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2013年2月26日 (火)

勤めている頃に書いた「罰・考」

 昔、まだ勤めている頃、生徒や保護者を対象に書いた「罰・考」という、罰についての考えを述べた文章が出てきた。ちょうど時期に適っているので再録することにした。

 法則1. 罰は身体的または精神的な苦痛をともなわないと効果がない。

 これは鉄則だと思います。罰が効果をもつためには、なんらかの苦しみを与えなければ効き目がありません。

 そのために昔からよく行われてきたのが「体罰」です。

 「体罰」にはいろいろあります。

 ○叩く・・・・・頭、顔、尻、体、腕、手、足など。

 ○つねる・・・頬、腕、体、手、足、尻など。

 ○引っ張る・・髪、耳、手など。

 ○蹴飛ばす・・体、足、尻など。

 ○その他・・・立たせる、座らせる、走らせる、物を持たせる、作業させるなど。

 しかし、一口に叩くといっても、やり方や程度はさまざまです。戦争前は、叩くことは当たり前でした。「鉄拳制裁」とか、「精神注入棒」という言葉がありました。叩かれてコブができるくらいのことはふつうのことでした。先生がいくら叩いても、今のように文句をいう人はいませんでした。それどころか、叩く先生の方が厳しくてよい先生だと思われていました。

 小学校3年のとき、私の担任は男の宇井先生で大変こわがられていました。あだ名はおんチャボ、隣の組は女の宇井先生であだ名はめんチャボした。このめんチャボの先生が大変怖く、ことあるごとに教檀の前に並ばされて竹の根の棒で頭を叩かれていました。その光景を今も覚えています。

 私が教員になってからでも、親からは「どんどん叩いてやってください」とよく言われたものです。

 体罰、体罰とやかましくいうようになったのは、管理教育の弊害が言われ出した頃からのようで、まだ最近のように思います。(この文章は1988年のもの)

 いじめ、非行、登校拒否などが問題になりり始めた頃から体罰問題もクローズアップされてきました。しかし、子どもの扱いかたも同時に難しくなってきたように思います。なぜなら、子ども自体も以前に比べると複雑になってきているからです。そうした子どもをいったいどのようにして躾けたらよいのか、誰も正解をもっていないように思います。

                   ―つづく―

 

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教育・生涯学習」カテゴリの記事

コメント

 忠孝というのは最も強く求められた規範でした。その流れの中に上下関係もあったよ思います。そして暴力を振るうことおを是としたのでした。

「なんで人を殴るのか」と問えば、「態度が悪いからだ」と答える。
相手が服従の態度を示さないところが、気に入らないのであろう。
序列メンタリティに対する批判には鉄拳制裁で応ずる。
服従が足りない。当人は、やけっぱちになっている。

日本語には、階称 (言葉づかい) というものがある。
上と見るか、下と見るかの判断を迫る日本語を使えば、モノの上下に関する判断は常について回る。
この世俗的な上下感が日本人の判断を狂わせている。

理性 (理由・適当) 判断がないので、下とみられたものは、上からの暴力に抗することもむずかしい。
序列差法は礼儀作法の一環と考えられていて、無防備状態になっている。
上の者の声は、天から聞こえてくると感じられる。

「下におれ、下におれ」の掛け声は、昔から続いた為政者の要求である。
理屈はない。ただ、指導者の要求のみがある。
世俗の上下制度が唯一の頼りとなっている。
暴力は、「がんばって」の掛け声のようなものか。

序列に基づく精神力 (意気込み・気力) で、大東亜戦争に勝てるのか。
努力の空回りに気が付く時が来た。気力ではなく、知力 (intelligence) で負けた。
我々は、頭を鍛えなくてはならない。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/

 思い出しました。昔の便所はひどくて便所掃除の当番は一番いやでした。そういえば、便所掃除という罰もありましたね。

私の中学校時代も悪ガキの体罰?として、その頃はくみ取り式の便所だったのですが、彼らはそのくみ取りをさせられていました。臭い臭いと閉口していたようでした。その他の体罰も日常茶飯事で、今のように問題になることは皆無だったように思います。それだけ先生の権威も今日に比べ格段に高かったのかもしれません?犯罪者といっしょくたにしてはいけませんが、中東では今でも鞭打ちの刑と言うのが公認されているそうですし、死刑は究極の体罰とも言えます。だからと言って体罰を肯定するわけではありませんが、例外なく体罰は駄目となると現場での指導は大変だろうと思えたりします。

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