監視所―太平洋戦争時敵機・敵艦の監視
7日の朝、「あまちゃん」を見ようとテレビをつけたら、「おはよう日本」のニュースで「監視所」という言葉が耳に入った。残念ながらそのニュースの詳細はわからなかったが「監視所」という言葉で私の記憶が蘇った。
新宮は太平洋に面していて、海から山地までの僅かの平地に街が開けている。我が家の近くの太平洋を見渡す格好の峯に戦時中「監視所」があった。
アメリカのB29爆撃機はグアム島辺りから紀伊半島の最南端串本町の潮岬を目指して飛来し、大阪や名古屋方面に向かうと言われていた。
そのせいで新宮の上空には毎日B29が飛んでいた。日中に飛ぶときは、天気が良い日だと爆音の他に小さな機影を肉眼で見ることができた。夜に飛ぶときは独特の爆音が聞こえた。
ラジオが「中部軍管区情報。潮岬南方海上を敵約30機が北上中・・・・方面に向かっている」というような放送があり、警戒警報が出され、近づいて来ると空襲警報に変った。
夜、警戒警報が出されると防空頭巾を被って、近くの防空壕に飛び込んだものであった。防空壕は近所の人たちと共用のものであった。
新宮はB29の通り道になっていたので「監視所」が造られたのだと思う。監視所の付近は立ち入り禁止になっていた。子どもの私はどのようにして敵機や敵艦の監視をしているのかは知らなかったが、望遠鏡や双眼鏡で兵隊が監視をしているのだと想像していた。
監視所の辺りで米軍艦載機による機銃掃射の音を聴いたように思う。戦争末期には艦載機の飛来もよくあったのだ。彼らは何でも撃ってくるので機銃掃射から逃れるには大きな木の周りを逃げろと教えられた。
NHKのおはよう日本では、古い爆音を録音したレコードを示して、眼が不自由な人が音の種類を勉強して、監視所で聞き分ける仕事をやらされたと言っていた。しかし、全国でどのくらいの数の目が不自由な人が従事したのかは分からないと言っていた。
私は爆音を聞き分けるために目が不自由な人を徴用していたのは知らなかったので驚いた。
「監視所」があっても、アメリカのB29爆撃機や艦載機は我がもの顔に日本の空を飛びまわっていたのだ。ある日新宮は戻りのB29が雨のように焼夷弾を落とし、熊野地という地域が焼け野原となってしまった。王子製紙工場があったからだと聞いたが無差別の爆撃であった。
焼夷弾がぱらぱらと落ちる様子を私は防空壕の出口から眺めていた。きれいというと語弊があるがその光景は今も思い出すことができる。
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