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2013年2月28日 (木)

勤めていた頃に書いた「罰考」―③―

 次に、精神的な苦痛を与えることについて書きます。これもいろいろなやり方があります。ほっぺたに墨やマジックペンでしるしを書くとか、首から看板を下げさせるというのはよく行われていました。

 子どもの楽しみを奪うのは効き目があるのでよく行われます。例えば、体育の授業を受けさせないというのは効き目があります。でも、子どもの好きでない科目では逆効果です。ある先生は、ことあるごとに子どもに顔を洗わせ、くどくどとお説教をしていました。それは効き目があるようで、その先生が担任したクラスは、その日のうちに子どもたちがしゅんとなってしまったものでした。

 特別な宿題をいっぱいやらせるとか、居残り勉強をさせるとかいうのもよくやられます。ただ、ある時間にやり残した課題を残ってやらせることは、これは当然のことで罰とは切り離して考えなければならないと思います。そうでなければ仕事の遅い子はほったらかしにするよりほかありません。

 勤め始めたばかりのころ、忘れ物をしたこどもの対策として取りに帰らせるのが一番だと言われていました。教頭や校長もそう言っていました。しかし、交通状況の悪い都会では事故が起きると大変ですがら行われなくなりました。

 説教をくどくどと長くするのは精神的な打撃を与えることになるでしょう。授業を受けさせないというのは学習権の侵害になりますからできません。給食を食べさせないというのも給食費を払っているのですから駄目です。

 体罰や精神的罰もいけないとなると罰というのはやれないことになります。罰がないと子どもたちは言うことをきかないのは目に見えています。大声で怒鳴ると一瞬子どもたちは静かになります。それは怒鳴り声の背後に何か罰をするかもしれないということを感じるからにほかなりません。

 ところで、罰がないことによって、子どもたちが自分勝手な行動をするなら、いっそのこと罰を与えていうことを聞かせた方がよいという考えも成り立ちます。私自身絶えずその考えて葛藤してきました。子どもたちに罰を与えてでもやるべきことはきちんとやらせる方が教育的なのではないか?いつも自問自答しながら、やれるところまでやってみようと挑戦してきたのです。

 私は、罰をしないと決めてそれを実践してきました。これまで最高のクラスは先生がいてもいなくても決まりよくやれるクラスでした。そういうクラスにはよいリーダーがいました。

 私は清掃の時間は必ず子どもたちと一緒にやりました。授業では子どもたちの発言の内容を瞬時に見分けて褒めたり取り上げたりしました。

 計算や漢字を覚えることは全員ができるようにしました。一輪車や3年生で習うリコーダーは1年の間で全員ができるようにしました。そうすることで子どもたちは自信を持てるようになるのです。

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コメント

 体罰が問題になるのは、部活動とか相撲や柔道のように選手養成をするなどの指導の場面です。教育や指導で問題にされるのです。

体罰の是非の問題も、要は組織なり集団の生産性(成果)を高めるためにリーダーはどのようにリーダーシップを発揮するかという議論になってくると
思います。会社にいる時はよく研修でリーダーシップ論を勉強させられました。その中で特に印象に残っていることは、万能のリーダーシップ理論はない。組織の長は状況対応のリーダーシップを指向すべきという考え方でした。簡単に言えば「人をみて
法を説け」ということです。民主的な自主性尊重でうまくいく集団もあれば、時には鉄拳制裁も辞さないという覚悟で臨まないといけない集団もあるはずです。しかしながら状況に応じてリーダーシップの
かたちを変えるのは言うは易く行うは難しでワンパターンのリーダーシップ論が横行しました。

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