2024年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« いい詩があった | トップページ | 漢字を取り入れた上代日本人に改めて感服 »

2014年8月20日 (水)

NHKスペシャル「いつでもゆめを 作曲家を見吉田正の”戦争”を見て

 8月16日に放送された、NHKスペシャル「いつでもゆめを 作曲家吉田正の”戦争”」を見た。


 生涯に2400曲以上の作曲をして、1998年には国民栄誉賞を受賞した大作曲家だが吉田正さんがシベリアに抑留されていたことは知らなかった。

 戦時中に徴用され、戦意高揚の歌を作曲させられていたそうだが、1944年の所属部隊のペルリュー島派遣の時は運よくというべきか、虫垂炎を患って派遣を免れたという。ペルリュー島の戦いはNHKスペシャルで放送されたばかりで見ていたので知っているが生き残り34名という壮絶な戦いであった。

 吉田さんは免れたものの終戦となり、ソ連軍の進攻でシベリアに連れて行かれ、シベリア各地を転々として過酷な労働をさせられたのだ。60万人もの日本人がシベリアに抑留され5万人以上の人が現地で亡くなった。

 いつ誰が亡くなってもおかしくない状況の日々の中で、吉田さんは戦友を励ます歌を作り続けたのだという。3年間に作曲された歌は20曲以上。白樺の木を剥いだ皮に鉛筆で書きつけていたそうだ。

 また自分が作った歌を夕食の時にみんなに教えて回ったのだという。歌が生きる力を与えると信じていたのであろう。ときには歌劇団を組織し、手作りの楽器で演じたという。

 生き残っている人は2万人。平均年齢は90歳だという。その人たちのなかで、吉田さんの歌を覚えて書き留めている人がいた。北島鉄之助さんだ。彼がレコード会社に自分が歌った「帰還の日まで」というテープを送ったことがきっかけで、吉田正さんのシベリア抑留時代の歌の存在が明らかになったのだ。

 シベリア原野を開拓するという非常に過酷な労働と、食べ物や寒さを防ぐ衣類もろくにない中でいつも歌を作っていたと戦友は証言している。そして、もし吉田さんの歌がなければ生きて帰る勇気はでなかっただろうと回顧している。

 吉田さんが帰国して1948年に作曲家として歩みだして作った第一曲があの「異国の丘」だそうだ。シベリア抑留中に作曲した歌だそうだ。あの歌がラジオから流れるといつも歌ったことを思い出す。中学1年のときであった。とても真情の溢れたいい歌で全国民に歌われた。しかし、あの歌が吉田さんの実体験をバックにしていたことは今回初めて知った。

« いい詩があった | トップページ | 漢字を取り入れた上代日本人に改めて感服 »

戦争と平和」カテゴリの記事

コメント

 吉田正さん作曲の歌で「有楽町で逢いましょう」や「いつでもゆめを」のように自然に覚えた歌が幾つかあります。それだけいつも歌われたということでしょう。

私が中学生の頃が作曲家吉田正の全盛時代だったと思う。作詞家佐伯孝夫とのコンビで数々のヒット曲を飛ばしていた。ビクター専属なのでフランク永井、橋幸夫といった大人気歌手のヒット曲は殆ど彼らコンビから生み出された。「有楽町で逢いましょう」「潮来笠」もこのコンビの作品だ。ラジオ深夜便ではしばしば聴くことができる。特に吉田正さんは偉ぶったところがなく好感が持てる人柄なので多くの人から慕われていたように思う。それにしても
昭和は遠くなってしまった。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« いい詩があった | トップページ | 漢字を取り入れた上代日本人に改めて感服 »