第26回 橘座公演―春風亭小柳枝独演会
第26回 橘座座公演が愛知産業大学工業高校であった。今回は「橘町町名拝領350年記念ということで、岐阜聖徳学園大学名誉教授の安田徳子氏の「橘座の成立と変遷」という講演があった、その後に落語の公演があった。
安田名誉教授は、安田文吉教授の奥さんであった。この日の朝のテレビで安田文吉教授が出ていた。
橘座は現在の愛知産業大学工業高校のある場所にあったのだ。「寛文4年、(1664年)11月、2代目尾張藩主光友の命により、名古屋の南端、美濃路沿いにあった千本松原が切り開かれ、橘町と命名された。ここの住人に古鉄古道具の専売が認められた。この新開地住人への藩主の優遇処置として、願いによってその裏に芝居地が下し置かれ、常芝居が認可。さらに、芝居が不繁盛の時、芝居を休業した時、無利息の借金も認めた。」と古文書にあるという。
その後、7代藩主宗春時代の芝居王国到来の最初は、享保16年8月15日の京下りの大芝居一座であった。宗春も観賞した。元文4年(1739年)正月、宗春が失脚、芝居は全面禁止となった。
享和以降、文政元年を頂点に名古屋芝居は繁盛を極め、その後も天保の改革の規制も短期間で、東西の芝居が規制にあえいでいた時期も活発な活動をしていたが、橘町芝居は幕末の政変で影響を受けたか、沈滞した。
明治3年7月に橘町での芝居興業を許可し、芝居小屋を2か所に建てた。また寺社境内での芝居は禁止となった。
江戸時代、若宮神社やお寺など芝居をするところは最盛期には60ぐらいあったそうだ。しかし、幕府の規制や禁止によりすたれたときもあった。
講演の後、落語の公演が行われた。前座は春風亭昇太の弟子の春風亭昇吾の開口一番で、ナンセンス落語で笑いを取った。
春風亭小柳枝の落語は、2番あり、最初はチラシには「2番煎じ」となっていたが、以前に誰から演じたことがあるというので、急きょ入れ替えられた。長屋に住む器量よしの娘が殿様に見初められ、側室となり、世継ぎを生んだので、兄が殿様に呼ばれる。しかし、町人の兄は侍言葉が分からず、頓珍漢なやり取りをするというもので、結局妹のおかげで出世したという噺であった。
この噺の前振りで、面白いことを言った。「カタカナのトという字に一を加える。上に加えると『下』となる。下の者は一が邪魔して上の者が見えない。下に加えると『上』となり上の者は下が見えない。」というようなことを話した。うまく言い表しいると感心した。
お中入りの後の噺は、有名な「文七元結」であった。腕のいい左官がばくちに溺れ、着るものもないくらいになる。娘のお久は家出をしてしまう。行った先が吉原の女郎屋で女将に呼び出される。女将から説教をされるが、1年の期限をつけて50両貸してくれる。
帰る途中、橋の上で身投げをしようとする若者を見て止める。若者は掛け金をもらってきたがスリに取られてしまったと話す。事情を聞いて50両を若者にやる。
若者は文七といい、店(鼈甲屋)に帰って金を差し出すと、主が金は返ってきたという。文七が囲碁に夢中になって金を忘れてあったというのだ。
主は文七を連れて吉原の店に行き、左官の住所を聞いて左官の家に行く。そして礼を言い50両を渡そうとすると、左官は50両はやったものだから受け取れぬと変な意地をはる。そこで金が返った祝いだと言って50両を渡し、酒も渡す。その後で酒の肴もどうぞと言う。
酒の肴は?娘のお久である。何と鼈甲屋の主が身請けをしてくれたというのだ。そして何年か経って、その若者は元結を商売にし、めでたくお久と結ばれるという人情噺である。
江戸っ子の左官も、女郎屋の女将も、鼈甲屋の主もみな気風のいい、情の厚い人間として描かれているいい噺だ。小柳枝はそれぞれをうまく演じ分けて話していた。
橘座で落語を聞くのは年に2回の大きな楽しみである。来年は誰の落語が聞けるのだろうか。今から楽しみにしている。
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