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2012年7月 4日 (水)

医療と死について考える―⑤―自然死こそ本来の死

 自然死について中村医師は、次のように述べている。

 「『自然死』は、いわゆる”餓死”ですが、その実体は次のようなものです。

『餓死』・・・・・・・・・・脳内にモルヒネ様物質が分泌される

『脱水』・・・・・・・・・・意識レベルが下がる

『酸欠状態』・・・・・・脳内にモルヒネ様物質が分泌される

『炭酸ガス貯溜』・・・麻酔作用あり」(P.49)

 餓死というと、何か悲惨な印象を受ける。よく新聞では生活困難のために孤立死をしたとか餓死したとか報道されるようになった。それは何とも言えず哀れな状況を想像する。

 しかし、自然死の場合の「餓死」およびそれに伴って起きる「脱水」は違うのだという。命の火が消えかかっているのだから、腹も減らないし、喉も渇かない(P.64)という。

 人間の体は大部分が水であり、水がなければ生きていけないし、エネルギーを供給する食べ物も必要である。けれども生命力が衰えてくるとその必要がなくなるのだ。

 1年生の草花を見るとよく分かるが、枯れてくると水をやっても無駄である。もう受け付けなくなるのだ。それは人間でも動物でも同じだと考えられる。

 そして大事なのは、「餓死」では脳内にモルヒネ様の物質が分泌され、よい気持ちになって、幸せムードになることだ。「脱水」は、血液が濃く煮詰まることで、意識のレベルが下がって、ぼんやりした状態になる(P.64)と述べている。

 また、「酸欠状態」については、次のように書いている。「それから死に際になると、呼吸状態も悪くなります。呼吸というのは、酸素を取り入れて、体内にできた炭酸ガスを放出するということです。それが充分にできなくなるということは、酸素不足、酸欠状態になること、もう一つは炭酸ガスが排出されずに体内に溜まることを意味します。酸欠状態では脳内にモルヒネ様物質が分泌されると言われます。」(P.65)

 炭酸ガスには麻酔作用があるそうだ。柔道の選手が絞め技で落とされたとき、異口同音に気持ち良かったと言っているのはその証拠だという。私が子どもの頃近所の学生がよく「落としたろうか?気持ちいいぞ。」と言っていたのを思い出す。

 死に際は、何も医療措置をしなければ、夢うつつの、気持ちのいい、穏やかな状態になるのだ、それが自然の仕組みなのだという。医療が発達しなかった以前(おそらく40年ほど前までは)は誰でも自宅で自然に死んでいき、家族はその姿を見ることができたのだ。

 動物は死の姿を誰にも見せないようだが、人間は看取ってもらう。それについて中村医師は、看取ってもらうのではなく、看取らせることが大事だと説く。人生の最期にやるべきことは、看取らせることだというのだ。(P.92)

 「『看取らせる』場合は、本人の決心、希望以外に、『信念』と『覚悟』が必要になります。それは『死ぬ』という自然の営みの、本来あるべき姿を周囲に見せると同時に、『自然死』を見たことのない医療関係者を教育する先兵となるということです。」(P.91)と指摘している。

 願わくば花の下にて春死なん その望月の如月の頃

という歌を残して希望通りに死んだ西行だが、中村医師は断食であろうと推察している。私もそのように考える。それでなければぴったりと行くわけがない。

 岐阜県揖斐川町の横蔵寺には、即身成仏をした妙心法師のミイラがある。37歳ぐらいの若さで修行の一環として断食をし37日で亡くなったと言われる。大変な意思が必要であったであろうが、おそらく苦しみはなく死んだのではなかろうかと思う。

 昔の人は、死というものを身近に見て来たから賢明な人は死がどういうものかを知っていたのだと思うのだ。

 象は死ぬ姿を人に見せないというが、野良猫だって都会に多いカラスだって雀だってその死体を見ることはない。おそらく死期を悟ったらどこかでひっそりと死ぬのだと思う。動物にはそういう予知能力があるのだと思う。

 中村仁一医師の自然死の勧めが説得力があるのは、 300例近くの自然死を見て来たというデータに裏付けられているからだ。朝日新聞の「胃瘻」特集にあった、胃瘻をやめた母親が穏やかに亡くなったと書いてあったのが心に残る。

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コメント

 医療に頼りすぎる面もありますね。インドのように死を迎える家のようなものがあるところは自然死ができます。おそらく楽に死を迎えるのでしょう。

 家族形態、地域形態の変化が終末期の対処に大きな変化をもたらしたというのはその通りだと思います。

もう一つ肝心なことを付け加えますと、世界に冠たる日本の保険医療制度が誰でも安価に病院に入院できて、最期を迎えることが挙げられます。外国では入院はおろか、医者にすらかかれない人々がまだまだ大勢を占めているようです。誤解を恐れず言いますと自然死を望む人の増加は、ある意味では医療先進国の行き着く先かもしれません。最も最近では医療費抑制から長期の入院が困難になりつつありますが、、。

先程送信しましたコメント署名を忘れました。

昔から放蕩の限りを尽くした人物に対して、お前は畳の上では死ねない、という言い方をしました。事故や不慮の死が多かった昔は、畳の上で死ぬことが理想の死に方だったわけです。今は80%の人が病院で死ぬので、この言葉はまさに死語
になりました。昔は大家族で、地域共同体も曲がりにも成り立っていたので、自宅で看取ることも可能でした。独居家庭がこれだけ多くなった現代では、自宅で死にたくても死ねないのが現実です。少子高齢化、核家族化、都市化の進展が人々の死に際に劇的な変化をもたらしたのではと思います。

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