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2013年11月17日 (日)

興味深かったBSプレミアム「歴史館」―鉄砲伝来

 毎週木曜日に、BSプレミアムで「歴史館」という番組が放送されている。14日の「鉄砲伝来」に興味をひかれて初めて観た。

 1543年に種子島に鉄砲が伝来したことは、高等学校のとき日本史で勉強した。受験のために、年代を覚えるのに、「鉄砲伝わる銃後のよさ(1543)」と語呂合わせをしたが、おかげで今でも忘れていない。

 鉄砲は、種子島にポルトガル人によってもたらされたと習ったが、番組によると、当時勢いのあった倭寇が絡んでいたという。倭寇は中国のみならず、東南アジアまで出かけて交易をしていた。それでポルトガル人とも接触しており、鉄砲をもたらしたという。

 種子島の島首、種子島時堯は鉄砲に興味を持ち、島の鍛冶屋八板金兵衛清定に真似て作るように命じた。たった1年でコピーが作られた。島には砂金があったことと鍛冶の技術があったことが幸いした。

 鉄砲の製作はあっという間に全国に広がった。当時ヨーロッパでも鉄砲は一人の職人がすべてを手作りしていたが、堺では各種の専門分野の人たちが分業をして作り、鉄砲を組み立てたので量産ができたという。

 織田信長が長篠の戦いで数百丁の鉄砲を使用し武田軍に勝利した。その後各地の領主によって鉄砲が求められた。戦国時代に何と30万丁もの鉄砲があったという。それはヨーロッパでも見られない数であった。

 これだけ普及したのは、当時の日本の刀鍛冶技術が優れていたからだと言われる。火縄銃の飛ぶ距離は1kmにもなるそうで驚いた。

 大阪では、石山寺の雑賀衆が鉄砲組を作って交代で撃つことで連射できるようにした。それが信長を苦しめた。この方式を取り入れたのが徳川家康で、大阪城を攻略するのに鉄砲と大砲を使った。これが世界初めての大掛かりな鉄砲による戦争であった。鉄砲はその後の築城技術にも大きな影響を与えた。

 徳川家康は幕藩体制を大量の鉄砲を背景に維持したという。今の核爆弾のような威力の誇示であった。しかし、徳川270年ほどの間に鉄砲が使われることはなく、ただの飾りであった。それによって平和が続いたのは特筆すべきことである。

 幕末に再び鉄砲が使われたが、それ以後太平洋戦争で負けるまで、日本は軍備を拡張し、軍隊の力によって中国、朝鮮、東南アジア諸国などに版図を広げた。

 番組の最後に奈良大学の教授が、「徳川時代の270年の平和、戦後68年の平和は鉄砲による戦いの反省に立っている。戦争はいけない」と言っていたのが印象的であった。

 もう1つ番組で、鉄砲を真似て作る技術が今の日本の物作りの技術へと連綿とつながっていると言っていたことも心に残った。

 幕末まで日本では火縄銃のままで、西洋のように鉄砲が鉄砲が発達しなかったのは、鉄砲を使う戦争がなかったからだろうと推察した。

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コメント

 番組でも、同じようなことを言ってました。日本人の特性ですね。

高校時代私も日本史選択で、鉄砲伝来、種子島、ポルトガル、1543年というキーワードは今でも覚えています。この歴史的事実をこれだけ深く掘り下げてくれる番組は貴重だと思います。本来歴史の面白さはこのような掘り下げにあるのですが、とにかく受験のために事実だけを丸暗記していたように思います。それはともかく、日本人は独創的な技術の発明は少ないが、発明された技術の改良や応用は得意で、短期間に量産体制を作り上げてしまうという
特性は鉄砲伝来に典型的に見られ、今もそのDNAは脈々と続いているようです。

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