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2014年8月

2014年8月31日 (日)

花子とアンを見て

 NHK連続テレビ小説「花子とアン」を毎回楽しみに見ている。日中戦争になり、戦争への体制が作られていくことになるが、どのように戦争が描かれるか注視している。

 最近のストーリーの中で、花子たち飼っていた犬が軍用犬として徴用されたことが描かれた。また花子が軍用犬のニュースを読むとき、自分が飼っていた犬の名前を入れて読み問題になった。

 私は一般の人が飼っていた犬が徴用されたのは知らなかった。犬は何の働きをさせられたのだろうか。子どもの頃軍用犬というのがあることは知っていたがみなシェパードであった。花子の飼っていたような柴犬の類まで使われていたことは初めて知った。

 徴用されたのはおそらく犬だけでなく、牛馬もあったのだと思う。そういうものが軍のためと言って強制的に持って行かれる時代であったのだ。戦争はまっぴら御免である。

  もう1つ花子が子ども向けのニュースを読むところで、花子が子どもたちが理解しやすいように原稿に手を入れる場面があるが、あの頃はNHKのニュース原稿は逐一政府の許可の下に行われていたことを知って驚いた。

  完全な言論統制である。花子が原稿に手を加えることをチーフアナウンサーや部長は喜ばない。何とかしてやめさせようとしている。恐ろしい時代であったことが分かる。

 今またNHKには安倍首相の息のかかった役員が送り込まれ、会長以下放送内容に圧力を加えようとしている。特定秘密保護法が成立して、また見えないところで言論統制が進むことであろう。少しずつ少しずつ進められるものと思われる。

 ドラマで描かれるNHKの漆原部長と有馬チーフアナウンサーは、二人して花子にパワハラを繰り返している。戦前のNHKはあのような連中が牛耳っていたのであろうか。花子のような人間味溢れる人間にはどんなに生きにくい時代であったであろうか。

  これからドラマは太平洋戦争時代になって行く。戦時下で花子は「赤毛のアン」を翻訳することになるのだが、どのように描かれるか楽しみである。

※軍用犬と軍犬の違い

 

 私が子どもの頃、軍犬と言ったり、軍用犬と言ったりしていたが、下記のblogによると概念が違うようだ。

  軍に所属して管理されているのが「軍犬」で、軍犬に適した犬を「軍用犬」ということがわかった。

 

 http://ameblo.jp/wa500/theme-10012756640.html

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2014年8月30日 (土)

局地気象情報が当ったので驚く

 今年の夏は天気が悪い日が多く、各地で大きな災害をもたらしている。幸いこれまでのところ名古屋には大きな被害は出ていない。

 私はIphone に天気のアプリを3つ入れている。自分が住む地区の天気と名古屋の天気と防災関係の警報を知るためである。

 今週の火曜日にスーパーへ行ったときのことである。家を出かけるときに空を見ると黒い雲が流れていたが、雨が降っても通り雨だろうと思い雨具を持たずに行った。

 買い物をしていると、店員が大きな声で「雨が降ってきた」と叫んだ。急に激しい雨の音がして雨が降り始めたのだ。困ったなあと思い、持っていたIphoneを取り出すと、「猛烈な雨」の警告が出ていた。

 警告は16時に出ていたのだ。一番激しくなるのは16時20分ごろと出ていて、その頃が丁度予報の時刻であった。

 雨の様子を見に行くと激しく降っていた。買い物を済ませた人たちが外に出られず様子を眺めていた。私はIphoneの画面を見せて、「この天気予報の通りですよ。小降りになるのは16時50分ぐらいだと言っています」と話した。店員が困ったなあと言っていたので、店員にも同じように見せて話した。

  Iphoneで警報を出したのは、防災警報のアプリであった。それによると10分刻みで何mmの雨が降るかを予想していた。

  16時20分から30分ごろは60mmぐらいとしてあり、その後減って行って、16時50分ごろには0.7mmと出ていた。

  私は信じるしか仕方がないと思って、それまで店の中を見て待つことにした。47分ごろもういいかと思って出ようとしたら、いきなりまた激しく降りだした。でも、50分過ぎには小降りとなりパラパラの雨に変わった。

 

 それで買ったものを自転車に載せて店を出た。南の空を見ると青空ものぞいていた。家に帰るまでそれ以上降らないようにと願いながら自転車を走らせた。

 幸い雨は殆ど降らず家に帰りつくことができた。Iphone のアプリの予報の正確であったことに驚くと共に有難いと思った。局地の雨の予報も随分正確になったものだと感心をした。

 

 ひどい雨の警報は「防災アプリ」が頼りになるが、ふだんの天気は一つが3時間ごと、もう1つは6時間ごとになっており、両方で予報が異なる場合が多いので、両方を見て参考にしている。

 それにしても広島の土砂崩れを引き起こした雨の局地情報はどうであったのかと思う。おそらくかなり正確に警報を出したのではないかと想像するのだが。

 

 

 

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2014年8月29日 (金)

「高血圧はほっておくのが1番」から

 降圧剤の副作用が脳梗塞増加の原因だということを知って驚いたが、その他にも副作用が紹介してある。

 それはガンが増えるということと認知症になる危険性が高いということである。日本で1番多く飲まれている降圧剤はカルシュウム拮抗剤だという。

  あらゆる細胞の表面にカルシュウムが出入りする小さな穴(カルシュウムチャンネル)があって、カルシュウムがここを通過することで、電気的な変化が起き、血管が収縮し血圧があがる。

  カルシュウム拮抗剤はカルシュウムチャンネルを塞ぐ効果がある。それで血管が広がったままになり、血液の流れがよくなって血圧が下がるのだという。

  ところがカルシュウム拮抗剤は血管だけでなくすべての細胞のカルシュウムチャンネルを塞いでしまう。それで免疫細胞がきちんと働くなるのだそうだ。つまり免疫力を弱めてしまい、ガンに対抗する力が弱くなるのだ。

  免疫力が低下すると、他のさまざまな病気も引き起こすから降圧剤はできるだけ控える方がよいと述べている。(P.60~P.63)

 また、薬で無理に血圧を下げると、脳にきちんと血が回らなくなり、認知症の一因となるという。例として紹介されているBさんは、降圧剤をやめたら認知症的症状がよくなったそうだ。

  降圧剤を飲んでいる人に服用をやめてもらったら、ほとんどの人が「頭がすっきりした」というそうだ。めまいや手足のしびれもなくなったという人も多いという。

  高齢者の血管は動脈硬化を起こしている。老化現象である。細く,硬くなった血管に血液を流し、栄養と酸素を送るには高い血圧が必要だという。高齢者は薬で無理に血圧を下げない方がよいと言っている。(P.64~P.67)

  降圧剤の副作用としては、その他にも尿酸が溜まりやすくなる、空咳、歯肉の腫れ、吹き出物、便秘、むくみ、心不全、糖尿病など様々なものが確認されているそうだ。 

  松本医師は、昔のように年齢+90の方がずっとましだと言っている。130はいくらなんでも下げ過ぎだという。5500万人もの高血圧患者を作っている原因である。

 特に高齢者では160~180でも大丈夫だと言っている。加齢で硬くなった血管に血液を巡らせるためにはそのくらいは必要だというのだ。

 高血圧の人は、体内で血圧を高くしなければならない何かが起こっているのだ。命を守るために血圧をあげているのだという。(P,79)

  意図的に作られた高血圧症、製薬会社がぼろ儲けするだけの高血圧基準。何とも人を愚ろうした話である。来年から147~90になるのかどうか。何としても今の不正常な基準値は改めてもらいたい。

  「高血圧はほうっておくのが1番」という本は5500万人の高血圧の人は読むとよいと思う。その上で自分はどうしたらよいかを考えればよいのだ。

  近藤誠医師の「ガンはほうっておけ」といい、この本といい、ある意味では勇気のいる提言である。

 

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2014年8月28日 (木)

高血圧はほうっておくのが1番―④―

 高血圧よりそれを治すための降圧剤の副作用の方が怖いという。その1つが脳梗塞を引き起こす危険性だそうだ。

   松本医師によると、日本には脳卒中患者が約150万人いて、毎年25万人が新たに発症しているそうだ。ガン、心臓病に次いで日本人の死因の第3位だという。

   脳卒中には3種類あるそうだが、私は知らなかった。「脳梗塞」「脳溢血」「くも膜下出血」である。1999年度の調査では、脳梗塞が84%、脳溢血が13%、くも膜下出血が3%だったそうだ。

   ところが1950年代までは、約90%が脳溢血であったという。それが脳溢血は年々減り、脳梗塞が増加し、1975年ごろに逆転している。昔は脳溢血が多かったのは、栄養状態が悪かったことと機械がないため人力で力仕事をしていたことで血管が破れやすかったのだという。

  脳溢血は激減したのに昔の脳卒中=脳溢血のイメージがしぶとく生き残って、脳溢血予防のための降圧剤を何千万人もの人が飲まされているのだという。

  逆に増加し続けている脳梗塞は高血圧が原因と言われているが、そうではない。むしろ血圧が低いときに起きる疾患であるという。(P.53)

 「脳の血管が詰まりかけたとき、体は懸命に血流をよくし、血のかたまりを吹き飛ばそうとする。」血圧を上げて脳を治そうとしているのだというのだ。

  「薬で血圧を下げることは、命とりなのだ。『脳梗塞は(降圧剤を処方した)医師によってつくられる』と言っても過言ではない」と言っている。

  東海大学医学部名誉教授・大櫛陽一氏の研究によれば、「降圧剤を飲んでいる人は、飲んでいない人に比べて、脳梗塞の発症率が2倍になる」(P.53)

  「あとがき」で、このレポートは目からうろこだったと著者は書いている。それまで降圧剤を服用していても脳梗塞になる患者がいて不思議に思っていたのだそうだ。

 いつの頃からか「脳溢血」ということを聞かなくなり、「脳梗塞」とことをよく聞くようになったが、今では「脳梗塞」が普通なのだ。街を歩いていると杖を頼りにしている高齢者をよく見かけるが、みな脳梗塞を患った人たちなのだろう。

  脳梗塞を患うと手とか足とかの麻痺やロレツが回らなくなったりする人がほとんどだ。後遺症が厄介だ。脳梗塞が降圧剤の服用で危険性が増すと知って驚きを禁じえない。

 

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2014年8月27日 (水)

高血圧は放っておくのが一番から―③―

 「高血圧症」は「症」がつくのに、症状がない。「高血圧症」とは、「病気のリスクがあるということ」だという。

   「病気になるかもしれない」ということと、「病気がある」ことは、本質的に全く違う。それをいつの間にかすりかえてしまったところに、詐欺性がある。健康な人を病人に仕立ててしまうトリックは、悪質というほかない。(P.19)

   高血圧は長く続くことが多いから「病気だ」と言われればストレスが募り、本当に病気になる可能性は少なくないと指摘する。

   高血圧の基準値は日本高血圧学会のガイドラインによっており、ほとんどの医者がこれに頼っているという。非常に難解な説明だという。5年に1度ずつ改訂され基準値を下げて来た。

   根拠もなく基準値が下がって行くのは、高血圧学会と製薬会社がべったりと癒着しているからだという。

   癒着が明るみに出た大事件が2013年7月にあった。京都府立大学、東京慈恵会医大、千葉大、滋賀医大などと、製薬会社ノバルティス・ファーマー者による降圧剤データの改ざんである。新聞やテレビで大きく報道され衝撃を与えた。

   問題の降圧剤ディオパンは2000年に国内販売が始まり、2012年度には国内販売売上額が1083億円にもなった。

   厚生労働省は2014年1月に薬事法違反(誇大広告)で東京地検に告発したが、 松本医師は、「不正」ではなく、約800万人の高血圧患者と、その家族を騙し、金銭を巻き上げた立派な「犯罪」だと断罪する。(P.27)

   高血圧の薬(降圧剤と血管拡張剤)は年間1兆円という超巨大市場だそうだ。198年代の終わりごろ2000億円であったものが20数年で5倍にもなったのだ。しかも年々増加しているのだ。

   今や高血圧症該当者が5500万人だから製薬会社は笑いが止まらないであろう。基準値を下げれば薬の売り上げが大きく膨らむ。8年間で50も数値を下げて来たのだから1兆円売り上げも濡れ手で粟であったのだ。

 医者は一旦高血圧の薬を飲み始めると、飲み続けなくてはならないと指導する。私もかつてそう言われたが、私の場合は自分で飲むのを止めたのだ。私の近辺の高血圧の人はみな真面目に降圧剤を服用している。

 商売ではリピート率を高めることが利益確保の王道だが、高血圧の薬はまさに高いリピート率である。だから医者も製薬会社も儲かってしょうがないのだ。

 来年度から高血圧の基準を高くして147~90にすると言われているが本当にそうなるのであろうか?日本高血圧学会は反対を表明している。松本医師はアメリカは120だから120まで下げる可能性を指摘している。

 そのアメリカの基準も製薬会社等との癒着で決められているという。WHOも同じだという。大事な健康と金銭が絡む問題だから真面目に厳正に決めてもらいたい。

 

 

 

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2014年8月26日 (火)

高血圧はほっておくのがよい!?―②―

 高血圧の基準値は2000年から2008年までの8年で50も下がったと指摘している。(P.35)日本での基準値の変遷について概略次のように書いてある。

  1987年に厚生省は要治療の基準値を上180、下100にした。これは40歳以上の健康診断で用いられた数値で、「老人保健法による健康診査マニュアル」というのだそうだ。この数値は94年版でも変わっていないという。このマニュアルは2008年に始まった、「メタボ健診」の前身という。

  2000年までは、上180、下105までなら、3か月ほど様子を見ることになっていた。この間にいつ測っても160~90を超えていれば、初めて降圧剤を使って治療するのが一般的だったと書いている。(P.36)

  私が医者にかかった時は血圧測定で即降圧剤投与だったが、1987年ごろだったのに医者によって対応が違っていたのであろうか。

  1999年にWHO(世界保健機構)が基準値を160~95から140~90と一気に20も下げてしまった。日本でもそれにならい、2000年に新たなガイドラインをつくり、WHOの水準に近づけ、2004年にほぼ同じにしたというのだ。

  それが2008年にメタボ健診が始まるとさらに10下がって、130となり、現在に至っている。8年間で50も下げたというのはどう見ても異常だと述べている。根拠もかなり疑わしく、いろんな研究者から疑問の声が上がっているという。

  そもそもWHOの基準値も製薬会社が関わっているという。(P.37)WHOは予算の7割を製薬会社の寄付金に依存しているというから、製薬会社の圧力があったと思われても仕方がない。

  WHOというのは国際的な厳正中立の公的機関だと思っていたが、利権がからんだものと知って驚いている。

  日本での基準値改訂に伴う患者数の増加は脅威的である。(P.15)

        1987年   230万人

        2004年   1600万人

        2008年   3700万人

        2011年   5500万人

 2011年の国民健康・栄養国民調査では、日本国民の半数、成人の27.5%が降圧剤を飲んでいるというのだ。

 歳をとれば血管が硬くなったり血流がスムースでなくなったりするのは当たり前で、皮膚がたるみ、しわが増えるのと同じ老化現象である。それなのに高血圧基準値が老いも若きも同じであるというのはおかしい。

 昔は高血圧の目安を「年齢プラス90」と言っていたことがあった。それならば年齢が上がるにしたがって血圧基準値も比例して上がるので納得できる。せめて5歳刻みでもよいから年齢に応じた基準を設けるべきであろう。

 

 

 

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2014年8月25日 (月)

高血圧はほっておくのがよい!?

 私は、定年近くになって健康診断の度に血圧が高めだと言われるようになった。定年後しばらくしてあるとき眼科で計った血圧が180以上あり、急きょ帰り道に薬局によって血圧計を購入した。以来毎朝欠かさず血圧をはかり記録している。

  血圧が上がったとき内科の医者に行ったら降圧剤を処方された。薬を飲んだ方がよいというのだ。私は薬は忠実に飲む性質だからそれから2年間飲みつづけた。

  あるとき、薬を飲むのはよくないと気づいて自力で血圧を下げてやろうと考えた。そして血圧を下げることに成功した。それに関しては5年ほど前のblogに書いてある。

  血圧はずっと順調であったが1年ぐらい前から少しずつ上がり始めてたまにしか下がらなくなった。

  今年になってからは140~135台のである。ところが今年の春だったか日本老年医療学会が血圧の基準値を下げると発表した。上が147、下が90であったと思う。

  この値なら今のところセーフである。しかし、130―80の基準値で慣らされたのでどうも不安でならなかった。

  先日本屋で書棚を眺めていたら「高血圧はほうっておくのが一番」という本を見つけた。松本光正という医者が書いたもので、講談社新書である。この5月に出版されたばかりだ。

  前書きに結論が書いてある。「これから私は、あなたがビックリ仰天することを述べようと思う。ショックを受けないよう、心して聴いていただきたい。

『高血圧は少しも気にすることはありません。ほっとくのが1番です。』

私はけっして、驚かせようとしているのではない。自信を持って、思うところを述べただけである。」

  題名を読めば別に本を買わなくてもよいのだが、その根拠を知りたくて買うことにした。近藤誠医師は、「ガンはほうっておけばよい」という趣旨の本を何冊も書いて啓蒙している。それと似たようなことを高血圧に関して言う医者がいるのだ。

 「この世には、たくさんの健康法の本がある。どれも毎日の食事に気をつけたり、運動を心がけたり、かなり面倒だ。

   しかし、私の説く高血圧に対する健康法は、実に簡単である。

   放っておく。たった、これだけである。」

 「血圧心配性から自由になれば、身も心もすこやかになれる。

  健康診断などで血圧が高いと言われ、気にしているあなたが本書を読み終えると、すっきりした笑顔とともに、病知らずに大きく近づいているはずだ。」

 信じるか信じないかは勝手だがホッとできる断言である。

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2014年8月24日 (日)

カレーにデラウエアをトッピング―よく合う

 数日前のNHK名古屋「ゆうどきネット」で、山梨県のデラウエア農家を取り上げていた。

 私は若い頃はデラウエアを食べたが、巨峰のおいしいのが出るようになってからはあまり食べない。種なしなのだが小さい実を一つずつ外して食べるのが面倒なのだ。

 この番組では、農家の人が何とかしてデラウエアをもっと食べてもらえるといいが・・・と言っていた。

   取材した農家の主婦が、試にデラウエアをカレーに載せて食べたらおいしかったと言っていった。夫にも黙って出したらおいしいと言っていたという。その主婦はデラウエアをトッピングしたカレーを作ってレポーターに試食させた。レポーターもおいしいと言っていた。 

  私はスーパーへ行ったとき、8房580円でデラウエアを買ってきた。そして妻にカレーを作ってもらった。

  番組では、葡萄の皮を剥かないでカレーに載せていたのでそのようにしたら、妻が皮を剥いたらどうかと言ったので、指で中の実を絞り出したのも載せた。

  食べてみると、皮があっても全然違和感はなかった。むしろ皮ごと食べた方がポリフェノールがたくさん摂れていいと思った。

  カレーが辛いのでデラウエアの甘酸っぱい味がよくマッチした。カレーと福神漬けやラッキョがよく合うのと同じである。

  デラウエア農家の主婦の思い付きが思わぬカレーを創作した訳で拍手を送りたい。

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「デラウエア 画像」の画像検索結果

 

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2014年8月23日 (土)

国字と和製漢語

 日本の家庭では子どもの躾がやかましく言われた。戦前は特に「あそこの家は躾がなっとらん」とか「躾が行き届いている」とかよく聞いたものである。この「躾」という字は実によくできた字で「身を美しく」である。この漢字は中国にはない。躾に近い単語は「教育」または「教養」である。この漢字は国産(made in Japan)なのだ。「国字」という。

 中国伝来の漢字では表しにくいものを、新たに漢字もどきを創ることで表現を豊かにしたのだ。いったい誰がどのように創りだしたのか知らないが素晴らしい創造力である。

 峠という字もよくできた字だ。凪もそうである。風が止まると凪だ。日本では神道が上古からあるが、榊はいつごろ創られたのであろうか。神に捧げる木とはうまい。

 国字は1500ぐらいあると言われるが、人によっては2500もあるという。多いのは木偏の字で、次に多いのが魚偏の字だそうだが、山国で四季がある日本では木偏の字が多いのは頷けるし、魚を食して来た日本で魚偏が多いのも納得である。寿司屋へ行くと魚偏の字を茶碗に書いたのを置いてある店もある。

 中国の康熙辞典には6万もの字が収録されていると言われるが、その上に更に適切な字を作り出した日本人は素晴らしい。

 日本人の素晴らしいのはもう1つ、新しい漢語を作り出したことである。主に幕末以降西洋の科学や経済や法律などを輸入したときに翻訳するために創りだされたもののようだ。

 文化、文明、民族、思想、法律、経済、資本、階級、分配、宗教、哲学、理性、感性、意識、主観、客観、科学、物理、化学、分子、原子、質量、固体、時間、空間、理論、文学、美術、喜劇、悲劇、社会主義、共産主義・・・・など。

 これらの多くの和製漢語で留学生らによって中国に持ち込まれたものがたくさんあり、中国の「漢語外来詞詞典」には、中国で定着した和製漢語が900語近く収録されているという。(日本語は天才であるP.52)

 共産や人民共和国が和製漢語であるというのは面白い。毛沢東は和製漢語容認派であったからだろうか。

 日本人は明治時代ぐらいまでは論語など漢籍の素養が重視され、漢語が多用されたが、明治以降本場の中国に和製漢語が輸入されて使われているというのは興味深いことだ。そのお蔭で我々は簡体字を習えば漢字から何となく意味が分かる場合があるし、中国人も日本の字を見て分かる場合が多い。

 以前にも書いたことだが、韓国とベトナムが漢字を廃止してなければ大変便利であったろうにと思うのである。

 いずれにせよ、日本人は漢字を自家薬篭中のものとして使いこなしてきた訳で、柳瀬氏はそれを「日本語は天才である」の理由の一つに挙げているのだ。

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2014年8月22日 (金)

平仮名と片仮名の創作

 万葉仮名を使って大和言葉を書き表しているうちに、いつのまにか片仮名カタカナと平仮名ができた。一般に片仮名の方が早くできたとされているようだ。800年頃と言われる。平仮名は900年頃と考えられているそうだ。

 片仮名はイ→伊、ロ→呂、ニ→仁のように漢字の一部分を切り取って作られた。そして僧侶が漢文を読み下すときの助けとして使われたという。

  平仮名は、漢字を速く書くためにくずして草書で書くうちにできたものだ。あ→安、い→以、う→宇のように。片仮名も平仮名も音標文字で音を表すだけである。「あ」の音を表す漢字は「安」の他に「阿」とか「亞」などあるが「安」になったのはどうしてだろうか。

 平仮名は、平安時代に上流の女性の間で使われている間に定着したものであろう。和歌を書いたものを見ると、「か」は「加」からできたのだが、他に「可」も使われているし、「の」は「能」も使われている。変化を持たせる美学からそうしたのであろう。

 二種類の仮名文字の創作は日本語にとって画期的なものであった。もし、今も万葉仮名が使われていたら・・・・大変だということがよく分かる。

 ハングルは人工的に作られた音標文字だが、それより以前に片仮名、平仮名という音標文字を作りだしたのだから、平安時代の日本人は実に素晴らしい文化遺産を作ってくれたといえる。

 漢字かな混じり文によって、書きやすくなっただけでなく、読みやすくなり、表現の幅もグーンと広がった。

  中国語では、英語などの外来語表現が非常に苦手である。ケンタッキーを「肯徳基」と近い音で表したり、パイナップルを「鳳梨」のように名づけをして表したりしている。そこへ行くと日本語はかなり近い音を表せて大変便利である。しかも現代では外来語はカタカナで表すことになっているから分かりやすい。この容易さが外来のローンワード(借用語)がやたらに多い原因になっているのかもしれない。

 小学校の1年の4月で平仮名を覚えることになっているが、平仮名を覚えた子どもたちはすぐに作文を書くことができるようになる。それが平仮名の素晴らしいところである。外国人が日本語習うときも平仮名を覚えればすぐに単語や短い文を書くことができる。

 英語などはたった24のアルファベットを覚えるだけだという人がいるが、とんでもないことだ。単語の一つひとつのスペルを覚えなくてはならないのだ。そこへいくと日本語は頭の中にあるものを平仮名に置き換えるだけでよいのである。

 平仮名やカタカナがあることでルビを振ることができる。朝日新聞に連載中の夏目漱石の「こころ」にはたくさんの難しい漢字が使用されているが、ルビが振られているので読むことはできる。私などは中学、高校の頃明治時代の文豪の作品を読んだものだが、このルビでどれだけ助かったか知れない。

 ただ、「宅」を「うち」、「原」を「もと」のように読ませている場合があるからそれが正しい読みだと信じてしまうと大変な間違いになる。あくまでも漱石の表現法に過ぎないのだから。

 平仮名は藤原行成などが書いた和歌を見れば分かるように連綿に適している。昔は縦書きであったから続けてサラサラと書くにはまことに具合がよかったのである。日本では中国や韓国にはない「かな書道」が発達したのも平仮名があったお蔭である。

 表意文字の漢字と音標文字の仮名を適当に混ぜて書かれる日本語は大変便利な言語である。一時ローマ字表記にせよという主張をする人がいたが、とんでもない話である。しかし、アルファベットでローマ字表記も可能というのは凄いことである。

 

 

 

 

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2014年8月21日 (木)

漢字を取り入れた上代日本人に改めて感服

 私たちは日常何も考えることなく当たり前のこととして漢字を使っている。漢字という名称からして中国から来た文字であることは歴然としている。でもそれを使うことに何の違和感もない。尖閣列島問題以来中国との関係がぎくしゃくしても漢字は無数の情報の中で時々刻々と使われている。

 ラジオのように音声だけでも、日本語が話されている限り、漢字は無意識の内に脳裏に再現されているのだ。

 その漢字について改めて考えせられる本に出会った。「日本語は天才である」という本で、著者は柳瀬尚紀という翻訳家で、新潮社刊だ。たまたま東図書館に行ったとき見つけて題にひかれて借りてきた。

 37ページでまず、漢語について述べている。
 漢語とは、新潮社国語辞典によると、
①漢民族の言語。中国語。
②もと中国語の単語で、日本語の中に取り入れられたもの。音読される語。「忠」「孝」「天皇」国家」の類。⇔和語
③和製漢語。日本語にあてた漢字を字音で読む語など。「見物ケンブツ」「火事カジ」の類。

 高校生のとき日本史で、百済の王仁が日本に漢字を伝えたと習った。「論語10巻」と「千字文」を持ってきたという。4世紀の中ごろのことらしい。しかし、実際にはもっと以前から漢字が日本にもたらされていたようだ。

 上代の日本には文字がなかったと言われ、(神代文字があったという説もあるが)日本人は漢字を日本語に使うことを工夫したのだ。

 「日本語は天才である」では山田俊雄博士の次の言を引いている。
「漢字は、日本語にとって上代に保有することとなった初めての、組織的な、社会的な文字であった。文字というべきものを方法として持たなかった日本語にとって、漢字とのめぐりあいは運命的な事件であったといえよう。(角川大辞源)

 最初の出会いがいつ頃で、どのようにして日本語表記に取り入れられていったのかは定かではないと思うのだが、確かに運命的である。漢字を使うことを考えた上代人が凄いと思う。それがおそらく数世紀後には万葉仮名としていきわたるのだ。

 柳瀬さんは、「万葉仮名の誕生を一種の翻訳という営みとして考えます。つまり日本語は、漢字を無文字言語である自分に翻訳し―たとえば雪を”ゆき”と翻訳した―かつまたそれと並行して、無文字言語の自分を漢字に翻訳して言った―たとえば、”あらなくに”を不有国と翻訳したわけです。」(P.50)と書いている。

 遣唐使が中国に行った平安時代には、当時の上流社会では中国語が自由に読めて話せるようになっていたと聞いたことがある。上流社会では中国語を使っていたというのだ。空海などは語学の天才であったのだと思う。

 おそらく上代にも語学の天才がいて、中国から入ってきた中国語文を苦労して読み解いたのだろう。そういう営みが多くの天才によってなされて次第に日本語に漢字を翻訳したり、日本語を漢字に翻訳したりできるようになったのだと思われる。そこには壮大なロマンが感じられる。

 たごのうらゆうちでてみればましろにぞふじのたかねにゆきはふりける

 この歌を山部赤人は脳裏で詠むとき、倭言葉を思い浮かべてつくり、あとで書き留めるときに漢字を選んで次のように書いたのであろうか。

 田児之浦従打出而見者眞白衣不盡能高嶺尓雪波零家留

 漢字を手に入れたことは革命的なことであった。それまで口承であった歴史や故事が記載できるようになったのだ。そして万葉集という素晴らしい和歌集も後世に残せるようになった。

 

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2014年8月20日 (水)

NHKスペシャル「いつでもゆめを 作曲家を見吉田正の”戦争”を見て

 8月16日に放送された、NHKスペシャル「いつでもゆめを 作曲家吉田正の”戦争”」を見た。


 生涯に2400曲以上の作曲をして、1998年には国民栄誉賞を受賞した大作曲家だが吉田正さんがシベリアに抑留されていたことは知らなかった。

 戦時中に徴用され、戦意高揚の歌を作曲させられていたそうだが、1944年の所属部隊のペルリュー島派遣の時は運よくというべきか、虫垂炎を患って派遣を免れたという。ペルリュー島の戦いはNHKスペシャルで放送されたばかりで見ていたので知っているが生き残り34名という壮絶な戦いであった。

 吉田さんは免れたものの終戦となり、ソ連軍の進攻でシベリアに連れて行かれ、シベリア各地を転々として過酷な労働をさせられたのだ。60万人もの日本人がシベリアに抑留され5万人以上の人が現地で亡くなった。

 いつ誰が亡くなってもおかしくない状況の日々の中で、吉田さんは戦友を励ます歌を作り続けたのだという。3年間に作曲された歌は20曲以上。白樺の木を剥いだ皮に鉛筆で書きつけていたそうだ。

 また自分が作った歌を夕食の時にみんなに教えて回ったのだという。歌が生きる力を与えると信じていたのであろう。ときには歌劇団を組織し、手作りの楽器で演じたという。

 生き残っている人は2万人。平均年齢は90歳だという。その人たちのなかで、吉田さんの歌を覚えて書き留めている人がいた。北島鉄之助さんだ。彼がレコード会社に自分が歌った「帰還の日まで」というテープを送ったことがきっかけで、吉田正さんのシベリア抑留時代の歌の存在が明らかになったのだ。

 シベリア原野を開拓するという非常に過酷な労働と、食べ物や寒さを防ぐ衣類もろくにない中でいつも歌を作っていたと戦友は証言している。そして、もし吉田さんの歌がなければ生きて帰る勇気はでなかっただろうと回顧している。

 吉田さんが帰国して1948年に作曲家として歩みだして作った第一曲があの「異国の丘」だそうだ。シベリア抑留中に作曲した歌だそうだ。あの歌がラジオから流れるといつも歌ったことを思い出す。中学1年のときであった。とても真情の溢れたいい歌で全国民に歌われた。しかし、あの歌が吉田さんの実体験をバックにしていたことは今回初めて知った。

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2014年8月19日 (火)

いい詩があった

 8月16日の朝日新聞「ザ・コラム」のつづきに良い詩が紹介されていた。


    ふたりのこどもを くににあげ
    のこりしかぞくは なきぐらし
    よそのわかしゅう みるにつけ
    うづのわかしゅう いまごろは
    さいのかわらで こいしつみ

 この詩は、山形県上山市在住の農民詩人木村廸夫さんの詩集「わが八月十五日」に収録されている歌だという。

 木村さんの祖母が、戦後突然歌いだした歌を、「祖母の歌」として記録したものだ。祖母は皇国の母」だった。二男が太平洋の孤島で戦死したことが伝えられたとき、「名誉の戦死」といsて赤飯を炊いて祝った。

 1946年5月、木村さんの父で、農家の跡取り息子だった長男が、出征先の中国ですでに病死していたことがわかると、一転した。蚕室に三日三晩こもって泣き明かし、その後ご詠歌の節回しで即興的に歌い始めた。蚕の世話をしながら、祖母は10年、呪うように歌い続けた。

 祖母は字が書けなかった。「祖母の思いを受け継ぐのはオレだ」。そうおもった木村さんは、死期が迫る祖母の枕もとで、恨み歌を次々書き取った。

 こういう歌もある。

     にほんのひのまる
     なだてあがい
     かえらぬおらむすこの ちであがい

 率直で飾らぬ歌だが読む人の心底を打つ詩である。二人の息子を戦争で奪われたお母さんの何とも言い難い悲しみと恨みが心に響く。

 日の丸の旗の赤い部分は310万人以上の戦争犠牲者と日本が侵略をした外国の無数の人々の血が染められているのであろう。この鋭い指摘を心して受け止めねばならない。

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2014年8月18日 (月)

被爆者代表城臺美禰子さんの「平和への誓い」が心を打った訳

 8月11日のblogで長崎市原爆犠牲者慰霊平和祈念式典での被爆者代表城臺美禰子さんの「平和への誓い」が強く心に響いたことを書いた。

 彼女の力強い話し方、率直で的を得た話の内容が心を打ったのだが、その理由が8月16日の朝日新聞「ザ・コラム」ではっきりと分かった。
 「ザ・コラム」の筆者は、大久保真紀編集委員である。氏は城臺さんの「平和への誓い」が前もって配られたものと違うことに気付いたことを次のように書いている。
 「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です」
 暴挙!?何と強烈な表現なのだろう。式次第にあった文面は「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、武力で国民の平和を作ると言っていませんですか」だった。
 異変は続く。「日本が戦争ができる国になり、日本の平和を武力で守ろうというのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではありませんか」文面にない怒りの言葉が、被爆者代表の女性の口から発せられた。
 大久保氏は城臺さんの自宅を訪ねそのいきさつを聞いたそうだ。咄嗟のアドリブだったというのだ。次のように紹介している。
 当日は、式典開始の1時間半以上前に会場に到着。自席で待機しながら、昨年10月に被爆者代表になる打診を受けてからの日々を振り返っていた。
 特定秘密保護法の制定。原発の再稼働や輸出に突っ走る政府。強調される中国脅威論。集団的自衛権の憲法解釈の変更・・・・。この一年、日本で起きたあまりにも多くの異変。その一つ一つを思い浮かべていると、真正面の来賓席に入ってくる政治家たちの姿が見えた。
 「ムラムラと怒りがわき上がってきたんです」ここは被爆者代表として面と向かって抗議をしなくては。そう腹をくくったのだという。
 ラジオで聞いた城臺美禰子さんの言葉の一つひとつが強く心に響いたのは彼女が心底から自分の思いを自分の言葉で語ったからなのだった。
 安倍首相のコピペの挨拶は全く薄っぺらなものであったし、田上長崎市長のそれも淡々としたもので訴える力はなかった。
 私は「言葉の力」というものの違いをこれほどまざまざと見せつけられて言葉は文だけではないと強く感じた。言葉に魂を込めなければ人の心に響かないのだ。
 素晴らしい「平和の誓い」を語ってくれた城臺美禰子さんに改めて大拍手を送りたい。
 式典後、城臺さんの自宅や携帯電話には感動の言葉が鳴りやまなかったという。
 平和の誓い全文  http://blog.livedoor.jp/ninji/archives/39552677.html
nagasaki4

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2014年8月17日 (日)

先の戦争の相手を知らない若者たち―大人のドリルから

 8月15日にNHKが放送した「大人のドリル」を見た。若者を対象に「戦争と平和」についてクイズを取り入れて考える番組であった。20代のタレント4人と37歳の山ちゃんがクイズの回答者で、若者NHKの解説委員が5人も並んでいて交互に解説をするものであった。


 東京オリンピックで最終聖火ランナーに無名の坂井さんが選ばれたのは、彼が1945年8月6日に生まれたからで、平和を象徴するものだということであった。

 あの感動的な閉会式の三々五々の入場風景は、平和な国際社会を表すにふさわしいものとして東京オリンピックから始まった。

 オリンピックは戦争に影響されることや平和と關係が深いことも話された。次の東京オリンピックも平和でなければどうなるか分からないという指摘もあった。

 陶貨がどうして造られたかとか、北海道の「いか飯」誕生の理由など、物資の不足や食料の窮乏によるという話で、戦争が起きると生活が圧迫されると言った。

 マスメディアと言論の統制についても話されたが、「大本営発表」を垂れ流したことには触れなかったのが残念であった。

 NHKは今は絶対に厳正な情報提供をすると強調していたが、山ちゃんが「どこかのパワーなどに影響されることはないか」といいことを言ったのに、司会者の加藤浩次によって茶化されてしまったのは許せない。

 この番組のハイライトは、靖国神社御霊祭での若者たちへのインタヴューであった。靖国神社御霊祭に若者たちが群集している映像に驚いたが、そこに来ている若者たちの3割は靖国神社に何が祀られているかを知らないと答えたことにもっと驚いた。若者たちは単なる夏祭りイベントとして参加しているようであった。

 一番の驚きは、先の戦争で日本が戦った相手を知らなかったことである。100人中52人が知らないと答えていた。中にはアメリカと聞いて「うっそ?」みたいなリアクションをしていた女の子も見られた。

 戦後69年というが、20代の若者はその1/3の人生を生きただけである。彼らが生まれたのはバブルがはじける頃であったのだ。無理もないといえばそれまでだが、太平洋戦争や第二次世界大戦についてきちんと伝えて来なかった大人の責任も大きい。

 若者たちの情報源は何なのだろうか。新聞を読まないのであろうか。学校で歴史を教えられなかったのであろうか。戦争は風化したと言われるがそれを目の当たりにした映像であった。

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2014年8月16日 (土)

倹約とケチ―黒田家家訓

 先週のNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」でこんなシーンがあった。息子の黒田長政の嫁が、義母の光に素敵な布地を商人が持ってきたからと照に見せて、「大名になったのだから新調してはどうですか。」と勧める。すると光は「贅沢な物は要りません。今までので十分です。」と言う。


 それで嫁は光に向かって「ケチでございます」と言う。すると照は「ケチではありません。倹約です。」と答える。「倹約は黒田家の家訓です。」と諌めるのだ。

 「ケチと倹約」考えさせられる言葉であった。そう言えば「倹約」という言葉を久しく聞かないように思った。

 昔は「倹約せよ。倹約せよ。」とよく言われたものである。確か二宮金次郎も「倹約」のシンボルであった。

 福島の第一原発事故以来電力の「節約」ということは頻繁に言われた。原発が1台も稼働していない今年の夏はあまり「電気の節約」は聞かなくなったが、原発なしで足りているということなのだろう。

 デフレになった久しいが、バブルがはじけてデフレになった頃から「節約」ということが言われるようになった。でも、「倹約」は聞かない。

 黒田官兵衛は安土桃山時代だから日本ではそれよりもずっと昔から「倹約」と言われていたに違いない。

 私は、「倹約」と「もったいない」は対をなす考え方であり、コトバだと思う。日本人は長い間「もったいない」を大切にして生活してきた。「倹約」もそうだと思う。

 ケニヤのノーベル平和賞受賞者のマータイさんは「もったいない」をいい概念だとして世界に広めてくれた。私は「倹約」も世界に広める価値のある言葉だと思う。

 先進国では経済の発展をGDPではかり、その数字に一喜一憂している。発展途上国も負けじとGDPを競っている。しかし、その陰で金さえ払えばよいとばかりに贅沢や浪費が罷り通っている。高度成長期の日本がそうであったし、今の中国がそうである。
 
 しかし、地球全体から考えたら資源は無限ではなく、枯渇していくのだ。それなのに現在の人間が使いたい放題では済まされないはずだ。「もったいない」と「倹約」の精神が必要である。

 私などは戦時中と戦後の物資のない生活でも苦労が染みついているから、「もったいない」も「倹約」も染みついている。しかし、「倹約」がときとして「ケチ」と受け取られるようである。官兵衛の時代と同じである。

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2014年8月15日 (金)

戦争への道を開いて69回目の終戦の日

 日本国憲法の世界に誇るべき(安倍首相たちからは屈辱の)第9条が7月1日の自衛隊創立60周年という節目の日に、憲法解釈を変えるという暴挙によって集団的自衛権行使容認が閣議決定された。


 憲法を変えるには国会議員の2/3以上の発議によって国民投票を行わなければならない。それを閣議決定という安易な手段で解釈改憲をしてしまった。憲法は何とももろいものであることを世界に示してしまった。

 米国は集団的自衛権行使を歓迎し、これからは自衛隊が米軍と共に戦場に行ってくれると喜んでいる。

 これまで9条の存在によって日本が直接攻撃される場合を除いて交戦することはないとされてきたが、これからは米国の意向次第で戦争に参加しなければならなくなる。

 安倍首相はそんなことはあり得ないと強調しているが、それはあくまでも国民を納得させたいための方便に過ぎない。

 8月14日には、沖縄の辺野古の海に立ち入り禁止のブイが設置され、基地建設への具体的な1歩を踏み出した。前回は沖縄県民の強固な抗議活動で中止に追い込まれたので、今回は立ち入り禁止で工事を守ろうというのだ。

 あの太平洋戦争への反省はどこかへ消えて、日本は新たな戦争への道を開いた中で、今日の69回目の終戦の日を迎えた。

 安倍首相は積極的平和外交が力を発揮できるし、歴史にわが名を残せると得意満面であろう。しかし、「普通の平和」を愛する一般国民はいつ戦争に巻き込まれるかと不安な日々を送ることになる。

 69年間1発の銃弾も撃たず、戦闘で相手を殺したり、殺されたりすることがなかった自衛隊だが、これからはいつなんどき戦争に狩り出されるか分からない。
 
 世界では今も戦争が起きており、「On the boot」と言われれば「No」とは言えなくなった。

 この前の戦争も、あれよあれよというまに大政翼賛、国家総動員で戦争に突入して行った。もう一度その時のことを学ぶべきである。気が付いたら戦争・・・では遅いのだ。

 中国、韓国、北朝鮮、ベトナム、ミャンマーなどインドシナ半島、フィリピン、南太平洋の国々と広範囲に膨大な被害を与え、日本人も310万人もの犠牲者を出したことに思いを致すべきである。

 日本は69年間戦争に加担しなかったことを誇りに思うべきである。これからも本当の意味での積極的平和外交、つまり積極的な外交交渉による世界平和への貢献をすべきてある。

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2014年8月14日 (木)

健康保険料の納入額を減額してもらった

 ちょっと前のことになるが、後期高齢者医療保険の納入通知書が届いた。開封して通知書を見て驚いた。昨年より増額されているのだ。

 年金は年々減らされていて、今年度は昨年より7.9万円も少なくなってしまった。それなのにどうして保険料が増額されたのか理由が知りたいと思った。

 それで区役所の担当係りに電話をした。その説明によると、基本料金が上昇したのだという。昨年は8.55%だったのが9%となったというのである。そう言われればそれ以上のことはわからないし、数字は苦手なので「そうですか」と言って電話を切った。

 30分位たって電話が鳴ったので出ると、先ほどの係りからであった。何だろうと思ったら、「調べて見ましたら奥さんの保険料が減額できます。」と話した。

 私は「えっ?!」と思った。どうしてそんな大事なことを調べもせずに課金してきたのかと不審に思ったのだ。新年度の保険料を課金するときにきちんと調べてやられていればこういうことは起きるはずがないのだ。

 区役所の係りは「来年の1月までに手続きをして頂ければ減額されます。」と言った。もちろん今すぐにやれば次の月から減額で徴収し、納めた分は返すということであった。

 必要なものは何か尋ねたら特にはないということであった。次の日、区役所に行って手続きをした。保険証を持ってきたかと聞かれたが、何も要らないと言ったので持ってこなかったと言ったら、身分証明ができるものがあればよいと言ったので運転免許証を見せた。

 書類にちょっと書くだけの簡単なものであった。それで1万5千円ほど安くなるのだという。もし、知らないままであったら言われるままに納入していたことになる。

 新聞か何かで国民保険料が減額される場合があると読んだことはあったが、自分には関係ないと思っていたし、区役所が間違えることはないと信じていた。

 この件があってから区役所の通知も鵜のみにしないことにした。その次に介護保険料の通知が来たときには区役所まで出かけて疑問点を正した。残念ながら減額対象から外れていたが、万一ということもあるのだ。

 税金とか保険料など公的課金は疑ってみることが大事である。減額の決定通知書は昨日届いた。


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2014年8月13日 (水)

上海旅行記―⑯―強烈な反日に遭う

 上海旅行の最終日も別行動にして、私は南京東路の歩行者天国をゆっくり歩くことにした。

 チェックアウトを済ませて、荷物はホテルに預かってもらって9時半にホテルを出た。ゆっくり歩いても15分もかからないし、10時前に着いてもまだ店が閉まっていると思った。

 これまでとは違う道を行こうと思い、福州路をまっすぐ西に歩き、書道・絵画用品街を通った。店は思った通りまだ開いてなくて、南京東路についても開店は10時としてあった。

 気温が高くて暑いので開店準備をしている洋品店の前で外に出てくる冷気のおこぼれをあずかって立っていた。

 10時近くになってPoloの店が開いたのでまずそこに入った。シャツの安売りをしていたので1000円ほどで1枚買った。このシャツは名古屋に戻って市内を歩いているとそっくりのものを着ている人を二人も見たので驚いた。

 10時になって一斉に店が開いた。まず、土産物を探そうと思い、土産物店に行った。いろいろな菓子や食べ物が山のように積んであったが、思わしいのは見つからなかった。

 台湾に行ったときパイナップル菓子がおいしかったのを思い出してその類のものに決めた。

 後で分かったのだが、空港の免税店の方が安いと思っていたら、免税店の方が高かった。

 まだ早いのか人出は少なく、電気で動くストリートカ―も動いていなかった。宝石店や化粧品店などには興味がないので、外から覗いただけであった。

 この通りにはアップルの大きな店やユニクロもあるので中に入った。ユニクロは日本より高いのでびっくりした。アップルの製品は世界共通の値段らしく日本と変わりがなかった。

 中国政府はiphoneを公務員は買わないようにと制限をしたと聞くからあの大きな店はどうなるのであろう。

 12時頃になってマクドナルドの前まできたが、中国の新聞が例の腐った肉の問題を報じていたし、値段も高いと聞いたので店には入らなかった。店内にはお客はいるようであった。

 1時ごろまで南京東路を見て回って、ホテルに戻った。13時半頃張さん夫妻がホテルに来てくれた。コーヒーをとって歓談した。コーヒー代はどうしても張さんたちが出すと言って聞かなかったのでご馳走になった。

 記念の写真を撮ろうということになり、奥さんがシャッターを切ってくれる人を探しに行き、中年の中国人男性に頼んで戻ってきた。機嫌よくシャッターを切ろうとしたとき、私と婿が日本語をしゃべった。それを聞いた中国人は途端に顔色を変えて「お前ら日本人か」と言ってiphoneをテーブルに投げつけて行ってしまった。

 幸いiphoneは壊れてなかったが、その中国人の態度に唖然としてしまった。中国には何度も来ているが、これほどあからさまな反日行為に遭ったのは初めてであった。上海は元国家主席の江沢民氏の出身母体であり今も影響力を持っている。彼は抗日教育を徹底したことで有名である。

 戦前の日本軍の侵略行為や南京虐殺などの暴挙を学校教育で沁みこませたのだ。だから反日感情を持つ人が多いと言われる。

 それにしても中国人の奥さんが頼んだのを感情的に反発したのは理解に苦しむ。凄い反日感情があるのだと恐ろしくなった。

 張さん夫妻は地下鉄駅までタクシーで送ってくれた。駅ではずっと手を振っていてくれた。私たちはとても嬉しい気分で地下鉄に乗った。心は早くも日本の空であった。このときすでに飛行機が飛ばなくなっていたことは露ほども知らなかった。→ここから「上海旅行記」の①につながる。
 
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                 ストリートカ―

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               土産物店

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              1階と2階がアップル

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2014年8月12日 (火)

さすが同志社大学グリークラブOB

8月10日、日曜日の午後2時から東海CLOVERクラブと同志社グリークラブOBシンガーズのジョイントコーラスの公開ゲネプロがあった。この二つのグループは同志社大学グリークラブのOBである。この日は総勢54名がステージに上った。

 ピアニストの冨田先生のご主人が東海クローバークラブに属しておられるということで案内を頂いたのだ。

 ゲネプロの会場は東文化小劇場であった。当日は台風11号が日本列島を縦断するのでこの地方も影響を受けると心配した。それで10時頃東文化小劇場に電話をして確かめたらゲネプロはやると言った。

 東文化小劇場には14時25分ごろに着いたが開場は予定通りの30分であった。台風なので入場者は少なかったがそれでも開演頃には100人余りになった。

 プログラムは、第一ステージがMesse Trois Voix(三声のミサ)で、Kirie,
Gloria,Sanctus,Agnus Dei, O Salutarisが歌われた。作曲はAndre Caplet. 指揮は山下祐司さんであった。

 最初指揮者は招聘だと思っていたが団員が指揮に当たっているようであった。それだけでも凄いと思った。

 このプログラムは、教会音楽だから荘厳な響きがあり、低音部から高音部までよくハーモニーができていた。カシードラルで聴いているようであった。

 第二ステージは、バスクの歌で、「解説と練習風景」と題してあるようにまだ完成したものではなさそうであった。

 スペインのバスク地方の歌をバスク語で歌うそうで大変難しいと言っていた。
 Kitolis(キトリス)、Bi Ausko Abesti(二つのバスクの歌)Maitia Nun Zira(愛しき人は何処に)、Erriko Festa(街の宴)、Ikusten Duzu(我が家)、Saratarra(サラから)

 指揮はやはり団員の山崎知行さん。それぞれの歌は短い歌で、4番の街の宴は、「おばさんたちが街角でトランプをしている」というたったそれだけの言葉の歌だそうだ。

 ソロが入った歌も3曲あったが、ソリストは本格的な発声で歌い素晴らしかった。私が一番好きなのは2番の「二つのバスクの歌」であった。これは難しいということで順を替えて最後に歌われた。 
 
 これらの歌は偶然に見つけた男声合唱曲だそうだが、バスク地方の歌というなかなか聞く機会のない歌を聴けてよかった。

 休憩の後、第3ステージは日本の歌であった。宮沢賢治が最愛の妹の死をうたった詩「永訣の朝」に鈴木憲夫が作曲したもので、この歌はピアノ伴奏がついていた。指揮はやはり団員の武内和朋さんであった。

 それまでの2曲とは趣を異にする日本的なメロディであったが、デュエットも含めて素晴らし演奏であった。

 同志社グリークラブメンバーはみなきちんとしたボイストレーニングを受けているようで、音域が広くまた響きが素晴らしかった。

 本番は9月14日に大阪の「いずみホール」で行うそうだ。有料で3000円と2000円である。

 この日は本番まで1か月以上もあるゲネプロであったが、無料公開され楽しい1時間半であった。アンコールは「詩編」(作曲者不明だが同志社グリークラブが伝統的に歌っている)であった。

 外に出たら台風はほぼ収まっていた。

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2014年8月11日 (月)

感動した長崎被爆者代表の「平和への誓い」

  8月9日は長崎に原爆が落とされてから69周年の日であった。この日インターネットラジオでは長崎の平和祈念式典の様子をライブで放送していた。

 田上長崎市長の平和宣言、被爆者代表の城臺美彌子さんが「平和への誓い」を安倍首相が「あいさつ」を読んだのを聞いた。

 その中で城臺美彌子さんの「平和への誓い」が一番つよく心を打った。城臺さんは力強い口調で読み訴える迫力があった。長崎市長はただ淡々と読んだというだけで心に響かなかった。

 安倍首相に到っては抽象的に述べただけでそっけないものであった、翌日の新聞によると、昨年のあいさつのコピペであったというのだ。しかも、広島の式典でもコピペであったというから通り一遍の単なる儀礼であったということだ。

 被爆国日本の首相の挨拶がこんな軽いなものでは世界に核廃絶を訴えることはできないのは当然である。

 田上長崎市長の「平和宣言」に集団的自衛権に触れた部分があったが、如何にも遠慮がちという印象であった。新聞によると、宣言案には集団的自衛権は入れられていなかったのを、14人の委員たちが異議を唱えて入れることにしたのだという。そんなことだから人の心を打つものにならないのはいうまでもない。ただ、広島と違って集団的自衛権について触れたのはまだましではあった。

 そこへ行くと城臺美禰子さんの「平和への誓い」は心から迸るもので立派であった。「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です」ときっぱりと指弾した。彼女は「今年の『誓い』は特別なものにしなければ」という決意で臨んだのだという。

 集団的自衛権行使容認や昨年末の特別秘密保護法など、他国を助ける戦争ができるように道ならしをした中で非常に時宜を得たものであった。

 原爆の非人道性についても、「たった1発の爆弾で人間が亡くなり、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落として行きました」と述べた。城臺さんのお孫さんが亡くなったのも原爆の影響だと述べておられた。

 また、戦争については「戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではありませんか。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないで下さい。平和の保証をして下さい」と訴えた。

 被爆者も戦争の悲惨さを知る世代も年々減少して行く。来年は70周年である。集団的自衛権行使のための法整備が終わっているであろう。70周年が戦争への新たな時代へ転げ落ちて行くことにならないようにしたい。

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2014年8月10日 (日)

上海旅行記―⑮―即席マジックショー

 科技館を出たら5時半頃になっていた。私は1日付き合ってくれた劉さんたちにお礼がしたいと思い、彼らに時間の都合を聞いた。時間は大丈夫だと言ったのでホテルの近くによいレストランがあるからそこで夕食を食べようと提案した。少し歩くけど構わないかと尋ねたらいいと言ったのでそのレストランへ行くことにした。

 ホテルの近くにあるレストランは「上海老老(本当は女偏)」という店で、おばあさんの家計料理と看板に謳ってあった。婿がいいレストランだと言っていたのだが、「地球の歩き方」にも載っていた。

 このレストランは2日前にも夕食を食べたことがあり、料理の味や雰囲気が分かっていた。

 レストランに入るとテーブルが4つある部屋のようなところに案内された。落ち着いて食べられると思った。

 二人には今度は私が出すからと念を押して、好きな料理を選んでほしいと言ったが、結局私が選ぶことになった。メニューを見て選びそれでよいかと尋ねて決めた。

 ウエイトレスは無愛想であった。前に来たときちょっと感じがいい子がいたのだがどうやら休んだようであった。どのウエイトレスも無愛想なので劉さんに聞いたら、「中国はどこへ行っても同じです」と笑っていた。慣れてしまって気にならないようであった。

 いろいろ話しながら料理をほぼ食べ終わったので、私は彼女に持っていた手品を見せた。2つぐらい見せたところで、後ろのテーブルの男性が立ってきて「家の子達にも見せてやってくれませんか」と言った。「いいですよ」と言ってその子たちにも見えるように演じた。すると別のテーブルの母親が「家の娘にもお願いです」と言った。

 お安い御用なのでみんなが見られるようにして演じた。いくつかの手品を持っていたのでそれらを見せたらとても喜んでいた。

 中学生の男の子は関心があるようだったので、手品を見せるだけでなく、教えて上げようと思い、1つの手品の作り方を教えた。
  
 見るとストローがテーブルにあったのでそれを使って絡んだストローが離れる手品をやったら驚いていたので、やり方を教えた。

 その家族は香港から来たと言っていた。もう一つの家族は市外から来たそうだ。思わぬところで即席マジックショーとなったが、部屋が小部屋になっていたのでやりやすかった。テーブルマジックなので目の前に不思議が起こることに驚いてくれた。

 日中の草の根交流ができて本当に楽しかったし、よい思い出となった。劉さんたちも喜んでくれた。


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                食事をした部屋からの眺め

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2014年8月 9日 (土)

上海旅行記―⑭―科学技術館

 7月20日は、それぞれが別行動をすることにした。私は劉さんがホテルへ来てくれるというので待っていた。劉さんは私が日本語を教えた生徒である。まだ若い。9時半頃劉さんが女性を連れて現れた。

 「彼女なの?」と聞いたら、笑って「友達」と言った。それ以上は聞かなかったが彼女を連れて来てくれたことが嬉しかった。

 しばらくロビーで話した。彼は5月ごろに上海へ戻ったのだという。微信で私が上海に来ることを知って連絡をくれたのであった。

 彼女は華東師範大学を卒業したそうで張さんたちの後輩になる。英語ができるというので安心した。劉さんは帰ってからは日本語の勉強はしていないと言った。

 その日は1日大丈夫だと言ったので付き合ってもらうことにして、「どこがお勧め?」と聞いたら、科学技術館はどうかと言ったのでそこへ行くことにした。彼女は以前に見たことがあるが劉さんはまだだと言ったのでちょうどよかった。

 南京東路駅から2号線に乗り「上海科技館駅」まで8分ぐらいで着いた。駅を下りると案内の指示に従って地下商店街を歩いて行ったが、とても大きなモルであった。モルを抜けるとそこが「科技館」(科学技術館)であった。暑い日差しを避けて通れたのでよかったが、外に出ると太陽が直射していて、長い行列ができていた。

 劉さんたちは並ぶから入り口の方で待っていてと言ったので入り口近くで待っていた。夏休みの日曜日ということで親子連れが多く大変な混雑であった。劉さんは60元の券の代金を取らなかった。

 11時頃、例によって荷物検査を受けて中に入った。1階はどうやら企業の展示ブースのようであった。上海にはたくさんの企業団地があるようで、その団地ごとに先端の技術を宣伝しているようであった。

 でもそんなものを見て子供たちは面白いのだろうかと疑問に思った。中には東レや横川電気など日本の企業の展示もあった。東レはお得意の透過膜を宣伝していた。

 1階を見て丁度昼になったので食事に外に出ることにした。商店街の入り口近くに大きなレストランが2つあったのでその一つに入った。いくつかのものを取ってシェアをした。中国料理はその点人数があると便利である。食事も劉さんが出してくれた。

 館に戻ると荷物を預けて身軽にした。そして2階に行った。2階からはテーマ別のフロアになっていた。また展示物も子どもの興味を引くように作られていて多くの物は手で触れて操作できるようになっていた。それでこれなら子供も楽しめると思った。

 地殻探密(地球の内部構造)、視聴楽園(映像技術)、設計士揺籃(設計とアイディア)、児童科技園、智慧之光(基礎的な現象や法則の解説)、地球家園(地球と人とのl共存)、信息時代(情報技術)、機器人世界(人工知能とロボット)、人与健康(人と健康)、宇航天地(宇宙と技術)、生物万象、以上のようなテーマに分かれていた。

 上海科技館の規模は大変大きく、東京の科学館よりずっと大きかった。宇航天地には中国自慢のロケット群が誇らしげに展示してあった。

 驚いたのは、ジオラマである。アフリカサバンナのジオラマはアフリカの動物を圧縮して1か所で見られるようにしてあった。水中生物のジオラマや鳥類のジオラマや昆虫のジオラマも見事であった。

 見終わったら閉館時刻の5時になっていた。実に5時間余り見たことになる。

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              上海科技館

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               ドーム内展示場

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              錯覚のトンネル

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                宇宙服

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               ロケット

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               ジオラマの一部

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             鳥のジオラマ

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2014年8月 8日 (金)

上海旅行記―⑬―アパート建設ラッシュ、魯迅記念館

 嘉定から帰りの地下鉄はしばらく高架を走るので外の景色がよく見えた。驚いたのはあちらこちらにクレーンが立っていて高層アパートの建設をしていることであった。まさに建設ラッシュで沿線見渡す限りアパートを建設中なのだ。


 中国では不動産価格の下落がつづき、アパートが売れなくなっていると聞いていた。それなのにどうしてこんなにもたくさんのアパートを一斉に建設するのか不思議でならなかった。

 需要が見込まれるから建設するのであろうが、それにしても大規模なものであった。嘉定には工業団地があるのでそのために造っているのかも知れないと思った。

 虹口足球場駅に14時40分頃に着いた。駅には張さん夫妻が迎えに来てくれた。私は3回目だが以前には地下鉄はなかったので大変便利になったと思った。

 魯迅公園の前を通って行った。この辺りには魯迅に関係が深いものがあり以前に来た時に見たことがある。

 魯迅記念館があるから行かないかと言われ、まだ行ったことがないので行った。とても立派な建物であった。入場料は無料である。

 1階と2階に展示室がありぐるっと回って見学できるようになっていた。パンフレットによると、1951年に建てた中国初めての人物の博物館だという。今のは多分建てかえられたのであろう。

 館内には8万点もの文物が収蔵されているそうだ。国家第1級の博物館で全国愛国主義の教育師範基地だそうだ。

 国の重要文化財だという。入り口近くには、内山書店のレプリカもあった。阿Q正伝の模型もあった。

 壁面一面に写真や図や資料が展示されていた。魯迅の思想を知ることができる。
 
 魯迅は人を大切にしたことが分かる。「人の樹立が最も初べきである」と日本語で説明してあるが分かりにくい日本語だ。精神界の闘士とも言われる。

 魯迅は仙台に留学していて最初は医学を勉強したが後に文筆に転じた。夏目漱石にも影響を受けたそうだ。「藤野先生」がそれである。

 私は紹興にある魯迅の生家を見たことがある。日本から持ち帰ったというミツマタの木が今も残って花をつけていた。

 魯迅は近代中国文学の父として尊敬されているが、何よりも自己を卑下し、卑屈になり、自暴自棄になっている中国人に人間としての尊厳と誇りを持たせた功績は大きい。

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          新しい版画について話し合っている場面

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2014年8月 7日 (木)

広島・長崎に原爆投下69年

 広島と長崎に原爆が投下されて69年になった。8月6日の朝日新聞朝刊は1面と33面に吉永小百合さんのインタヴューを大きく取り上げた。


 1面の大見出しは、「日本人は核にアレルギーを持って」と「命を守るため『さよなら原発』」という吉永さんのメッセージの核であった。

 世界で初めて原爆を2度も投下され、さらにはビキニ環礁でのアメリカの核実験の死の灰を浴びた。日本はただ一つの原爆被害国である。

 ビキニでの死の灰を浴びたのは第五福竜丸だけでなく、当時あの辺りには100隻もの漁船が操業していたという。

 そんな日本人は核に対してアレルギーを持つべきだという吉永さんの訴えは大きな意味を持つ。

 私が高校生の頃、歌声運動がさかんで、陸の孤島と言われた新宮にも歌声運動が持ち込まれ、小学校の講堂で夜に集ってよく歌ったものだ。

 夏になると、友人たちと現熊野古道の熊野川へ行ってボートを漕ぐのが楽しみであった。そんなとき私たちは「原爆許すまじ」の歌を歌ったものである。歌詞と言い、メロディといい心を打つものがあり、「ああ、許すまじ原爆を、三度許すまじ原爆を世界の上に」と歌った。

 あれから60数年、この歌もいつのまにか歌われなくなったが、是非歌い継いで行きたい歌である。

 カラオケに行きはじめてから、美空ひばりの「1本の鉛筆があれば」を覚えた。松山善三作詞のこの歌は第1回広島平和祭で歌われたものだという。でも私はそのことを知らなかった。覚えたらとてもいい歌で、聞くところでは、美空ひばりも10指に入れていたそうだ。

 戦後69年経ち戦争を知る者は少なくなり、戦後生まれの政治家が戦争への道を開こうと憲法解釈を変えて集団的自衛権行使の閣議決定をした。

 今も世界の各地で戦闘が行われているが、パレスチナ ガザ地区とイスラエルの戦争を見ても実に悲惨なものである。この地球上から戦争が無くなることは望めそうもないが、希望だけは捨てずに、戦争を無くそうと言い続けることが大事である。

 同様に核についても核兵器は廃絶すべきであるし、一旦事故が起きれば放射能の被害をどうすることもできない原発は止めるべきである。日本人は核の怖さを誰よりも学んだはずである。だから原爆と原子力はNOだと言い続けることが大事である。

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2014年8月 6日 (水)

上海旅行記―⑫―嘉定―

 第3日目は、婿が嘉定(ジアディン)に行きたいと言ったので遠いが行くことにした。だだ、午後2時には張さんの家に招かれていたのでそれに間に合うことが大事であった。

 8;30にホテルを出発した。8時40分に2号線に乗り、江蘇路駅まで行き、11号線に乗り換えた。

 問題は11号線が嘉定新城駅から嘉定北行きと安亭行きに分かれることであった。どのあたりに乗ったらよいのか迷った。近くの人に尋ねたらここでよいと言った。

 車内で話していたら一人のおばさんが日本語で話しかけてきた。ほんのちょっとだけ日本語が分かると言った。私は出来る範囲の中国語で話した。どうやら娘さんが東京の大学に行っていることが分かった。

 よく聞いて行くと東京大学を卒業して、医学博士を目指して博士課程にいるのだと分かった。娘さんの名は楽娜さんだと言った。その女性は嘉定新城で降りると言ったのでそこまで話を楽しんだ。

 10時に嘉定北駅に着いた。そこから最初の目的地、秋霞園までタクシーで行った。12元のはずが車輪が回って13元になってしまった。

 秋霞園の入園料は10元だった。上海5大庭園の一つで明代の庭園だという。私たちはトイレに行きたかったので北の端まで行きトイレをすませて順に見て行った。

 中国式池庭周遊の庭園で、池の周りに楼閣がありよい雰囲気であった。石の歩道には模様が施されていた。ぐるっと回って南門の近くにある城隍廟大殿にでた。そこには60体の星宿神像(干支の神)が安置してあった。つまり一つの干支に4種類の神像ということになる。

 南門を出て座って休んでいたら老人が話しかけてきた。簡単なことのようだが聴き取れなかった。やっと分かったのは名前と住んでいるところであった。訛りが強くて分からないのだが、相手も私の普通話が聴き取れないようで不思議であった。

 そのあと孔子廟を探しながら歩いて行った。孔子廟のあるところまで来たのだが、表札が門より離れたところにあり、門の脇には博物館と書いてあったので孔子廟を探して歩くことになった。

 一回りをして元に戻り、茶店で尋ねたら、最初のところが孔子廟であったのだ。

 孔子廟の前に匯龍譚という大きな池があった。池には足こぎボートを楽しんでいる人たちがいた。その周りも歩いて楽しめる庭園風になっていた。

 孔子廟は私は敬老で入場無料であった。30年ほど前に上海市中で孔子廟を見たことがあったが、あちこちにあるようだ。今中国では孔子が見直されている。彼が説いた徳の教えが必要とみなされているようだ。

 孔子廟の後は西の方にある法華塔まで歩いて行った。南宋時代に建てられた七層の塔で5元で上に登れるが登らなかった。

 法華塔の辺りから北へ川沿いに柵で仕切られた街並みがあった。それを見ながら歩いた。端まで歩いて、タクシーで嘉定北駅に戻った。12元であった。

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             石畳の歩道

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 城隍廟大殿
 
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                  孔子廟

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                 法華塔

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               古い街並み

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2014年8月 5日 (火)

上海旅行記―⑪―七宝へ行く

 地下鉄「世紀大道」駅から2号線で「人民広場」駅まで行き、8号線に乗り換えた。前にも書いたように駅がものすごく広いので乗り換えに歩くのが大変であった。

 次に「陸家浜路」で9号線に乗り換えて「七宝」駅まで行った。七宝には14時40分頃着いた。

 駅を出てしばらく歩くと、「七宝」の古い町並みへの入り口がある。「七宝老街」と書いた大きな門が立っている。

 そこをくぐって右の方へ行くと老街が始まるのだ。古い街並みで道は狭く、両側に店が並んでいる。食べ物屋が多い。

 豚足煮込み、臭豆腐、ちまきなどを店先で作って山盛りに積んで売っている。同じような食べ物の店が多いが観光客が多いので売れるのであろう。

 「七宝」は上海市内にあって江南の水郷の趣を味わえるところである。小さな川があってそこにかかっている橋や岸の茶館などが蘇州や鳥鎮の雰囲気に似ている。

 私は疲れて歩くのが精いっぱいであったので、ゆっくりと店を覗くこともしなかった。台北で似たような街並を見たのでやはり中国は同じだと感じた。

 一渡り見て戻ると、とにかく水気は欲しかったので出たところにある「果部落」というジュース店に入った。

 金桔檸檬汁(金柑レモンジュース)というのを1杯10元で張さんの分と2杯買った。青い金柑の輪切りが浮かんだとてもさわやかで飲みやすいジュースであった。それでほっと息をついた。

 この店の若い女性店員は、中国人には珍しく、笑顔で応対し感じがよかったので、「你的服務態度很好!」と褒めて上げた。

 中国人の対人応対の態度はどこへ行っても木で鼻を括ったようでぶっきらぼうである。だからこのような人に会うと嬉しいのである。

 ジュースを飲んでいたら隣のテーブルに若い子が2人座った。何となく話をするようになった。聞いたら青島から来たのだと言った。私は青島ビールを飲んだなどと話した。

 ちょうどストローが2本あったのでストローの手品を見せた。店の若い子たちも興味を持って見ていた。目の前でぐるぐるに巻いたストローがパッと外れたので目を丸くしていた。

 さらにポケットに持っていたちょっとした手品も見せたら驚いていた。張さんは魔術師(中国語で手品師のこと)だと言った。女の子たちにバイバイをして店を出た。

 16時頃に地下鉄に乗ったら、親切な中国の女性が席を譲ってくれたので嬉しかった。張さんはホテルまで来て自転車で帰って行った。


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              七宝老街入口

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              「竜エビ」とはザリガニのこと
 

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             両岸に昔ながらの茶館

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2014年8月 4日 (月)

未就業の若い人が224万人もいるとは!

 8月3日(日)のNHK朝7時からのニュースで、特集として若い人たちの未就業問題を取り上げていた。ここでいう若い人とは15歳~39歳のことで、この年齢の未就業者数が224万にもいるというのだ。それは16人に1人という割合になるのだそうだ。

 しかも、未就業の人たちの学歴を調べると、高卒以上の人が86.9%も占めるのだという。

 職についても長続きせず、辞めてしまって引きこもり状態になるようだ。若者の数が少なくなり、定年が65歳までになり、高齢者でも働ける人は働いてもらうという働く人の不足が問題になっている。その一方で驚くほどの数の若い人たちが未就業状態であるというのは由々しき問題である。

 安倍首相は、女性の登用ということを唱え、女性の管理職を増やそうとし、恰好よいことを言っている。少子高齢化の時代で日本の人口が大きく減ると予想されている。女性の活用ということは労働力不足にも対処できると考えているのであろう。

 ならば224万人もいる若い労働力を放置してよいはずがない。厚生労働省はいったいどうしているのであろうか。この大量の労働力を埋もれさせておくべきではない。いったいどんな手を打っているのであろうか。

 番組では放送大学副学長の女性がコメントしていたが、彼女の指摘は、今の若者たちが育った環境の変化に気づくべきだというのである。

 社会には安全装置が張り巡らされていて、そうした中で育っているので、困難を乗り越える力が育っていないというのだ。

 確かに20年ぐらい前から運動会でも駆けっこで全員が並んでゴールするとか騎馬戦や棒倒しや組体操が危険だからと敬遠されるようになった。

 また学校内でも通学路でも安全が第一ということで様々な安全対策が取られてきた。廊下や教室の拭き掃除でも歯を折ったとか腕を折ったという子が出てやらなくなったところもある。

 倒れたとき咄嗟に手をついて自分の体を守る、というような対応ができない子が増えてきたと言われたのも20年ぐらい前からである。

 また、かつてのような学校→社会というレールがなくなったという指摘もあった。それはうなずける。以前は良い学校よい就職ということでレールが敷かれていた。幼稚園から私学のベルトコンベアに乗せて大学までというのが金のある人のトレンドにもなった。

 しかし、就職氷河期などという言葉が象徴するように一部の人以外はレールに乗れなくなった。非正規雇用の増加も若者から希望を奪った。

 先の見えない社会状況の中で、どうしてよいか分からず引きこもってしまうのであろう。

 原因は他にもいろいろあって絡み合っているのではないかと想像する。この前聞いた児童言語研究会での漫画家石坂啓の講演では、「今の子どもは情報に育てられている」と指摘した。詳しい分析がなく指摘だけであったが、大事な指摘だと感じた。

 とにかく若年労働力が不足していると言われる現在、若い人たちの非就業問題を放置すべきではない。ただちに対策を講じるべきであろう。

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2014年8月 3日 (日)

ヴォーカルアンサンブル・リラの素晴らしコンサート

 8月1日(金)に、ヴォーカルアンサンブル・リラのコンサートに行った。会場は千種駅の近くで、10人ぐらいの小さなホールだ聞いたので、前に行ったことがあ5/R Hall&Galleryのことだと早とちりをしてそちらに行って並んでいた。

 早めに開場したので喜んだら、何と私が行くコンサート会場のHITOMI HALLは別の場所だという。係りの人にどこにあるのか尋ねたが「知らない」とそっけなかった。

 私は試しにIphoneのGoogle マップに「HITOMI HALL」と入れて検索したら出た。あまり遠くないところだと分かった。それでマップの指示に従って歩き出した。

 地図の上の道筋がおかしいのでどういたのかと思ったが、うっかり車でのナビにしてしまったのだと分かった。

 10分位歩いて「目的地周辺です」と言ったので辺りを見回したが、それらしい建物に気づかなかった。仕方がないのでクリーニング店に入り尋ねたら教えくれた。

 ナビが教えてくれたところにあったのだが、建物が引っ込んだところにあるので気づかなかったのだ。

 エレベーターで5階のホールに行くと18時40分なのにまだ人が少なかった。慌てて汗を流して来たのに拍子抜けがした。エアコンの効きが悪くてさらに汗が出た。

 このホールに入って驚いたのは、5/R Hall&Galleryとそっくりであったことだ。構造や椅子や容積やステージなど瓜二つであった。

 19時の開演時刻に左側の扉が開いて出演者が入場した。テナーの大久保亮さん、アルトの船越亜弥さん、バスの出来秀一さん、ソプラノの本田美香さん、ソプラノの加藤佳代子さん、チェンバロの平井み帆さんであった。

 プログラムには7人載っていたがアルトの井澤古那さんがいないので風邪でやめたのかと思ったが、2部でアルトが入れ替わって出てきた。

 この日のテーマは「イタリアバロック音楽で綴る悲劇~偉大な作曲家クラウディオ・モンテヴェルディへのオマージュ」であった。曲の解説入りであった。

第1部は

 ①コーラス アリアンナの嘆きで、私を死なせないでください、おおデゼオ、私  のデゼオ、

 どこに誠実は行ってしまったのですか、ああ、あの人は返事もしてくれない

 バスを中央にして、ソプラノとアルトとテナーと言う並びで歌われた。

 ②チェンバロ独奏

  ジローラモ・フレスコバルディ作曲のトッカータ第9番~チャッコーナによる変  奏曲

③コーラスで 西風が帰り

 15分の休憩の後

第2部は 

①コーラスでセスティーナの愛する女の墓に流す恋人の涙

 灰となった、語ってくれ、太陽は夜に、あなたを抱いている、金色の髪よ、

 だから愛した人のなきがらは

 このコーラスはアルトが入れ替わり、さらにテナーとソプラノ一人の歌唱が中心となった。

②チェンバロ独奏

 ピーター・フィリップスのローマ人ジュリオによるアマリッリ、

 フレスコバルディのフォリアによる変奏曲

③コーラス さようなら、美しいフローリダよ

 このコーラスはソプラノ、アルト、テナー、バスと並んで歌われた。

④アンコール曲は、「ふるさと」の変奏曲でよかった。

 歌唱の専門家によるコーラスなので大変素晴らしく心地よく響いた。バロック音楽は好きなので楽しいひと時であった。100名余り収容の小ホールだが目の前で演奏され親近感があった。もったいないと思ったのは空席があったことだ。たくさんの人に聴いてもらいたい演奏会であったので本当に惜しまれる。

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               チェンバロをチューン中

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2014年8月 2日 (土)

上海旅行記―⑩―上海水族館・金茂大厦

 上海第2日目も張さんが付き合ってくれるというので有難かった。張さんは水のペットボトルを1ダース自転車に積んでホテルにやってきた。家は割合近く自転車で30分位だそうだ。

 どこへ行きたいかと言ったので、上海水族館とその近辺と答えた。黄浦江の下を渡って浦東地区へ行けるはずだというのでフロントで確かめた。

 外灘まで行き、たまたま警察官がいたので入り口を尋ねたら、50元もかかるから無駄だ、フェリーで行けば2元で済むと言ったのでフェリーで行くことにした。

 通勤時間帯だとフェリーは満員だそうだが、この日は空いていた。5分ほどで対岸の浦東に着いた。

 そこから循環バスで水族館まで行った。カードはバスでもフェリーでも使えるのだがフェリーでは現金で払ってしまった。バスは1元で安い。

 水族館に着いたのは9時半頃であった。おおぜいの人が切符売り場に並んでいた。張さんが並んでくれた。初め2番目に高いビルの金融中心と水族館の抱き合わせの優恵券を買いたかったのだが、何と売り切れだと言った。それで仕方なしに3番目に高いビルの金茂大厦の抱き合わせを買った。210元と60元であった。大きい掲示を出しておきながら売り切れはないと思ったが、それが中国なのだ。

 券を買うとき張さんは係りといろいろ交渉していたが、割り込もうとする人がいて大変であった。私ならとても入場券を買えないだろうと思った。やっとのことで買って入館した。例によって荷物チェックがあった。

 揚子江などの川魚や湖沼生物の展示から見て行った。この水族館の特長はアクリルかガラスか知らないが透明の物でできたトンネルがあって頭上も魚が泳いで行くのを眺められることであった。

 その距離が大変長くて動く歩道に乗って見て行くのである。アジアで有数のものだというが見事なものであった。

 日本の水族館では見られない珍しい生物や魚もあったし、ペンギンの展示などはジオラマ式で本物の極地のようであった。

 張さんは水族館には興味がなく初めてだということであった。夏休みなので子どもで賑わっていた。

 水族館を出て、近くの客が満員のレストラン老衆興で小籠包を食べた。台北で食べそこなったのでやっと実現したが、おいしかった。

 その後金茂大厦まで歩いて行った。高架の歩道が張り巡らされていて、東方明珠塔や高いビル群が見られた。東方明珠塔は眺めた方がいい。

 金茂観光庁で張さんの入場券を買ったら90元で30元高かった。展望室までエレベーターで昇った。このビルは現在建設中のビルから数えて3番目の高さであった。すぐ隣にくっつくようにして建設中のビルと2番目の金融中心ビルが立っていた。

 360度を見て回ったが、3番目の高さでも大して変わりがないだろうと思った。東方明珠塔や外灘や黄浦江などが目下にあった。はるかかなたまで上海市内を見渡せた。ただそれだけである。

 上から見るとアパート群が見られ、新開発地区としての浦東の様子も分かった。世紀大道駅から地下鉄に乗り、次の目的地「七宝」へ向かった。

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                動く歩道とトンネル

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              トンネルの中のエスカレーター

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             大きな金魚?と白い鯉?
 

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2014年8月 1日 (金)

上海旅行記―⑨―上海博物館・南京東路

 上海に着いた日はホテルにチェックインした後、張さんが上海博物館で特別展をやっているというので見に行くことにした。


 ホテルから福州路を歩いて行った。両側には書道と絵の用品店が並んでいるところが続いた。

 人民広場までは15分ぐらいでそこに上海博物館があった。この博物館に来るのは3度目であった。フロアが4階まであり大変大きな博物館である。

 入口でときどき止められていたので何だろうと思ったら、荷物検査をしていた。バッグを検査機に通して中に入った。入場無料ということで意外であった。

 3階から特別展だけを見た。中国の貨幣や陶器の発達が分かるように展示されていた。展示方法は時代順ではないので頭の中で整理をしなければならなかった。

 一番古い貝で作ったお金とか大きな鋳造のお金などや巨大な紙幣などが興味深かった。清以後になると貨幣や紙幣が現代風に整ってきたことが分かった。また地域ごとに貨幣制度があったことも分かった。

 土器から景徳鎮に到る焼き物の発展も興味深かった。それぞれの時代の特徴が分かった。

 人民広場には緑がたくさんあった。でも、人は少なかった。人民広場駅から張さんが帰ったので、私たちは南京東路を歩いて帰ることにした。

 南京東路は「行人天堂」(歩行者天国)である。暑い日の夕方なのに多くの人が歩いていた。人々の雑踏の間を縫って3両編成の電動列車がのろのろと走っていたのでびっくりした。音もなく近づいて来るので撥ねられないか心配であった。列車は電車型と汽車型の2種類があった。観光客が乗るのだ。乗らなかったが確か5元だったと思う。

 歩いている若い人たちの服装はおしゃれであった。

 道の両側には土産物用菓子店、レストラン、宝石店、時計店、電気店、衣料店などが並んでいた。ユニクロやアップルの店もあった。

 私たちは話のタネに吉野家で牛丼を食べた。29元(約485円)で日本より値段が高かったが豆腐のおかずがついていた。中国人の客が次々に入ってきてよく流行っていた。

 ジュースか何か飲み物を買おうとしたら中国人が割り込んできて買えないと婿が言っていた。それで私が買いに行ったがその通りであった。

 ちなみに後日ユニクロを覗いたがやはり値段は日本より高かった。また中国人の劉さんの話ではマクドナルドもかなり高いということであった。

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                   上海博物館

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                 人民広場

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                 南京東路l

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                 電動列車

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