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2012年2月

2012年2月29日 (水)

戦前回帰の自民党憲法改正原案

 26日の朝日新聞朝刊によると、自民党の憲法改正推進部会が作成した憲法改正原案が明らかになった。

  憲法改正原案のポイントは、

○天皇を「元首」と位置付ける

○国旗・国歌は国の「表象」。国民に尊重義務を課す

○自衛隊を「自衛軍」とし、「自衛権」を明記

○公益や公の秩序を害する結社は認めない

○公務員の労働基本権の制限を明記

○緊急事態条項を新設

○憲法改正の発議要件を衆参の過半数の賛成に緩和

などである。(その他は割愛)

  自民党が狙っているのは、国民の主権を制限し、国家統制を強めようということである。一言でいうと戦前回帰である。

  天皇を元首と位置付けたり、国歌・国旗の尊重を義務としているが、祝日には国旗の掲揚を強制し、全ての行事での国歌の斉唱を義務にするということだ。天皇への崇拝も強制されるに違いない。

  自衛隊を「軍」とするというが、海外派兵や自衛権の拡大を目指そうということだ。世界に誇る現行憲法の戦争放棄を捨てていつでもどこでも戦争がやれるようにしようということである。それが彼らの悲願なのだ。

  緊急事態条項を設けることで、戒厳令を出し国民の行動を縛ろうという目論見だ。

  公益や公の秩序を害する結社を認めないというのは、戦前の治安維持法を思い出させる。公益や公の秩序を害するという理由付けはどのようにでもつけられるのだ。戦前のアカ狩りでリベラルな人まで拘束されたことを思い出せばわかる。

  公務員の労働基本権の制限は、ILOの条約に逆らって統制を強めようということで、その先駆けが橋下大阪市長の下で行われている。

  憲法改正発議を衆参の過半数にしようというのも、それによって憲法を容易に改悪できるようにすることを狙っている。これも橋下の維新船中八策と全く同じである。

  こうして見てくると、自民党も橋下大阪市長も石原東京都知事も同じように憲法を改悪し国民に対する国家の統制を強め軍事国家を目指そうとしているようだ。大変危険な兆候だと言わねばならない。橋下市長は、選挙で勝ったのだから「白紙委任」だと言ってやりたいようにやろうとしている。それに同調しているのが自民党である。戦前の国民を悲惨な戦争へ導いたファシズムにだけは戻してはならない。

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2012年2月28日 (火)

小沢一郎元代表のもっともらしい言い分

 24日の朝日新聞に「消費税と政界の再編」と題して、小沢一郎元民主党代表へのインタヴューが載った。興味をひいたので読んでみた。興味深い発言がいくつかあったので拾い上げてみる。

  ○政権交代して2年半、政治が機能していないことについて。

 小沢氏は、「2009年の総選挙は変化を嫌う日本国民にとって大変な決断であり、夢をかけたのだと思う。でも、民主党は期待に応えるだけの資質を身につけていなかった」と指摘したが、その通りである。マニュフェストというものを用意して、やれるかどうかわからないことを並べ立てたが、いざ政権を託されると殆どが実行不可能であった。だから、国民はがっかりして見放したのだ。

○震災3か月で菅内閣不信任案に賛成したのは?

  「僕は、原発が水素爆発した直後から『メルトダウンしている』『すべての情報を公開しろ』と言い続けてきた。政府が認めたのは何か月も後だ。そういう隠蔽体質、役所も含めてきちんと整理できなかったのはトップの責任になる」と言っている。その通りだが、小沢氏が首相であったら果たして言うとおりの対応をしたのかどうかは疑問符である。

  政府は原発対応の施策を決めるいろいろな会合の議事録を一切残さなかった。それに対して、先日アメリカの福島原発事故対応の会議の3000ページにも上る詳細な議事録とテープが公開された。この日米の違いはいったい何なのだと憤りを感じたものだ。それが民主党政権の実態なのだ。

  ○震災から1年、原発の見直しの機運が失せています。

  「原発はあくまでも過渡的エネルギーだ。新しいエネルギー開発に全力を挙げて来なかったのは我々も反省すべき点だ。」と述べている。彼は、原発見直しなのかどうかについては明言を避けた。非常にあいまいでどうとも取れる表現である。政府の「収束宣言」についても、無責任だとは言うが、傍観者の立場の発言である。

 ○消費税増税について

  「国民に税負担を強いる前にやることがある。自民党と同じ制度に乗っかったまま、『カネがない。だから増税』では国民は理解しない。税と社会保障の一体改革と言うが、社会保障の青写真は全く示していない。」と批判している。自民党と同じ制度とはどういうことなのか。自民党が作った制度をそのままにしているということなのか、小沢氏の青写真はどうなのかは不明である。

  ○日本は借金まみれだがどうするのか。

  「予算編成は自民党時代と同じ各省の積み上げ方式で、政策の優先順位は全く入っていない。補助金と政府経費など優先順位をつけることのできる予算が毎年30数兆円ある。いらないものを廃止すればよい。統治機構を根本から変えて中央集権体制から地域主権体制へと改革すれば、二重三重の行政の無駄が省ける。」という。

  確かに民主党政権も自民党の亜流であることは明白で、最初の意気込みはどこかへ消えてしまった。小沢氏が云うようにやれば消費税の値上げをしなくても済むのならそうすべきである。具体的な案を小沢氏から提案してほしい。この点は、サンデーモーニングでも、岸井氏が指摘していたところだ。

 ○仮に選挙になった場合は?

  「惨敗だ。私が先頭に立って戦って勝ち取った政権だから、何とか成功させたいのだが、このままでは、民主党は勝ち目がない。」と選挙上手の小沢氏は指摘する。私も同感である。民主党の惨敗は目に見えている。そうかと言って自民・公明に戻るとも思えない。それは国民の期待に反することだからだ。

  「心配なのは、過半数を取れる政党がなくなることだ。そうなったら何も決められずに、日本は大混乱に陥る。」と言っているが、それは多くの人の想定するところである。田中秀征氏は、X党が出現するかもしれないと言っていた。X党が維新塾なのかはたまた別のものなのかは分からないという。政界再編が加速するのかもしれないが、それとて今の民主党のようなさまざまなグループの集合体になるであろう。まだまだもめそうである。

  小沢氏は、70歳。まだまだ元気に意欲を燃やしているようだから目を離すことはできない。

 

 

 

 

 

 

 

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2012年2月27日 (月)

中日ビルであった南紀新宮市の物産展を覗く

 先日、新宮市から観光物産展の案内が届いた。24日と25日の2日間、名古屋の中日ビルで開催すると書いてあった。サンマ姿寿司、サンマの丸干しなどの物産が販売されるので是非行ってみようと思った。

  25日の土曜日のボランティアの後午後に暇ができたので、見に行くことにした。

  中日ビルの入口を入ると宣伝のブースがあり、市女笠の若い女性が迎えてくれた。男性のスタッフが、アンケートに答えてほしいと用紙を差し出した。

  私は、案内を貰ったお礼を言った。そして新宮で育ったことを話した。私が千穂小学校の卒業で浮島の森の近くに住んでいたと言うと、市女笠の若い女性は、丹鶴小学校出身だと言った。

  丹鶴小学校は街の方にあり、千穂小学校は世界遺産の神倉神社の麓にあった。世界遺産の速玉神社は丹鶴小学校の校区にある。

  当時私たちは、丹鶴小の子たちを見ると「たんたん丹鶴・・・・」と囃したものであった。その話をした。すると、二つの小学校は統合されて「神倉小学校」になるのだと言ったのでびっくり仰天であった。学校の場所は千穂小学校のところなのだそうだ。

  源頼朝が寄進したという急な石段を登ると、ごと引き岩という巨岩があり、それがご神体である。そこはまた神武天皇東征の折、八咫の烏が案内したのでも有名で、八咫の烏はサッカー日本代表チームのロゴにもなっている。

  そういう由緒ある神倉の名を取って新しい小学校ができるのだ。驚いたのは、熊野地地区にある蓬莱小学校と王子小学校も統合されることだ。理由は過疎化と子どもの減少だという。

  新宮は昨年の台風で熊野川が溢れ市内が水浸しになった。今回の観光物産展はそこから立ち直りつつあることを知ってもらう意味もあるそうだ。

  私は市女笠の女性に、「高等学校の頃熊野大橋の1mぐらい下まで水が来たことがあったが、今回の氾濫では鉄橋のずっと上まで来たね。」と話した。テレビで見たのは信じられないような光景であった。

  アンケートに答えて抽選券をもらい、物産展をやっているという2階に行った。のぼりが何本か立ててあり机の上に物産が並べてあった。でも、お目当てのサンマ姿寿司は売り切れ、めはり寿司も売り切れ、サンマの丸干しも売り切れであった。スタッフが午前中に売り切れたと言った。前日に来ればよかったのかと聞くと前日も午前中に売り切れたのだという。

  残っていたのは、今回初参加の香梅堂の鈴焼と徐福茶と北山の飴ぐらいであった。香梅堂のタマゴ煎餅が欲しかったのだが持って来なかったと言ったのでがっかりした。タマゴ煎餅は香ばしくて美味しいのでいつも土産にしていたのだった。

  仕方がないので鈴焼を買った。抽選券をくれたので、2回引いたが2回とも4等であった。私の次に引いた老人は2等であった。賞品のロゴ入りの手提げとラムネ玉という飴をもらった。

  物産展と言っても、サンマ姿寿司、めはり寿司、サンマの丸干し、徐福茶、香梅堂の鈴焼ぐらいで、後は南高梅の蜂蜜漬は南部だし、北山の飴は奈良県だし、何とも淋しいものであった。もう少し産品がないものかと思った。

  下に降りて行くと、スタッフに「みんな売り切れで何もなかった。タマゴ煎餅も持って来てなくて仕方なく鈴焼を買った。」と話した。テーブルの上の新宮の観光案内を2つもらった。一つの方に大きな地図があったので、自分が住んでいたところを指さして話した。

  市女笠の女性と少し話したら、中学校と高校は同じだったので「大後輩だね」と言った。

  市女笠とぬいぐるみの八咫の烏のユルキャラが珍しいのか写真に撮っていく人が何人もいた。市女笠の女性と男性のスタッフに簡単な手品を見せたら驚いていた。

  新宮の辺りはユネスコの世界遺産に指定された熊野古道にあり、子どもの頃遊びまわった辺りは歴史や伝説的に由緒あるところばかりであった。

 私がいた頃は、陸の孤島とも呼ばれていたが、新宮は「山紫水明の地」と言われる通り、熊野川、太平洋、紀伊山地に囲まれた良いところだ。前回行ったときは丁度水森かおりの「熊野古道」が売出し中で、私のカラオケレパートリーの一つとなった。そのうちまた新宮を訪れたいと思っている。

新宮の見どころ

○熊野速玉神社   ○神倉神社   ○徐福の墓   ○浮島の森

○熊野参詣の熊野川     ○参詣者が身を清めた御手洗海岸(太平洋)

○丹鶴城址 

 ○神倉神社のお燈まつり(2月6日)

 ○速玉大社例祭(10月15日、16日《御船まつりも》)  

 ○扇立てまつり(7月14日)

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権現山(神倉山)

 

 

 

 

 

 

 

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2012年2月26日 (日)

タンザニアのハッザ族の原始生活に驚く

 23日の夕食後テレビをつけたらNHKで「地球イチバン」という番組をやっていた。途中からだったが興味をひかれたので見た。

  最後の方でタンザニアのサバンナで生活をするハッザという種族のことだと分かった。何というタレントか知らないがわざわざ出かけて録画したものであった。

  驚いたのは、ハッザ族の生活ぶりである。彼らは今なお原始生活を守っているのだ。現代の衣服をまとっているが、生活スタイルは原始時代そのものなのだ。

  彼らは、サバンナを移動して生活しているので、住居は丈の長い草や灌木で高さ2m程度の△のものを作るだけだ。それは移動がしやすいからだと説明していた。彼らは男女別に生活しているらしく、女性の家は男性が作ってやるらしかった。

  家と言っても隙間だらけで、土間である。雨が降ったらどうするのだろうと思った。寝るのは土間だがそれで十分だと言っていた。

  すべての家財道具を見せてもらったら、現代の金属製の鍋と包丁と弓矢と全部で6種類ぐらいであった。

  生活を維持するには、食糧を手に入れることが大事であり、全てである。そのために男は狩猟をし、女は土を掘って芋のようなものを手に入れたり植物の実などを採集するのだ。バオパブの実などな良い食糧だ。まさしく原始時代そのものである。男たちが狩猟の獲物が取れない日が続くとしょんぼりする。そうしたときは女性の見つけた食糧が頼りである。

 ハッザでは食糧は平等に分けられる。蜂の巣から蜂蜜を取って分け合っていた。ヒヒを射止めたときもみんなで分け合っていた。いわば原始共産制なのだ。これまでの長い歴史の中で、富の偏りがなぜ起きなかったのかと思うに、多分、手に入る食糧が限られているから分け合って食べなければならないからであろう。

  もてる男は狩りがうまい人で、ルックスは第3だと言っていた。

  知りたかったのは、どうやって衣服や鍋を手に入れているのかということだ。彼らは獲物の何かと交換をするのであろうか。たまに自動車で白人観光客が見に来ることもあるようだし、今回のようにカメラなどが入ることもあるのだが、彼らはそういう現代のものには興味がないようで自分たちの生活の仕方が一番だと言っていた。

  私たちは、キャンプや山登りにでも行けば、かなり限られたもので生活をしなければならないが、ハッザ族とは比べようもない。何も持たないで狩猟・採集生活をしているのだ。

  日本人は、世界でも一番物に囲まれて生活をしていると言われる。その数は確か3万点だと言われていたように思う。そして断・捨・離せよと言っている。

  良寛さんは、五合庵に住み、木の鉢と杖と墨染めの衣と布団と椀と紙・墨・筆程度の所持品で托鉢で生活をしたそうだが、ハッザの人々には及ばない。

  この地球上に今でも原始生活を守っている種族がいるということは驚異だが、彼らはそれで幸せなのだ。彼らから見ると、GDPだとか核だとか原子力だとか欲望を拡大させている現代人、戦争をやめられない現代人は愚かな存在に見えるのではないかと思った。

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2012年2月25日 (土)

政治家としての資質を問う!河村名古屋市長の南京虐殺なし発言

 河村名古屋市長が、20日に市役所を表敬訪問した中国共産党南京市委員会の代表団に面会した際、市長が「南京事件というのはなかったのではないか。」と語り、その理由として、終戦を南京で迎えた父親が現地で優しくされたことをあげた。

 それに対して中国は強く反発し、「公の交流は当面停止する」と発表した。中国の旅行社は日本向けのツアーを中止したり、名古屋宿泊をやめたりし始めたという。人民日報や環球時報なども、河村氏に謝罪を求めた上で、「中国の全ての日本ツアーは名古屋を迂回することを提言する。名古屋との経済協力も減らしてもいい」と呼びかけた。(朝日)

中国からの観光客を呼び込むために、今年になって辰年にちなんで昇竜ツアーが立案され、三重・名古屋・高山・能登などを結ぶ観光を宣伝し始めたところだ。それにも大きな影響が出るであろう。

 河村市長が個人的に南京事件はなかったと信じることは自由である。しかし、立場というものがある。私のような一般市民が何を言おうと影響は全くないが、名古屋市長とう職責で物を言えばその影響は計り知れない。もし、野田首相が同じことを言えば、更に大変な政治問題になる。

 政治家というものは、国際的な関係も考慮して発言したり、行動したりすべきである。しかし、記者団の質問に対して、市長は断固として発言を撤回するつもりがないと言った。

 そもそも南京事件については、日本政府も「多くの非戦闘員の虐殺や略奪行為があったことは否定できない」という立場である。

 先日放送されたNHKの「開拓者たち」でも、中国人を拷問する場面があった。また、NHKスペシャルでも中国で戦った生き残りの人が現地でもひどい仕打ちを証言していた。

 愛知県立大学の與那準教授は、「南京事件そのものがなかったとの考えを支持するプロの歴史学者はいない。ただ、日本では論壇や政界の一部に『なかった』と訴え続けるグループがあり、河村市長もその一人」とコメントしている。(朝日)その通りで、その人たちは週刊誌などに登場してその説を述べている。

 河村市長が、これまでにアメリカの名古屋空爆について残忍非道な虐殺だとアメリカに抗議したという話は聞いたことがない。日本中の都市という都市を空爆して非戦闘員を殺したり、傷つけたりしたアメリカの残虐さに頬かむりしているのはおかしい。

 評論家の呉智英さんは、「父親が優しくしてもらったというが、日本だって空襲を繰り返した米軍を受け入れた」とコメントしている。(朝日)優しくしてもらったから南京虐殺はなかったということにはならないのだ。歴史的事実を消すことはできない。

 日本は日露戦争のときから、何度も中国大陸に行き、勝手し放題にしてきたのだ。ほぼ中国全土の人々に限りない犠牲を強いてきたのだ。南京事件はその流れの中にあるのだ。そのことをしっかりと認識すべきである。

 名古屋市の幹部は「一人の政治家による発言で、34年に及ぶ友好関係の積み重ねが吹っ飛んでしまいかねない」と指摘したという。河村氏は政治家を辞めるべきである。

 

 

 

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2012年2月24日 (金)

ほしざき保育園の可愛い園児たち

 お弁当箱グループのマジック研究会で一緒のIさんの頼みで、マジックを見せるボランティアに行きました。夜中から生憎の雨で、かなりの雨の中を歩いて地下鉄まで行きました。新瑞橋でバスに乗り換えるのですが、初めてなのでIさんのメモと駅の案内を頼りにバスターミナルまで行きました。

 13番の循環バスに乗りましたが、ほとんどは敬老パスの客でした。南区区役所まで来たら、バスは反対方向に曲がったので、乗り間違えたのかと思いました。バスは国鉄笠寺駅でUターンして大慶橋の方向に行きました。乗客を増やすためには良い方法だと思いました。途中で4回ほど時間調整をして、定刻通りに上浜バス停に着きました。

 保育園に着くと、Iさんが来ていてホールで琴の調整をしていました。Iさんとその友達とで琴の演奏をするので和服姿でした。

 程なくOさんとHさんも来たので演目の最終チェックをしました。その後準備をしました。

  園児たちが先生に連れられて入って来ました。椅子席には年長児たちが座って床には年少児が座りました。園児は全部で120名いるということでした。

 10時半に2月の誕生会が始まりました。5人の2月生まれの子が前に座りました。素敵な誕生日の歌を歌って、その後誕生日の子たちが自分でできることを披露しました。縄跳びや竹馬乗りや竹の筒を叩いてリズムをとるのなどをやりました。孟宗竹で作ったリズム楽器は初めてみました。その後、年長さんを中心に素敵な歌を6曲歌いました。

 それからゲストのIさんたちのお琴の演奏でした。「お雛様」と「さくら、さくら」の2曲でお琴を生で聴くのはとてもいいものだと思いました。子どもたちも真剣に聴いていました。

  いよいよ、マジックが始まりました。まず、Oさんからでステッキやロープが伸びる手品をやり大うけでした。ボールの出現・消失も驚いていました。

  次は、Hさんで、紙コップに水を入れて無くしてもまだ出るのとかカードと新聞紙のマジック、洋服にロープを通して外すのをやり最後に紙袋からの取り出しをやって、いずれも大うけでした。

 OさんもHさんも、保育園児を相手にやるのは馴れているので、巧みに話かけて園児を惹きつけていました。Oさんが言うとおり、園児たちは小学校児童より一生懸命に見ていました。反応ぶりもとてもよかったです。

 3番手は、お琴を演奏したIさんで、シルクや万国旗を出す手品をやり、その後牛乳パックの変身、ペットボトル出し、カップがテープに変わるをやって子どもたちは 大喜びでした。

 最後は私でしたが、25分ぐらい見て来たので、園児の集中力が落ちてきたように感じました。BGMを使い大きな声でやりましたが、どうも引きつけるのが難しいと思いながらやりました。

 広告の復活、卵・ひよこ・鶏、サル・カニ、三色ロープ、首の長いウサギ、トルコ帽、矢印の方向をやりました。見ている子たちはそれぞれ声を上げて反応してくれました。首の長いウサギは、先生に鋏を2つ示して選んでもらい、切ってもらいました。首が離れてしまいました。次に私が魔法の鋏で切るとつながり、不思議がっていました。

  誕生日会が終わると、給食の時間でした。私は4歳児の部屋で一緒に食べました。部屋に入っていくと、みんなとても元気で、私のそばに来る子や声をかける子がたくさんいました。「面白かった。」「楽しかった。」などと子どもなりの表現で声を上げていました。とっても可愛い子たちばかりでした。

 同じテーブルの女の子は、二人ともおしゃべりで絶え間なく話しかけて来ました。別の席からも男の子が来たりしました。「給食はおいしい?」「おいしいよ!」など。

 質問がしたいというので答えました。「名前は?」「ららさんだよ。」「歳は?」「28歳だよ。」「お父さんより若い。」「生まれ月は?」「12月、12月生まれは頭がいいんだよ。」すると、それぞれに自分の誕生月はどうかと聞いてきました。

 給食が終わると、マジックを見せてあげました。簡単でも不思議なクロスアップを見せました。とっても喜んでいました。最後に1人の男の子が「僕でも大きくなったらできる?」と聞いてきました。「もちろん、できるよ。」と言いました。

 甥や姪の小さい子どもに見せたことはありますが、保育園でやったのは初めてでした。意外にマジックを楽しんで見てくれることが分かりました。でも、20分ぐらいにしておかないと集中力が弱くなると思いました。

 可愛い子たちと楽しい時間がもてたのはよかったです。

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2012年2月23日 (木)

久しぶりに姿を見せた白猫の白ちゃん

 21日、22日と日差しが柔らかく何となく春の気配が感じられるときがあった。

  21日の朝、食事が終わって洗い物をしていたら、妻が「庭に白ちゃんが来てるよ。」と言いながら来た。エッと驚いて私は、大急ぎで石鹸のついた手を洗い、台所に置いてある煮干しの袋を持って行った。

  見ると、白猫の白ちゃんは金柑の木の前にいた。「白ちゃん、おいで。」と呼ぶとしばらくこちらの様子を窺っていたが、私と気づいたらしく、こちらにやってきた。

  白猫の白ちゃんは昨年の11月辺りから姿を見せなくなっていて、どこかへ行ってしまったのだろうと思っていたのだった。いったいどこに行っていたのか聞くすべもないからどうしようもない。

  部屋の縁に座って足を縁石にのせたら、白ちゃんは体を摺り寄せてきた。まだ覚えていたようだ。体を見るとずいぶん汚れていた。せっかくの白い毛が尻尾のところまで何となく黒ずんでいた。右の耳は一部毛がなくて赤むけていた。喧嘩をしてやられたのかもしれないと思った。気が強い猫だから。

  早速煮干しを1尾やったが、匂いを嗅いでちょっと噛んだだけで食べなかった。この猫は野良猫のくせに好き嫌いがあるのだ。別の1尾をやるとそれは口に入れた。何尾かやったが、食べたり食べなかったりと贅沢な猫だ。

  私は、「お母ちゃんはどこにいるの?お母ちゃんならみんな食べるよ。」と話しかけた。お母ちゃんというのは、白ちゃんのカミさんで尻尾が長い猫だ。この猫も11月ごろから姿が見えなくなったままだ。また、2匹の間の子と思われるチビちゃんは、それよりずっと前から姿を見ていない。

  煮干しの袋は2つ目で、この袋を買ってしばらくすると、猫たちが来なくなったので、煮干しが古くなってしまった。だから何とか食べてほしいのだ。

  白ちゃんは、時々鼻をクシュンクシュンとさせていた。風邪をひいているらしかった。私は風邪が治ってきたところなので移ったら大変と思いながら相手をした。

  「どこに住んでいるの?餌は誰にもらっているの?」などと聞いても、ニャーと言ったりクシュンとさせたりするだけだ。いったいどこでどうやって生きているのだろうと思った。

  次の日も歯を磨いているとき、また妻が「白ちゃんが来てるよ。」と呼びに来た。大急ぎで行くと、グミの木の前にちょこんと座っていた。この朝も暖かい日差しが指していた。「暖かいね。」と声をかけながら煮干しをやったが、一瞥しただけであった。いったいどこで何を食べているのか贅沢な猫だと思った。

  それでも体を摺り寄せてくるし、この日は体を撫ぜてやってもおとなしくしていた。だんだんと馴れてきたのか風邪で気が弱くなっているのかと思った。しばらくそうしていると、隣の家の庭の方に行ってしまった。

 

 

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2012年2月22日 (水)

刈谷マジッククラブの発表会を見て

 2月19日(日)に刈谷マジッククラブの「マッジック発表会2012」が刈谷市総合文化センター小ホールで開催されました。刈谷マジッククラブの発表会には4回か5回見に行っていますが、昨年からは市総合文化センターで開かれています。

 私は、遅れるといけなので、11時21分金山駅発のJR快速に乗りました。途中、大府に停車しただけで35分にはもう刈谷駅に到着しました。この駅も名鉄との総合駅で、南改札口を出ると、スーパーValorが目につき、その前を通っている高架の歩道を歩いていくとセンターの玄関に着きました。とても便利なところです。

 会場入口に着いたらまだ11時40分でした。でも、すでに20名ぐらい並んでいたのでびっくりしました。持っていた本を読みながら待っていると、12時5分頃に名古屋華マジカルグループの一団が来ました。

 12時半より少し早く開場してくれました。私は前列から3列目に9名分席を確保しました。クラブからの参加者は12名でした。

 13時丁度に開演しました。トップは会長と女性のイリュージョンなどでした。ボックスに女性が入り、出てくるという古典的なものでしたが手作りであったのがよいと思いました。このクラブのお得意のシルクが飛んでいく仕掛けもありました。

 次は、男性のロープマジックで、結び目を作ったり、消したり、移動させたりするものでした。話しながらやったのでよく分かったと思います。演技も堂に入ったものでした。効果音がとてもよく効いていました。

  3番目のメキシカン・ロープは我がクラブのAさんがやりますが、演じ方が違っていて勉強になりました。帽子出し、三重筒などもやりました。

  第一部の最後は、ステッキ、タバコの箱プロダクション、ハトでした。とても上手に演じていました。

  第2部は、刈谷マジッククラブ恒例のコントが二つでした。「ドジョウ総理と陳情物語」は、ドジョウ掬いの好きな野田首相が登場しました。バルーン作品と切り紙を得意とする小学校3年生も登場しました。狙いは良かったと思いますが、冗漫に感じました。野田首相を皮肉っておいて最後は激励したのがよかった。

 もう一つは「ルパン三世」ど題して、観客を呼び出して、手を縛ってもらいそれを60秒ではずすというものでした。古典的なものです。

  第3部は、ベテランを揃えたということでした。

  皮切りは、ウイッチに扮した女性がお面を取り替えたり、鏡に掛けておいて消失させ、その後で鏡にシルクと花を通して消すというものでした。ダンシングケーンを魔女の箒でやったのがよかったです。音楽にもよく合っていました。このウイッチは昨年もありました。

 次は、最年長者のOさんの連紙の技で我がクラブのIさんがお得意とするものです。蜘蛛の糸を出すというのも似たやり方です。日本セイロも次々に出していました。いずれもベテランの味がありました。

 3番目は、女性でロープマジックを巧みにいろいろやり、最後に早変わりをしました。

 4番目の男性のCDプロダクションは、スピードがありきびきびしていました。コンテストに出れば賞を貰えるのでは?と思いました。ただ、最後まで口を開いて演技をしたのが惜しかったなあ。

 5番目は、風船やハットやシルクやとても大きな扇を二つ出すのや盛りだくさんでした。最後は引出箱からハトを出してもう一つの箱で消すというやり方でした。このやり方なら私も道具があるし、簡単にできると思いました。

 6番目は、ベテラン男性のケーンの出現と色変わり、シルクプロダクション、ファンカード、最後はカードの噴水でした。いずれも難なく演じていました。

 トリは女性で、薔薇の花消失・出現、チェンジバッグ、ファウンテン・シルクから人形出しなどでしたが、何と言っても見せどころは、それぞれの演技ごとの衣装の早変わりでした。衣装チェンジの隠し方もいろいろと変えてありました。

 刈谷マジッククラブの今年の発表会は、音楽の選び方、効果音の使い方演技力もよくて大変素晴らしかったです。ゲストを呼ばずに会場を満員にしたことや招待客は1人であったのもよかったです。会員で病気などで出られない人もあったそうですがみんなが出演し、マジックを一般の人と楽しみあうという雰囲気があって好感を持てました。

  来年も同じ会場でやるそうです。楽しみです。

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2012年2月21日 (火)

建築家美藤氏の新しい発想による省エネ・防災住宅の提案―④―

【省エネ防災住宅は国が定めた長期優良住宅に適合

〇劣化対策

・壁式鉄筋コンクリートの躯体を無垢の木の化粧打込み型枠で包み込むことで、壁式鉄筋コンクリートの躯体の劣化を防止します。これは住宅業界で最も優れた劣化対策です。

〇耐震性

・省エネ防災住宅の場合、建築基準法で定めた長期優良住宅の認定基準に準じた構造計算書の添付で対応できます。この構造計算書の添付は住宅業界が追随できません。

〇維持管理・更新の容易性

・電気設備等の配線はコンクリート躯体内に空配管を埋設し、その配管内に配線をするため維持管理や改造改修は容易です。

・設備配管は内外の配管ダクトを設けて、ダクト内に配管することで維持管理や改造改修は容易です。

・省エネ防災住宅の場合、コンクリートの躯体を無垢の木の化粧打込み型枠で包み込んだ型枠を化粧材とした壁と天井は維持管理や改造改修が容易です。

〇可変性

・省エネ防災住宅の場合、コンクリートの躯体を無垢の木の化粧打込み型枠で包み込んだ型枠を下地胴縁とした改修やコンクリートの躯体以外の改造改修が容易です。

〇バリアフリー性

・三階建てを標準階とする省エネ防災住宅は、各階毎のバリアフリーと独自のエレベーターを設置して全ての階をバリアフリーにします。

〇省エネルギー性

・省エネ防災住宅は壁式鉄筋コンクリートの内外壁に、断熱性能に優れた50mmの無垢の木の化粧打込み型枠で包み込むことで、最も優れた省エネ防災住宅となります。

〇居住環境

・三階建てを標準階とする省エネ防災住宅は、地球環境に最も優しい無垢の木の外壁と多層階にしたことでの余剰地を庭園や菜園に活用します。

〇居住面積

・省エネ防災住宅は自由設計なので、国が定めた長期優良住宅の認定基準以上の一般型誘導居住面積を確保します。

〇維持保全計画

・省エネ防災住宅は建築着工前に維持保全計画書を作成して、統括本部・お客様・新しい工務店等それぞれの関係者が保管して紛失に備えます。それを補修履歴書とします。

 

省エネ防災住宅の巨大な市場

〇省エネ防災住宅独自の市場

・全国の地震・津浪・台風・洪水・火災被害に備えた省エネ防災住宅の市場

・耐火構造が要求される一般住宅の工法では構築できない防災住宅の市場

・大地震や津波に備えた近隣住民も避難できる災害時防災避難住宅の市場

・一般住宅の工法では構築できない災害時避難最強のカプセル住宅の市場

〇一般住宅の市場

・在来木造住宅・2×4木造住宅・軽量鉄骨プレハブ住宅等の一般住宅の市場

・市街地等における築30年以上の立替を必要としている一般住宅の市場

・二階建の従来の住宅では住宅として機能しない極小地の一般住宅の市場

・防火地域・準防火地域内の構造規制されている併用住宅一般住宅の市場

〇併用住宅の市場

・大手プレハブ住宅メーカー等が独占している賃貸併用住宅等の市場と店舗併用住宅等の市場

〇賃貸住宅の市場

・大手プレハブ住宅メーカー等が独占している賃貸住宅等の市場と都市型住宅等の市場

〇介護住宅の市場

・家族等が容易に介護ができる介護機器を備えた介護住宅の市場

・最上階でも家族が容易に介護ができるエレベーター付き介護住宅の市場

〇小規模店舗の市場

・大手プレハブ住宅メーカー等が独占している小規模な店舗の市場と小規模貸店舗の市場

〇コテージなどの市場

・賃貸等にもできる無垢の木で包まれたコテージや別荘の市場

・無垢の木で包まれた多目的なペンションやログハウス等の市場

〇農業用倉庫などの市場

・無垢の木で包まれた果樹庫や農業用倉庫など幅広い市場

・多目的利用の無垢の木で包まれたストックハウス等の市場

〇その他の市場

・無垢の木で包まれた室内菜園や防災用寝室等幅広い市場

 

省エネ防災住宅のコスト削減

〇機器機材のコスト削減

・下町工場に機器機材を製作させ代理店経由なしで工場から現場へ直納

・良質且つ安価な機器機材を世界から輸入して倉庫から建設現場へ直納

・多能工が容易に組立できる二次加工された機器機材を建設現場で組立

・新しい工務店・下町工場が協力し最良な機器機材を開発して現場で組立

・全ての機器機材の代理店業務を新しい工務店に託す多能工の責任施工

〇職種削減でコスト削減

・新しい工務店は全ての工事を多能工が責任施工することでの職種を削減

・容易に組立できる二次加工された機器機材で多能工が組立てる職種削減

・新しい工務店の多能工が現場間を移動したり離たりしない開発で職種削減

〇三階建を標準階としたコスト削減

・三階建を標準階とした場合の二階建と比較すると敷地面積が大幅に削減

・三階全ての化粧打込み型枠組を完了させコンクリート打設をするコスト削減

〇化粧打込み型枠のコスト削減

・化粧打込み型枠に強度を持たせた型枠組で大幅な工期とコストの削減

・化粧打込み型枠に強度を持たせた型枠組で仮設材や大幅なコスト削減

・化粧打込み型枠に強度を持たせた型枠組で継続した工事でコスト削減

・無垢の木の化粧打込み型枠にすることで内外の断熱材や仕上工事不要

・無垢の木の化粧打込み型枠にすることで産業廃棄物や運搬費など削減

 

新しい工務店間のビジネス

〇設計図書等の有償活用

・新しい工務店が作成した設計図書等は全国の新しい工務店間で有償活用

〇開発商品等の有償活用

・新しい工務店が開発した開発商品等は全国の新しい工務店間で有償活用

〇地域の特産品等の販売

・新しい工務店の地域の特産品等を全国の新しい工務店に格安で紹介販売

 

在来住宅の問題点

〇防災認識の欠如

・多種多様な災害の多発時代に防災住宅が開発されない住宅業界の防災認識の欠如。

〇構造認識の欠如

・過去の地震・津波・台風・洪水・火災災害が生かされない住宅業界の構造認識の欠如。

〇代理店制度

・複雑に組織化された代理店制度は、機器機材の価格を不明瞭にして住宅価格を高騰させている現状。

〇下請制度

・物づくり職人が習得した伝統技術が継承されない現状と物づくりに専念させない下請制

度の職人軽視の社会。

〇林業の衰退

・外国産木材を普及させ国産木材の植樹林を放置して山村や林業を衰退させながら湯

水の如く税金を投入させ続けている現状。

〇見積金額

・小規模な住宅であるにも関わらず、見積徴収に於ける見積に差が生じる現在の見積シス

テムの矛盾。

〇労務賃金

・汗を流して物づくりする職人を低賃金で働かせて、汗を流さない側が高賃金が取れる現

在の賃金制度。

〇伝統職種の衰退

・伝統的な職種や技能を衰退させた住宅業界と新建材メーカーが造りだす一世帯居住住

宅が伝統技術を衰退させている現状。

〇疑問

・地方行政や林業団体が国に国産木材の需要拡大を半世紀唱えて改善されない現状。

・化学物質の汚染住宅を建てた住宅業者や建材メーカーは謝罪も保証もされない現状。

・地震に構造規制をかける国が津波や火災で崩壊する住宅には改善策を取らない現状。

 

 

 

〒790-0056

愛媛県松山市土居田町501-1スカール土居田105

美藤開発株式会社

美藤開発一級建築設計事務所

代表取締役 美藤雅康

TEL (089)973-0771

携帯 090-4337-7737

e-mail:bitou-masayasu@mg.pikara.ne.jp

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2012年2月20日 (月)

建築家美藤氏の新しい発想による省エネ・防災住宅の提案―③―

コンクリート躯体を無垢の木で包み込む構造の省エネ防災住宅の特長

〇階層

・壁式鉄筋コンクリート造の省エネ防災住宅は法的に五階建まで可能

・三階建を標準階とするため極小地でも建設が可能

・構造計算書が必要であり1~5階建まで自由設計

〇構造

・壁式鉄筋コンクリートの躯体を無垢の木の化粧打込み型枠で包む構造

・無垢の木の化粧打込み型枠を断熱材や化粧板壁として利用する構造

・無垢の木の化粧打込み型枠はコンクリート躯体の老朽化防止保護資材

〇防災

・地震・津波・台風・火災に耐える最強の防災住宅

・災害に強い防災都市が構築できる唯一の防災住宅

・災害インフラ停止時における近隣の防災避難住宅

〇環境に優しく地球温暖化を防止

・地球環境に優しい省エネ住宅であり、地球温暖化防止の貢献型住宅さらに太陽熱を吸収する省エネ住宅

・省エネ防災住宅は循環資材として木材(間伐材)を大量消費する森林保全住宅

〇健康

・人間の心を和ます超健康住宅

・殺菌除湿作用をする健康住宅

・は湿度等が調節できる健康住宅

〇耐用年数

・多世帯居住可の長期優良住宅

・住宅市場最強の長期優良住宅

〇バリアフリー

・省エネ防災住宅は独自のエレベーターを設置して全ての階をバリアフリー化し、身障者や高齢者の住み易い多世帯住宅

○その他の設備

・付設した2立米の雨水が利用できる雨水の貯留タンクを搭載

・雨水貯留タンクの雨水を循環散水させる太陽光発電システムを搭載

・省エネ防災住宅の独自の防振工法の床組を備えた無垢の木の床暖房

・省エネ防災住宅の独自の無垢の木の浴室に木風呂又は岩風呂も可能

・物干し場と野外テーブルが置ける広さの菜園付バルコニーなどの設置

 

化粧打込み型枠の優れている点

 化粧打ち込み型枠はコンクリートの劣化を防止するのみならず、壁内外の断熱仕上材として利用できることから外断熱が可能になります。両側面に溝加工した、板厚50mm程度の小幅板を板セパとビスで一枚の板状にすることで壁内外の強固な化粧打込み型枠となります。

 内部の化粧打込み型枠はスラブ型枠を支える支柱壁となり仮設ポストを必要としません。

 3階建て程度の省エネ防災住宅は全ての型枠組を完了させて一日でコンクリート打設が可能です。

 鉄筋コンクリート躯体と一体となり、省エネ防災住宅の化粧板壁となり、環境に優しい強固な躯体が形成されます。

 型枠は解体をしないため、型枠組と並行して各仕上・設備の本工事が可能です。

 無垢の木の化粧打込み型枠は、断熱性能に優れているため、省エネ防災住宅の断熱壁となり、地球温暖化防止の外壁ともなります。無垢の木は420℃で発火し、表面が炭化して燃えにくくなり、鉄筋コンクリートを保護します。

 鉄 筋コンクリート躯体と一体の化粧打込み型枠は仕上変更や改修工事時の下地胴縁となります。

 

省エネ防災住宅の普及に伴う社会貢献

 一棟当り木材使用量が約40立米以上の省エネ防災住宅の普及は、間伐材の需要を拡大し、疲弊している山村や林業の復活に多大な貢献ができます。

 壁式鉄筋コンクリート躯体を無垢の木の化粧打込み型枠で包み込んだ構造は、外壁が太陽熱を吸収するため地球温暖化防止の多大な貢献ができます。

 法規制で建て替えが困難な極小地でも多層階にして多世代居住が可能な省エネ防災住宅が構築できます。

 大地震等によるインフラ停止時の備えができる省エネ防災住宅は近隣住民の避難場所となります。

 省エネ防災住宅の場合、植樹林を破壊している竹林の竹や自動車産業の負の遺産である廃タイヤの有効利用が可能となります。

 耐用年数が長い省エネ防災住宅の場合、一世代毎に高価な住居を求める消費社会から住宅を大切に使って世代を超えて住む社会が構築できます。

 有害物質を発生させる新建材で覆われた住宅の時代から殺菌作用を備えた無垢の木で覆われた省エネ防災住宅に変えることができます。

 省エネ防災住宅の普及によって、代理店制度や下請制度などは廃止され、額に汗して働く下町工場・建築家・物造り職人が報われる社会が構築できます。

 省エネ防災住宅は、津波で流されたり、火災で全焼して新しく建て替えたりする必要はなく、軽微な改造や改修工事で再生することが可能です。

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2012年2月19日 (日)

建築家美藤氏の新しい発想による省エネ。防災住宅の提案―②―

この構想は①統括本部、②新しい工務店、③下町工場の三者の連携がなくして成立しません。まず、この三つについて説明いたします。

 

【①統括本部の業務と受益】  

〇統括本部の業務は次のようなことが考えられます。

・省エネ防災住宅の全ての機器機材を全国から厳選し納入するシステムの構築。

・新しい工務店の公募育成、事務の簡素化、広報、ネット販売するシステム等の構築。

・下町工場から建設する現場へ直納する機器機材等の技術マニュアルの作成指導。

〇統括本部の受益は次のようなことが考えられます。

・機器機材の納入システムに伴う機器機材の納入手数料

・新しい工務店の指導料及び指導マニュアル作成手数料

・省エネ防災住宅関連の広報から書籍発行に伴う手数料

・省エネ防災住宅関連の保険から保険関連に伴う手数料

・新しい工務店が担う代理店業務等に関する指導と手数料

防災住宅時代の統括本部は如何なる不況下でも倒産することはありません。

お客様と組織を幸せにできる人材を求めます。

 

【②新しい工務店の業務と受益】  

〇新しい工務店の業務には次のようなことが考えられます。

・省エネ防災住宅関連の設計業務

・省エネ防災住宅関連の構築業務

・省エネ防災住宅関連の開発業務

〇新しい工務店の受益として考えられることは

・省エネ防災住宅関連の設計業務に伴う受益

・省エネ防災住宅関連の構築業務に伴う受益

・省エネ防災住宅関連の開発業務に伴う受益

防災住宅時代の新しい工務店は如何なる不況下でも倒産することはありません。

建築家と棟梁の小さな工務店を全国に展開しましょう。

 

【③下町工場の業務と受益

〇下町工場の業務として考えられることは

・省エネ防災住宅関連の機器機材の製作と直納

・省エネ防災住宅関連の機器機材の開発と製作

〇下町工場の受益には次のようなものが考えられます。

・省エネ防災住宅関連の機器機材の製作に伴う受益

・省エネ防災住宅関連の機器機材の開発に伴う受益

防災住宅時代の下町工場は如何なる不況下でも倒産することはありません。

全国の下町工場の参加が望まれます。

 

省エネ防災住宅の優位性

 防災性能が最も優れた強固な壁式鉄筋コンクリートの躯体を断熱性能に優れた無垢の木の化粧打込み型枠(間伐材)で包み込みます。そうすることでより強固な躯体が形成されます。そして地球環境に最も優しい工法省エネ防災住宅になります。

 化粧打込み型枠がコンクリートの劣化防止材となり、百年単位の長い年月に耐える長期優良住宅に最も相応しい省エネ防災住宅になります。

 省エネ防災住宅は3階建てを標準階とした、構造強化から階数のバリアフリー、極小地の対応、規模、色彩に至るまで、全ての要求に対応できる自由設計の省エネ防災住宅です。2階建を3階にした場合の敷地面積は約5坪削減できます。

 省エネ防災住宅の内外壁は50mmの化粧打込み型枠を化粧壁として利用することから、家具等の転倒防止固定が場所を選ぶことなく、強固にビス固定ができます。それで、家具等の転倒で事故が発生することはありません

 化粧打ち込み型枠は解体する必要がないことから、全ての設備工事をコンクリートの打設前に完了させることができます。そのため工期を大幅に短縮できます。

 弊社の防災住宅の場合、在来工法の住宅のように、津波や火災等で改修不可能なまでに破壊したり、瓦礫に化すことはなく、大半が軽微な改修で修復できます。

 化粧打ち込み型枠は、戦後全国に植栽され荒廃した、植樹林の間伐材が利用できることから、建設資材不足や資材の高騰に左右されない安定した調達が可能です。また無垢の木の特性を生かした地球環境に最も優しい外壁材となります。さらにコンクリートや鉄筋は多少の価格変動が生じても安定して調達できます。

 全ての工事を多能工に施工させることでの職種の削減や新建材を使用しないことでの職種の削減ができます。弊社の新しい工法では多種多様な技能者は不要です。

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2012年2月18日 (土)

建築家美藤氏の新しい発想の省エネ・防災住宅の提案―①―

 知人の建築家美藤氏の熱い思いを伝えたく、以下に掲載いたします。

地震・津浪・台風・洪水・火災に強い省エネ防災住宅推進の提案

 

今こそ新しい防災住宅、防災シェルターなどで防災街づくりを進める時です。そのためには、現在、下請でご苦労されている建築家や大工さんのみなさんに、防災街づくりする新しい工務店を全国に展開して戴きたいのです。弊社の新しい構築工法は無償で提供致します。

 

【あなたの街やあなたの家を災害に強くするためにやらなければならないことは、これまでの苦い経験を踏まえて下記のようなことです】

○東日本大震災の大津波で瓦礫となった市町村を教訓として津波で流されない防災住宅の推進。

○阪神大地震や過去の火災災害を教訓にした住宅密集地に燃えない防災住宅の推進。

○毎年のように積雪被害を蒙る市町村に雪下ろしを必要としない省エネ防災住宅の推進。

○全国の台風・土石流等の被害を蒙る地域に安心して暮らせる省エネ防災住宅の推進。

 

上記のように、全国の市町村には災害に強い防災住宅を推進すべきだと思いますが、レールの上を走っている行政や現在の住宅業界では、防災住宅を開発推進する勇気も気力もないとの思いから、新しい発想による省エネ防災住宅構築構想をまとめるに至りました。

  ー弊社が開発した新しい構築工法で建てた世界初の店舗ですー

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そこで以下に【新しい発想の省エネ防災住宅構築構想】を提起致します。

 初めに【省エネ防災住宅構築構想】について説明します。

○建設業界の下請制度や代理店制度等を撤廃することはお客様のために大切です。

○過去のしがらみや無駄を排除した技術開発で短納期・高品質・低コストを実現します。

○お客様がネットでデザインから金額まで自由に選択できるオープン価格の市場にします。

○地震・津浪・台風・洪水・火災等に強く、地球環境に優しい、他社が追随できない省エネ防災住宅の仕様があります。

○それには仮設材を必要としない連結部材と連結方法を含む10件の特許(事前審査済)があります。

特許がもたらす効果として全国の防災化を推進する組織を守り、お客様に高品質な省エネ防災住宅を安価に提供できます。

○地球温暖化の防止・間伐材の大量消費、廃タイヤの有効利用等で社会に貢献できます。

○統括本部・新しい工務店・下町工場の組織が連携して継続する技術開発で他社の追随を防御します。

 

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2012年2月17日 (金)

心理的距離

 地下鉄に乗るとき、通常は御器所駅へ行く。御器所駅には鶴舞線と桜通線が通っているが、いずれに乗るにしても御器所駅からが殆どである。

  ただ、新瑞橋方面に行くときは、桜山駅から乗ることが多い。それは桜通線は御器所より桜山の方が我が家からは近くて便利だからである。

  御器所から乗る場合は、桜通線のメーンの入口は区役所側にある。そこまでホームを通って歩くにしても、桜山駅の方が近いのだ。

  実は、歩数計を使って双方の駅までの距離を測ったことがあるのだが、桜山駅の方が若干近いことが分かった。

  それでも通常は御器所駅から乗るのは、馴れということもあるが長年利用しているので心理的に近く感じるからである。

  鶴舞線で八事方面に行くときに、我が家からでは川名駅を使うと一駅分近くなるし、歩く距離も多分御器所駅へ行くのと変わらないだろうと思う。それでも川名駅を使うことは滅多にない。川名駅は改札までが遠くて心理的距離が長く感じるのだ。

  私は毎朝ウオーキングで瑞穂運動場までを往復しているが、たまに寝坊などで歩かないときは、八事のジャスコまで歩くことがある。ジャスコまで3600歩ぐらいである。つまり瑞穂運動場往復7200歩の丁度半分の距離ということになる。それでも八事までを往復しようとは思わない。心理的距離が大変遠いのだ。

  車を運転して初めてのところに行くと、行きはものすごく遠く感じるが帰りは意外に近いと感じるものだ。行くときは早く着かないかとかどこだろうなどとあれこれ考えるから長く感じるのであろう。帰りは覚えた道をまっすぐに帰るだけだから早く感じるのだ。

  子どもの頃はいつも歩いてあちこちへ出かけていたが、三輪崎という海岸までは当時1里(約4km)と言われていた。その頃はずいぶん遠く感じたのだが、大人になってから歩いたとき4kmは子どもの頃よりずっと近くだと感じたのを覚えている。

  歩くのが当たり前というより、それしか手段がなかった江戸時代以前の人たちはいったいどの位の距離を遠いとかんじたのであろうか。5kmや10kmは屁の河童だったに違いないと想像する。

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2012年2月16日 (木)

難しい生涯教育センターの指定管理者制度反対署名

 先日昭和生涯学習センターへ行ったとき、入り口前で数人の女性が署名集めをしていた。何の署名だろうと思っていたら、そのうちの1人が近づいて来て署名に協力をしていただかないかと言った。見ると、昭和生涯教育センターの指定管理者制度移行に反対をする署名であった。

  これは昨年秋の名古屋市事業仕分けによって、生涯教育センターの業務は指定管理者に委託をすべきだということになったことに異議を申し立てるものであった。

 あの事業仕分けで、私が所属するマジッククラブが使用する名古屋市女性会館が廃止に仕分けされた。それで昨年末から廃止反対の署名集めをしてきた。

  生涯教育センターの指定管理者制度への移行についての反対も当然あると考えていたが、これまでのところは署名運動が行われていることは知らなかった。

 私は、以前に官製ワーキングプアと指定管理者制度が密接な関係があることを知り、このblogでも取り上げたことがある。

 その時に名古屋市には民間に委託した施設や業務が数えきれないほどあることを知って驚いたものである。

 指定管理者制度によって、管理の効率化が図られる面は確かにあるが、それが一方ではサービスの低下や何よりもワーキングプアを生み出す原因になっているというのが問題である。

 ワーキングプアの全国的な増加が続いており、それが経済が活性化しない要因の一つにもなっていると指摘されている。

 署名をしたときに、署名用紙を渡されて協力をいらいされた。二つ返事で引き受けたが、実際に署名を頼むと一筋縄ではいかないことが分かった。

 現行の職員の働きぶりを見ていると民間に託すべきだという人や、市職員の定年後の受け皿になっているのはやめるべきだという人、更には、やっていることが余りにも非効率的だという人など・・・・・。民間に委託すれば駐車場管理でももっと効率的にやれるという人もいた。

  私は確かに改善をしなければならない点があることはその通りだと思うのだが、効率化を優先にして本当のサービスが低下したり、低賃金化に拍車をかけるなどの点を憂えるのである。

  名古屋市などの既に指定管理制度に移行した施設や業務で移行後にどれだけ改善されたのか、それとも改悪されたのかのデータが欲しいと思った。

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2012年2月15日 (水)

八品モーニング・サービスのCafe VITA

 2月13日の朝、妻が1枚のチラシを持ってきた。見るとモーニング・サービスの広告であった。玄関に投げ込んでいったようであった。

  チラシには、大きく名古屋の市章○八が書いてあってモーニング新登場!となっていた。その下にお品書きと写真が掲載されていた。

  お品書きによると、フレッシュジュース、ヨーグルト、フレンチトースト、フルーツ、スープ、サラダ、たまご料理、パンまたはおにぎりまたはおかゆの8種類であった。

  約480kcalとカロリーまで書いてあった。それで代金はドリンク代+100円であった。念の入ったことに「一宮モーニンング」には負けとれんでなも!と書き加えてあった。

 モーニング・サービスは尾張一宮が発祥の地と言われる。最近では、コメダが栃木県へ店をだし大評判となったと聞く。ただ、Morning Serviceはキリスト教では日曜日の礼拝のことで、西欧人は最初は勘違いをして驚くという。

  このCafeは、場所は我が家から割合近くて、檀渓通のケンタッキーの西で蕎麦の諏訪屋の並びにあった。

  次の日の朝、8時になると試食に出かけた。店の外から様子をうかがっていると、店の人が出てきた。まだCLOSEDのままであった。それをはずして店の中に招きいれた。

  店内は写真のように、壁に作り付けの棚があり、食器などがぎっしりと並べてあった。インテリアの一つらしかった。反対側の壁には、アメリカのルート66の写真が展示してあった。

  何でも友人がルート66を旅して撮ったものだというころであった。「ギャラリーにもなっているのですね?」と尋ねたら、そうだと言った。また、ターニャの庭などいろいろな本も立てかけてあった。

 店には、カウンター席とテーブル席が4つあった。真ん中のテーブルに座ってモーニングが運ばれてくるのを待った。

  私が最初の客のようであったので、店の人と話をした。私は広告を見るまでこの店の存在を知らなかったというと、開店してまだ3か月だと言った。私は、あの辺りを通ることもあるのだが全く気付かなかった。店の人は「宣伝してないからでしょう。」と言った。どうやら昨日のチラシが初めての宣伝のようであった。

 細長い長方形のものに3品入ったものが出された。ゆでた人参、ポテトサラダ、タマゴ焼きだった。ジュースは小さな空き瓶にリンゴジュースが入っていた。ヨーグルト、スープ、トーストと丸いパン、フレンチトーストもあった。フレンチトーストは2日間浸して作ったものだと話した。

 少しづつ8品のものが味わえて、健康にも配慮されていると感じた。コーヒーは、ブレンドコーヒーで、おいしいと思ったのを選んだと言っていた。やや苦味のあるコーヒーであった。

 男の客が1人、その後に年配のご婦人が1人来た。ご婦人は近所の人でやはりチラシを見て来たのだと言った。よくしゃべる人でいろいろと話していた。

  そのうちにコーヒーはお代わりできることが分かった。コーヒーは500円でホテル並みであったが、お代わりできるからか?と思った。モーニングは+100円なので600円であった。

  店は隣にあるスタジオVITAというのと同じ経営だということで、インストラクターの若い女性も来て手伝っていた。どうやら健康関係のエクササイズのようで、そちらは始めて5年になると言った。食べ物も健康に関係するのでこのCafeも始めたのだという。

 客は3人だけだった。ご婦人と店の人3人と私でしゃべっているうちにマジックを見せてやろうという気になって、ジャンピング・ダイヤと色の移動を見せた。とても興味深い様子であった。簡単なカードマジックなども見せた。

  そのうちに5周年記念のイベントをやるのでマジックをやらないかという話になった。それで引き受けることにした。

  店は二人の男性が中心のようであった。1人はリタイアした人で、もう一人はシステム・エンジニアの現役だという。その関係でコーヒーのサービスにパソコンも教えているのだと言った。カウンターには、パソコンが一台置いてあった。

  コーヒー屋は儲からないが、いろんな人が来て接するのが楽しいと話していた。このCafeは日本一おいしい焼き芋も売っているそうだ。

広告にあった「一宮モーニング」を食べに行き3軒回ったと言っていた。私は一宮モーニングを1度しか食べたことがないので分からない。

http://facebook.com/cafevita.nagoya

Cafe_vita1

Cafe_vita2

Cafe_vita3

 

 

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2012年2月14日 (火)

建築家美藤氏の執念が「画期的な防災住宅&防災シェルターの提案」公開に

 私の知人で愛媛県松山市に在住の建築家美藤氏は、長年にわたり間伐材の活用を念頭に置いて、省エネ、低コストで強固な構造の建築法の研究開発に努めてこられた。その間、いくつかの特許を申請し、現在審査中である。

 昨年3月11日の東日本大震災と大津波の被害の大きさに衝撃を受け、更にはその後に南紀州などで起きた台風による大きな被害を見ることで災害に強い住宅の建築が急務であると考えた。

 そこで、地震、津波、火事、台風などの予期しない自然災害に強い防災住宅と街づくりが重要であるとして、東日本大震災と大津波に遭遇した沿岸各地の自治体に別記のような提案を送った。更に、将来必ず起きると言われている東南海、南海大地震とそれによって引き起こされるであろう津波が想定されている自治体にも同様の提案を送ったのである。

  私は、その提案を広く知ってもらうことが大事だと考え、下記のblogで紹介するとともに、このblogでも紹介をするものである。

 なお、実際の建築例は、1月10日のblogに紹介をしてある。

 

 下記のURLをクリックするとすぐ立ち上がるので是非覗いてみてほしいと思います。図面は最後に4部貼付してあります。

http://hidelog.at.webry.info/201202/article_4.html

http://hidelog.at.webry.info/201202/article_5.html

Rubble in Iwaki

 

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2012年2月13日 (月)

ドナルド・キーン博士の講演「世界の中の日本文学」を聴く

  以下の文章は、メモにもとづいて書いたので聞き取りにくい部分などがあって間違いがあるかもしれないことをお断りしておきます。

 3週間月ほど前にことである。新聞の折り込み広告に「日本文学と日本文化をめぐって語る」と題した名古屋大学の公開レクチャーのチラシが入っていた。講師は、ドナルド。キーン博士と早稲田大学名誉教授鳥越文蔵先生であった。

  ドナルド・キーン博士は、昨年の3.11の東日本大震災後日本に帰化されることを表明された著名な学者である。私はすぐに申し込むことにした。

  少しでも早い方がよいと思ってインターネットで申し込んだ。1週間ぐらい前に当選したというハガキが届いた。私は籤運が悪い方なのだが当選したことを素直に喜んだ。

  2月11日の建国記念日が講演の日だ。名古屋大学の豊田講堂で行われる。14時半の開演だが13時過ぎに家を出た。早く着いても本を読んで過ごせばよいと考えたのだ。

  13時40分ごろ、名古屋大学前駅の②出口を出るとたくさんの人が豊田講堂を目指していた。講堂に入ると、かなりの人が座っていた。それでもところどころに空席があったので前列から5列目に座ることができた。

 レクチャーは定刻通りに始まり、浜口名大総長の挨拶があった。その後早稲田大学鳥越名誉教授の「日本文化における芸能」と題しての講演があった。鳥越教授はキーン博士とは50年来の付き合いだと話された。坪内逍遥と河竹黙阿弥を中心の講演であった。

  20分の休憩の後、16時過ぎからキーン博士の講演が始まった。「世界の中の日本文学」というテーマで話された。日本文文学は現在村上春樹など多くの文学者の作品が欧米に紹介されていて世界の文学の一翼を担うまでになっているが、それはごく最近のことであるという。

 そこに至るまでの概略の道筋を話された。どのようにして世界に広まったのかということとどのようにして発展したかについて話すと前置きをして始められた。

 日本文学を紹介する場合ネックになるのは日本語という言葉である。特に明治以前の文学は文語で書かれているし、その日本語を学習するのは欧米人にとって容易なことではなかった。その大変なことをごく一部の欧米人が担ったのである。

  だから翻訳の誤りも多かったし、自分の文化の視点で翻訳したのでゆがめられた面も多くあったという。

  明治以前には、「文学」という概念は存在しなかったという。最初は中国人によって安倍仲麻呂の有名な「天の原ふりさけ見れば・・・が紹介されたが、中国人には漢字が同じだということがあった。しかし、中華思想の中国人はそれ以上に自ら紹介することはしなかったのだという。それ以後700年のブランクがあるという。

  室町時代になってポルトガル人が来日して様子が変わった。ザビエルなどの宣教師がやってきたが、キリスト教の布教をするのに日本語を学ぶ必要があった。彼らは平家物語や太平記を使って勉強した。そこで面白いエピソードを紹介された。

  Godをどう翻訳するかという問題である。「神」という言葉に置き換えたら日本人はすぐに理解したが、それは八百万の神としてであった。そこで誰かが大日様を教えたらそれもすぐに理解されたが、本当の意味のGodとしての理解ではなかったという。ポルトガル語の「ダイウス」を使ったら、「大ウソ」と受け止められたという。

  宣教師は大変な苦労をして布教をしたらしい。そこで、1603年に大辞典がロドリゲスによって編纂された。3万語を載せているという。大日本文献として平家物語や太平記などの他に、詩歌や俳句や小唄なども載せられた。それは宣教師の日本語学習の便を図るためであった。

  長崎の出島にオランダ人が来るようになったが、彼らは金儲けが目的で日本語や文化はどうでもよかった。その中に1人、ケンペルという人がいて、日本文化や日本語に関心を示し、日本史を書いた。

  大英博物館には、浄瑠璃の本があるという。また、フランス人のカクオク?は、天皇の年代記を書いた。また、大伴家持の「常の日の御代は・・・」という短歌をフランス語に訳したという。これは最初の日本文学の翻訳だという。

  1607年ごろになると、ロシアはシベリアに日本語学校を作ったが、教えたのは遭難した漁師で、出身により日本人同士でも通じないことがあり役には立たなかったようだ。それでも1868年まで続いたそうだ。

  その後日本語学校はセントペテルブルグに移された。そこにヨーロッパの国々からやってきた人が日本語を勉強したという。

  1870年には、キッツマイヤーが柳亭種彦のある作品をドイツ語に翻訳した。その他に、和泉式部日記や万葉集から200種も翻訳したという。

  オランダの長崎商館からは、毎年江戸に行って将軍に世界の事情を説明することになっていた。1826年にはシーボルトが大阪で歌舞伎の妹背山の二段目を見ている。それをオペラ作者のマヤビー?とドーデ―に教えたという。そして日本文学の最初の焼き直し版が作られた。

  ディッケンズは慶応2年に、百人一首の英訳をしたがこれは最初の英訳である。1889年には、竹取物語の英訳をした。明治の翻訳はずいぶんひどいものであったという。

  ヨーロッパでは、その頃は詩歌が最高のものと考えられていて、韻を踏むことも重視された。それで翻訳に当たってもその観点からされたという。

 1870年ごろになると、フランスなどで浮世絵や日本趣味の人気が高まった。日本の歴史や文化への関心を持つ人がが増えた。1882年には古事記の全訳が完成した。これは日本の宗教に関心がる人などに今でも読まれている。

1899年には、アステム?が日本文学史を著したが誤りが多く偏見があるという。滝沢馬琴だけを評価しているっという。

  19世紀後半に、天文学者のローベルは美術品を本国に送っている。妹は俳諧に興味をもった。彼の影響を受けたのは小泉八雲らがいる。

 アーネストは、日本建築に興味を示し、フェノロサは東京芸術大学の前身を設立したり、仏像を守ったりした。

  アーサー・ウェリは1912年に19の能楽の翻訳をし、1919年には短歌の解釈をしている。1925年には源氏物語巻Ⅰを翻訳し、1933年には全6巻の翻訳を完成した。1955年には5万部も売っている。これによって源氏物語は欧米人を驚嘆させることになった。キーン博士が日本文学研究をするきっかけとなったのもこの本である。日本文学の最高峰だという。

  近代日本文学は長い間欧米から無視されてきた。1940年にはわずかに火野葦平の「麦と兵隊」が評価されただけであった。

 サイデンステッカーは、谷崎潤一郎や川端康成を紹介し、モリスは三島由紀夫や大岡昇平を紹介している。

  キーン博士は、日本文学選集を出版した。今では日本文学作品も日本語から欧米語に翻訳をされて世界の文学の一翼を担っている。アメリカでは日本文学を学ぶ学生がふえているという。

写真:記念館への思いを語るドナルド・キーンさん=柏崎市諏訪町

「愛する日本で余生を過ごす」ドナルド・キーンさん、半世紀の教員生活に幕

2011.4.27 09:23

 日本文学研究で知られ、日本永住を決めている米コロンビア大名誉教授のドナルド・キーンさん(88)は26日、ニューヨークの同大で最後の講義を行い、1950年代半ば以降、半世紀以上にわたる教員生活に幕を閉じた。

 キーンさんは冒頭、参加した大学院生らに「愛する日本に移り、余生を過ごす。(東日本大震災や福島原発事故の発生で)多くの外国人が日本を離れる中、私の決断に驚いた人もいたが、『勇気をもらった』と言ってくれる人もいた。そうだといいなと思う」と心境を語った。

 最後の講義では、日本の古典芸能の能について約1時間、歴史や、自らの若いころの学習経験などを話した。終了後、院生らから花束を受け取り、目に涙をため、感謝の言葉を述べた。

 記者団に「もう学生たちに教えられなくなると思うと寂しくてつらい。でも、こんなに長く教えることができてうれしい」と日本語で話した。(共同)

 

 

 

 

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2012年2月12日 (日)

我が家の坪庭に初めて霜柱が立った

 2月9日の朝のことであった。7時過ぎに雨戸を開けて、庭に洗濯物を干しに出た。物干し竿にかけ終わって、ふとモミジの根元を見ると何やら白っぽいものが散らばっていた。何だろうと思って近寄ってよく見ると、何と霜柱が一面に立っていた。

  霜柱は直径が5ミリくらいで長さは5ミリくらいのや長いのは10ミリくらいのもあった。地面から飛び出ていた。氷なので白っぽく見えたのだ。

  前日の天気予報では、明日は冷え込むと言っていたので霜柱ができたのであろうと思った。

  我が家に住んで45年ほどになるが、霜柱を見たのは初めてである。茶柱が立つとよいことがあるというが、霜柱では駄目か?などと思った。

  私が子供の頃は、近所に田や畑があり、冬に霜柱を見るのは珍しいことではなかった。畑の土を持ち上げて3cmぐらいの霜柱だって見たことがある。その映像は今も焼き付いている。

  その頃は道路は未舗装であったので、道路にも霜柱が立っているところがあった。霜柱を踏むとジャリっと音がした。特に寒い日の朝は音が大きかった。

  都会では、舗装されたところが多いので霜柱が立つところがない。霜柱というものを見る機会がほとんどないから、子どもたちは体感として霜柱という概念を裏付けることができない。テレビとか写真とかの映像で知ることになるのであろうが、それでは貧弱な言語になってしまう。 

 私の場合は、霜柱と共に子供の頃の冬の映像が脳裏に浮かんで広がって行くのだが。

  我が家の霜柱は8時半ごろには消えてしまった。

 

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2012年2月11日 (土)

被爆医師肥田舜太郎先生講演―⑤―

 しかしその放射線と紫外線殺で、されても殺されても、人間はそれでも生まれてきてですね、それと対決して、免疫を作って対決して、こうやって現在までいのちを繋いで続いてきた。それには何千万年という時間がかかっている。そんなに長い時間の間、人間は太陽と一緒に起き、太陽と一緒に寝た。生き残るにはこれしか他に手が無かった。明かりも無ければ、熱も無い、エネルギー何にも持たず、それで生き延びてきたんですね。だからその時の状態、太陽と一緒に起き、太陽と一緒に寝るという、その生活が基本になって人間の免疫を作っている。

 

  だから我々の持っているこの僅かな貴重な免疫を磨り減らさない為には、今述べたようなその生活に努めて近い生活をすることが、大事だろうと・・言うことで、朝寝、夜更かしは止める。朝起き、早寝で生活する。健康に悪いと言われることは一切やらない。タバコはやめる。食べ過ぎもやめる。食事の際には30回噛め、って言うなら30回噛みましょう。・・っていうようなことを何十万人という被爆者たちが一生懸命に実行して、やってきたんですよ。

 

 

 

 だから、今21万人と言う被爆者が、歳をとってはいるけれでも生き延びています。これは自然に生きたのではなくって、被爆者が努力して、放射線と闘って長生きしてきたんですよね。今、こうやって講演しながら、これを私は教えて歩いているんですよね。そんな事でも頼りにしてくれます。私しか、そんな話をする人は他にはいないんですよね。だから、もっともっと被爆者が生きてきて、闘ってきた歴史、それをもっと皆で勉強して下さい。彼らは放射線と闘った先輩なんですよね。

 

 

 

 自分で自分のいのちを守ってきたんですよね。だから、医学が進歩して治療法が解るまでは、当面は、先輩の言うことを勉強しながら、日本は、政府は政府なりに国民の健康を守って、これ以上、放射線の被害を増やさない、というこの事に努めるべきです。そう思って私は95歳になっても、今、全国を歩いて、ほとんどど連日、講演をして歩いてます。これは私しか出来ないから私がやるしか仕方がないんです。明日死んでも、明後日死んでも、やっぱりやるべきだと思ってやっています。

 

 

 

 でも、たった一人の人間がやることには、限度がありますよ。なんぼやったって、とても一億の人間に、ものを解らせる訳にはいかないんですよね。だから頼りになるのは皆さんなんですよ。マスコミが本当の放射線被害というものを、本当に掴んで頂いて、政治的な立場なんかじゃなくって、人間のいのちを守る立場から、これを国民に広げて頂きたい。本当にそう思っています。終わります。(拍手)
                       ―終わり―

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2012年2月10日 (金)

被爆医師肥田舜太郎先生の講演―④―

 これがマッカーサーのやった事なんです。で、その指令が出たもんで、被爆者は全部、黙りました。それに逆らった時のアメリカ占領軍や日本政府からの処罰が、おっかないですからね。それと、まず真っ先に、広島大学と長崎大学が黙ってしまったんですね。あとは、開業医の層がね、患者が来て「先生、実は私は広島で被曝しましてね・・」ってこう言いかけるとですね、それを聞いた開業医の方から「あぁ・・その話は言わんで下さい!私が聞いた事が解ると、私がGHQ[Genelal  Head of Quaters 連合国軍総司令部の略号]から睨まれますから・・」っていう、そういう形で、被爆者は医師からも相手にされなくなったんです。

  中には良心的に診た医者もいるけれども、当時の医学は放射線の診断は全く出来なかったんですね。どこが、どう悪いのか、当時の医学的知識も情報も何んにも無いんですね。ですから、私は外人が良く質問するように「何故日本が、原爆の被害というあの経験をしながら、政府も専門家の、なぜ原子炉をそんなにたくさん作ったのか?」という疑問に対しての答えは、今述べたことしか無いんですよね。

  それがそのまんま、アメリカの対日占領政策が終わってアメリカが日本から帰った後も、日本が独立しても、日米安保条約を結ばされて、アメリカの核兵器に不利になることは一切やってはいけないという、内規みたいなもので日本は縛られてきている。だから、福島でああいうことが起こっても、あの放射線被害について本当に心配している人間は、今のこの日本にもいないんですよ。

  「安全だ!安全だ!」っていうことは皆、言います。どうしたら良いか、ってことは、本人が出来もしないような「遠くへ逃げろ!」と。「食べる物は放射能で汚染してない物を食べろ!」と、みんなこの二つを言う。現地の人で、それが出来る人は、福島県の人口の一割もいませんよ。もし福島県のすべての県民皆が移ったら、行く所なんか日本にはありませんよ。そういう狭い国の中へ、あれだけの原発を作るっていう大間違いを、日本の国民が選んでやってきちゃったんですよ。

  それは、放射線の被害をなんにも教えられていない。ヒロシマ・ナガサキ、って言うと、「あぁ、あのケロイドが出来て、すごい火傷をしたあれね!」って・・いう具合に、目に見える被害しか知らない。放射線の被害については誰も知らないんですよね。

  だから私は、これから日本国民はもう一度勉強し直して、放射線被害というものが、下手をすると人類が滅んでしまい兼ねない、恐ろしい敵である。治療の方法も無ければ、防護の方法も無い、そういう恐ろしい敵であるということを、もっともっと皆で勉強して、これを機会に放射線というもにに対して縁を切る、そういう国にならなけれればいけないって、私はそう思っています。

  今、私は、方々から頼まれて講演に行きます。何を頼まれるか?って言うと、「どうしたらいいか教えろ!」って聞かれるんですね。そんなこと僕に解る訳でない。「でも先生は被爆者もたくさん診てきたから、何かきっと良い智慧があるに違いないから教えて欲しい」って、よくそういう質問をされるんですね。

  ひとつ、あります。それは、私は日本被団協に縁を持つようになって、組織の中のたった一人の医者なんですから、被爆者に病気を発病させないで、最後までガンにならないで、放射線に勝って長生きする方法、これを皆で勉強しよう・・・って、そういう思いで30数年間、ずっとやって来ました。で、その結果、皆で到達した結論って言うのは、要するに自分が最高の健康の状態を保ちながら、放射線による病気の発病を予防するということ、病気を起こさないで長生きする、って言うこと以外に手は無いんですね。

  お医者さんに行っても放射能による病気に効く薬は何にもないんですよね。困難でも、それをやろうじゃないか、ってことですよね。それは何をやったらいいだろうか?私はいろいろ考えてですね、4億年前に、この地球の上に人間が生まれたんだそうですけど。その頃の生まれたばかりの人間は、自然界にある放射線と紫外線で、どんどん殺されていったという。

 
                          ーつづく―

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2012年2月 9日 (木)

被爆医師肥田舜太郎先生の講演―③―

 その後、30年、そういう患者をずーっと診続けて、1975年にアメリカに私行きました。第一回の原水爆実験禁止の国民代表団として国連に要請に行ったんです。その代表の中に入れてもらって国連へ行った時に、アメリカの医者で、たった一人、内部被曝の患者ばかりを診て、ちゃんと理論を作って、アメリカ政府に対決している博士がいたんですよね。ピッツバーグ大学のアーネストス・スタングラス[◆註:2]という医者です。まだ生きています。僕より2つほど歳下ですけど。

 
[◆註:2]Earnest J.Sternglass
 1923年ドイツのベルリン生まれ。アメリカのピッツバーグ大学医学部放射線科名誉教授。専門は放射線物理。スタングラス博士の「低レベル放射線の人体影響」に対する研究は、広島原爆による放射線影響を過小評価した論文がきっかけとなった。博士はアメリカにおける核実験からの死の灰により、幼児の過剰死が起こっていることをいち早く発表した。その後、原子炉周辺でも同様に過剰死や健康障害が起こっていることを発見した。
 これらの綿密な分析に基づいた名著『Secret Fallout』(邦題『赤ん坊をおそう放射能』)を著した。アメリカの著名な統計学者ジェイ.M.グールドと非営利団体「放射線と公衆衛生プロジェクト(RPHP)」も設立。更に研究を通じ、一見健康な人の間でも、学力低下や、免疫力低下、感染症へのかかりやすさ等、社会全体としての質の劣化が生じているという理論を展開している。[註:オワリ]
 
 
 このスタングラスが僕に会った時にですね、僕が「広島から来た」って言ったら、「お前は何でアメリカに来たのか?」って彼が言うから、「原爆に遭わなかった人間が解らない症状で死んで行くので、これを教えてもらいたいから来たのだ・・」って私が言うと、「あぁ、お前の見たそれは、放射線が体の中に入った時に起こる病気だ。アメリカにもおなじような患者がいっぱいいる」って、そう言うんですよね。「それは核実験で被曝したアメリカ軍の兵隊が皆、全国的に発症して出ている。俺がそのことで本を書いたから、その本をお前にやる」、って言うんで、その時に私は初めて低線量被曝量内部被曝の理屈を、そのアーネストス・タングラスという先生から教わったんですね。

  それで日本に帰ってきて、その本を日本語に翻訳して、お金がありませんし、本屋はそんな本なんか出版してくれるようなところなんかも無かったのですが、時事新報社っていうところが、その本のことを気に入ってくれて、本として出版してくれました。でも、この本が、日本で出た低線量放射線の内部被曝の初めての本[◆註:3]ですけれど、ほとんど誰も読んでないと思います。

 
[◆註:3]『死に過ぎた赤ん坊---低レベル放射線の恐怖』(Low Level Radiation,肥田舜太郎訳,1978年,時事通信社)。この増補版に『赤ん坊をおそう放射能---ヒロシマからスリーマイルまで』(Secret Fallout:Low-Lexel Radiation from Hiroshima to Three Mile Island,反原発科学者連合訳,1982年,新泉社),『Before the Big Ban』(Four walls Eight Windows,New York,1997)の著もある。
 
 ラルフ・グロイブとアーネスト・スターングラスの著『人間と環境への低レベル放射能の脅威―福島原発放射能汚染を考えるために―』肥田舜太郎・竹野内真理共訳[あけび書房/2011年6月25日初版]は、
3.11福島原発事故原因の評価から、被爆国日本にある原発の矛盾、今後の賠償問題、モニタリングポストやホールボディーカウンタの限界、内部被曝と外部被曝の違い、「安全基準値」批判、「ペトカウ効果」とは何かなど・・・低線量被曝をめぐる重要な指摘など綿密な調査研究書。[註:オワリ]
 
 
 まぁ、そんな事が縁で、私は放射線医学をやってきたんですが。私が一番言いたい問題は、ヒロシマ・ナガサキを経験した日本が、なんで53基もの原発を日本に作ったのか?ということです。これは外国の人の疑問なんですよ。「何でそんな事をしたのか・・?」って。
 
 原因はひとつなんですよ。1945[H20]年の9月1日にダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に着きました。で、最初に対日占領方針を発表したんですよね。彼、マッカーサーがずるいことに、文書では出さずに、全部口頭でその占領方針を言ったんですよね。で、日本政府の要人が通訳者と速記者も連れて、マッカーサーが口頭で言った事を全部筆記して、そして当時の厚生大臣が広島にいる僕らのような医者たちのところに通知してきた。

  その中味のうちで関係の無い事は僕は知りませんけど、「原爆によって広島・長崎の市民、兵隊が沢山被曝した。中には死んだ者も沢山おる。それから現在、怪我をし病気をし入院して寝ている者もおる。しかし、彼らが今被っている被害は、アメリカの軍の軍事機密である。これについては本人は勿論、それを見た者も、聞いた者も、絶対に口外してはならん。これに逆らう者は厳罰に処す」と・・。

  それから「日本の医師、医学者は当然こういう被曝した人間から診療を求められる。その場合は医者としての義務として診療はしても宜しい。ただ、その結果を詳細に書いて複数の医師同士で研究をしたり、論文で学会に出したり、日本の医学界が放射線の被害について研究、調査することは一切いけない。これに違反した者は厳罰に処す・・・」と。

 

 

 

 

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2012年2月 8日 (水)

被爆医師肥田舜太郎先生の講演―②―

 最後に、これも不思議なんですけれど、筵の上に寝ている患者がですね、あと大体数時間しか生きていないっていうようなそういう人間が、何気なく自分の頭をこうやって、頭髪を後の方に手で撫で上げるんですよね。するとそうやって触った自分の手のひらに毛がすうーって、こう取れるんですよね。あの・・・脱毛、脱毛って・・よく被爆者の事が書かれていますよね。

 でも、脱毛っていうのとは違うんですよね。触ると取れるんですよね。これは僕らしか見たことが無いんですよね。その後、世界中のどこを見ても、こんな現象は有りません。あの時だけだったんですよね。で、それは後で解ったんですよね。だいぶ10年ぐらい経って、20年くらい経ってから、なぜそういうことが起こるのかっていうことが、アメリカから伝わってきました。

  それは毛の根本っていうのは毛根細胞っていいますよね。こうやって手で髪の毛をプツンと抜くと、手で触ると毛の付け根に肉が付いていますよね。この肉が毛根細胞って言うんですよね。これが頭の頭皮の肌にくっついているんですね。この毛根細胞というのは人間の体の中にある細胞のうちでも一番勢いの良い、生命力のある、どんどん伸びる、分裂する細胞なんですよね。こういう細胞分裂が活発な細胞が、一番先に放射線にやられるらしいんですよね。

  で、爆発した原爆の相当強烈な放射線がまず頭上を照射する。で、その放射線で毛根細胞が全部即死したんですね。結局、頭皮の地肌から離れた毛が毛穴につっ立っていた。そんなこと知らないから患者はこうやって手で頭を撫でると、すーっと毛が取れちゃう。これがあの時の脱毛なんですね。

  で、そう言う見たことの無い症状が出ると、大体1時間から2時間ぐらいで全部死んでいくんですね。で、30名、50名の被爆者が、こう地べたに寝てるんですけど、そういう所で誰か一人が死ぬと僕らが呼ばれて行って、その死んだ人の所に行くんですね。するとその死んだ人の周りで寝てる患者が、そういう丁度毛が抜けて、また死んで行くところにぶつかるんですよね。

  だから僕らの経験でいくと、あのピカドンに遭った人は、こういう症状で死ぬんだなぁ・・っていうことが、理屈じゃなくですね、数多くそういうことを目撃した経験から教えられたんですよね。これが、後から付けられた「急性放射能症」。つまり原爆の放射線でやられた最初の急性症状で、2万7000人の人が、どんどんどんどん死んだんですね。

  その次に僕らがビックリしたのは、本人が「軍医殿、わしゃぁ、ピカには遭っておりまへんで・・!」って言うのがいるんですよ。「どうした?」って聞くと、「その日は広島にはいなかった!」って言うんですよね。「原爆投下された8月6の日二日後に自分は広島に帰って、自分の子どもが帰って来ないのがいるから、焼け跡を探して歩いた」って言うんですよね。「大体二日くらい歩いたら、どうも体の調子がおかしくなって、それで診てもらおうとおもってここへ来たんだ」って言うんですよね。

  僕らの持っている医学の知識でいくら診てもですね、具合が悪いってところが見つけられないんですよね。当時の事だから、難しい検査なんてものは出来ません。でも常識的にこれはおかしいと・・。で、そう言っているうちに、変な症状が出て死んでいっちゃうんですよね。この人は一体何で死んだのか?っと・・・。ピカにも遭っていないと。こりゃ何だ?・・って言うのが自分の放射線病との出会った最初ですわ。

  それから、今言う、いわゆる「内部被曝」。当日広島市内にはいなかったのに、1週間・・そうですねぇ・・法律の上では数日以内に広島市内に入ったというのが被爆者と認められているんですが、この連中の中から僕らの診ていない病気がうんと出てきたんですね。

  つまり、今現在は、内部被曝という言葉があるけれど、当時は僕らは「入市被曝」って呼んでいました。本人は原爆が炸裂した当日には広島にはいなくて、後から町へ入ちゃって、こうなった・・と。で、その原因が、全然僕には解らなかったです。

                    ―つづく―

 

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2012年2月 7日 (火)

被爆医師肥田舜太郎先生の講演―①―

「おけらの いつかは青空 脱原発」からの転載です。
 世界でただ一人被爆医師として66年間を核兵器と被曝からいのちを守る活動を継続されている肥田舜太郎先生。おけらがとても尊敬している方です。
 いま先生は94才。お元気で脱原発の講演会に日本中を駆け巡っていらっしゃいます。
以下は、2012[H24]年1月27日、自由報道協会および日本記者クラブにおいて、呼びかけ人:肥田舜太郎、大石又七、矢ヶ崎克馬、松井英介、沢田昭二、高橋博子、岩田渉の諸氏(順不同)による、「市民と科学者の内部被曝問題研究会」の設立記者会見のお話です。とてもポイントをついた、大切な内容となっています。
 友人のTさんから諸留さんのデータが送付されたのですが、転載自由とのこと。
ぜひ広めてください。
 
ーーー
ここで発表された「日本政府への提言」がホームページに公開されました。
非常に大切な、的を得た指摘です。是非お読み下さい。
記者会見のリンク先とあわせてお知らせいたします。
 「市民と科学者の内部被曝問題研究会」の「日本政府への提言」及び
同会への会員入会ご希望の方は以下の
■内部被曝研のホームページ
http://www.acsir.org/
から閲覧と申し込みができます。
 
「市民と科学者の内部被曝問題研究会」の設立記者会見の様子は
以下のURLで閲覧できます。
■自由報道協会記者会見
http://www.ustream.tv/recorded/20030116
■肥田舜太郎医師の会見(自由報道協会記者会見より)
http://www.youtube.com/watch?v=E3hbk39TjHM&feature=player_embedded#t=11s
■日本記者クラブ記者会見(重要な見解が整理されて述べられています。)
http://www.jnpc.or.jp/activities/news/report/2012/01/r00023779/
 
 
 なかでも、日本記者クラブでの「市民と科学者の内部被曝問題研究会」の設立記者会見の席上での、呼びかけ人の一人の肥田舜太郎医師の発言は、大変重要な指摘があります。
また、非常に深い感銘を受ける力強い内容です。
 東電、政府、自治体、科学者、医者、司法界、マスコミなどの言う「放射能安全基準値」が、如何に非科学的なものでしかなく、低線量被曝を意図的に考慮しない政治的な、
「放射能被曝我慢強制値」でしかないかを、低線量被曝量の危険性を肥田舜太郎医師も、切々と訴えておられます。
以下、その全文を掲載します。
 私は1917年生まれです。28歳の時に、広島陸軍病院で軍医として勤務していました。原爆が投下された8月6日の前夜はたまたま病院に泊まっていたのですが、深夜の午前2時半頃に、かって一度だけ診察したことのある農家の子どもが、心臓弁膜症で発作を起こしたので診察に来て欲しい、ということだったので、緊急往診に連れ出されました。
 
 当時、将校は勤務の無い夜間とか、命令などの何も無い時は自由ですから、診療活動は出来ます。ただ、報酬は貰ってはいけないということだったんですね。そういうことで、原爆の落ちた朝、6キロ離れた戸坂(へさか)村[◆註:1]へ行っていて、病院を離れていたために助かりました。
 
[◆註:1]
爆心地から東北方向へ約6キロにあった広島県安芸郡の村。1955(昭和30)年4月10日に広島市に編入合併し消滅。[註:オワリ]
 
 病院は爆心地から350メートルという至近距離にあったため、瞬間的に病院は無くなりました。病院の中にいた597名は3名を残して即死したようです。私が戸坂村で被曝した時の様子などをお話ししていると時間も無くなりますので割愛します。
 
 私がこの戸坂村にいて、午後になってから広島から逃げてきた大量の被爆者が、その小さな戸坂村にどんどんどんどん入り込んだんですね。でも、被爆者たちが村に入ってきても村の内もやはり爆風でほとんど壊されていて、入れるような家もない。沢山収容できる小学校も、二棟あった校舎も全壊してどこにも収容できる所がない。結局、広島から逃げて来た人たちは前身火傷の、皮膚がズルズルに焼けただれた大変な重症者たちは、結局、道路と、学校のグランドと、それから村の空き地ですね、そういう地べたに皆、寝転がったんですよね。
 
 で、そういうような重傷の被爆者たちを私たちがどうしても治療しなくちゃならなくなったんですよね。その日の夕方、たまたま偶然、4人の軍医が集まりました。その夜の戸坂村の記録によると、6000人の患者が村に入ったんですよね。しかし、治療する道具は何にも無い、薬も何にも無いという状態で、見る見る皆が死んでいくという状態に我々医者は立たされました。
 
 その日3日間、結局、薬も無し何にも無しという状態で、我々はただ手をこまねいて死んでいくのを見るだけ、と言われても仕方がないような状態でした。
 
 4日目の朝、「それまで死んだ人は全部火傷で死んだのだ」と、我々は常識的にそう思っていました。ところが、4日目の朝から、火傷でない状態で死ぬ人が現れ始めました。その日は朝から、村の記録によると2万7000名という被爆者が村に入ったのですね。診療するほうは、前の晩に九州と四国から軍の命令で応援が来ました。医者の数は確か27名になったと思うんですが、何しろ治療しなければならない相手が、2万7000名という膨大な患者数ですから、どうしようもないんですよね。
 
 どういう症状が出始めたかっていうと、まず、40度の熱が出る。40度という高熱は内科の医者でも、あんまり診たことが無いほどの高熱なんですね。マラリヤで死ぬ時と、肺炎の末期と、チフスの時に出るだけなんですよ。それで「何でこんな高熱が出るんだ?」って思って被爆者を診ると、まず目と鼻と口から血が出ます。目から出る血というのは、医者でも見たことが無いんですよね。鼻や口から出血するのはそれまでにも何度か見たことがありますが。
 
 でも、目の、ここの、アカンベーをした時の、ここから血が出る、というような患者は医者でも見たことがないんですよね。そのうちに、熱が有りますから、当然扁桃腺を診るんですよね。扁桃腺が腫れれば高い熱が出ますからね。そう思って、非常に苦労して被爆者の口の中を診ますと、医者が自分の顔を被爆者の口に近づけて持って行けないほど、もの凄く臭いんですよね。これは、単に口臭があるというような匂いなんかではなくって、腐敗している匂いなんですね。人間がまだ生きているのに、何で口の中が腐っていくのかが解らない。
 
 そのうちに、火傷をしていない綺麗な肌はまだ残っているんですよね。その綺麗な肌に紫色の斑点が出るんですね。丁度、鉛筆のお尻に紫色のインクを付けて、こうやってポンポンポン・・っていうように皮膚に押し当てると紫色の痣のような色が付きますよね、丁度そういうように紫色の斑点が出てくるのですね。でも、それも何故なのかが解らないんですね。
 
                    ―つづく―
 

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2012年2月 6日 (月)

NHKヒューマン、なぜ人間になれたのか―第2回を見て―

 NHK番組「ヒューマン、なぜ人間になれたのか」第2回を見た。今回は約6万年前にアフリカ大陸を出た数千人のホモサピエンスが、5万年ほどかけて全地球に広がったことがメインであった。海を隔てたオーストラリア大陸にも達したのだからすごいと思った。

 しかも、それが昨年には70億人にまで増えたのだ。番組では、人間は霊長類の中でも増えやすいそうで、ゴリラの5倍、チンパンジーの2.5倍だそうだ。

 現代人の祖先がアフリカから他の地域へ広がったのは、増える人口のため食糧を求めて新しい土地へ移動をしたのだという。途中イスラエルの辺りでネアンデルタール人と遭遇したようだ。

 ネアンデルタール人は、大きくて屈強な体格をしていて大きな獣をとっていたのだという。それに対してホモサピエンスは、槍のような投擲具を使ってウサギのような小動物もとっていた。だから生き延びることができたのだという。

 その投擲具は短い棒の尻に鉤をつけ、それに槍を引っ掛けて飛ばすことにより、100mとか150mもの遠くまで飛ばすことができた。つまり補助具を使っていたのだ。

 その仕掛けの投擲具が全地球の各地から発見されていて、どうやらそれによって、ホモサピエンスが各地に広がったことを確認できるということらしい。

 興味深いのは、その投擲具が、今もオーストラリアの原住民アボリジニに伝わっているということだ。彼らは集団の統制を乱す者への罰を与えるときにもウーメラという投擲具を使うのだという。人間は投擲具は狩りだけでなく集団の統制のためにも使ってきたというのだ。

 ところで、ネアンデルタール人は追い詰められて消滅してしまったのだが、その間にホモサピエンスとの種の交配はなかったのかどうかその説明はなかった。

 アメリカ・インディアンはホープ・リングという大きなサークルの場所で千人規模の交易を行ったそうだが、その時の監視に投擲具は有用であったという。

 この番組でもう一つ興味深かったのは、イギリスの研究者による脳の働きの研究である。

 彼らはMRIを使って脳内部の働きを調べるある実験をした。それはMRIで女性が男性の顔をひっぱたく映像を見せたときの反応を調べたのだ。

 最初、その映像を見せたら、島皮質と言われる部分が反応を示した。次に、映像を見せる前に「この男は女性にひどいことをしたので罰を受けたのだ」と説明をしてから見せたところ、今度は側坐核が反応した。

 最初島皮質が反応したのは、そこが不快なことに反応する部分であるからなのだという。次に側坐核が反応したのは、そこが快感に反応する部分だからだというのだ。女性にひっぱたかれるのは当然だと快感を覚えたのだ。

 人間は他人に罰を与えることに快感を覚える存在なのだという。集団を維持するために罰を与えなければならないが仲間を罰することにためらいが起きる。それに耐えるために快感として感じる部分が発達したと考えられるという。

 そこで思ったのは人間はなぜ戦争をするのかということである。人間はいつの頃からか武器を使い戦争をするようになった。一つの集団の利益から見れば、他の集団は利益を損なうと見られるケースが起きる。そうしたときに「罰」として戦争を仕掛けるのだ。その集団にとっては罰は正当だと裏付ける理由が作られるのだ。

 最近でも、アメリカで9.11テロが起きたとき、ブッシュ大統領はテロ反対を掲げて報復の戦争を仕掛けた。子どもの頃ボスがいて、強い者が屁理屈をつけてよく弱い者いじめをしていたが、国や民族同士の戦争も同じ理屈だ。

 人間が他に罰を与えるのを快感と感じる側坐核の働きを持つかぎりは、戦争は無くならないのであろうか。

 番組では、争いをエスカレートさせない方法とは、人間が他を罰することにすら快感を感じてしまう心があることに気づくことなのかも知れないと言っているが。

 

 

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2012年2月 5日 (日)

眼瞼下垂の手術

 私は、子どもの頃から左目が少し小さく、ちんば(これって、差別用語かも?)だった。それは仕方がないことで見た目だけで実用上は不便ではないのでそのまま生きてきた。

 ところが4.5年前から、物を見るときに違和感を感じるようになり、本を読んだりパソコンの画面で字を読んだりするのが億劫に思うようになった。

 それで、眼医者に相談をしたら、まぶたが垂れ下がって来たのだと言った。その時はもうしばらく様子をみることにしたのだが、年末ごろからやはり手術をした方がよいかと考えるようになった。

 年が明けて眼医者に行き再び相談をした。医者は私の目の写真をモニターに映して、「左目の瞼で瞳がふさがれているでしょう?だから見るのが煩わしいのですよ。」と言った。見ると確かに瞳がほとんど隠れてしまっていた。

 それで直ぐに手術を受ける決断をした。瞼の手術だから眼科でやるのだと思っていたら、八事日赤の形成外科に紹介状を書いてくれた。

  まず、事前の診察を受けに行った。医者は瞼の動きを調べカメラに収めた。看護婦が手術当日のことやそれ以後の予定などを詳しく書いた説明書や手術の説明書をくれた。手術は1月末日の午後と決まった。

 手術の日が来て、指定された時刻に遅れないように出かけた。1階の機械に受診カードを通すとすぐに印刷された用紙が出てきた。それを持って別棟の受付に行った。廊下に色別のテープが貼ってあるのでそれに伝っていけばよいので便利だ。

 受付を済ませて診察室の前で待っていた。前の患者の手術が長引いて40分も遅れた。やっと呼ばれて診察室に入った。医者は前と同じように瞼の動きを調べてカメラに収めた。医者が何か質問はないか尋ねたが無いと答えた。

  隣室の処置室で医者が瞼に印をつけた。二重まぶたの線に沿って1ミリぐらい切り取るようであった。

 その後看護婦の案内で2階の手術室に行った。大変大きい部屋であった。そこで上のシャツを脱いで手術着に着かえたが、ズボンはそのままであった。なぜか金属はいけないらしくベルトを含めてもち物はすべてロッカーにしまった。

 驚いたのは手術室の中に土足で入ったことだ。手術台に上るときに靴を脱いだ。台の上に横たわると麻酔注射をされた。瞼に沿ってやっているらしくかなり痛かった。

 麻酔注射が終わると3分待って顔の中心だけ開いた覆いをかけられた。そして手術が始まった。「痛かったら教えてください。」と言われたが最後まで痛くはなかった。

 瞼のところを多分少しずつ切りとり縫っているのだと思った。20分ぐらいたつと時々目を開けるように言われた。どうやら調整をしているらしかった。起き上がって正面から状態を調べることもされた。

 手術時間は40分ぐらいであったろうか。入室してちょうど1時間で終わって退出した。4時10分になっていた。

 それから診察室に戻り簡単な注意事項を聞いて終わった。鏡で見ると左目は右目と同じぐらいの大きさだった。「しばらくは目がとじないかもしれないが必ず閉じるようになります。乾き目を防ぐ目薬を出しておきます。」と言った。また、酒は3日ほどは飲まない方がよいと言った。患部を冷やすための保冷剤を貸してくれた。それを手で当ててしばらく冷やした。

 左目は何か重いものでも載せたような感じであった。眼のふちが内出血しているのは多分麻酔の精だと思った。眼瞼が赤く腫れていた。

 薬は化膿止めに抗生物資薬を9錠と腫れや痛みどめを3錠、乾燥防止の目薬、なぜか1日1回の消毒薬とガーゼだけであった。ガーゼは気休めみたいな貼り方であった。

眼は麻酔が切れるころには閉じるようになっていた。翌朝になると、内出血は引いていた。また、痛みも麻酔が切れてからも全くなかった。ただ、腫脹だけは残っている。

 患部に水が当たらないようにということで、アルミ箔で左目を覆って顔を剃った。頭は洗わなかった。

  抜糸は1週間後だが楽しみではある。

眼瞼下垂(重度)

 

 

 

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2012年2月 4日 (土)

ワーキング・プアがますます増加という

 先日の朝日新聞で、ワーキング・プアが増加しているという記事を読んだ。改めて新聞を探したがその記事を見つけられなかったので残念である。

 ウロ覚えの記憶を辿ると、たしか官制ワーキング・プアのことで、地方自治体が指定管理業者制度で業務を民間に代行させることや業務委託することが原因の一つであった。

 指定管理業者という言葉を初めて聞いたのは、名古屋市の事業仕分けによってであった。仕分けによって、私がよく利用する生涯学習センターの業務が指定管理業者に代行させられるそうだということを聞いたのだ。

 河村市長は、コスト削減のためこれまで市が行ってきた事業を民間に委託したり代行させる方針を打ち出している。

指定管理者制度をWIKIPEDIAで調べたら、次のように説明してあった。

指定管理者制度(していかんりしゃせいど)とは、それまで地方公共団体やその外郭団体に限定していた公の施設の管理・運営を、株式会社をはじめとした営利企業・財団法人NPO法人・市民グループなど法人その他の団体に包括的に代行させることができる(行政処分であり委託ではない)制度である。

公の施設」にはいわゆるハコモノの施設だけでなく、道路水道公園等も含まれるとされている。地方自治法の一部改正で2003年6月13日公布、同年9月2日に施行された。小泉内閣発足後の日本において急速に進行した「公営組織の法人化・民営化の一環とみなすことができる。

 官製ワーキング・プアの増加によって、年収の低い層が増加しているのだ。年収200万円にも満たない層ばかりか、中には生活保護以下の収入の人もいるという。

 税金の支出を避けて民間に業務を代行させたり、委託したりすることにより、コスト削減ができるとしても、一方でそのしわ寄せが安い賃金で働く労働者に来ているのは看過できない。

 官製ワーキング・プアは二つに分類されるという。

 ① 非正規公務員

 仕事はおなじなのに、正規の職員の半分以下の賃金で、ボーナスや昇給等はない。社会保険未加入もあるという。契約期間が1年未満で、空白期間を1日おいて再契約しまた1年未満で解雇である。

 ②公務を委託されている、もしくは請け負っている民間業者

 入札で決められるので、落札額が低くなり、その分低賃金かする。ちなみに河村市長の河村商事がこれに当たる。

  官製ワーキング・プアは公務員の4人から3人に1人はいるというから相当の数である。国家公務員で15万人、地方公務員で60万人と推定されている。

参考資料

名古屋市の公の施設の指定管理者(平成23年4月1日現在)
(特)・・・特定非営利活動法人を指します。
名古屋国際センター (公財)名古屋国際センター 22年度 25年度末
名古屋市男女平等参画推進センター (特)参画プラネット 22年度 25年度末
なごやボランティア・NPOセンター (特)ワーカーズコープ 20年度 23年度末
名古屋市地区会館
(名古屋市山田地区会館)
中部互光・コスモコンサルタント運営
共同体
22年度 25年度末 西区 山田支所
(名古屋市富田地区会館)
中部互光・コスモコンサルタント運営
共同体
22年度 25年度末 中川区 富田支所
(名古屋市楠地区会館) 味鋺学区福祉推進協議会 22年度 25年度末 北区 楠支所
(名古屋市南陽地区会館)
中部互光・コスモコンサルタント運営
共同体
22年度 25年度末 港区 南陽支所

(名古屋市志段味地区会館)
中部互光・コスモコンサルタント運営
共同体
22年度 25年度末 守山区 志段味支所
052-736-2000
052-736-4666
(名古屋市徳重地区会館) サンエイ(株) 22年度 25年度末 緑区 徳重支所
名古屋市民会館 (公財)名古屋市文化振興事業団 20年度 23年度末
名古屋市公会堂 愛知県舞台運営事業協同組合 22年度 25年度末
名古屋市芸術創造センター (公財)名古屋市文化振興事業団 20年度 23年度末
名古屋市青少年文化センター (公財)名古屋市文化振興事業団 22年度 25年度末

名古屋市民ギャラリー栄 (公財)名古屋市文化振興事業団 22年度 25年度末
名古屋市民ギャラリー矢田 (公財)名古屋市文化振興事業団 20年度 23年度末
名古屋市音楽プラザ (公財)名古屋市文化振興事業団 22年度 23年度末
名古屋市演劇練習館 (公財)名古屋市文化振興事業団 22年度 25年度末
名古屋市短歌会館 (公財)名古屋市文化振興事業団 22年度 23年度末
名古屋市東山荘 (公財)名古屋市文化振興事業団 22年度 25年度末
名古屋能楽堂 (公財)名古屋市文化振興事業団 22年度 25年度末
名古屋市東文化小劇場 (公財)名古屋市文化振興事業団 20年度 23年度末
など文化小劇場

名古屋国際会議場 (株)コングレ 22年度 25年度末
名古屋市国際展示場 (財)名古屋産業振興公社 22年度 25年度末
名古屋市中小企業振興会館 (財)名古屋産業振興公社 22年度 25年度末
名古屋市清風荘 (福)なごや福祉施設協会 21年度 30年度末
など、福祉関係施設
名古屋市休養温泉ホーム松ケ島 (株)トヨタエンタプライズ 22年度 25年度末
名古屋市鯱城学園 (福)名古屋市社会福祉協議会 22年度 25年度末
名古屋市都福祉会館 (福)名古屋市社会福祉協議会 20年度 23年度末
名古屋市高岳福祉会館 (福)名古屋市東区社会福祉協議会 20年度 23年度末
など、福祉会館

こどもNPO・たすけあい名古屋・名古
屋市社会福祉協議会コンソーシアム
20年度 23年度末
名古屋市障害者スポーツセンター
(福)名古屋市総合リハビリテーション
事業団
21年度 24年度末
名古屋市笹島寮 (福)芳龍福祉会 20年度 23年度名古屋市熱田荘 (福)芳龍福祉会 21年度 24年度末

など

名古屋市千種児童館 (福)名古屋市社会福祉協議会 20年度 23年度末
な、各区児童館
子ども青少年局子ども育成部子ども福祉課
子ども青少年局子ども育成部青少年自立支援室
健康福祉局生活福祉部保護課
5市名東児童館
介護サービスさくら・名古屋市社会福
祉協議会コンソーシアム
20年度 23年度末
名古屋市青少年宿泊センター (財)名古屋市教育スポーツ協会 21年度 24年度末

まだまだ、数えきれないほどあることを知った。

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2012年2月 3日 (金)

名古屋市女性会館の存続を求める署名16000名に迫る!!

 昨年名古屋市の事業仕分けで「廃止」に仕分けられた名古屋市女性会館の存続を求める署名活動が女性会館を守る会が主体となって行われました。年末と年始という大変難しい時期でしたが、1月末現在で河村市長に提出する分で13382名、2月1日現在で15728名に達しました。

 これも自主的な社会教育の場として、160前後のサークルが活動をする拠点としての女性会館を何としても存続させたいという人たちの強い熱意の賜物です。

 1月25日に第一次の集計と整理が行われ、2月1日にその後の分も含めて整理がされました。名古屋市議会議長に提出する分は、15657名になりました。

 

 これらの署名は2月9日(木)午後1時半に、河村市長に面会して手渡される予定です。また、市議会議長には2月10日(金)午後13時に、議長に面会して手渡されることになっています。両方とも12時ごろに女性会館に集合して出かける手はずになっています。

 女性会館を守る会では、以下のような学習会と報告会を予定しています。

◎事業仕分けについての学習会 

 名古屋市広報課へ「出前トーク」を申込み、総務課から担当者が来て話を聞くことになっています。2月21日(火913時半が有力ですが、この日が都合が悪い場合は2月29日(金)に予定しています。いずれも13時半から第3研修室でです。定員は先着50名。

 

 ◎名古屋市女性会館のこれからを考える会

 これまでの守る会活動の経過報告と会計報告。活動を署名活動だけで終わらせるのではなく、これからの女性会館はどうあるべきか、どうあってほしいかなど利用者の皆さんの率直な意見を出し合い、ともに考えて行きたいということで企画されました。女性会館副館長も出席の予定です。

  ・3月5日(月)10時から  第一研修室

  ・3月8日(木)13時半から 視聴覚室

  ・3月9日(金)18時から  第一研修室

  いずれも内容は同じです。

  なお、女性会館を守る会の情報は「ボランティアルームにあります。

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2012年2月 2日 (木)

議事録不作成は民主党の作為的行為だ

 東日本大震災をめぐる民主党政権の会議の議事録が残っていない問題で、国会で野党から追求されている。野田政権は、事後処置として議事録を作ると言っているがそんなことで済むことではない。

 第一、どうやって会議の発言や状況を再現できるというのであろう。出席者から聞き取ったとしても、「記憶にございません」がお得意だから本当のことは出るはずがない。

 野党は「民主党の隠蔽体質表れだ」と批判しているが、当然である。政策決定過程の記録の作成をいい加減にしてきた民主党の体質が浮き彫りになった。

 マニュフェストを反故にすることと言い、今回の事件と言い、まさに民主党がいかに無責任であるかを自ら告白したも同然である。

 朝日新聞によると、公文書管理法は、薬害肝炎患者リストの放置や年金記録がきちんと管理されていなかった問題など、民主党が自公政権のずさんな文書管理を追及したのがきっかけだ。野党であったときには厳しく追及しながら、立場が逆転すると「公文書管理法では議事録の作成までは求められていないが、事後も含めて文書作成が求められる」と分かったような分からない答弁を野田首相はしている。

 公文書管理法の法制化を検討した有識者会議のメンバーの1人は、「法律が定める『公文書』は議事録という認識だった。録音技術が発展しているのに議事録がないなんて、そんな馬鹿なことがあるか」とあきれ返っているという。

 私は、1週間ほど前に最初に議事録がないという記事を読んだとき、高性能の録音機がある時代になぜ使わなかったのかという疑問がよぎった。

 私は、あのオリンパスのIC録音機とソニーのIC録音機を使っているが、どちらも8000円程度の機種なのに大変優秀で会議の様子や音楽会の音などを明瞭に録音してくれる。

 政策を決める重要な会議にそうした録音機一つ使わないというのは弁解の余地がないことだ。最初から意図的に議事録を作らず、後の追及を免れる手段だったに違いない。

 野党は、この問題を徹底的に追求し、いかなる会議でも録音と議事録を残すことを決めてもらいたい。

 警察や検察の被疑者取調べでも録音をするようになったではないか。政権の会議での議事録と録音保存は当然の義務と考える。アメリカのように公文書館を整備して必要とあらば公開すべきである。

 

 

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2012年2月 1日 (水)

電気を選べる、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカなど

 1月29日の朝日新聞一面のトップは、「電力のかたち」で見出しは「選ぶ自由満足買う」であった。

  ドイツの例が紹介されていたが、ドイツでは電力を自由に選べるという。ベルリン郊外に住むホフマンさんは「100%再生可能エネルギーの電力会社と契約をしているそうだ。その前は原子力発電を使っている大手の電力会社から買っていたのを打ち切ったのだという。

  電力会社の変更は簡単にできるのだそうだ。電力の自由化が始まったのは1998年というから14年も前のことである。それ以来各地の発電会社や「電力市場」から電気を仕入れ、家庭などに売る「小売会社」が続々と生まれたという。選択肢は地域ごとに平均1500というからすごい。

  その仕組みは私には分からないが、電気は電圧と周波数が同じなら同じ送電線が使えると思うから、各地で発電された電力は送電線に流されるのだと想像する。

 きれいな電気かどうかの区別はどうやってつけるのだろう?記事によると、「欧州の電力供給は、海に例えられる。張り巡らされた送電線から電気が一つの市場に流れ込むからだ。原発も火力も風力も、色がついてない電気が企業や家庭に届けられる。」と書いてある。多分、発電会社の売電量で原発使用の会社が減り、自然エネルギー発電の会社の売電量が増えるということで判断するのだと想像する。

  欧州では、90年に英国から自由化が始まったという。それがEU全体に広まり、2007年には小口の家庭も外国の電力会社と契約が可能になったそうだ。前記のホフマンさんは、ノルエーーの水力発電などの電気を使っているそうだ。

 日本では、九つの電力会社が地域ごとに独占をしている。しかも、発電と送電が分離されていない。両方を独占しているのだ。その上に明治以来東日本と西日本では周波数が異なるから相互の供給も簡単ではない。

  日本で自由化が進まなかったのは、自民党政権が原子力発電を進めたからである。電気事業連合会の力が強大で、完全に自由化したら、原発はやれなくなると政治家や官僚に圧力をかけたのだという。そして原発に巨費が投入され続けたのだ。電力自由化や発送電分離はタブーとなった。

  福島第一原発の大事故で、原発の危険性が誰の目にも明らかとなった今、電力問題を考え直し、電力を自由化し発送電分離を進め、欧米のように自由に電力を選べるようにすべきである。

  その点では、菅前首相が「自然エネルギー」による発電に言及したのは正しかった。それを必死に抑え込んで菅前首相を悪者にしたのは電力に巣食う者たちであったに違いない。

  日本も、先進国ドイツに見倣い、脱原発をして電力自由化に一刻も早く進むべきである。

 

 

 

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