国民学校生の勤労奉仕―①松根油
先日見たNHKスペシャル「零戦―搭乗員たちが見た太平洋戦争」の中で、第1回特攻隊員大黒さんが”名誉の戦死”を遂げたあと、父親は政府の要請に応えて松根油のために松の根っこを掘り起こすという大変な重労働をする場面があった。
松根油というのは、戦局が厳しくなって、飛行機の燃料の石油が手に入らなくなってきたので油分の多い松の根から油を搾りとり、燃料にするために作られたものであった。
お盆が終わったが、迎え火や送り火には松を細く切ったものが使われる。油分が多くて燃やしやすいからである。松は油の多い木なのだ。
松の根を掘り起こすのは大変な作業で、あのドラマの中でも、村人たちは尻ごみをするのだが、大黒さんは息子の思いを受け止めて松の根堀をするのだ。
「松根油」と聞いて、私はすぐに子どもの頃のことを思い出した。戦争中は国民学校と言っていたが、たしか4年生ごろだと思うのだが、松の根を運ぶ仕事をさせられた。その頃は授業を受けた覚えはあまりないのだが、松の根を運ぶために遠くの山まで行き、大人たちが掘り出して切り分けた松の根を新宮市熊野地にあった工場へ運んだ覚えである。
何のために松の根などが要るのかと思っていたら飛行機の燃料油を作るという説明であった。
子どもだから石油が逼迫していることは知らなかった。ただお国のために少しでも役に立てるという気持ちであった。
いったいどのくらい生産されたのかインターネットで調べた。WIKIPEDIAによると、20万キロリットルにもなるが実際に使われることはなかった。
松根油(しょうこんゆ)は、マツの伐根(切り株)を乾溜することで得られる油状液体である。松根テレビン油と呼ばれることもある。太平洋戦争中の日本では航空ガソリンの原料としての利用が試みられたが、非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかった。松根油はよく樹液や樹脂(松やに)あるいはそれらからの抽出物ではない。戦前は専門の松根油製造業者も存在し、塗料原料や選鉱剤などに利用されていた。昭和10年頃の生産量は6,000キロリットルほどであった。
1944年(昭和19年)7月、ドイツではマツの木から得た航空ガソリンを使って戦闘機を飛ばしているとの断片的な情報が日本海軍に伝わった。当初はマツの枝や材を材料にすることが考えられたが、日本には松根油製造という既存技術があることが林業試験場から軍に伝えられ、松根油を原料に航空揮発油(ガソリン)を製造することとなった。
1945年(昭和20年)3月16日には松根油等拡充増産対策措置要綱[2]が閣議決定された。原料の伐根の発掘やマツの伐採には多大な労力が必要なため、広く国民に無償労働奉仕が求められた。
得られた伐根を処理するため大量の乾溜装置が必要となり、計画開始前には2,320個しか存在しなかったところ、同年6月までに46,978個もの乾留装置が新造された。これらは原料の産地である農山村に設置されて、大量の松根粗油が製造された。その正確な量については不明であるが、『日本海軍燃料史』(上)45ページには「20万キロリットルに達す」という記述があるという。
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