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2013年2月27日 (水)

勤めている頃に書いた「罰考」―②―

 「体罰はいけない」は学校教育法にも明記されているとおりですが、どの範囲を体罰というのかは論の分かれるところだと思います。例えば、立たせる場合、教室の外ではいけないが、中ならある程度はよいと言われています。

 ある程度とはどの程度なのかはあいまいですが、「苦痛を与えない程度」だそうです。しかし、これもあいまいな話で、苦痛というのはかなり主観的な側面がありますから、その程度を「時間にして何分まで」というように決めることは不可能です。第一、苦痛を伴わないのでは罰にはなりません。

 走らせることはどうかというと、心肺機能を発達させるとか、脳を刺激するなどの効果がありますから、一概にいけないとはいえないようにも思われます。正座でもそうです。脳を刺激して姿勢をよくします。とすれば悪いとは言えないようにも思われます。

 もっとも今の子は正座をしたことがありませんから、数分でもダウンするかも知れません。とすれば、体罰ということになるのでしょうか。

 頭をこつん、ほっぺたをきゅっ、などは体罰とは言えないように思えますが、人によっては体罰だと考えるでしょう。

 では、漢字を**回書くとか、計算を**問やるというのは体罰にならないかというと、これも程度問題だと思います。夜の12時までもかかってしまうというような出し方は問題があると思います。

 逆に、掃除をさぼったからもう一度やり直しをさせるというのは、体罰にも罰にもならないと思います。なぜなら、果たすべき仕事に責任を持たせるということになるからです。

 体罰は、やられた方は「いやだ」とか「痛い」とか感じますし、やった方にはなにがしかの溜飲を下げる働きが感じられますから、よく使われるのでしょう。実際子どもたちが言うことを聞かないときは、ぶん殴ってやりたい衝動にかられます。私も若いときには叩いたものでした。子どもの方は1回叩かれただけでも、それ以上に叩かれたと感じるのか、その頃の教え子たちは、「先生には良く叩かれた」などと言います。

 体罰はよいか悪いかと聞かれれば、私は、するべきではないと答えます。少なくとも今の自分は体罰を避けるべく努力をしています。これには相当の努力が必要です。頭がカリカリして、胃がきりきり痛む思いをします。安月給でこんな思いをして割にあわないなあと思うこともあります。

 それでもじっと我慢をして、体罰をしないようにしているのは、いつも言うように、人間として「言葉で分かる子になって欲しいからです。自分も弱いので、暴力は否定したいのです。お互いに暴力を用いることなく、言葉で話し合うことのできる人が増えることが大切だと考えます。それが安全で平和な世界を作る基だと思うからです。

                     ―つづく―

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