火急の間に上級生たちの「水田を表に出すな」という意見がまとまり、最年少の予科三年生は検挙を免れた。

※あの治安維持法下の戦前の日本で、貧困や搾取による過酷な労働状態を明らかにするだけで、拷問で死に追いやられた先輩のことや、そんな困難な時代に社会科学を志したことが簡単に語られたが、2度とあってはならない教訓として、脳裏に留めておかなければならないことである

 風水害救援活動すら危険思想とみなされたとは何とも恐ろしい時代であった。

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コメント

 私の学生時代は、マルクス経済学が大変盛んでした。私は、マルクスの解明した搾取の構造は今や誰の目にも明らかだと思っています。富の偏在をどうなくしていくのか現代のマルクスはいないのでしょうか。

私の大学時代、経済学部に進むとまずマルクス経済の講座は勿論
必須科目であり、ゼミもマルクス経済を選択する学生が少なからずいた。マルクスの資本主義分析は若い学生を惹きつける説得力があった。ただ就職には不利ということで、近代経済学(当時は近経、マル経といっていた。)を選択したことにある種のうしろめたさを感じたものであった。今の経済学部はどの様な雰囲気か全くわからない。マルクスの資本主義分析は今も正しいと思える。ただし、資本主義はその矛盾によって行き詰まり、社会主義、共産主義に向かうという彼の予言は完全に外れた。このことは資本主義が勝利したというより、共産主義がマルクスの期待に反し、自滅したというべきであろう。

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