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2013年4月

2013年4月30日 (火)

沖縄に深い思いを寄せて「主権回復式典」の欺瞞

 28日に政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」なるものが天皇・皇后出席の下で開かれた。

 同じ日、沖縄県宜野湾市ではそれに抗議する大集会が開かれた。

 主権回復式典で、安倍首相は、「沖縄が経てきた辛苦に深く思いを寄せる努力をなすべきだ」と述べた。もし、それが誠の心から出たものであったなら、このような式典は行えなかった筈だ。沖縄ではこの日を「屈辱の日」と位置付け、奄美大島では「痛恨の日」としてきたからである。

 私は、うわべだけの言葉を弄して「沖縄の辛苦に深く思いを寄せる」と平気で言える為政者を恥ずかしく思う。

 さらに首相はこうも述べた。「私たちの世代は日本をもっとよい、美しい国にしていく責任を負っている」と。安倍首相の「美しい国」は初めて首相になった時のキャッチフレーズである。しかし、彼が言う美しい国は、国民が願う美しい国とは逆方向のものである。

 「美しい」という情緒的な響きに惑わされてはならない。彼が望む美しい国は、憲法を改悪して戦争ができる軍隊を持つ国であり、国家が主役で国民はそれに従属するものにしようということである。

 この点について、一橋大学の憲法学の阪口教授は、自民党の改憲草案にそのように書いてあると指摘している。さらに大事なことは、改憲草案では「現在の憲法の条文の中で、最も重要な13条の「個人」という文言と、基本的人権の普遍性と不可侵性を説く97条を削除している」ことであると指摘している。

 つまり、基本的人権は、「人が人であるというだけで有する普遍的な権利」ではなく、「日本という固有の歴史、文化、伝統を有する国民が有する権利」であると考えているというのだ。

 普遍から特殊へ、個人から共同体へという転換が見られるという。(朝日新聞ニュースの本棚)平たく言えば、個人を国家に従属させ為政者のいいなりさせようということで、美しい国の中身は戦前の国家体制や国民に近いものをイメージしているようである。

 沖縄には日本の78%の米軍基地があるとサンデーモーニングで言っていたが、沖縄県民のいつ終わるか分からない苦しみ、負担の上にどうして「美しい国」と言えるのであろうか。平和を愛し、基地のない、対米従属でない真の独立国こそが美しい国ではないのか。

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2013年4月29日 (月)

TPPで怖いのはISD条項だ

 安倍内閣が大急ぎで参加を進めているTPP。安倍首相は、「日本が主体的にアメリカと交渉した」と胸を張るが、本当のところは、アメリカに自動車輸入関税の温存を認めたことと、かんぽ生命保険に新規参入を認めないということで大幅に譲歩したのだ。アメリカ筋は、日本が頭を下げてきたと言っているそうだ。

 日本の農業は大打撃を受けるとか、公的医療保険制度が破壊されるということが懸念されているが、その他に危険なのは、ISD条項によって外国企業により訴訟を起こされる心配があることだ。

 4月24日の朝日新聞「教えて!TPP」は次のように解説している。「TPPに入れば、米国企業に裁判を起こされて巨額の賠償金を取られるのではないか。その心配のもとがISD条項だ。」

 ISD条項(INVESTOR STATE DISPUTE SETTLMENT 投資家と国家の紛争解決)は、企業が投資をしている国が、協定を破って制度を変え、その企業が損をした場合、国際機関に賠償金を求めることができる仕組みだ。

 この仕組みの怖さについては、朝日新聞は何も解説していない。「日本に賠償を求めるアメリカの企業が現れる恐れは否定できない」と述べるにとどまっている。朝日新聞などマスコミはTPP参加賛成だから本当のことは書けないのであろう。

 この点について、友人が送ってくれた下記のYoutube「堤未果 政府は必ず嘘をつく」によると、NAFTA(北米自由貿易協定)の例をあげて具体的な数字で説明している。

 アメリカの石油会社A社が有害な化学物質を添加した石油をカナダに輸出していたが、カナダはこの石油の輸入を禁止した。するとA社は損害を蒙ったとして、ISE条項にもとづいてカナダを提訴し、規制緩和と損害賠償を求めたのだ。結果カナダはこの裁判に敗れたのだ。そしてカナダは規制緩和と損害賠償をした。

 ISD条項による訴訟件数と結果は、

○カナダ―米国企業からの提訴が28件あり、全敗しすべて賠償。

○メキシコ―米国企業からの提訴が19件あり、 全敗しすべて賠償。

○米国―カナダ、メキシコ企業からの提訴が19件あり、全勝し賠償ナシ。

 このような驚くべき結果があるのだ。

 提訴する先は、世界銀行傘下の「投資紛争解決国際センター」(ワシントン)である。この世界銀行はアメリカの支配力が強いことと、判決の基準が、その国の国民にとってどうか、環境にとってどうかではなく、企業の投資家にとって実害があるかどうかなのだ。企業寄りになっているのである。

 この裁判は密室で行われ、さらに1回限りで上訴はできないのだという。だからアメリカ企業のやりたい放題になるのだ。

 例えば、遺伝子組み換え植物は使っていないというパッケージの表記も米企業の訴えでできなくなるという。こうした問題は全ての分野に関係してくるから大変なことになるのだ。日本の規制や法律の変更を求められることになるのだ。

 安倍首相と経済産業省が中心になってこの恐ろしいTPP参加を進めているのだが、我々国民はその怖さに気付かねばならない。後の祭りではすまないことなのだ。

 TPPの怖さを伝えるYoutubeのアドレス:

 https://www.youtube.com/watch?v=5DCQIo97z50

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2013年4月28日 (日)

「異議あり!安倍内閣」 戦争への道を許さないナガサキ市民の声明

下記の「ナガサキ市民の声明」を転載します。子どもの頃戦争を体験した者として、日本は2度と戦争への道へ進むべきではないと考えるからです。私たちの孫の世代を戦争に送らないように安倍首相の企みに反対すべきだと思います。
 昨年12月の第46回衆院選挙の結果、国防軍創設を叫ぶ自民党が大勝利し、核武装を唱える維新の会も大躍進をしました。これによって衆議院は憲法「改正」に賛成する議員が3分の2を超える勢力となり、第2次安倍内閣が成立しました。
 安倍内閣は、当面、アベノミクスと称する強欲資本主義の再生に専念しながら、7月の参議院選挙に勝って、その勢いで一気に憲法「改正」に突き進むことをもくろんでいるきわめて危険な内閣です。
 すでに安倍内閣は、憲法「改正」の要件を定める96条の「改正」を提起しています。それは衆参各議院の過半数があれば改憲の発議ができ、国民投票で「有効投票の過半数」の賛成があれば「改正」成立とみなすなど、驚くほどハードルを低くするものです。
 他方、安倍内閣は憲法9条を「改正」する地ならしも始めています。それは現行憲法のもとで「集団的自衛権の行使」を認めようとしていることです。
 集団的自衛権とは、密接な関係にある国が攻撃を受けたとき、自国への攻撃とみなして共同で反撃する権利です。日本政府は、これまで、憲法9条があるから「行使できない」との立場を貫いてきました。このため小泉政権がイラク戦争に自衛隊を派遣したときも、給水など後方支援業務しか行いませんでした。しかし、安倍総理は、戦後日本が堅持してきたこの方針を転換し、自衛隊の海外での武力行使に道を開こうとしているのです。
 元外務省国際情報局長で日米関係に詳しい孫﨑享氏は、「憲法改正と集団的自衛権行使の狙いは、自衛隊を米国の軍事戦略上自由に使える“傭兵”にすることであり、イランとの戦争などで使用することが予想される」と指摘しています。
 安倍総理は、集団的自衛権行使を認める理由として、尖閣諸島をめぐる中国との対立などをあげていますが、本当の狙いは米国の下請けとして海外で戦争するためだといえます。自民党の改憲草案で「国防軍は…国際的に協調して行われる活動…を行うことができる」としているのは、まさにこのことを指しています。
 安倍総理は、憲法「改正」と集団的自衛権の解釈見直しによって日本を戦争できる国に変えようとしているのです。
 日本が、アメリカとともに他国を攻撃すればミサイルなどで沖縄、佐世保などの自衛隊、米軍基地の町が反撃される恐れがあります。戦争で死亡する自衛隊員が増えれば次に想定されるのは、自衛隊員を確保するための徴兵制導入です。
 安倍内閣は、夏の参議院選挙で勝利するため、いまは国民が求める景気回復に力を入れています。しかし、参院選で圧勝し、衆参のねじれを解消すれば一気に集団的自衛権の行使を容認し、憲法「改正」に突き進むことは確実です。このような見通しに立って私たちは、「異議あり!安倍内閣」、この声を日本全国にとどろかせたいと考えています。
 被爆地・長崎から、安倍内閣にノーを突きつけ、戦争への道を変える平和の動きを強めていくことを宣言します。合言葉は、小田実が残した「憲法9条は今が旬!」です。
     2013年3月20日
       
         「異議あり!」戦争への道を突き進む安倍内閣を許さないナガサキ集会

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2013年4月27日 (土)

憲法改悪への布石―「主権回復記念式典」

 安倍首相は、着々と憲法改悪への地ならしをしている。まず手始めが4月28日に開催する「主権回復記念式典」というやつだ。戦後69年これまでの自民党内閣の時にも一度もやったことがないものを安倍首相は突然主権回復記念を言い出し実行するのだ。

 この式典には天皇・皇后両陛下を呼び出して行われる。これについては違憲であるという学者さへいる。他にも天皇に参加を要請するのはおかしいという意見が出ている。天皇は内閣が決めた国事行為を断れないとサンデーモーニングで言っていた。

 4月28日は、沖縄では「屈辱の日」と呼ばれている。沖縄県は県を挙げて主権回復記念式典には大反対である。それは当然である。屈辱の日なのに何を今更記念なのかということだ。この心情は痛いほど理解できる。

 この日後も沖縄は県の大半の土地を米軍基地に取られたままで、基地の中の沖縄の苦しみを味わい続けてきた。嘉手納基地の移転はままならないし、その上危険なオズプレイまで配備されてしまった。沖縄県民の願いはいつ達成されるのか全く分からない状況である。

 安倍首相は、そうした沖縄県民の気持ち、屈辱感を全然わかっていないのだ。沖縄も日本国の一部である。その県民は日本国民である。その人たちの気持ちを思いやるのが首相であろう。それができずに自分の考えだけを推し進める安倍首相は首相失格である。

 天皇は沖縄に深い関心を持っておられると聞く。その天皇はいったいどんなお気持ちで記念式典に臨まれるのであろうか。

 この主権回復記念式典の強行から見ても、安倍首相が憲法を改悪し、戦争のできる国にしようとしていることが明白である。サンデーモーニングの岸井氏が指摘した憲法を変えるための布石だというのはその通りである。

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2013年4月26日 (金)

行きたかったフランス旅行⑬―全体の感想

 フランスの田園地帯をバスで走ると実に広大な平坦地だ。地平線が続いている。6角形の国でまとまりがある。農業の自給率はどのくらいか知らないがおそらく相当高いのだろうと思った。

 田舎の戸建ての家々も日本と違い家の形や色がかなり統一されている。イタリアやドイツと比べると地味ではあるが。

 パリの市街地はベージュ色に統一されていて、エッフェル塔から眺めると白っぽい街だ。ビルディングも高さ、形が揃っていて、凱旋門やオペラ座のような中心から放射状に通りが伸びているのもよい。

 西洋から帰るといつも思うのだが、日本の家は実にてんでバラバラだ。それは統一性がないということだが、別の意味では自由で任意だということでもある。

 フランスは自動車が多いことにも驚いた。通りという通りは駐車しており、ところによっては両側駐車も見かけた。渋滞も激しく大変だろうと思った。

 フランスには観光客が非常に多いのにも驚いた。観光資源が多いこととヨーロッパにあって他国からのアクセスが容易だからであろう。それにしても、ルーブル美術館、オルセー美術館、ヴェルサイユ宮殿、エッフェル塔など観光客の数は大変なものだ。

 日本にはそれほどの観光資源がないのであろうか。他国からのアクセスが不便なことも一因であろう。何とか日本のよさを売り物にして観光客を増やしたいものだ。

 例えば隅田川とスカイツリーだってセーヌ河とエッフェル塔に引けを取らないと思うのだ。

 フランス、特にパリは大変物騒なところで、お上りさんは安心していられない。私たちが行った次の日に、ルーブル美術館ではセキュリティ問題でストがあった。そのぐらいスリや窃盗が多いのだ。

 そこへ行くと日本は安全である。そのことを痛感した。また、ホテルなどの設備も日本は行き届いているし、サービスもホスピタリティも大変良い。

 フランスでは、いつ故障があってもおかしくないのだから驚くなと添乗員が言っていたが、実際エレベーター、エスカレータ,トイレなどいくつかの故障を体験した。

 トイレと言えば、トイレットが非常に少ない。添乗員は、日本人とフランス人との身体や生理の違いだと言っていてが、日本はどこに行ってもトイレはあるのし、無料で清潔である。シャワートイレなど皆無であった。

 レストランやCafeではチップが要らないところが増えたと言われるが、日本ではそういうものは一切要らない。それに「おもてなし」の心がある。

 日本は世界中から多様なものを取入れている。料理もそうだ。伝統の日本料理の他に新しく工夫された料理もある。健康によい食べ物が多いのもよい。

 フランスに行って、果物の種類が少ないのに気付いた。日本は季節季節の果物が豊富で今の季節はさまざまな柑橘類がある。

 ビールがハイネケン以外にフランス製は2種類しか見なかった。いくらワインの国と言っても偏っている。

 落書きが至る所にあるのも解せない。イタリアでもびっくりするくらいの落書きがあったがフランスも負けてはいない。

 外国旅行により、自分の国を見直すきっかけになるのがよい。

○フランスでよく見かけた寄生木

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○無人有料トイレ(ヴェルサイユで)

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○街のゴミかご(緑のポリ袋だ)

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○放射状の街並がきれい

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○最後のホテルにかかった虹

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○珍しく快晴で朝日(ルーアンでバスから)

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2013年4月25日 (木)

行きたかったフランス―⑫エッフェル塔

 次はエッフェル塔へ行くことになった。M2に乗ってBir Hakeim駅で降りた。地上へ出たが塔は見えなかった。天気はよくなって青空がのぞくようになった。歩いて行くと塔が見えてきた。塔の近くの路上でカップアンドボールといういかさま手品をやっている連中が5.6人いた。明らかにサクラと分かる男と若い女が客を装っていた。

 エッフェル塔の下に行くと赤いエレベーターが下りてくるのが見えた。塔はがっしりとした鉄骨で組み立てられていて存在感がある。上るために待っている列は意外に少なかった。私は折角来たのだから上ろうと言った。どうせ上るならトップまで上ることになった。頂上までは15ユーロだった。

 途中の第2展望台まではロープウエイで上り、そこでエレベーターに乗り換えてトップ(サミット)まで行くのだ。ロープウエイは50人は乗れると思われる大きなものであった。上るに連れてパリの街が眼下に見えた。

 第二展望台でそこからの景色を眺め写真を撮った。頂上まで上ると、ガラスの窓がある展望台があり、さらにその上に金網で囲われた展望台があった。私たちはそこへ行った。頂上はかなり広い。ゆっくりと回り、眼下に広がるパリを360度見た。

 すぐ下にセーヌ河が流れている。森も遠くにあった。凱旋門をアップで写した。Hさんがモンマルトルのサクレール寺院を撮りたいと言ったので見つけてあげた。カメラでアップするとはっきりと見られた。

 インド人親子とみられる家族が娘の誕生日を祝っていた。持ってきたケーキを切っていた。可愛い子でOさんが一緒に写真を撮りたいと言った。私も一緒に写真を撮った。喜んで私にケーキを食べろと言ったが私は遠慮した。

 頂上にはトイレもあった。ちょうどしたかったのでトイレに入った。有料だろうと思ったら無料であった。

 それからすぐ下のガラス窓の展望台に降りた。窓の上に何やら絵や字が書いてあった。展望台から見える主な建物だと思ったら、世界の高い建物と高さであった。それを360度ぐるーっと窓の上に書いてあるのだ。日本だったら向こうに見える主な建物や公園などの名前を書くであろう。Nさんが「こういうところは日本は親切ね」と言っていた。

 第二展望台まで降りて乗り換えをするために待った。まだ誰も並んでいないので心配であったが、その内並び始めた。でも、エレベーターは来ない。それで通りかかった若い係に「エレベーターは来ないけどここでいいの」と聞いたら、「そこのボタンを押して」と言った。見ると大きな丸いボタンのようなものがあった。それを押しても押せなかった。窓から向こうを見るとその男が笑っていた。ひかかったと言っているのだ。

 よく見るとそれは押しボタンではなかった。男は戻ってきてヤッターという顔で笑っていた。私もやられたと思い笑った。そこへエレベーターが上がってきた。

 塔を出たところに地下に入る入口があったが、目的の地下鉄かどうか分からない。それで入口にたむろしていた警官に尋ねたら、まっすぐに行けばM2の地下鉄があると言った。

 道端の土産物店でOさんがエッフェル塔を買った。しばらく歩いて、Nさんが「もうすぐ7時だから5分間の点滅ライトアップがある」と言った。それでそこに立って待っていた。

 道端で、行くときに見たいかさまのカップアンドボールをやっていた。見ると行きに客になっていた男がカップを扱っていた。若い女性も交じっていた。高校生ぐらいの若い白人の女性が興味を示して誘いに乗った。

 Nさんが「私はああいうの得意なのよ」と言ったとたん、若い女性が喚いた。どうやらはずれたらしい。顔を真っ赤にして激怒していた。やられたものは何ともならない。

 7時になったが、ライトアップはなかった。きっと8時からだろうと思った。いかさまの方では男の人が来て連中をおっぱらっていた。5,6人のグループは渋々去って行った。

 駅に向かう時、前方を先ほどの女性が歩いていた。まだ憤懣やるかたないという表情と身振りで歩いていた。よほど取られたのか悔しかったのか。

 M2に乗って、La Motte Picquet GrenelieでM8に乗り換えてBalardまで行った。地上に出ると、ホテルの上の空に虹がかかっていた。フランスの天気は実によく変わると思った。

 駅を出たところにあるパン屋でみなさんはパンを買った。後は近くのスーパーへ行って何かを買って夕食にするのだ。

 私はOさん夫婦にトラムに乗ろうと言った。1日券があるから何事も経験である。ホテルの前の駅でトラムに乗ったが、切符の処理の仕方が分からない。タッチ式の券の人はタッチしていたが、そうでないのはどうするのかと思ったら目の前の柱に機械があった。でも、やり方がわからない。すると座って見ていた若い女性が手ぶりで券を通すように言った。券を入れると券が少し入って戻って出てきた。女性はOKと合図していた。

 次の駅でお礼を言って降りてスーパーへ行った。半額になったソース付サラダ2.6ユーロとサンドイッチ1.19ユーロと500mlハイネケン2.38ユーロを買ってホテルに帰った。

 シャワーを浴びて食事をしていたら、添乗員から電話があった。Oさんにユーロへの交換を頼まれたができないので日本円で返してもいいかということであった。もちろんそれでいいと言った。私は130円で買ったユーロであったが、その日のレートで結構だと言った。しばらくすると、Oさんが来て125円でいいかと言ったのでそのレートで返してもらった。

 フランス最後旅が終わった夜であった。

 ○木の間から

○誕生日ケーキを持つ女の子

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○モンマルトルのサクレール寺院を望見

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○エッフェル塔頂上のトイレ

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○エレベーター

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○セーヌ河

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○シャルロット宮殿

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2013年4月24日 (水)

行きたかったフランス⑪―モンマルトル丘と凱旋門

 次は、モンマルトルへ向かった。パリの地下鉄は、メトロ(M)のライン番号と行く方向の終点駅を確認して乗ればいいのだ。やってみると簡単であった。M12でSliferinoから8駅目のPigalieで乗り換え、M21駅目のAnversで降りるとそこはモンマルトルへの入口であった。14時だった。

 遠くにサクレール寺院が見えていたのでそちらの方向に歩いた。駅からはそんなに遠くではなかった。両側に店が並んでいるので意外であった。モンマルトルには何も無いと聞いていたからだ。土産物屋などを覗きながら歩いた。

 サクレール人は丘の上にある。そこまでは石段を登るのだ。上り口左手にメリーゴーランドがあったが停まっていた。寺院はとても形がよい。

 石段を登っていると、銃を持った若い兵士が2人駆け下りてきた。何があったのかと思った。

 石段の途中で街の方を見渡せた。寺院のところまで登るとパリが眺望でき、写真を撮った。中に入るとドームがあり、珍しくキリストの大きな画像があった。カメラを向けたら、係りの人に注意された。また帽子を取るように言われた。うっかり忘れていたのだ。

 ステンドグラスのまどもありきれいな寺院であった。ドームのあるところまで登れるとHさんが言ったが登らなかった。

 下から寺院まで小さなロープウエイがあるのでそれに乗ることにした、でも、一日券が使えるかどうか分からないので私が聞きに行ったらOKであった。ロープウエイと言ってもたった80mぐらいの距離である。でも、話のタネに乗った。

 雨は止んでいた。そこから店を見ながら歩き、画家たちが集まる広場に行こうと地図で調べた。Hさんがいう方に歩いて行ったら違う場所にでたので諦めた。AbbessesというM12の地下鉄の駅があった。降りた駅まで行ってもいいのだが、その駅から乗ることになった。エレベーターがありそちらに行く人が多かったが、私たちは階段を下りた。螺旋階段だった。最初は面白かったがいくら下りても着かなくて目が回りだした。やっとのことで下に着いた。

 そこから凱旋門へ向かった。地下鉄の中ではできるだけかたまるか椅子に座るかした。途中1駅目のPigalleでM2に乗り換えてCn-de-Gaulle Etoileで降りた。凱旋門には三ラインが来ていた。エスカレーターが壊れていたので、地下道を歩いて凱旋門の近くに出た。銃を持った警官がいたのでびっくりした。また雨が少し降っていたが、シャンゼリゼを少し歩いた。「オー シャンゼリゼ・・・」という歌が頭の中で鳴っていた。西洋人たちは、雨でも傘を差さずに歩いている人が多かった。

 少し歩いて引き返し、凱旋門に行くことにした。地下道を渡るとよいと聞いていたので地下に入った。地下道に浮浪者が1人寝そべっていたので驚いた。上への出口が塞がれていたが、手で押しのけて外に出た。凱旋門が真上にそびえていた。

 そこでいろいろな角度から凱旋門をカメラに収めた。凱旋門を中心にして放射状に街の通りが広がっているのが美しかった。Oさんは外国の女性と一緒にカメラに収まりご機嫌であった。

 小便がしたくなったのでトイレを探した。シャンゼリゼ通りに戻ってCafeを探した。Macがあった。Nさんが「Macならトイレがある」と言ったので入って行った。トイレがあったので用を足すことができた。店内は大変な混みようであった。結局コーヒーも飲まずに外に出たが有難かった。16時になっていた。

 後で聞いたら、Mさん親子は凱旋門の階段を上って上まで行ったそうだ。私たちは下だけであった。

○サクレール寺院

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○サクレール寺院前からの眺望

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○サクレール寺院のドームとキリストの画

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○シャンゼリゼ通り

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○凱旋門

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○凱旋門の彫刻

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○シャンゼリゼ通りの方向

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2013年4月23日 (火)

行きたかったフランス⑩―最終日はフリータイム、オルセー美術館

 この日はフリータイムだ。5時に起床した。6時半から朝食を食べた。バイキングでもハムが1種類、果物がなく、パンの種類も少なく、ヨーグルトも一種類だけの粗末なものであった。

 ビジネスホテルらしく、ビジネス関係の人たちがたくさん泊っていた。その中に東京の会社のグループがあり、一人の女性と食卓で一緒になった。話をしたら、「阪急さんがこんなホテルを使うのは珍しいですね。あそこはいつも割合いいホテルを使っているのに」と言った。私は「初めて使うようですよ。交通の便利がいいし安いからじゃないですか」と答えた。

 確かにいいところは地下鉄でオペラまで行ける便利さだけである。食事を終わり一旦部屋に戻り、下に降りるときエレベーターが動かなくなっていた。仕方がないので階段を下りた。

 Oさんがユーロを貸してほしいと言ったので100ユーロ貸してあげた。後で添乗員に替えてもらって返してもらえばいいと言った。

 8:15に出発して、信号を渡ったところにある地下鉄の駅に行った。雨が降っていたので傘をさして歩いた。添乗員が切符の買い方を教えてくれた。私たちは1日券を買った。10.5ユーロでバスやトラムにも乗れるのだ。チケットは日本と違い普通の券と同じ大きさだ。改札を通るときNさんだけが通れなかった。そばにインフォメーションがあったのでそこで尋ねて通ることができた。

 地下鉄では十分に気を付けるように言われた。立っているときは壁に背をつけて立つようにと言われたのでそうした。電車は頻繁に来た。大変便利だ。

 電車に乗ったら座ることができてホッとした。傘を手に持っていたら、前に立っていた人が「傘はしまった方がいい」と注意してくれた。たたんで鞄に入れた。それでいいという顔をした。それほど地下鉄は危ないのかと改めて危険さを認識した。

 まず、コンコルドで降りた。出口は別のところにあり、切符を入れなくてもいいのだが、ドアを押して出なければならないのだ。荷物を持っていると不便である。狭いエスカレーターで外に出るのだが、雨を遮る屋根がないので濡れていた。他の駅でも同じであった。

 広場に出るとオベリスクや国会議事堂が見えた。前日見たコンコルド広場を歩いてオルセー美術館へ向かった。 オルセー美術館は、9時半からだがすで雨の中、長い行列ができていた。すぐ近くのセーヌ河を眺めながら開門を待った。遅れて9:40分ぐらいに開いた。まず、セキュリティチェックを受けた。鞄の中を見せるように言われたので見せたら笑ってOKと言った。

 切符を買うところで添乗員が教えてくれた。みんなが揃ったところで2時間後の12時に会う場所を決めて自由に見ることになった。館内案内パンフはあいにく日本語版はなかった。案内パンフを配ると添乗員はどこかへ行った。

 私は一人で見ることにして、先ず5階に行こうとエレベーターに乗ったら何と2階止まりだった。降りて階段を行くとHさんやOさんたちが上ってるのと出会った。結局階段を5階まで登って行った。

 5階には印象派の絵があった。部屋が5つあるので見るのが大変だと思いながら見て回った。マネー、ドガ、ルノアール、モネ、セザンヌ、ピサロなど有名な画家の作品が展示されていた。ただ、展示の仕方が作家ごとではなかったので、絵を見るたびに作者の名を見なければならなかった。絵の色や画風から作者を予想して見て行った。セザンヌやルノアールはだいたい当たったがなかなか難しかった。 ドガの踊り子、ルノアールの風景画などが興味深かった。

 2階には、ゴッホの有名な自画像やセザンヌやロダンの彫刻もあった。1階には彫刻の他、ミレーの部屋があり、あの「落穂拾い」や「晩鐘」があった。Oさんの奥さんはそれを見たかったのだと言っていた。また、モネの人物画もありこれも興をそそられた。私は、モネの街を描いた風景画とルノアールの横たわる裸婦が印象深かった。

 ミレーの絵を見た後、Hさんたちと会い、まだ見てないのがあるから12時半までにしてと言ったのでそうした。これだけの作品を2時間ではとても無理であった。

 12時半に大時計の下にあつまった時、Oさんの奥さんが「手荷物検査の時に傘をなくした」と言ったので、lost & foundがどこにあるか尋ねた。手荷物預かり所の所にあった。でも、傘は出てこなかった。

 オルセー美術館といい、ルーブル美術館といい、いつも入館者が長い列を作り、長い時間待って入り、館内もひしめく美術館があることは大変な財産だと思った。残念ながら日本にはない。パリへ行ったらどうしても見てみたい美術館を見ることができてよかった。

 美術館を出る前にトイレに行ったら、男性用は修理中だった。仕方がないので女性用に入ったが、フランスでは混んでいると女性が男性用に入ってくるのは当たり前であった。

 美術館を出るとどこかで食事をすることになり、美術館の前のCAFEに入った。店内は満席状態だった。でも、5人がの席が空いたので座った。私はアプリコット1瓶4.7ユーロとサンドイッチを注文した。すると来たのは大きなフランスパンに具を挟んだサンドイッチだったのでびっくりした。他の人のは長いソセージが入ったフランスパンだった。いずれも6.1ユーロだった。

 Hさんはフレンチフライを2皿追加したが、大きな皿に山盛りで食べきれず1皿残した。フレンチフライの本家だけあって、フランスはフレンチフライの大盛りのところが多いようだ。

 添乗員がフランスのCAFEは窮屈だと言っていたが本当に窮屈であった。普通は水も有料だが、確か無料の水もあると聞いたので店員にいうとボトルに入った水を持ってきた。水道水らしかった。

 外に出たらまだ小雨が降っていた。オルセー美術館の前には待つ人の列が見られた。

 ○地下鉄券売機

 

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○オルセー美術館正面

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○入口で待つ人々

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○外にある彫刻

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○私のサンドイッチは手前,山盛りのフレンチフライと水

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2013年4月22日 (月)

行きたかったフランス⑨―ルーブル美術館と市内見学

○ギャラリー・ラファイエット

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○ハムラビ法典

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○ナポレオン・ホール

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○ダヴィンチの聖母子

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○ダヴィンチが描いた弟子

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○ガラスに覆われたモナ・リザ

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 4月8日(月)今日は旅行5日めだ。朝5:05に起床。外は曇っていた。6:30~7:30までゆっくりと食事をした。それまでのホテルほどではないが果物もあった。

 8;15にバスはホテルを出発した。ドライバーも同じダニエルであった。ルーブル美術館まで約22km、45分の予定だが道路が混雑するので何とも言えない。走り出して非常に混雑していることが分かった。渋滞気味である。それにしても車の多いこと。フランスでは路上駐車ができるのでどの通りにも駐車の列があり、中には両側駐車をしている道もある。地下の駐車場が少ないのでやむを得ないのだとか。

 パリの中心部に入ってセーヌ川の畔を走るとき、地下になっているところがあった。ダイアナ妃がパパラッチに追いかけられて非業の死を遂げたところだという。13番目の柱に激突したと言った。この道路は帰りにも通った。

 パリは郊外と違いアパートばかりだがなかなかよい景観である。日本と違って統一性がある。

 セーヌ河の河岸にそって進んだ。エッフェル塔が近くに見えるところも通った。自由の女神も立っていた。セーヌ川には貨物などを運ぶ船も走っていた。もっとロマンチックなところと想像していたが、これなら東京の隅田川の方がいいと言ったら、添乗員にたしなめられた。もう少し進むとロマンチックなところがあると言った。

 ルーブル美術館には9:35に到着した。ファビアンが待っていた。観光客が続々と来ていた。中に入るとき、係りの女性がファビアンに話しかけていた。それによると今怪しい男が2人入ったというのだ。見るとそうかなと思う男がいた。

 最終的には逆さピラミットのあるナポレオン・ホールのチョコレート店前に集まるということにしてファビアンのあとについて中に入った。何しろ30万点もあるので、特別な物だけを重点的に見るということであった。

 ナポレオン一世の戴冠という巨大な作品は記憶に残っているが後は殆ど忘れてしまった。

 レオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザはガラスで覆われていた。ファビアンは、モナ・リザのモデルは弟子だという説を紹介した。ダヴィンチは女性には関心がなかったという。同性愛者だったとも。

 人が大勢なので両手を上げてモナ・リザの写真を撮っていた。気が付いたら、ウエストポーチの二つのポケットが完全に開けられていた。でも、ちょっとしたマジックとノート以外大事なものは入れてなかったので何も取られてなかった。

 ミロのヴィーナスも大変な人だかりであった。小さな頭部、長い首が特徴だということであった。腕がもげているのも同情をかっているとか。周りを一周してカメラに収めた。

 他の部屋でダヴィンチのマリヤと子どもの絵を見たがこれは慈愛に溢れた良い絵であった。ファビアンが近くにあったよく似た絵と比べるように言ったが、確かに違いがよくわかった。

 その絵の隣にダヴィンチの弟子を描いた作品があった。よく見ると眼の辺りがモナリザに似ていた。モナ・リザは弟子なのかも知れないと思った。

 それからサモタラケのニケという首の無い、翼をもった像を見た。どこへ行っても中国人が目立った。

 最後にハムラビ法典を見に行った。メソポタミアの法典である。細長い黒い大きな岩の上に楔形文字で彫ってあった。フランスの学者が解読したのでそこにあるのだという。イギリス大英博物館でロゼッタ・ストーンを見たのでこれで古代文明の二つの重要な物を見たことになる。

 ファビアンの説明は大変長くて、必要がないような知識まで披露するので一か所に長く時間がかかり、結局ルーヴルの膨大な作品のうちの10点ぐらいしか見てない感じだった。

 その後ナポレオン・ホールに出て11時50分の集合まで自由行動であった。私は、店を見て回り、チョコレート店へ行ったらファビアンがいた。その店のチョコレートは最高だというので彼のお勧めから1つ買った。

 昼食は12:00~12:50まで、中華料理店新香港で食べた。丸いテーブルを囲んだが、付き物の回転台がないので料理を取るのに苦労した。中華なので青野菜がたっぷり食べられ、米もあり、馴染の味ばかりでよかった。ビールが3.99ユーロ。

 12;50分に出発して、コンコルド広場やシテ島のノートルダム大聖堂、ソルボンヌ大学、コンコルド広場からシャンゼリーゼ大通りを通って凱旋門へとドライブして、車窓から景色を眺めた。凱旋門を下に見る場所で下車をして写真を写した。セーヌ河畔をドライブしてエッフェル塔などを眺め、オペラハウスの方へ行った。

 オペラ座の裏にあるギャラリー・ラファイエットというデパートに行った。そこにあるジャパニーズ・カスタマーズ・サービスで免税の買い物の説明を聞いてから自由行動になった。

 Hさんがガラスのドームを見ると言ったので、Oさんたちと行ったら、0階から吹き抜けになっていて上にガラスドームが見られた。とてもよい眺めであった。エスカレーターで上に上り、屋上にでたら市内が一望できた。目の前にオペラ座の背面があった。

 館内を見ながら下に降りて行った。途中6階で買い物をし、4階で休憩をした。0階まで降りるとトイレを探した。まだ、時間があったのでOさんたちと外に出て近くを見て歩いた。

  ジャパニーズ・カスタマーズ・サービスに戻ったら、ある日本人客が市内地図を貰っていたので私ももらった。日本語の大きな地図であった。その地図のことを添乗員さんは知らなかった。

 その隣でエッフェル塔の絵を描いた小さいグラスを買った。5ユーロだった。このグラスは次の日モンマルトルへ行ったら、ある店で3ユーロ、別の店で2ユーロだった。

 自由行動の後バスで夕食のレストランへ向かった。Chez Claude カフェ・レストランでメインはエスカルゴであった。白身魚、カレー風味クリームソースとフライドポテト、フロマージュブラン(ヨーグルト風チーズ)。エスカルゴは6個さらにのっていてエスカルゴトングで挟んで中身を出して食べるのだ。ガーリック、バター、パセリなどを練り込んであり柔らかくておいしかった。カタツムリなど嫌だと言っていたOさんもサザエよりいいと言っていた。

 ハイネケンの500mlが9ユーロであった。このビールは、後で行ったスーパーではたったの1.19ユーロであったので驚いた。

 19時50分にレストランを後にして、セーヌ河畔を走り、ダイアナ妃悲劇のトンネルをくぐって走った。途中エッフェル塔を真近に見て走った。19:30にこの日と次の日と連泊するメディアン・パリ・ボルト・ド・ヴェルサイユ ホテルに着いた。

 このホテルは地下鉄⑧終点Balard駅を出た交差点にあり、トラムの駅前でもある大変交通の便のよいところだった。次の日は朝からフリータイムなので好都合である。

 ホテルに入ってから近くのスーパーに行った。ビールはハイネケン500mlだけだったがたったの1.19ユーロだったので買って帰った。22時に就床。

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2013年4月21日 (日)

やっと行ったフランス⑧―ヴエルサイユ宮殿

 第4日めの最後の見学地はかの有名なヴェルサイユ宮殿だ。12時45分にヴェルサイユに着き、先ず昼食のレストランへ行った。YAKI TOKYOというおかしな名のレストランで、店内は殆ど日本人客で埋まっていた。近くのテーブルの人に聞いたらJTBのツアーだと言った。他のグループも来ているのだろうと思った。

 魚貝のコキュ(グラタン)、ローストポークとポテト、カマンベルトースト、チョコエクレアだった。フランスビールのkronebourgはまずかった。フランスではどこへ行ってもハイネケンのビールでフランスのブランドは珍しい。ワインの国なのでビールはあまり飲まないのかもしれない。そこへ行くと日本はいろいろなビールが楽しめる。

 食事の後、すぐ近くのヴェルサイユ宮殿正門に行った。前は大きな駐車場で広場にも、門のところにも、中の広場にも人がいっぱいであった。その間をアフリカ黒人がエッフェル塔などの飾りを持って売り歩いていた。添乗員は無視するように言っていたので無視をした。

 現地ガイドはファビアンで日本語がぺらぺらであった。日本に留学し確か筑波大学で学んだと言った。彼は日本語のジョークや洒落もうまく、また知識が豊富であった。

 彼の後について金ぴかの飾りのある門を通って中の「王の内庭」という石畳の広場に入った。建物の前にも金ぴかの飾りが目立っていた。右手の入口から宮殿内へ入った。

 ヘラクレスの天井画が素晴らしいヘラクレスの間からスタートした。どの部屋も天井に絵が描かれていて壁には大きな肖像画などが掛けてあった。ギリシャやローマの神々にちなんだ名前がつけられ、その神々をテーマにした絵や彫刻で飾られているのだ。

 豊穣の女神の間、ヴィーナスの間、ダイアナの間、マルスの間、寝室、アポロンの間、戦争の間と説明を聞きながら順に見て行った。

 アポロンの間は特に豪華でルイ14世が銀の玉座に座って謁見をしたので玉座の間ともいわれるそうだ。戦争の間ではルイ14世の騎馬姿の絵が目に入る。

 もっとも有名な鏡の間はからは壮大な庭園が見られ、庭に面しない方が鏡になっていて天井からは豪華なシャンデリアが下がっていた。この部屋でヴェルサイユ条約が結ばれたのだ。

 その裏に王の寝室があり、ルイ14世はここで亡くなった。その隣の牛眼の間、閣議の間、そして平和の間は平和がモチーフである。

 マリー・アントワネットが王太子を出産した王妃の寝室、王妃がしばしば食事会を開いた大会食の間などがあり、「マリー・アントワネットとその子どもたち」(ヴィジェ・ルブラン作)はその後の悲劇と重ねて人の運命の過酷さが哀れを誘う。

 かつてのフランスの王の絢爛豪華な宮殿を見終わった出口のところに書籍や土産を売るところがあり、そこでOさんがヴェルサイユの本を買った。外で待っていた私に見せてくれたので見ると、何と中国語の説明であった。それで一緒に行って日本語版と取り替えてもらった。

 余談だが、ヴエルサイユ宮殿では、昔は廊下の隅っこで大便などをしていたと本で読んだことがある。添乗員に聞いたら、女性はバケツをスカートの中に入れて用を足したのだと言った。ファビアンに聞いたら、かなり匂ったらしいと言っていた。汚れが余りにもひどくなってヴェルサイユ宮殿を建て替えたか移転したというようなことを本に書いてあった。

 ファビアンが庭園は5時半になると無料解放されると言った。後で観に行くことにして、16時過ぎにブルマンシャトーホテルにチェックインした。ホテルは正門から300mぐらいの便利なところにあった。

 庭園を見に行きたい人は5時半にロビーに集まることにした。この日は夕食は各自で摂ることになっていた。疲れていたが部屋で一寝入りすると寝過ごすといけないので、近辺を見て回ることにした。

 添乗員さんが教えてくれた広い通りを歩いて行ったが、店やレストランがなかった。かなり歩いてやっとそれらしい通りに出た。でも、時間がないので切り上げて戻ることにした。前を見るとIさん姉弟らしい姿が見えた。声を掛けたらその通りであった。二人は店がある方まで行ってきたそうだ。

 ロビーでは結局Hさんたちが現れず、7人で庭園を見に行くことになった。ホテルから宮殿が見えているのでそちらに歩くだけだ。宮殿の右に庭園に続く入口がある。庭園のチケットブースに行くと5時半を過ぎているのに有料となっていた。係りの人に聞くと6時半から8時半までだという。仕方がないのでノートルダム寺院へ行こうということになった。ところがこちらの出口からは出られないと言われた。それで待つことになった。

 待つ間退屈なので私は手品を見せることにした。1円玉がぐるぐる回るように見えて止めると1円玉が掌の上に落ちる手品を見せて、それをみんなに上げた。その場で練習をした。次にネックレスの鎖にリングが引っかかる手品を見せた。それをみんなにやってもらったがIさんの弟が偶然にできただけでできなかった。

 そうやってわいわいやっているうちに6時半になったので庭園に入った。広大な庭園なので1/3ぐらいを歩いて後は遠くから眺めた。庭園でHさんたちに会ったので合流した。疲れたので休んでから来たと言っていた。木をだるまのように剪定して、芝を幾何学模様にした庭園もあった。

 庭園を見て、夕食を食べるレストランとを探すことになった。通りはヴェルサイユ宮から放射状になっているのだ。方向は分かっていたのでノートルダム寺院の方へ行った。寺院を見ながらレストランのありそうな通りへ向かった。

 ピザ屋が2軒並んでいて呼び込みをしていた。他のレストランとも見てから戻り、客も多いのでいいかと思った。店の前のテラスで食べている人においしいか尋ねたら、とてもいいと言った。ピザやサラダやカレーのようなものを食べていた。アメリカ人だと分かった。「英語が上手だね」と言ったら、「ハワイから来た」と笑っていた。

 ヨーロッパは外と中とで場所の値段が違うので聞いたら、同じだと言ったのでその店に決めた。中に入ると地下室に案内された。騎士の鎧や刀などを置いてあり、狭かったが洒落た感じであった。

 メニューを貰ったがどれがいいか分からないので、私は先ほどのアメリカ人のところに聞きにいった。これがいいと教えてくれた。

 それぞれが好きな物を注文した。メインはピザにした。私は1人なのでピザだけにした。ピザは大きな皿にはみ出る大きさで直径30cm以上あった。みんなは味はよいと言った。他の人は2人でシェアなのでよいが私は1人で食べきれるか心配だったが何とか食べきった。このピザレストランはCAPRIと言って安くておいしいお勧めだ。ピザ10.5ユーロ、ビール4.5ユーロ。

 帰りにヴェルサイユ宮殿がライトアップしているのが望見された。でも、疲れているので観に行く人はいなかった。この日は19000歩ほど歩いたそうだ。

 20時50分にホテルに帰ると、トイレの辺りで雑音がするのでフロントにいうと見に来てエアコンの音だと言った。切ると音が消えたのでエアコンなしで寝た。

○ベルサイユ宮殿正面「王の内庭」

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○ヘラクレスの間天井画

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○鏡の間

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○マリー・アントワネットと子どもたち

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○池のある庭園

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○ベルサイユ宮殿

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○幾何学模様の庭園

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○おいしい大きなピザ

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2013年4月20日 (土)

行きたかったフランス―⑦ゴッホの下宿、サンジェルマン・アン・レー

 今日はフランス旅行第4日めだ。夜中の2時ごろどうした訳か時計のアラームが鳴った。外は雨の音がしていた。再び寝て4時に起床した。

 6時50分からバイキングの朝食をたっぷり食べた。

 7時45分にホテルを出発した。オヴェール・シュル・オワーズへ行くのだ。何と快晴で車窓からは日の出が見られた。オワーズ川を渡るとすぐだった。約1時間のドライブであった。車中では添乗員からゴッホにまつわる話を聞いた。

 南フランスのサンレミの精神病院を退院したゴッホが、弟のテオを頼ってパリにやってくる。兄の面倒をみるテオだが兄との同居をためらって、この地のラヴ亭に兄を連れてくる。2か月間絵を描きまくるが、37歳でピストルで自殺をする。彼はラヴ亭の部屋で倒れているのだ見つけられる。自殺か誤っての発射かは不明だそうだ。以前に民芸で滝沢修がそのシーンを演じるのを見たことがある。

 バスを降りると、歩いてゴッホの下宿した家に向かった。写真のような家だ。中に入るには有料だが入らなかった。近くに小学校があり、その間の小道を上って案内所がある方に行った。そこにゴッホが描いたその辺りの絵の写真が塀にかけてあった。トイレは案内所にあることを教えてもらって、裏の小道をChateau d’Auvers-sur-Oise(オヴェール城)へと歩いて行く。丘の上にその白っぽい建物があった。庭に入ることができた。バスはその近くに停めてあった。

 そこからは自由散策で再びゴッホの家などがある街へ戻った。私は、ゴッホの家の前にある、ゴッホが座ったというテーブルに座って、ゴッホがしたという真似をした。それから近くのマルシェ(マーケット)を覗いた。ジャンヌダルク教会のマルシェと同じような魚、肉、野菜、果物、ケーキ、シャツなどを売っている店が出ていた。

 10時43分にそこを出発して、次の街サンジェルマン・アンレーへ向かった。

 11時20分に着いた。数々のフランス王が住んだという古城サンジェルマン・アン・レー城と広大な庭園があった。フランス庭園とイギリス庭園に分かれていてフランス庭園は高い並木と芝生などで間を広い道が通っている。そこを歩いて行くと、セーヌ川やパリの方角に街並が望見される。なななかいい眺めであった。

 戻るとき自由に行動することになり、イギリス庭園に行きたければ行ってもよいと言われたが、時間が少ないので街を見ることにした。イギリス庭園は木などが茂っていた。

 私は一人で街へ行った。教会に入ろうとしたら、空き缶を持った男が出て来たのでやめにした。街は日曜日なのでウインドウショッピングであった。それでもたくさんの人が歩いていた。花屋などを覗いた。

 城の前に戻ってくるとOさんたちがいた。中に入ったすぐの左にトイレがあるというので入ったがなかった。そこにいた男性の係りに尋ねたら出て行くようにいった。一度出てもう一度入って探したらずっと奥の方にトイレがあった。 

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○オヴェール城

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○サンジェルマン・アン・レー城

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○フランス庭園Cimg5602

○パリの方向を眺める

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2013年4月19日 (金)

やっと行ったフランス⑥―

 モンサンミシェルからシャトルで戻り、RESTAURANT BRASSERIEで13:30から遅い昼食だった。名物オムレツ、ロースト・ポークとグリンピース、リンゴタルトのデザート。オムレツは大きなものを切り分けてメレンゲがかけてあった。柔らかいオムレツだ。プーラールさんの真似だろうか。珍しい小麦ビールを頼んだら7.5ユーロもした。

 食事のあとレストランの隣の小さなスーパーで買い物タイムであった。ピンクのリンゴ発泡酒だと思って3.9ユーロで買った。夜開けたらスパークリングワインで栓がポンといって飛んで行った。1人では飲みきれないのでHさんに電話をしたら要らないというので、ホテルの従業員にあげた。

 空は曇っていた。フランスの天気は変わりやすい。フランスで一番小さく美しいというブブロン・オン・ノージュへ向かった。約157km、2時間30分ぐらいだ。この村を旅行に取り入れたのはトラピックスだという。それから他の旅行社も入れるところが出てきたそうだ。

 16時40分に村に着いた。ノルマンディ様式の柱や梁がむき出しでそれにこげ茶色を塗った特徴ある建物が並んでいた。端から端まで歩いても10分あまりだろうか。道の両側の店を覗いて歩いた。観光客は余りいなかった。

 17;30に出発をして、この日のホテルがあるルーアンに向かった。天気は回復してきた。18時40分ごろノボテル・ルーアン・スット ホテルに到着。チェックインをした。

 19時30分からホテルで食事をした。根セロリとリンゴと小エビのサラダ、ブッフブルギニヨン(ブルゴーニュ風牛肉の赤ワイン煮込み)とフレンチフライポテト、チョコレートケーキ カスタードクリーム添えであった。ビーフは柔らかく煮込んであったが日本の肉とは味わいが違った。グラスワインを頼んで7.4ユーロだった。

 食後エンターテイメントをやらせてと頼んで用意して行ったマジックを披露した。100円ショップで買った靴紐とリング、ドラエモンの出現と消失カード、100発100中カード当て、ジャンピングダイヤ、色玉の移動、江戸の手品をやり、ふしぎな筒、マジックストレッチを教えた。私のカードを借りて同行のHさんがトランプのカード当てを2つ披露して種明かしをした。楽しいひと時になった。

 シャワーを浴びて寝たのは22時であった。

 このホテルは第一日目のホテルと同じ系列であった。シャワーなどはこちらの方がよかった。朝食には果物やヨーグルトが多いのも似ていた。

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2013年4月18日 (木)

やっと行ったフランス⑤―モンサンミシェル修道院見学―

 フランス第2日めは4時半ごろ起きて、6時50分から7時30分迄ゆっくりと朝食を摂った。パンやフルーツやヨーグルトがたくさんあった。珍しいナシがあったので食べたら甘かったし、ミカンも甘かった。

 7時50分にバスは出発してモンサンミシェルへ向かう。モンサンミッシェルと言えばいつの頃からかフランス旅行の目玉となっていて、私も是非見てみたいと思っていた。

 ルーアンからは約255kmあり、3時間15分ぐらいかかるということであった。添乗員の話では、通常はパリから行くのが多くその場合は5時間もかかるのだそうだ。ノルマンディ地方を走って行くのだ。

 天気はフランス晴れであったがその内靄が出始めた。進んで行くうちに曇りになった。途中の車窓からは牧場や牧草地が広がっているのが目に入った。進んでいくと、羊が多いように感じた。もちろん茶色の斑がはい合った牛も見られたが。

 牧草地や牧場の境のようなところに高い木が並んで立っていて、その木の枝に大きな丸い形の叢がくっついているのが見られた。鳥の巣のように見えたが余りにも多いので不思議に思っていたら、やどり木だと教えてくれた。あちこちに見られた。

 添乗員の小畠さんはノルマンディに関する該博な知識を語ってくれたが殆ど覚えていない。ノルマンディと言えば、第二次世界大戦のノルマンディ上陸が記憶に新しく、映画にもなって見たことがある。この平坦な地をどうやって進軍したのだろうと思った。

 モンサンミシェルについての知識も与えてくれた。島は周囲1kmで、高さ80mの上に修道院が建てられたのだという。小畠さんは、モンサンミッシェルについても詳しく説明をしてくれた。(概要は下に参考に記したものとほぼ同じ)

 途中、カンでトイレ休憩をした。そこの売り場でしか売っていないというプーラールさんのサブレの小箱を1個買ってみた。ガレット、サブレ、クロワッサンが有名なのだそうだ。

 また、この地方では葡萄が作られてなくて、リンゴが栽培されているので、リンゴの発泡酒シードルが特産品だという。シードル→ポムー→カルヴァノスという順にアルコール度が高くなるのだそうだ。

 バスは村に入って行き、大きな駐車場を通り過ぎた。私たちのバスは村内のレストランを予約してあるのでさらに中まで行けるのだそうだ。モンサンミシェルがだんだんと近くに見えるようになった。

 バスを停めると、イヤホンを用意して、歩いてシャトルバス乗り場まで行った。大きなシャトルバスが停車場に停まっていた。満員だったので、次のバスに乗った時一番前に座った。シャトルバスはモンサンミシェルの近くまで運んでくれた。

 降りると歩きながら写真を撮った。島の周りは干潮で完全に干上がっていた。天気は曇りだったがときどき青空がのぞいていた。フランスの天気は変わりやすいと思った。

 敵が来たら落とす柵が上にある入口を入ると、狭い上り道があり観光客で溢れていた。両側に店やホテルが並んでいる。オムレツを売り出したプーラールさんの店があり現地ガイドのアドリースさんが中を見るといいよと教えてくれた。まだオムレツ作りの準備中であった。

 少し行くと土産物屋の一つに連れて行ってくれ、サブレの試食をすると言いと言った。一角にいろいろなサブレを盛ったお盆がおいてあった。店の中は混んでいたので一通りのサブレを取って歩きながら食べたらおいしかった。

 両側の店は帰りに見ることにして坂道を上って行った。お墓の方から中に入るつもりが閉鎖されていたので、さらに上まで登って中に入って行った。金色に光るゴシック様式の尖塔が見られた。金色は金メッキをしたミカエル像だ。

 教会の中に入ると、12時からのミサの準備をしていた。そこから説明を聞きながら回って行った。列柱廊があり、木でできた37本の細い柱が交互にずれながら並んでいた。その周りを歩いて祈りと瞑想に耽ったところだという。

 続く食堂では修道僧たちは沈黙をして食事をした。階段を下りると迎賓の間で王侯貴族を迎える部屋であった。次が太柱の礼拝の間であった。太い柱が所狭しと立っている暗い部屋であった。

 私は写真を撮りながら進んだので少し遅れてしまった。この部屋に入るとイヤホンから声がするのに仲間の姿が消えていた。それで慌てて大声を出しながら探したが分からなかった。

 少し行くと大きな車輪のあるところに出た。別のグループが説明を聞いていた。納骨堂も覗いたが仲間はいなかった。声も聞こえなくなった。慌てた私は矢印に従って進んだ。ブックショップにも誰もいなかった。さらに進んでとうとう建物の外に出て帰り道を辿った。海が見えるところで、イヤホンに声が入った。添乗員が「どこにいるのだろう。まだいないね。先に行ったのかな?」などと言っているのが聞こえた。

 それで時々聞こえる声を頼りに戻って行った。そしてブックショップで皆さんに会うことができた。私は謝ったのだがそれにしてもどうして突然見失ったのかが不思議でならなかった。ミカエルの神隠し?などと思った。

 そこからは自由行動なので、一人で建物を出て村に戻って行った。途中両側の店を覗きながら歩いた。プーラールさんのオムレツ屋に来ると昼時なので大忙しでオムレツを作っていた。男女二人の職人が大きな鉢に卵などを溶かした物を入れて音楽に合わせてリズミカルにかき回していた。なかなかの労働であった。

 それを二人の人が大きなフライパンに入れて燃える火の上でオムレツにしていた。レストランは満員であった。厚さ10cm直径30cmぐらいのオムレツを食べていた。

 それからサブレの店に行くと客も店員もいなくて、小鳥が2羽来てサブレのかけらを拾っていた。向えにはサブレを山のように積んで売っていた。そこでサブレを少し買った。店主のおばさんが「ガイドは小畠さん?」と聞いたので、そうだと答えた。片言の日本語を並べ面白いおばさんだった。

 あとで小畠さんにそのことを言うと、「人違いだと思う。前にも間違えられたことがある。だいぶ年のガイドと」と言った。

 モンサンミッシェルは大変混雑し、ひどいときは動けないくらいだと言っていたが、今回は他のグループより少し早かったので空いていてよかった。

 ところで、人気のモンサンミッシェルだが観光には3時間あれば十分だと思った。ツアーの中にはモンサンミッシェル島内宿泊だとか近辺宿泊を売りにしているものもあるが、島内には僅かな店があるだけで他には見るべきものがなくもったいない。それより他に時間を使った方が有効である。

 《参考》

 この島はもともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれ先住民ケルト人が信仰する聖地であった。708年、アヴランシュ司教オベールが夢のなかで大天使ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けたが、悪魔の悪戯だと思い信じなかった。再び同じ夢を見たが、また信じなかった。ついに3度目には大天使はしびれを切らし、今度はオベールの額に指を触れて強く命じたところ、オベールは稲妻が脳天を走る夢を見た。翌朝、オベールは自分の頭に手を置くと脳天に穴が開いていることに気づいて愕然とし、ここに至って大天使ミカエルのお告げが本物であると確信してここに礼拝堂を作ったのが始まりである。

 966年にはノルマンディー公リシャール1世フランス語版ベネディクト会の修道院を島に建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になったものである。中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。

 百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた。モン・サン=ミシェルの入り口には今もイギリス軍が捨てていった大砲とその弾が残っている。

 18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され1863年まで国の監獄として使用され、その後荒廃していたが、ヴィクトル・ユゴーの紹介がナポレオン3世を動かし、1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。

 19世紀には陸との間に堤防を造成して鉄道・道路ができ陸続きになり(鉄道は後に廃止)、フランス西部の有数の観光地となっている。 1979年にはユネスコ世界遺産に登録された。2006.8.5現在、3人の修道士が在住し、9人の修道女が近隣の町から通って運営に当たっている。

近年、堤防の影響により、島の周囲が砂洲化しつつあり、国家事業として、かつての「島」に戻すプロジェクトが進んでいる。2015年完成予定で、駐車場となっている堤防の代わりに橋でつなぎ、海流により堆積砂を取り除く。

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2013年4月17日 (水)

やっと行ったフランス④―第一日め,シャルトル大聖堂とモネの家―

 パリを出て高速道路でシャルトルへ向かう途中に雪が降り出した。窓に当たる雪は融けていたが地面が白くなっていくのが分かった。シャルトルに着くと、辺り一面に雪が積もっていて滑らないように気を付けて歩いた。

 シャルトルでは、ノートルダム・シャルトル大聖堂を見学した。ノートルダムというのは「我らが貴婦人」という意味で、聖母マリアのことを指す。フランスにはノートルダムという名の寺院がたくさんあるそうだ。私はノートルダム大聖堂と言えばパリのシテ島にあるものだけだと思っていた。

 シャルトル大聖堂はステンドグラスが美しいことで知られ、中でもシャトルブルーという青の色が有名なのだそうだ。入場は無料で中に入ると、大きな柱が立ち、天井が高い見事なもので、窓はすべてステンドグラスであった。

 夢中でステンドグラスをカメラに収めた。これまでに各地でいろいろな大聖堂を見て来たが確かに素晴らしいステンドグラスであった。(下の写真)その他に聖母マリアの衣というのがガラスに収められていたがはっきりとは見えなかった。11時10分ぐらいから50分まで堂内を見た。

 その後歩いて駅前まで行き、レストラン・L’ouestでキャッシュ・ロレーヌ、チキンのクリーム煮とタリアッテレパスタ、クリームキャラメルプリンの昼食であった。飲み物にココアを頼んだら3ユーロであった。

 13時ごろにレストランとを出て、バスでジベルニーへ向かった。約100km1時間45分ほどのドライブであった。途中の風景は印象に残っていないが、やたらとロータリー交差点が多かった。信号がなく、ロータリーでスピードを落として進むのだ。

 15時ごろに目的地に着いて、モネの家に向かった。道路を渡るときに地下をくぐるのだがアプローチが長く、どうして道路を横断するようにしないのかと思った。

 モネの庭園に入る入口の脇にも地下の渡りがあり、それをくぐってモネの池に行くのだ。

 中に入ると広い庭園があり、その向こうにモネの家があった。庭園というより農地という感じで花などが植えられていたが、まだ水仙など僅かな花しかなかった。自然のままのの庭園であった。

 モネの家は日本の田舎の小学校そっくりの二階建て木造のものだった。部屋は寝室、書斎、キッチンなどいろいろあり、どの部屋にも浮世絵がいっぱい壁に掛けてあった。まるで浮世絵美術館であった。モネの浮世絵への関心の深さをうかがわせるものであった。室内の写真を撮りたかったが、聞くと駄目だと言われた。巨大な睡蓮の絵を描いたアトリエは現在は売店になっていた。

 モネの愛した池は、道路を挟んで向こうにあった。きれいな小川が流れていて竹藪があり、また池の岸には大きな柳があった。回遊式で細い道を歩いて回るのだ。池にはあの有名な太鼓橋が架かっていたが緑色に塗られていた。私は赤だと記憶していたのでいぶかしく思ったが、後で絵で確認をするとやはり緑であった。でも、日本の橋なら赤に塗るべきだと思った。

 池の睡蓮は時季はずれで、根を残して切り取られていた。我が家のダイニングルームには、ボストン美術館の睡蓮の絵が掛けてある。実物の睡蓮が見られなかったのは残念であった。

 16時ごろ出発してルーアンへと向かった。約68kmの距離だ。 ルーアンは上ノルマンディー地方の州都として栄えた。この街を1時間ほど散策した。

 ノートルダム・ドルーアン大聖堂、大時計のある通りなどを見て歩き、船を逆さにしたような変哲な建物のところに出た。ジャンヌダルク教会だそうだ。その建物の広場に細い柱があって、そこがジャンヌダルク処刑の場所だったという。ジャンヌダルクが火あぶりにされたのは1431年5月30日で19歳の若さであった。

 その教会の近くに市場があり、魚や肉や野菜や果物などを売っていた。公衆トイレに行こうとしたら夕方なので閉まったばかりであった。

 バスを停めてある近くの草が生えたところで、中年男性が大便をしていたので女性たちは驚いていた。

 ホテルへ行く途中、街を見下ろせる高台にあるル・ドミニオン レストランで夕食を食べた。17時40分ごろに着いた。このレストランは100年前に建てられたのだが、3月の大雪で屋根が落ちて修復中であった。今度の旅行では一番良いレストランであったが、それだけに飲み物も高かった。ビールが7.8ユーロもした。ワインも同じくらいであった。

 客は私たちだけで静かな雰囲気であった。ムール貝のクレープ包のココットが珍しく、白身魚のマッシュルーム クリームソースとポテトがメインでニンジンアイスクリームのデザートも初めてであった。

 18時50分ごろに出発をして、この日宿泊するノボテル・ルーアン・スットに着いたのは20時20分ぐらいであったが、やっと日が沈んだ後であった。このホテルは、ヨーロッパにあるチェーンホテルだそうだ。

 清潔感はあるが、シャワーの使い方が分かりにくく苦労し、水勢も弱かった。またシンクの栓の閉め方も分からず四苦八苦した。バスルームのタオル類が、どれが何に使うタオルか分からず、仕方ないので一番大きなものをバスマットにした。後で聞いたらバスタオルだった。

 次の朝の朝食ではいろいろな果物が置いてあってよかった。

○ノートルダム・シャトル大教会

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○モネの家と池

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○ジャンヌダルクが処刑された場所(柱のところ)とそこにできた教会

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2013年4月16日 (火)

やっと行ったフランス旅行③―空港からシャルトルへ向かう―

 0時05分にバンコクを離陸してから12時間余り、4月5日の7時過ぎにパリのシャルル・ドゴール空港に着陸した。ここは数年前にイタリア旅行の帰りに乗り換えをしたところだ。円形の建物のである。

 フランスはサマータイムで時差は7時間であった。時計とカメラの時刻調整は機内ですませておいた。カメラはワールドタイムで簡単に調整できた。

 入国審査を済ませて出ると、現地で世話をする加藤さんが待っていた。その案内でバスのところに行ったら、バスは予想に反して普通の大型バスだったので驚いた。添乗員の小畠さんの説明では、フランスには小さいバスはないのだそうだ。それで自分の好きなところに陣取ることができた。私は2列目に座った。

 運転手はダニエルと言い、物静かな紳士という感じであった。添乗員はとても気遣いがあると彼を評した。英語も話せるということであった。

 9時38分に空港を出発した。最初の目的地シャルトルまで約90kmで1時間45分の予定であったが、走り出してみると、朝のことでもあり、道路は大変な車の混みようであった。道路の両側には落書きが目立った。イタリアに行ったときに余りにも落書きが多いので驚いたが、フランスも同じであった。

 市内を走っているとき、青いビニールシートで覆われた箱のようなものが集まっているのが見られた。不法占拠者の寝るところだという。バラボナアンテナが立っているのもありびっくりした。(写真を参照)添乗員の説明では水があるところに集まるのだそうだ。そういえばセーヌ河畔のホームレスのことが日本でも報じられたことがあったと思いだした。確かホームレスを擁護する運動だったと思う。

 パリなどで物乞いをする人も見かけたが、こういう人でも月の収入が2000ユーロに達する人もいて結構な収入になるらしい。

  市内を抜けると田園地帯を走ったが、道の両側は平たんで地平線が見える広大な土地が続いた。農地のようだが緑の草が生えているだけで作物は見られなかった。(写真参照)延々と続く同じような風景の中を走り、その間添乗員の小畠さんはフランスのことを話してくれたがほとんど忘れてしまった。

 メモによると、イギリスとフランスの関係が中心で、フランスのノルマンディ公がイギリスに渡りウイリアム一世になったという物語であった。これについてはWikipediaから下記に引用するが、このような話を小畠さんが何も見ないで話すのでみんなは驚いていた。

ノルマン人の一部族の首領であったロロは、911年西フランク王国(現在のフランスに相当)の北西部沿岸からセーヌ川を遡って内陸へ侵入した。シャルトルの町を包囲していたノルマン人は、西フランクシャルル3世の軍に破られる。

 また、小畠さんの話によると、そういう関係でフランス語と英語の単語には似たところがあるという。以後気を付けてみると、確かに英語に似た単語があり、フランス語の皆目分からない私はホッとした。toiletは全く同じでよかったが、Musiamやentranceは語尾がseeに変化しているだけで、想像がついた。

 フランスでは第二のジャポニズムがあり、ラーメン、アニメ、コスプレなどを紹介した。これらは日本のテレビでも取り上げられたことがある。その他に以前に書いたように日本酒も入り始めている。

 ボンジュール、ボンソワール、メルシイも基本的なフランス語だとガイドが教えてくれたが、ボンジュールの発音でも結構難しいのだとか。ボンは「好い」で、ジュールが「日」でソワールは「夕方」だそうだ。

 フランスでは北と東の方は危なくて、南西の方に生活の安定した階層が多いそうで安全なのだという。

 フランスでは、シートベルトの着用が厳しくて、観光バスの中での飲食も禁じられているのだそうだ。違反すると本人が罰せられるという。それでバスに入るとすぐにシートベルトの確認があった。

 高速道路を走り出して1時間も経たない頃、Nさんが引きつけを起こし苦しみだした。乗り物酔いだと言っていたが引きつけは珍しい。顔も青くなって苦しんでいた。それでガソリンスタンドで臨時に停車することにした。ついでにトイレも借りたが割合大きなトイレであった。

 コンビニのような店が併設されていた。私はトイレを借りたので何か買ってあげようと思った。 エビアンの水を買ったら1.2ユーロだった。

 Nさんは、その後回復に向かったのでよかった。

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 長年、ヴァイキングの侵入に悩まされてきたシャルル3世は、ノルマン人に土地を与えてヴァイキングの侵入を防がせることに決め、ロロと条約を結んだ(サン・クレール・シュール・エプト条約)。その結果、ロロは、臣下として王に忠誠を誓い、また、キリスト教に改宗した。一方、王は、北西の沿岸部の土地をロロに与え、公爵として封じた。

 間もなくその一帯はノルマンディーと呼ばれるようになる。その後、1066年、7代目のギヨーム2世のとき、イングランドの王位継承を主張してイングランド王国へ侵攻し、ハロルド王を破って即位した(ノルマン・コンクエスト)。ここにノルマン朝が成立した。

 これ以降、ノルマンディー公は、フランスに臣従する一方で、イングランドでは王として君臨した。このイングランドとフランスの複雑な関係は、後の百年戦争の遠因となる。百年戦争の終結後、ノルマンディーはフランス王の支配下に入った。ただし、チャネル諸島だけはイングランドが依然として領有し、「ノルマンディー公」の称号が用いられている。フランス王領となって以後、ノルマンディーはしばしば親王宰地となっている。

 ウィリアム1世William I, 1027年 - 1087年9月9日)は、イングランド(在位:1066年 - 1087年)。通称は征服王(William the Conqueror)。ノルマンディー(ギヨーム2世、在位:1035年 - 1087年)でもあった。イングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、ノルマン朝を開いて現在のイギリス王室の開祖となった。

 ウィリアムは英語

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2013年4月15日 (月)

やっと行ったフランス旅行②―往復はタイ国際航空―

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 フランスまでは、タイ国際航空で行くのだ。途中バンコクで乗り換え、パリまで行くのだが、合わせて19時間ほど飛行機に乗らなければならないと思うだけでぞっとずる。どうしてもっと速く行ける航空会社を選ばないのかと思った。でも、タイ国際航空は美人のフライトアテンダントが多いというのでそれを期待した。

 座席は翼の上でうまい具合に通路側Cであった。隣はOさん夫婦だ。TG-647機は定刻の17時25分に出発した。飛行機が安定飛行になると機内サービスが始まった。フライトアテンダントは男性も多くて女性は少なかった。私たちのサービスは日本人女性であった。ただ、タイ女性の乗務員の中には肩から幅広の帯を掛けた人がいて上級乗務員かなと思った。

 機内放送はタイ語、英語、日本語で行われた。日本人の利用者が多いからだろう。後で分かったのだが、シャルル・ドゴール空港では、中国語のアナウンスがあるが日本語はなかった。ベルサイユを案内してくれたファビアンが「石を投げると中国人に当たる」と言っていたが、今ではそのくらいフランスへ行く中国人が増えたということだ。このエピソードを日本語教室で担当している中国人に紹介したら大笑いしていた。

 私は機内食が好きだ。久しぶりの飛行機なので楽しみにしていた。日本からの出発は日本で作るので安心である。ビールはタイビールを2種類とハイネッケンであった。せっかくタイ航空に乗ったのだから、タイビールを飲んだ。

 ついでだが、フランスはワインの国だからかビールはハイネッケンが主でフランス製ビールは2種類しか見かけなかった。

 タイ航空の機内サービスはなかなか良いと思った。それは頻繁に飲み物などを持って回って来るからだ。でも、パリからバンコクへの帰りのTG-931便で不愉快なことがあった。それは、最初の食事サービスのときに、配っていた男性の乗務員が失礼な行為をしたことだ。

 「オムレツにしますか?○○にしますか?」と英語で聞いてきたとき、○○が聞き取れなかったので一瞬迷ったら、「後回し」と言って行ってしまい、時間がたってから持ってきたのだが、何とトレイの上にはフォークなどがないし、隣のを見るとヨーグルトもなかったのだ。それで回ってきた美人のアテンダントに「どうやって食べるの?ヨーグルトはないの?」と聞いたら、すぐに持ってきた。私は「あの男は態度が悪い」と言ったが謝りもしなかった。微笑みの国、タイらしくないと思った。

 後で分かったのだが、○○は米のことであった。それをもらったら、塩味のおかゆのようなものにエンドウが4つほどと小エビがのっていた。おかずはないのでオムレツの方がよかったと後悔した。

 飛行機はバンコクからタイの往復は、いずれもA380-800というエアバスで、2階だてでエコノミーは507席もある豪華な飛行機だ。各座席にはモニターが付いていてタッチパネルで音楽、テレビ、映画、情報などを選べるのだ。

http://www.thaiair.co.jp/special/a380/

 このモニターシステムは便利ではあるが、食事が終わると機内を暗くしてしまうので乗客は自分の世界に入ってしまい、他との交流ができない。以前は隣の席の見知らぬ外国人と話ができてよかったのだが、そういう楽しみがなくなってしまったのは残念である。

 パリからの便に高校生の一団が乗っていて英語をしゃべっていたので聞いてみたら、オーストラリアの高校生でからパリへ修学旅行に行ってきたのだと言った。いろいろ話したかったが、友達とゲームに夢中なのでやめた。

 日本からバンコクへは機内に読売新聞とスポーツ新聞があった。パリからはウオールストリートジャーナルがあった。それで日本では8日の月曜日に急激に円安が進み、株が急上昇したことを知った。日本を出るとき1ユーロ123円だったのが、130円近くになっていた。

 バンコクからパリへ行くとき、食事を用意するところの前の席に空席があったので食事が終わったら移ろうと思っていたら、フランス人に先を越されてしまった。帰りにも同じように空いていたので今度は早めにその席に移った。Oさんに「こっちが本宅であっちは別宅」と言ったら笑っていた。寝るときは本宅に戻って横になることができた。同じ列のNさんも横になっていた。

 

 

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2013年4月14日 (日)

やっと行ったフランス旅行①―出発前まで

 2年4か月前にオーストラリアの知り合いを尋ねて以来、海外旅行には行ってなかった。この間円高で海外旅行にはうってつけであったが行けなかった。妻が海外旅行は疲れるから行かないと言うので、一人で行くのをためらっていたのだ。おひとり様5万円という追加料金もネックであった。

 長い間フランスに行きたいと思っていたが実現できなかった。2月のある日、阪急トラピックスから「先行発表!!超!お得!観光シーズンに行くヨーロッパ旅行」というダイレクトメールが来た。それに「フランス8日間」というのが載っていた。燃料サーチャージ込みで209,800円~299,800円であった。

 パンフレットによると、このツアーの売りは、世界遺産のモンサンミシェル、ヴエルサイユ宮、ノートルダムシャルトル大聖堂、セーヌ河岸で、その他には、モネーやゴッホにゆかりの地、フランスで一番美しい村、ジャンヌダルクゆかりの地、ルーブル博物館などであった。最終日はフリータイムとなっていた。

 一番安い料金は4月4日からの旅行であった。予定を調べてみると、日本語教室は春休みであった。それで申込日の午前10時10分の受付開始時刻を狙って電話をした。それはきっと申し込みが多いだろうと予想したからであった。

 ところがこの予想は見事にはずれた。出発当日の朝空港に行ったら、参加者はたった9名であったのだ。

 旅行までに前立腺生検やその後遺症があり心配したが、体調は戻り、風邪を引くこともなく当日を迎えることができた。

 旅行の2日前に、添乗員から電話があり、ガイドブックを持っていくとよいとアドバイスを受けた。それまでフランスについて何も調べていなかったので、急きょ図書館へ行っらその日は休館日だった。次の日に図書館でガイドブックを1冊と旅行中に読む本を1冊借りた。

 あんなに行きたかったフランスなのに、なぜか少しも気分が高まらなかった。ガイドブックも機内で読めばいいとちらっとみただけであった。

 出発日は、4月4日の15時20分集合なので、前日の夜と当日の午前中に旅行の準備をした。ユーロは円高が進み始めたときに130円で買ってあった。(それが一時は100円を割ったのであった)出発日は123円になっていた。

 持ち物には、手軽なマジックを20余り用意した。機会があれば見せるためだった。後は毎日の着替えであった。それでもスーツケースに入れて行った。大は小を兼ねるからだし、ツアーだから運んでもらえるからだ。カメラには16GのSDカードを入れて充電器も持って行った。

 中部空港には集合時刻の30分前に着いたが、受付に添乗員がいて受け付けてくれた。しばらく空港内の店を見て集合場所に行った。そして参加者がたった9名であることを知り驚いたのだ。

 でも、高齢者ばかりだと思っていたら高齢者は自分以外にご夫婦2人で、20歳代の姉弟、女性の親子、中年のカップルだった。

 ○ワールドカップの行われたサッカー場

  

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○パリ市内の渋滞

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2013年4月13日 (土)

スーパー・プレゼンテーション「The magic washing machine」

 NHK、Eテレで毎週月曜日に放送されるす「スーパー・プレゼンテーション」は、素晴らしいプレゼンテーションを聞け、ホッとな話題に触れることができるので大好きな番組である。

 4月1日は、スエーデェンの学者、ハンス・ロスリングの「The magic washing machine」であった。

 彼は、いつも独特の小道具やグラフの使い方をし、ユニークな視点で語るので大変人気のあるプレゼンテーターである。

 今回は、洗濯機(washing machine)を指標にして、世界のfairnessについて話した。

 先ず、現在の世界の人口が70億人であることをもとにして、3つの層に分けた。

①飛行機で移動できる裕福な層が10億人

②電気を使える層が40億人

③火を起こしたり手で洗濯をする貧困層が20億人

  ③の貧困層の一日の生活費は2$以下だという。それに対して、①の豊かな層は80$以上、②の層は一日40$~80$だという。

 そこで彼は、もう1つの指標を持ち出す。それが「洗濯機」である。洗濯機を持っている人は20億人に過ぎないそうだ。私はもっとたくさんいると思っていたので驚いた。

 残りの50億の人たちは、手洗いで洗濯をしているというのだ。私の母は選択板を使ってたらいで洗濯をしていたがそのレベルなのだ。戦前の日本は電気はあったが手洗いをしていたのだ。それは洗濯機が普及し始めるまで続いた。

 ハンスはいう。2050年にはそれぞれの層が一段上の層に移る。それは発展途上国で経済発展が起きるからだ。

 そうするとどうなるか。地球上のエネルギーの消費量は、今の1.8倍になるという。しかし、それでも洗濯機のない人は40億にもなるというのだ。その頃は世界の人口は70億より増えているはずだ。

 ハンス・ロスリングのこの切り口が大変興味深い。洗濯機と言えば、最初の頃は洗濯桶の中に洗濯物を入れて洗い、ゴムのプレス機で絞っていた。それが今では業務用と同じ回転式の自動洗濯機である。

 洗濯機の普及によって主婦はかなり家事労働が楽になり、できた時間を他のことに充てることができるようになった。

 しかし、地球上には洗濯の水を汲みに何キロもの道を往復する女性もいるのだ。それにしても、50億の人は手洗いというのは何という不公平であろう。

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2013年4月12日 (金)

やはり、早寝早起きが健康に一番よい

 昔から「早寝・早起きは三文の得」と言い、英語の諺にも、An early bird cachies worms. というのがあるように、洋の東西を問わず、早寝早起きは健康の元と考えられてきた。

 照明が今のように発達しない江戸時代末までは、暗くなったら寝て、夜が明ければ動き出すという生活をする人が多かったに違いない。特に農村では自然にそうなったであろうと想像される。

 現代は真逆である。照明がこれでもかというほど発達し、LEDランプのように明るくてエコな照明までできた。都会は不夜城であり、飛行機から見ると日本の都会は非常にきれいである。

 それほど電力を使いながら、原発事故の後、電気を節約しようとやかましいが、不夜城は相変わらずである。また、テレビも夜通し放送をして電力を消費している。

 私は、退職後は生活のリズムをがらりとかえて、早寝・早起きを習慣とするようにした。いつの間にかそれに馴れ、今では8時半ごろになると眠くなり床に入る。その代り朝は早く、4時過ぎると眼が覚めて起きだす。

 近藤誠医師の「医者に殺されない47の心得」にも、第34番の心得として、早寝・早起きを勧めている。

 「間違いなく健康になる生活習慣を1つあげるとしたら、『早寝・早起き』をお勧めします」(P.171)と書いている。

 「早寝・早起きの医学的な効用は、まず、朝日を浴びることで、自律神経の働きが活発化し、体内時計がリセットされること。自律神経は、消化器、血管系、内分泌腺、生殖器などの生命活動のライフラインを支えていますから、これはとても大切です」(P.172)

 さらに体温の変化から言っても、体温が低い朝に起き、下がり始める夜に寝ることは、自律神経だけでなく、免疫、ホルモンなどの身体の全ての機能を最も無理なくはたらかせるという。

 そして、「全身の細胞の新陳代謝を促す成長ホルモンなどの各種ホルモンは、睡眠中、とりわけ24時前後によく分泌されます」(P.173)という。

 こうしたことは、近藤氏だけでなく、他の医師も書いていることである。やはり早寝・早起きはいいと言えよう。

 

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2013年4月11日 (木)

私の腰痛克服法

 24日の朝日新聞朝刊一面のトップ記事は「腰痛の人が2800万人」というものであった。記事の一部は下に引用しておく。

 私は30代の頃から1年に何回かギックリ腰となり、その度に加藤整形外科へ行ったのであった。退職後も行っていたが、この先生が亡くなられてから山路整形外科にかわった。70歳の頃だったと思うのだが、レントゲンを撮ったら「脊椎管狭窄」があると言われた。

 病院では、ウオーターベッドでマッサージをし、患部を温め、電気で刺激をした。薬を貰い、シップをした。1週間か10日ぐらい通うと快復した。

 毎年3回ぐらい病院に通っていたのだが、1年余り前にふと思いついて自分流のストレッチをすることにした。すると、腰痛にならなくなり、以来病院には行っていない。

 自分流ストレッチは、次のような簡単なものである。

①両手を上げてしっかりと伸ばす。両掌向かい合いで10秒、両掌内向きで10秒、両掌前向きで10秒、両掌後ろ向きで10秒。それを3回繰り返す。このストレッチが一番大事だと考えている。

②首をゆっくり2回ずつ回す。左右やる。

③腕を肩の高さにあげて体側をひねる。10秒ずつ左右各2回ずつ。

④体側を曲げる。10秒ずつ左右各2回。

⑤前屈10秒2回。(前屈は指の先が床上30cmであったが、昨日VITAの野村先生に教えて頂いて10cmまで曲がるようになった。それまでできなかったのは背中を曲げていたのが原因であった。大腿の付け根(鼠蹊部)を曲げるようにすると簡単に曲がるようになった。)

⑥片手を上、他の手を下にして頭を下げて体をひねる。10秒ずつ左右各2回。

⑦両手を広げて肩の高さに上げ、胸を開き、肩甲骨を閉じる。10秒ずつ2回。

⑧腕を肩の高さにして左右動かす肩甲骨の運動。前に10回、後ろに10回。(肩甲骨を動かすと肩こりがなくなるという)

⑨広瀬香美さんが勧めていたスクワット。10秒ずつ6回。(ポイントは体が垂直にお尻をやや後ろへひく。お尻の穴を閉じる。このスクワットは発声のためにもよいという)

朝日新聞の記事から

【辻外記子】腰痛の人は全国に推定で2800万人いることが、厚生労働省研究班の調査でわかった。40~60代の約4割が悩んでいた。関係学会は、一般的な治療法ごとにお勧め度をまとめた。原因不明の腰痛では、安静よりも運動が効果的で、1カ月以上続く痛みにはマッサージの効果ははっきりしなかった。ストレスなど心理的な影響も腰痛の引き金になると認定した。

 厚労省研究班(主任研究者=吉村典子・東大病院特任准教授)は東京や新潟、広島など全国8カ所の住民約1万2千人分のデータを分析した。医師による問診などで、「腰に痛みがある」「1カ月以内に1日以上痛みがあった」人の割合は、60代が4割強でピークだった。40代、50代も4割前後で、70代以上は下がる傾向があった。男女比は4対6だった。

 痛み止め、温熱、マッサージ、腰の牽引(けんいん)……。様々な腰痛の治療法、どれが本当に効くのか。日本整形外科学会と日本腰痛学会は、一般的な治療法の信頼度を診療指針にまとめた。白土修・福島県立医科大教授(会津医療センター準備室)らが、国内外の約200の論文を分析した。

 腰痛は、背骨のがんや、腰椎(ようつい)骨折、椎間板(ついかんばん)ヘルニア、脊柱管狭窄(せきちゅうかんきょうさく)症などでも起こる。こうした病気が疑われれば、すぐに画像検査をして、もとの病気を治す必要があるという。

図:主な腰痛治療法のお勧め度

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2013年4月10日 (水)

「うをとよ」に掛けてあったコトバ

 「うをとよ」の店に、写真のような「幸せ八変化」という額が掲げてあった。このような言葉を考える人がいることに感心した。

 自分が変われば相手が変わる

 相手が変われば心が変わる

 心が変われば言葉が変わる

 言葉が変われば態度が変わる

 態度が変われば習慣が変わる

 習慣が変われば運が変わる

 運が変われば人生が変わる

 今幸せな人はそのままでいいです

 署名がないので誰の言葉か分からないが、うまく考えてある。社会や人との付き合いの中で参考になる。

 

 

 

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2013年4月 9日 (火)

昼ご飯が一番豪華。杉浦日向子の「江戸塾」から

 江戸時代は中期までは一日二食だったようだ。三食食べるようになったのは中期以後だという。

 三食では、昼は冷や飯、夜は茶漬けといった感じであった。腹が減った時が食べ時で、人により家により違っていたようだ。私は、この8年ぐらいは一日二食で、ブランチと夕食を摂っている。

 朝ごはんを食べなければ駄目だという人もいれば、逆に朝ごはんは必要ないという人もいる。一日二食だが、慣れればどうということはない。ダイエットにも健康にもいいように感じる。

 江戸時代は、昼食が一番豪華であったそうだ。冷や飯だが焼き魚が付いたのだという。また、午前中で仕事が終わる河岸の衆などは酒もつけて2時間ぐらいかけて食べたそうだ。夜はお茶漬けさらさらで、足りないところは夜食で補った。

 当時の人は、一5合が基準で、二食のときは2合5勺を2回食べた。だからどこの家にも2合5勺の枡があった。それで一人前でない人間を「この一合野郎」と罵ったのだという。面白い言い方である。

 ところで戦時中や戦後の食糧難の頃、1人分の米は2合5勺と言っていたと記憶する。江戸っ子の半分である。それでも2合5勺が配給されればよいのだがそうはいかないことが多かった。

 味噌汁は「御御御付け」と言って朝ごはんのときだけで、具は2種類以上ということになっていたそうだ。御の字が3つつくくらい大切なものであったという。私が子どものころは我が家では味噌汁と言わずに、「御御御付け」と言っていた。子ども心に御が3つも付くなんてどうしてだろうと不思議に思ったものである。今は御御御付けは使わない。

 味噌汁の出しを取るのは上方ではやっていたが、江戸では明治になってからだという。どうしたかというと、味噌にねぎと出し数種が練り込んだ玉状のものがあって、それを溶かして使ったのだそうだ。

 おかずは惣菜屋で買ってきたのだという。1人分から4人分など買いやすい物にしてあった。値段も手ごろであった。四文屋という何でも4文という煮売り屋もあった。

 江戸では自分の家で煮炊きをすることは少なかった。包丁のない家も多く手でぶっちぎっていたのだという。その上江戸では単身者が多かったのでこういうコンビニみたいなのがあったのである。

 最近はスーパーなどで、骨抜きで味付け済みの魚とか惣菜もたくさん売っている。自分で調理をしない若い人が増えたのだと思う。

 現代は調理器具、調理法も発達しているので家庭で料理をするのが一番だと思うのだが。私は「家食い」「家飲み」派である。幸い妻が手料理を作ってくれるので大変有難い。味噌汁でも、インスタント物はどうも味気ない。やはり手作りのものに限る。

 

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2013年4月 8日 (月)

「ご飯とめし」はどうちがう?杉浦日向子の「江戸塾」から

 BOOK OFFで、杉浦日向子の「江戸塾」という文庫本を見つけた。面白そうなので買ってきた。宮部みゆき、北方謙三、山崎洋子、田中優子、石川英輔の面々との対談集である。

 その中で、杉浦日向子は、江戸時代についての該博な知識を披露している。私が知らないことが殆どなので大変興味深く読んだ。

 杉浦は江戸時代についていろいろな文献を何度も読んだと言っている。彼女は以前NHKの「お江戸でござる」にレギュラーとして出演していたが、その当時から江戸についてよく知っている人だと感心していた。若くして亡くなったのは大変惜しまれる。

 冒頭は「ご飯と飯(めし)はどう違う」だ。私などは子どもの頃から、丁寧な言い方が「ご飯」でぶっきらぼうな言い方が「飯」だと思っていた。映画などで「おい、飯」と茶碗を突き出すシーンは大抵労働者とか庶民であった。

 昔は「一膳飯屋」という大衆食堂があって、肉体労働者などが利用していた。子どもの頃大きな弁当箱に米の飯をてんこ盛りにして梅干しで食べている土方を目にしていたが、「飯」がふさわしいと思った。

 この本によると、炊き立ての銀シャリだけがご飯で、それ以外はすべて飯だそうだ。昔は今と違ってお櫃があってご飯をお櫃にいれていた。昼も夜も食べるのだが「ご飯」と言ってた。夕方遊んでいると、「ご飯だよ」と呼ばれたものだ。

 しかし、冷えたものは全て「飯」に降格なのだそうだ。また、マツタケのような高級な具が入っていても、みんな「飯」なのだという。でも、現在は「マツタケめし」とは言わず、「マツタケごはん」と言っている。寿司は今でも「すし飯」だ。「すしごはん」とは言わない。

 江戸っ子は毎日銀シャリを食べていたというのだから驚いた。当時米を作る農村では米を食べるのは1年に何回あったろう。ハレの日の食べ物であった。それを毎日食していたとは。

 江戸には米を搗く春米屋(つきごめや)があったのだそうだ。白米を食べていたので江戸っ子には脚気が多かったという。江戸病みとか江戸患いといったのだそうだ。

 江戸の水は鉄分などを含んでいて紅茶色だったという。それを煮沸したり、濾過をして使っていたのだ。濾過をするのが大変だったから甕単位で水を買って使っていたのだという。江戸の生活も大変だったようだ。

 ところでご飯は七輪を使い回しして炊いていたという。こういうところにも今では考えられない近所とのつながりがあったことが分かる。

 

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2013年4月 7日 (日)

「血糖値を薬で下げるのは無意味、副作用が多いだけ」という

 近藤誠医師の「医者に殺されない47の心得」は、広告によると50万部を突破して今年第一位の売れ行きだという。

 その第5の心得が、見出しの「血糖値を薬で下げるのは無意味、副作用が多いだけ」である。(P.58)

 同書によると、日本には糖尿病予備軍が2000万人という言葉をよく耳にするという。予備軍がどのぐらいいるのかは知らないが、糖尿病に罹っている人は私の周囲にもたくさんいる。結構多い病気である。

 私の研究仲間のG君は、退職後3年で亡くなってしまった。彼は糖尿病によいと聞けば私が紹介した四国までも行ったほどであったが、いろいろ手を尽くしても駄目であった。

 私も血糖値が高い時期があった。高脂血症とも診断された。一時は薬を貰って飲んだが、一大決心をして薬をやめた。そして、食事とウオーキングを中心にして改善をし、現在は正常値を保っている。

 「日本人の糖尿病の95%は、インスリンの分泌障害が多くみられる「2型糖尿病」で、痩せていてもなることが分かっている。」

 「ストレス、アルコール、甘い物で直接糖尿病になるという実証はなく、謎の多い病気である」(P.39)

 イギリスでの2型糖尿病患者での10年にわたる大調査実験を紹介している。結論として、血糖値降下剤を用いた群が低血糖による発作が食事療法群の3倍になったという。 

 血糖降下剤は、合併症の予防や延命には何の効果もなく、副作用だけが大きいという。服用していて、「いつもだるい」「イライラしてキレやすい」「足元がふらつく」「認知症が出てきた」などの症状があったら、薬害を疑うようにと言っている。(P.41)

 糖尿病予備軍2000万人はオーバーで、1999年に日本糖尿病学会が基準値を根拠なく、140から126に変更したことが影響しているという。

 「血糖値は、『歩く、自転車、ストレッチ、水泳』などの有酸素運動(エアロビクス)を心がけると下がる人が多いことが、運動療法のデータから分かっている」(P.41)

 私もウオーキング、自転車、ストレッチをしている。酒は毎日飲み、甘い物には目がないが以前高かった血糖値は正常を保っている。

 

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2013年4月 6日 (土)

アベノミクスの成長戦略の柱は「原発再稼働」だ

 29日に開かれた、安倍政権の「成長戦略」を話し合う産業競争力会議で、企業経営者や民間議員が「原発を早期に再稼働させるべきだ」とする提言をまとめた。

 産業界は原発の再稼働を強く求めている。その意向に沿った形になったのだが、もともと会議を構成する人たちから、原発反対派を少なくしての会議だから、初めから結論ありきなのだ。

 中には、電力の発送電分離によって電気代を安くできるという意見もあったというが電力会社の顔を立てた形となった。

 福島第一原発事故の後、国民は原発が安全でないことに気が付いた。一般の国民はもう一度原発事故が起きれば、日本は壊滅するという危機感を持っている。それはごく自然なことなのだ。

 それなのに政府は、成長戦略の柱に原発再稼働を据えようというのだ。そればかりかベトナムなどへ原発プラントの輸出をしているのだ。

 一部週刊誌は、首都圏直下型大地震の脅威を煽っている。しかし、それをあながちありえないとは言えないのだ。日本は大地殻変動期に来ているという週刊誌もある。

 地震は起きてからでないと分からないのだ。そして起きてからでは手遅れだということは東日本大震災で証明された。それなのにまだ原発再稼働を第一にするというアベノミクスの危険性を考えるべきである。

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2013年4月 5日 (金)

維新の会の恐るべき憲法観

 日本維新の会が初めての党大会で「憲法改正」を前面に打ち出した。橋下共同代表は改憲勢力の2/3確保を最優先にした。

 憲法については、石原共同代表の考えを取り入れた。石原氏は、「米国の妾みたいな形で日本を安住させた憲法をぶっ壊す。自分の国を自分で守る。じっとしていれば平和が維持される幻想を日本人に強いている憲法9条を考え直す」と述べた。

 橋下氏は、それに呼応して、「諸国民の信義と公正を信頼するだけで、安全と生存を保持できるなんてあり得ない。ここが元凶だ」と述べた。

 石原氏がいう「米国の妾」になったのは、現行憲法が原因であろうか。そうではあるまい。安倍首相の祖父の岸信介元首相が米国と結んだ日米安全保障条約」こそが元凶である。

 この条約によって、沖縄の基地化が固定し、巨額の費用を負担しながら、アメリカの核の傘に入ることになったのだ。妾状態を維持してきたのは、長く続いた自民党政権であった。

 石原氏も、橋下氏も、安倍首相も現行憲法を改悪して、自衛隊を軍隊として位置付けて、いつでも交戦できるようにするという点で一致している。だから次の参議院選で2/3を確保することを至上命題としているのだ。

 私は、諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持する」とした、憲法前文を立派なものだと誇りに思う。

 また、自ら戦争を放棄して、世界の平和に寄与するという憲法の理想は尊いものである。こうした優れた憲法を改悪しすることは子子孫孫に恥るべき行為である。憲法は守り抜かなければならないと思うのだ。

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2013年4月 4日 (木)

安倍首相の靖国参拝は参院選後という報道

 安倍首相は、「前回の首相在任中に靖国を参拝できなかったことは痛恨の極み」と昨年9月の自民党総裁選で述べた。そして、党総裁として10月の秋季大例祭では、首相就任後の参拝の可能性を示唆した。

 4月の21日からの春季例大祭には供え物、「真榊」を奉納するという。肩書は、「内閣総理大臣」だが、「私費」だと菅官房長官が述べた。

 「私費」と言いながら、内閣総理大臣の肩書を用いるというのは誤魔化しである。自衛隊は軍隊ではないという類の詭弁だ。

 私費だというが総理大臣には巨額の「機密費」があるから幾らでも誤魔化せるのだ。機密費は受け取りが要らないし、使途も秘密である。

 靖国参拝は、参議院選後の時期を探るというが、参議院選前に参拝すると中国や韓国から抗議をされて選挙に影響するのを恐れてのことである。

 やましいところがないのなら、正々堂々と参拝をすればよいのである。中国・韓国や国民の目を恐れるなど安倍さんらしくないぞ。

 

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2013年4月 3日 (水)

祖父母が孫に1500万円贈与できるというが

 4月から、祖父母が孫に教育資金をまとめて贈る場合、1500万円までは贈与税を掛けない制度が始まった。

 信託銀行などに専用口座を作って入金しておき、必要な時に引き出す。引き出すときには教育資金かどうかが分かるように領収書などを銀行に示すのだという。

 原則として、幼稚園、保育園、小中高大の学校の費用だが、修学旅行、遠足などの費用にも使える。その他に、学習塾やピアノなどの習い事も500万円まではOKだ。

 まことに結構づくめの有難い制度であるが、「待てよ」と言いたい。1500万円という大金を「ハイ」と孫にやれるような金持ちは一体日本にどのぐらいいるのであろうか。

 高齢者は金を持っていると言われるが、それは若者や働き盛りの人たちに比べてである。それでも高齢者の貧困層は増えているし、生活保護の受給者も増加している。また、アルバイトや派遣などで高齢になっても働かなければならない人も多くいる。

 では、年金生活者はというと、殆どの人は多くても22万円以下の年金で、16万円ぐらいとの人も多いのだ。中には国民年金ほども年金がない人もいる。

 安倍首相と自民党が衆議院選後に真っ先に打ち出したのが、孫への1500万円贈与であった。しかし、それは富裕層優遇以外の何物でもないのだ。

 一方で生活保護費の切り下げをして、貧困層はますます追い詰められている。また、アベノミクスによって、電気料金やパンなどの値上がりで更に生活が苦しいのだ。

 小泉元首相の時、正規社員が激減し、フリーターや派遣が増え、働く人たちの格差が広がった。それで自民党を見限ったのであった。そのことを思い出すべきである。

 自民党・公明党に戻っても以前より悪くなるだけなのだ。

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2013年4月 2日 (火)

2年後に物価4%上昇は困る

 3月31日の朝日新聞1面トップ記事は、「2年後物価4%上昇」であった。アベノミクスで安倍首相が打ち出した物価上昇目標2%、それに消費税の8%増税で物価は%もあがるというのである。

 物価上昇でデフレをインフレに転換するということで、安倍首相は日銀総裁に首相の意向に沿った黒田東彦氏を充てた。黒田総裁は、消費税増税と物価を2%上げることは別だと言って、2年後には必ず達成すると宣言した。

 デフレが続いて消費や企業に元気がないので、物価を上げて、企業が儲かるようにするのが狙いだという。

 日銀の試算では、消費税が10%になる4年後には物価は現在より10%近く上がることになるという。

 デフレで消費が低迷というが、本当にそうであろうか?私は年金生活だが、生活に必需の食糧や衣類はぎりぎり賄っている。年金はこの数年間で減少する一方だが何とか生活している。これはデフレのお蔭だ。

 この10年間で企業は人件費を削減し、平均給与は10%減ったと新聞は伝える。物価が上昇し企業が儲かれば、それなりに給与に反映して消費も上向くと期待されている。しかし、物価上昇に給料上昇が追いつくとは限らないのだ。

 この10年間で給料が減り続けたのに、企業は内部留保を積み上げているのだ。だから給料が上がる保証はどこにもないのである。

 正社員が1/3になり、非正規社員が増え雇用の不安定な状況が続き、貧困層が増えている。物価の上昇の打撃を真っ先に蒙るのはそうした低所得層、貧困層である。

 2年後、4年後の生活を想像しただけで、息ぐるしくなるのは私だけではあるまい。きっと若い人たちも希望が見えないに違いない。

 アベノミクスは、大企業や富裕層にだけ恩恵をもたらすのだ。日本はアメリカのように、ますます貧富の差が開いて行くであろう。

 

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2013年4月 1日 (月)

魚屋だけに「うをとよ」の新鮮なさしみ定食

 地下鉄鶴舞線荒畑駅のすぐ近く、旧郡道を南に入ったところに「うをとよ」という魚屋がある。その隣が同店経営の和食堂だ。

 何年か前に名古屋華マジカルグループのOさんから、「うをとよは魚がいいよ」と聞いたことがあった。また、昭和男爵コーラスの人からも同じようなことを聞いた。

 一度行ってみたいと思っていたがなかなか行けずにいた。先日息子がその店で友達と食事をしたと話した。聞いてみると、「うをとよ」の息子と中学の同級生で、その日は同級生たちで行ったのだという。

 「一度連れて行ってくれないか」と言ったら、それではということで、28日に行ったのである。

 自転車で出かけた。御器所交差点の一つ南のスギ薬局がある交差点から西に真っ直ぐ走って、郡道の信号に出た。見ると「うをとよ」の看板が出ていた。我が家から10分ほどの距離であった。

 店に入ると、年配の婦人が3人喋っていた。後で分かったのだが、一人は店のおかみさんで、二人は常連の客であった。

 私はメニューをみて、さしみ定食(1600円)を注文した。息子はその日、大将がウナギのいいのが入っていると言ったのでウナギ丼を注文した。

 酒はどんなのがあるか聞いたら、「ねのひ」だけだという。たっ1種類しか置いてないなんて珍しい店だ。

 おかみさんが1合かと聞くので、2合徳利を貰うと言ったら、「あまり飲まないほうがいいよ」と言った。飲んだら甘口のねのひであった。

 さしみは、大きく切ったマグロ2切れ、赤貝2個、ヒラメの縁側2切れ、白身のさしみ2切れなどが皿に盛ってあった。他に突出しに小魚の佃煮が出たが、自家製だと言った。

 野菜のサラダのようなものや出し巻、里芋などの煮物もあった。面白いのはふかした甘いサツマイモが一切れあったことだ。イチゴも一個ついていた。

 さしみは当然ながら新鮮で、ワサビもおいしいのが付いていた。聞くとよいワサビを使っているのだと言った。

 おかみさんの話では、材料はみな吟味をして、添加物は一切使っていないと言っていた。ごはんもおいしい米でたっぷりとあった。

 圧巻は、アサリの味噌汁で、大きな身がはちきれんばかりのアサリがたくさん入ったおいしいものであった。おかみさんは自家製のつけものも出してくれた。

 食事を終わった女性が、息子の生年月日を聞いてきた。何やら占いをするらしかった。私は「占いなんか信じちゃだめだよ」と言った。

 その女性は、息子に「あんたは金を持てない。金が入るとすぐに使ってしまう」と言った。それを聞いて私はびっくりした。ズバリ当たっているのだ。親と一緒にいるお蔭でずいぶん助かっているとも言った。それも全くその通りである。他にも大腸が弱いと言ったがそれも当たっていた。

 私は、これまでに子どものとき、大人になってからと、2度出世すると言われたことがあるが、当たらなかったと言った。おかみさんは、「健康が一番の出世よ」とうまいことを言った。確かに健康が一番大事である。健康年齢を更新しているのだからいいかと思った。

 生年月日で占う女性は、それが趣味らしくて、おかみさんの話によると、お金は取っていないそうだ。だれかれとなく占って喜ばれているらしい。

 私はこの30年いい状態だと言われた。金には恵まれないが、いいときに退職したし、退職後は気ままに暮らしているし、子どもの気苦労はあるが何となく切り抜けてきたからいいと言えるのであろう。

 他には客がなかったので「うをとよ」のおかみさんとずっと話をしながら酒を飲んだ。閉店間際の8時近くに客が2組入って来た。「水商売だね」と言ったらそうだと言った。また、行ってみようと思った。

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