高齢者の誤嚥と誤嚥性肺炎と胃ろう
「平穏死という選択」には、高齢者がよく誤嚥を起こすこと、それが原因で誤嚥性肺炎になることがしばしばだという。医者は誤嚥性肺炎を治療すると、次は患者を消化器外科に回して胃ろうを付けさせるというのがお決まりのルートだと書いている。
しかし、著者の石飛医師はそのやり方に疑問を呈するのだ。「胃ろうの是非を考える」という項目では、高齢者が食べられなくなったら必ず胃ろうが必要か考えようと言っている。
高齢者に誤嚥性肺炎が多いのは、高齢になると身体の反射機能が低下し、気管の出入り口を蓋している喉頭蓋が飲みこむときにしまらなくなる。それで気管に入ってしまい誤嚥となる。それが原因で誤嚥性の肺炎をおこしてしまうのだ。
健康なときは異物が気管に入ってもむせて喀出できるが、高齢になって反射機能が低下するとそれもうまくいかなくなるのだ。特に認知症の場合は中枢機能の低下が伴うから余計に困難になる。(P.47)
私のコーラスグループにいた歯科医の伊藤さんは、誤嚥を予防するのに、舌を思い切り突き出したり、引っ込めたりすることをやるとよいと言っていた。これは歌を歌う場合も舌を柔らかくするので指揮者も勧めていた。それで私は風呂に入る度に実践している。それでもときどき誤嚥をすることがあるが。
この本に、芦花特別養護ホームでの実例が紹介されている。松永さんという人が奥さんの胃ろうを断って自分で食事の世話をするのことにしたのだ。
最初の日のことだ。彼は両手で奥さんの頬を優しく撫でて、ときどきぱちぱちと叩いて目をさまさせる。それから人差し指で奥さんの口の中をマッサージして、唇の周りの筋肉、頬の筋肉、舌の筋肉を優しく刺激する。この口腔マッサージには、唾液の分泌を促し、咀嚼、嚥下の動きをスムーズにする効果がある。
しばらくすると、奥さんは松永さんの指を吸いはじめる。そこで用意していたお茶ゼリーをスプーンで口に入れてあげる。奥さんの喉がうごいてゼリーが食道まで入っていったのだ。
このとき、後ろで一斉に拍手がわきあがった。見ていた看護師、介護士、管理栄養士、歯科衛生士など多くに職員がその様子を見ていたのだ。
医師が口から食べさせることは無理だと言っていたのに、本当に食べさせることができるのかとかたずをのんで見ていたのだ。みんなの目にうっすらと涙が浮かんでいたという。
松永さんは言う。「朝、無理に起こさない。目を覚まして、食べたがったら食べさせる。欲しがらなかったら無理には食べさせない。お腹が空いたら食べる。もし食べたくない日が続いて、それで最期を迎えるのであれば、それが寿命だ。」
芦花特養では、松永さんのそんな姿勢に学んで職員が変わったという。
奥さんはそれから1年半生きたそうだ。その間食べていたのは、1日平均ゼリー食2パック(約600キロカロリー)だけであったという。
亡くなるとき、食べなくなって、眠っている時間が多くなり、眠って眠って約10日後に永遠の眠りについた。
松永さんは、「食べたかったら食べさせる。それでいいんですよ。空腹は最高のスパイスですよ」と言っていたそうだ。
「生きる力があればお腹が空く。お腹が空けば食べる。それが本当に本人を尊重することなのだ」と石飛医師や職員は教わったと言っている。(P.47~48)
私はこれは大切なことだと思う。私の母も最後の頃を特別養護ホームで過ごしたからよく分かるが、自分で食べられなくなると介護士が手助けして食べさせる。介護士は責任上どうしても何とか食べさせようと忙しい中でも努力する。
自分の親ならもうこの辺でいいだろうと止めるかもしれないが、他人の場合は既定の量は食べさせたいと思うだろう。その判断が難しいところだ。
母は、誤嚥性肺炎にもならず、したがって胃ろうをつけることもなく亡くなった。その意味では幸せであったといえる。
松永さんの奥さんは、食べなくなって眠って、眠って亡くなったと書いてあるが、それが自然の摂理に従った死に方だと思う。
前にも書いたが私の養父はやはり自ら食べなくなって1週間静かに眠って亡くなった。大往生であった。養母の場合もそれに近い自然な亡くなり方であった。昔は自宅で終末を迎えたので自然死(平穏死)が可能であったのだと言える。
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コメント
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お元気ですね。自分の口で食べられるならそれで十分です。その内誤嚥か何かで病院の世話になったとき、胃瘻はもう必要ないお年ですね。最期は枯れるように穏やかにさせてあげるのがよいと思います。
投稿: らら | 2012年10月15日 (月) 16時50分
私の考えも入れて続きをまた紹介いたします。
投稿: らら | 2012年10月15日 (月) 16時47分
昨日義母のお世話になっている施設でお祭りがあり夫婦で満101歳の義母の様子を2時間付き添って見てきましたが、確かに自分の口でスプーンを持ってプリン状のジュースとケーキを一緒に食べてきまして思ったことは施設だからこそ長生きできているのだという事でした。家で夫婦で見られる期間は90歳ごろからの認知症発症から3年ぐらいでした。食べてもすぐ忘れてしまう状態の義母に怒ることが出来ず苦しんだ時期も施設で診てもらうことで夫婦間は上手くいくようになりました。昔の方の看病のありかたと今後の世代の看病のありかたとは大きな違いが出てくることでしょうね。
投稿: fumiko | 2012年10月15日 (月) 09時58分
本人が自然死や平穏死を望んだとしても、病院に入院したのでは、その希望はかなえられない。病院はあくまでも治療し、患者を生かし続けることが使命であるからだ。医師にとって死は敗北であるともいえる。特に死に瀕した患者へは健保でもかなり高額の治療を施しても認められるので、病院にとっては経営上も大変潤うのである。生物は十分な水分や栄養が自分で吸収できなくなると枯れて死滅するのである。これが自然の摂理であり、人間も同じである。点滴は患者に福音をもたらした素晴らしい治療方法であるが、反面人為的にいつまでも枯れない状況を作ってしまうことになる。この問題は医の倫理もからんで簡単には割り切れず、今後も広く議論されることが必要だと思う。
投稿: Toshi | 2012年10月15日 (月) 09時32分