仙崖義梵の言葉と絵に出会う
録画しておいた「目からウロコ 骨董塾」という番組を見ていましたら、「書画」部門に江戸時代の仙崖義梵という僧侶で画家の絵が取り上げられていました。
仙崖の絵の一つはどこかで見たことがあるような気もしましたが、思い出せませんでした。とても親しみやすい飄逸とした絵です。
仙崖の絵の中でも特に有名な「指月布袋図」や「きゃふん」や「○△□図」「これくうて茶のめ」などが紹介されていました。
仙崖は臨済宗の高僧だそうですから、上記の絵も禅の公案のような絵です。それだけに見る人によっていろいろな解釈がなされているという話でした。どんな絵でも、見る人によって思うところや感じるところが違うわけですから、それでよいのだと思います。
冒頭で、仙崖の次の言葉が紹介されましたが、この言葉が私の心を打ちました。
「世画に法あり 崖画に法なし 仏云う 法はもとより 無法を法とす」
世間で描かれる絵画には、やかましい決まりがあるが、自分の絵にはそんなものは何もない。仏もいうではないか、法はもともと 無法が法なのだということです。
自由奔放に己の意のままに筆を動かし、世間体など気にしないというのが本心だと思います。とらわれを無くするということは釈迦の教えの根本です。それを絵に表したのだと思います。
禅の公案である大きな○の横に「これをくふて茶をのめ」という絵がありますが、「公案などあれこれ考えて解釈してみたところでどうなるものでもない。そんなものは茶菓子の代わりにしてお茶でものんだらどうじゃ。」と言っているのだと思うのです。
「指月布袋図」もそうです。布袋さんが空に向けて指をさしていて、隣に子供がいます。賛には「お月さま幾つ 十三七つ」とあります。解説では、布袋の指が経典であり、指している月(月は描かれていませんが)が法だということです。人びとは経典にばかり注目して、法を忘れている。しかし、法はそれぞれの心の中にあるのだというのです。
仙崖はこんなことも言っているそうです。
「世画は美女の如し 人の笑うを憎む。 崖画は戯者の如し 人の笑うを愛す」
仙崖の画は飄々としていて、微笑ましくなる作品です。思わず噴出したくなるような画もあります。
「切れ縄に 口はなけれど 朧月」という賛がある画がそれです。男の人が道に落ちている縄を蛇だと勘違いして驚いているのを後で見ている人が笑っている画です。先入観が人の心を邪魔していることを指摘しているのだろうという解説でした。
調べてみますと、仙崖は狂歌もよくしたそうで、新任の家老の悪政を批判して
よかろうと思う家老はわるかろう もとの家老はやはりよかろう
と詠んだそうですが、何やら今の政界にも通じそうな歌です。
仙崖の画がどんなに人びとに愛されたかを示すエピソードを自分で詠んだ狂歌があります。
うらめしや わが隠れ家は雪隠か 来る人ごとに紙置いていく
仙崖の画のコレクションは、東京の出光美術館にあるそうなので一度見てみたいと思いました。
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