マスコミも取り上げだした脱原発デモ
7月26日のNHKクローズアップ現代では、脱原発の首相官邸包囲デモを取り上げた。最初300人から始まって17万人に達し、その後も10万人も集まっていることや日本各地に広がりだしたこと、何よりも普通の市民が集まっていることで、これまで無視して来たマスコミも無視できなくなったようだ。
デモに集まる人は、ツイッターやインターネットや口コミで知って来るのだ。特にツイッターによるリアルタイムのつぶやきが効果大であるようだ。それで勤め帰りの人も行ってみようかと思うようだ。
これまで無関心でいた人が行動を起こし始めたのは素晴らしいと思う。何をやっても駄目だと諦めていた人が目覚めだしたのだ。
継続をすることが大事だとNHKのコメンテーターは指摘していたが、7月29日の国会包囲お成功させたいものだ。
以下に東京新聞の社説を引用する。新聞読むなら東京新聞と言われているくらいだ。
毎週金曜日の夕方、首相官邸と国会議事堂前は数万人の群衆で埋め尽くされる。原発再稼働に反対する抗議行動。「人々の声」をどう考えたらいいのか。
小雨が降って、夏とは思えぬほど冷え込んだ七月二十日。霞が関周辺の路上は夕方から人々が集まり始めた。高齢者や母子連れ、働き盛りの若者たち。身に着けたTシャツや小物、手製のプラカードには反原発運動のシンボルである鮮やかな黄色が目立つ。
午後六時。スピーカーから「再稼働反対」のシュプレヒコールが鳴り響く。開始の合図だった。
◆淡々と冷静な女性たち
抗議行動は四月に数百人で始まった。いま街頭に繰り出す人の波は名古屋、京都、大阪、広島など全国に広がっている。七月十六日、東京・代々木公園で開かれた集会・デモには猛暑の中、十七万人(主催者発表)が集まった。
膨れ上がる参加者の人数とは対照的に、多くの人々は拍子抜けするほど冷静だ。歩道の石垣に腰を下ろしていた中年の女性が言った。「こういう運動で原発が止まるとは思わない。でも、いま声を上げなきゃと思って」。暗がりの中、黙って掲げた手製の電光式プラカードには「NO NUKES(核はごめんだ)」という文字が光る。
代々木公園で「原発、いますぐやめろ」というコールが響いた。すると、年配の女性は「“やめろ”って言ったって、そう簡単にやめられるもんじゃないわよ」と独り言のようにつぶやいた。
スピーカーの声はずっと叫んでいた。だが、彼女たちは激せず、あくまで淡々としている。
日本で大規模な街頭デモが繰り広げられるのは、一九七〇年の安保反対闘争以来である。首相官邸前に限れば、六〇年の安保闘争以来、ほぼ五十年ぶりになる。どこが違うのか。
◆政治の主役は政治家か
かつてのデモは暴力的な行動を伴った。警察・機動隊の阻止線を突破する。それが目標であり「戦い」だった。
だが今回は、まったく異なる。官邸周辺を歩き、声を出す。黙ってプラカードを掲げる。白い風船をかざす。風船は新党日本の田中康夫衆院議員が現場で配り始め、シンボルになった。そして午後八時になると整然と帰って行く。
代々木公園で女の子を連れた母親はこう言った。「私は最近までワーキングプアで、忙しくて声を出す暇もなかった。上のほうで政治やってる人たちは何してるの。市民を中心に考えてほしい。子どもの将来が心配です」
年配女性は「私たちはもう、どうなってもいいけど、若い人がかわいそう。長いものに巻かれろじゃなくて、個人一人一人が声を出さなければいけない。今日はそう思って来たんです」と応じた。
官邸や国会議事堂前に集まるのは、こういう人たちである。
かつて六〇年安保闘争の最中、岸信介首相は「私には“声なき声”が聞こえる」と言って騒然とした国会周辺のデモを無視した。
いま「声なき声」の人々は声を出し始めた。収束しない福島原発事故の怖さ、今後も長く続く被災者の苦しみ、福島だけでなく首都圏や東北にも広がる放射能汚染。そうした現実を肌で感じて抗議の輪に加わっている。
人々の街頭行動は原発再稼働だけでなく、政治のあり方をも問うている。政治とは何か。あれこれと考えるより、次の憲法前文を読んだほうが早い。
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」
憲法は国政を「国民の信託による」と記している。だがいつの間にか、人々の間に「政治は政治家や政党がするもの」であるかのような思い込みが広がってしまった。私たち新聞もそうだ。政治面に登場するのは、ほとんどが政治家や政党の話である。
政治の主役は国民であるはずなのに、代理人にすぎない政治家が主役であるかのような錯覚が広がった。街頭に立つ人々は本末転倒に目を覚まし「再稼働反対」のスローガンに託して、異議申し立てをしているように見える。
◆国民の声が届かぬ官邸
象徴的な場面があった。七月二十日夕、鳩山由紀夫元首相が官邸前に現れ、こうスピーチした。
「私はかつて官邸の中にいたが、いつか国民の声が届かなくなっていた。これから官房長官に会って、みなさんの声を伝えます」
人気取りと批判するのはやさしい。だが、人々が元首相を街頭に引っ張り出したといえないか。主役が代理人を使う。それは本来、政治のあるべき姿でもある。声が届けば、政治は変わる。
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コメント
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今から20年以上も前にドイツに行ったとき、アイドリングストップをしていたので感心したことを覚えています。車が動いていないときはエンジンを切るのです。日本はいまだにエンジンをふかしがまま車を停めています。環境問題への取り組みが全く違います。
投稿: らら | 2012年7月28日 (土) 16時33分
仮に原発の再稼働が認められず、今ある原発は全て廃炉という方針が決定されたとしても、廃炉にするには何十年の時間を要するのだ。この間、放射能の被ばくを恐れながらの現場作業員の廃炉に向けた作業が延々と続くことになる。さらに、解決されていない使用済核燃料の処理のことまで考えると気の遠くなるような道すじなのだ。原発とは誠に始末におえない代物だとつくづく思えてくる。既に脱原発の方針を決断したドイツは精神年齢12歳?の日本人と違ってしっかりしたグランドデザインを持って脱原発に取り組むに違いない。国情の違いはあるとはいえ、ドイツから多くを学ぶべきだと思う。個人的には毎日新聞の岸井氏がよくいう脱原発依存がいささかあいまいではあるが現実的であるように思う。
投稿: Toshi | 2012年7月28日 (土) 08時53分
それでも日本人は、原発の再稼働を選んだ。
一億総ざんげへの道。動き出したら止まらない。
この道は、いつか来た道。ああ、そうだよ、民族の歴史は繰り返す。
意思のあるところに方法はある。(Where there’s a will, there’s a way).
意思のないところに解決法はない。
意思は未来時制の内容であり、日本語には時制がない。
それで、日本人には意思がなく、解決法が見つけられない。
自然鎮火を待つのみか。
耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、もって万世のために太平を開かんと欲す。
不自由を常と思えば不足なし。
座して死を待つか、それとも腹切りするか。
私の父は、玉砕した。何のお役に立てたのかしら。
安らかに眠ってください。過ちは繰り返しますから、、、、
ああしてこうすりゃこうなると、わかっていながらこうなった、、、、、
12歳のメンタリィティには、知恵の深さが見られない。教養がない。
わかっちゃいるけど やめられない。ア、ホレ、スイスイ、、、、
白く塗られた黒いオオカミの足を見破ることは難しい。
だます人は悪い人。だまされる人は善良な人。おとり捜査は難しい。
この調子では、人の命はいくつあっても足りるものではない。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/
投稿: noga | 2012年7月28日 (土) 06時34分