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2012年2月 7日 (火)

被爆医師肥田舜太郎先生の講演―①―

「おけらの いつかは青空 脱原発」からの転載です。
 世界でただ一人被爆医師として66年間を核兵器と被曝からいのちを守る活動を継続されている肥田舜太郎先生。おけらがとても尊敬している方です。
 いま先生は94才。お元気で脱原発の講演会に日本中を駆け巡っていらっしゃいます。
以下は、2012[H24]年1月27日、自由報道協会および日本記者クラブにおいて、呼びかけ人:肥田舜太郎、大石又七、矢ヶ崎克馬、松井英介、沢田昭二、高橋博子、岩田渉の諸氏(順不同)による、「市民と科学者の内部被曝問題研究会」の設立記者会見のお話です。とてもポイントをついた、大切な内容となっています。
 友人のTさんから諸留さんのデータが送付されたのですが、転載自由とのこと。
ぜひ広めてください。
 
ーーー
ここで発表された「日本政府への提言」がホームページに公開されました。
非常に大切な、的を得た指摘です。是非お読み下さい。
記者会見のリンク先とあわせてお知らせいたします。
 「市民と科学者の内部被曝問題研究会」の「日本政府への提言」及び
同会への会員入会ご希望の方は以下の
■内部被曝研のホームページ
http://www.acsir.org/
から閲覧と申し込みができます。
 
「市民と科学者の内部被曝問題研究会」の設立記者会見の様子は
以下のURLで閲覧できます。
■自由報道協会記者会見
http://www.ustream.tv/recorded/20030116
■肥田舜太郎医師の会見(自由報道協会記者会見より)
http://www.youtube.com/watch?v=E3hbk39TjHM&feature=player_embedded#t=11s
■日本記者クラブ記者会見(重要な見解が整理されて述べられています。)
http://www.jnpc.or.jp/activities/news/report/2012/01/r00023779/
 
 
 なかでも、日本記者クラブでの「市民と科学者の内部被曝問題研究会」の設立記者会見の席上での、呼びかけ人の一人の肥田舜太郎医師の発言は、大変重要な指摘があります。
また、非常に深い感銘を受ける力強い内容です。
 東電、政府、自治体、科学者、医者、司法界、マスコミなどの言う「放射能安全基準値」が、如何に非科学的なものでしかなく、低線量被曝を意図的に考慮しない政治的な、
「放射能被曝我慢強制値」でしかないかを、低線量被曝量の危険性を肥田舜太郎医師も、切々と訴えておられます。
以下、その全文を掲載します。
 私は1917年生まれです。28歳の時に、広島陸軍病院で軍医として勤務していました。原爆が投下された8月6日の前夜はたまたま病院に泊まっていたのですが、深夜の午前2時半頃に、かって一度だけ診察したことのある農家の子どもが、心臓弁膜症で発作を起こしたので診察に来て欲しい、ということだったので、緊急往診に連れ出されました。
 
 当時、将校は勤務の無い夜間とか、命令などの何も無い時は自由ですから、診療活動は出来ます。ただ、報酬は貰ってはいけないということだったんですね。そういうことで、原爆の落ちた朝、6キロ離れた戸坂(へさか)村[◆註:1]へ行っていて、病院を離れていたために助かりました。
 
[◆註:1]
爆心地から東北方向へ約6キロにあった広島県安芸郡の村。1955(昭和30)年4月10日に広島市に編入合併し消滅。[註:オワリ]
 
 病院は爆心地から350メートルという至近距離にあったため、瞬間的に病院は無くなりました。病院の中にいた597名は3名を残して即死したようです。私が戸坂村で被曝した時の様子などをお話ししていると時間も無くなりますので割愛します。
 
 私がこの戸坂村にいて、午後になってから広島から逃げてきた大量の被爆者が、その小さな戸坂村にどんどんどんどん入り込んだんですね。でも、被爆者たちが村に入ってきても村の内もやはり爆風でほとんど壊されていて、入れるような家もない。沢山収容できる小学校も、二棟あった校舎も全壊してどこにも収容できる所がない。結局、広島から逃げて来た人たちは前身火傷の、皮膚がズルズルに焼けただれた大変な重症者たちは、結局、道路と、学校のグランドと、それから村の空き地ですね、そういう地べたに皆、寝転がったんですよね。
 
 で、そういうような重傷の被爆者たちを私たちがどうしても治療しなくちゃならなくなったんですよね。その日の夕方、たまたま偶然、4人の軍医が集まりました。その夜の戸坂村の記録によると、6000人の患者が村に入ったんですよね。しかし、治療する道具は何にも無い、薬も何にも無いという状態で、見る見る皆が死んでいくという状態に我々医者は立たされました。
 
 その日3日間、結局、薬も無し何にも無しという状態で、我々はただ手をこまねいて死んでいくのを見るだけ、と言われても仕方がないような状態でした。
 
 4日目の朝、「それまで死んだ人は全部火傷で死んだのだ」と、我々は常識的にそう思っていました。ところが、4日目の朝から、火傷でない状態で死ぬ人が現れ始めました。その日は朝から、村の記録によると2万7000名という被爆者が村に入ったのですね。診療するほうは、前の晩に九州と四国から軍の命令で応援が来ました。医者の数は確か27名になったと思うんですが、何しろ治療しなければならない相手が、2万7000名という膨大な患者数ですから、どうしようもないんですよね。
 
 どういう症状が出始めたかっていうと、まず、40度の熱が出る。40度という高熱は内科の医者でも、あんまり診たことが無いほどの高熱なんですね。マラリヤで死ぬ時と、肺炎の末期と、チフスの時に出るだけなんですよ。それで「何でこんな高熱が出るんだ?」って思って被爆者を診ると、まず目と鼻と口から血が出ます。目から出る血というのは、医者でも見たことが無いんですよね。鼻や口から出血するのはそれまでにも何度か見たことがありますが。
 
 でも、目の、ここの、アカンベーをした時の、ここから血が出る、というような患者は医者でも見たことがないんですよね。そのうちに、熱が有りますから、当然扁桃腺を診るんですよね。扁桃腺が腫れれば高い熱が出ますからね。そう思って、非常に苦労して被爆者の口の中を診ますと、医者が自分の顔を被爆者の口に近づけて持って行けないほど、もの凄く臭いんですよね。これは、単に口臭があるというような匂いなんかではなくって、腐敗している匂いなんですね。人間がまだ生きているのに、何で口の中が腐っていくのかが解らない。
 
 そのうちに、火傷をしていない綺麗な肌はまだ残っているんですよね。その綺麗な肌に紫色の斑点が出るんですね。丁度、鉛筆のお尻に紫色のインクを付けて、こうやってポンポンポン・・っていうように皮膚に押し当てると紫色の痣のような色が付きますよね、丁度そういうように紫色の斑点が出てくるのですね。でも、それも何故なのかが解らないんですね。
 
                    ―つづく―
 

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