2023年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 曽野綾子著「老いの才覚」を読んだが―①― | トップページ | オルガン奏者吉田文さんのコンサート案内①―ブランチコンサート― »

2011年8月19日 (金)

曽野綾子著「老人の才覚」を読んで―②―

 曽野綾子氏が日教組嫌いであることは、昨日書いたが、老人の使う言葉が貧困になったのも日教組教育のせいだと言いたいようだ。「老人の使う言葉が極度に貧困になった」という項(P.25)で、作文教育が行われなかったせいだと次のように書いている。

 「何でもかんでも権利だとか平等だとか、極端な考え方がまかり通るようになってしまったのは、言葉が極度に貧困になったせいもあると私は思います。言語的に複雑になれない人間は、思考も単純なのです。」

 と、書いてその原因として3点を挙げている。

 一つは、読書をしなくなったこと。

 二つ目は、漫画やインターネット依存。

 そして三つ目に、作文教育がきちんとされなかったこと。

 漫画やインターネット依存がコトバを貧困にしたのかどうかについても異論があるところであるが、ここでは、作文教育について取り上げたい。

 「言葉が貧困になった原因は、作文教育がきちんとなされてこなかったからです。自分の心の中にあるものを整理して、書き写すという技術がないと、表現力が豊かにならないばかりか、確固とした自分というものを作っていけない気がします。」と述べている。

 そして、礼状を書けない、一流大学を出た官僚でもつまらない文しか書けない。敬語を使えない・・・などと書いている。

 「読まない、書かないから、微妙な考え方や話ができない人が多くなりました。祖父母も親も教師もそれが恥かしいことだと教えなくなった、というか教えられなくなった。」と書いている。

 戦前、多分小学校2年生の時だったと思うのだが、「綴り方読本」というのがあり、綴り方を書く宿題が出されたことがある。全く書けなくて父母に相談したがお手上げであったことを覚えている。

 でも、戦前でも日本には綴り方教育の歴史があって、心ある教師によって熱心に綴り方教育が行われたことを後に知った。ただ、私の近辺には、教科書を与えておいて真似をしろという程度のことしか行われなかったのだ。

 戦後は、いわゆる型にはまった(つまり小国民教育としての)綴り方教育から開放されて、作文教育が全国で盛んに研究され実践された。その中ですぐれた表現力をもつ才能が開発された。(東北の山彦学校などとか信濃教育とか・・・・)

 私が小学校、中学校の頃は、不幸にしてそういうものとは無縁であったから、作文は苦手であった。ただ、読書はしていたし、新聞を読んでいたから、ある程度の文章能力は身について、卒業論文も書くことができた。

 教員になってからは、作文教育、読書教育、読解教育、音読教育など、総合的に国語教育に力を入れてきた。

 日本中の学校で、作文教育は熱心に行われたことを知っている。

 曽野氏は、いったい何を根拠に作文教育が行われなかったというのであろうか。

 今から10数年ほど前からだと思うのだが、入学試験の筆記試験が作文能力や表現能力を阻害しているという反省から、作文などの論述試験が重視されるようになった。つまり、作文教育を疎外したのがあるとすれば、やはり、入学試験に問題があったのだ。

 同じようなことは、英語教育にも指摘することができるがここでは扱わない。

 曽野氏が言うのは、日常生活での礼状を書くとかちょっとした手紙を書けなくなったと言いたいのだと思うが、それは作文教育のせいだとは言えない。日常生活上のコトバの使い方や礼儀などの躾けの問題がからむからだ。

 家庭教育の貧困化は確かに見られ、それが地域教育(コミュニティ)の喪失と相俟ってさまざまな対人関係上の問題が進行したのだと思うのだ。

 

« 曽野綾子著「老いの才覚」を読んだが―①― | トップページ | オルガン奏者吉田文さんのコンサート案内①―ブランチコンサート― »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

 日記を書くということも文章を書く力をつけます。国語学者の大久保忠利先生は、書きなれノートを提唱しておられましたが、言いえて妙です。
 中学校の先生も、当然日教組組合員だったのですよ。

お手手つないでゴールインになったのは、学級崩壊と重なると思います。悪平等主義を持ち込んだのは決して日教組ではありません。事実を見ないでレッテル貼りをして、非難するというやり方ほど危険なものはないと思います。

曽野綾子さんのお礼をしなくなったとか作文が苦手な子や人が多くなったという意見は本当だと思いますね。これだけパソコンや携帯が世の中に広がってしまえば今手紙を書くのが大好き人間の私もパソコン・携帯で手っ取り早く済むほうを選択します。かろうじて日記を中学時代から書く癖がついていますのでペンを持つことにもおっくうがらないで書けますが・・・日記を書いてなかったらまづ便せんも封筒も無いままに平気で生活していると思います。中学時代の恩師に今本当に感謝しております。

全く無知偏見の表れですね。
日本の教育では昔から「読み書き算盤」と、書くことが重視され、いろいろな場面で書く指導がなされてきました。
子どもの頃、行事作文といって行事があるたびに学校で作文を書いていたことや、夏休みには日記や作文の宿題がよく出されていたことを思い出します。

舛添要一氏がまだ自民党だったころ国会で、「今の運動会はみなお手々つないでゴールイン。これは日教組の平等主義によるもの」と発言していました。何というばかばかしさ、これでも元東大教授なのかと呆れたことを思い出します。
このような無知偏見で日教組攻撃がなされていることに改めて怖さを感じます。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 曽野綾子著「老人の才覚」を読んで―②―:

« 曽野綾子著「老いの才覚」を読んだが―①― | トップページ | オルガン奏者吉田文さんのコンサート案内①―ブランチコンサート― »