旧日本陸軍登戸研究所②―知られざる戦争の秘部―いったい何が行われたのか
80年代中頃は、高校生たちと教師(の指導力は大きい)の協同による戦争体験や被爆体験の調査・聞き書き活動が盛んでした。この法政二高の渡辺先生と高校生たちの活動はその一つと考えられます。そういえば、松代大本営の発掘、保存、調査活動も同様のものではないでしょうか。
さて、登戸研究所。
特に、この研究所発掘に大きな証言をしてくださった伴さんは、科学者としてはじめは悪いことに手をそめているという意識も強くあったが、だんだん研究が面白くなって罪の意識が消えていってしまったと証言しています。彼は汚水のろ過装置を何百本も保存していらっしゃいました。なぜそんな装置が必要かと言えば、細菌混じりの汚水を日本軍がまく可能性があったからです。
会場で回し見された「ケイ素で作られたろ過装置」は50センチほどの長さの丸い筒で、その原型は今でも製造されており、震災のときに飲み水づくりのために活用されるそうです。
戦争と平和は紙一重で、「物」もいずれの時にも利用されるのですね。
伴さんは、証言をすると約束しても「今日は嫌だ」と約束破りを繰り返したそうで、罪の意識(実際に人体実験をしたことなどある)に苛まれながらの戦後だったことがよくわかります。
しかし、勇気をもってやってきたことを証言され、その手記は出版もされています。(伴繁雄「陸軍登戸研究所の真実」芙蓉書房出版 2001年。新装版2010年)
明治大学は、この陸軍登戸研究所の跡地を買い取って長年学舎として活用していました。建物が老朽化して取り壊すという時に、市民たち、教師たちが保存を求めたのですが、おけらはその運動に少しばかり関わりました。署名を集めたり、川崎市や明治大学に保存を要請したのです。そうした活動の結果、今日の「資料館」が旧研究棟の一つを活用して設立されるに至ったのでした。
こうした活動がなければ、登戸研究所という戦争裏面史の生き証人を残すことができませんでした。公式に認めれば戦争犯罪を行ってきたことを認めることになるからです。
731部隊、そしてこの登戸研究所の研究成果は、すべてアメリカが手中にしました。
それと引換に「戦争犯罪の責任は問わない」とされて。結果、ベトナム戦争で、それらが悪用されたのでした。
日本人は15年戦争で被害も被りましたが、中国、朝鮮などを苦しめた加害の責任も負っています。そしてベトナムで人々を殺傷した兵器の中にこの研究所も関わるものがあったという事実。登戸研究所のしてきたことを公式には記録せず、認めない日本政府、それを利用するアメリカ。この構造は今もつづく日本の負の遺産です。
今日の講演会の主催グループの構成は若者と老人たちでした。
「学生と高齢者との世代を超えた交流会・温個知新」という団体名。
中心となった学生のI君、そしてアラ80のKさんとお話ができました。
I君は新聞社でバイトをしながらマスコミで働く準備をしています。
ナガサキ、ヒロシマで被爆体験をもつ語り部の話を聞いたことから
社会的なことに関心をもつようになったと話していました。
学生たちをスタッフとして集めようといろいろな大学でチラシをまいたり、
メデイアに紹介記事をたのんだりと大活躍の結果の講演会の成功でした。
80歳を超しているKさんは、父上が浅沼稲次郎の子分?だったと言います。
戦争中は警察が何回も家を襲ったとか。
同級生のみなさんを沢山参加させていました。人望のある方です。
こうした人々と知り合いになれて本当に良かったです。
おけらも、彼らとこれからも関わっていきたいと思っています。
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