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2011年8月

2011年8月31日 (水)

TAMC会長坂本圭史氏の講演「趣味と人生 人生にリセットはない」―②―

 坂本先生は、前回書きましたように、人生を90年と設定されて計算しておられます。先生ご自身、これまでに2度の大病を患われたそうですが、現在は元気で日本各地を講演して回っておられます。時間が有ればいつでも、どこへでも講演に行きますと言っておられました。

 そのような元気さの源がどこにあるのかも含めてお話になりました。

 「若くあるために」というお話では、「青春」とは人生におけるある時期のことではない、と言われました。ある時期とは、青春時代とかわが青春とかいう時の20歳前後の時期を普通指します。

 先日、民放だったか、NHKだったかのテレビで「あなたにとっての青春とは」という質問をしていた番組がありました。多くの人は15歳ぐらいから25歳ぐらいのことを挙げていたように思います。ゲーテのいう「疾風怒涛の時代」です。

 先生は、青春とは「心の状態である」と定義されました。そして、 さらに詳しく、次のように話されました。

 それは逞しい意思であり、豊かな創造力であり、

 燃えるような情熱であり、おびえを乗り越える勇気であり、

 安易さよりも冒険を求める心である。

 勤めているときは、それなりに仕事への情熱とか、理想を追い求めるとか、よりよいものを創造するとか、権力に屈しないとか、嫌がらせに戦うとか・・・・自分を大事にして思うところを貫き、それが間違っていなかったと今でも自信を持っています。

 ところで、「意思」とは何か。何をどうする意思なのか。

 「創造力」とは何か。何をどうする創造力なのか。

 「情熱」とは何か。何のためにどう燃やす情熱なのか。

 「おびえとはなにか」。乗り越える勇気とは何か。どう乗り越えるのか。

 「安易さ」とは何か。「冒険」とは何か。どんな冒険なのか。

 そうしたことを自分に当てはめて具体的に考えることが大事だと思います。

 青春とはそうした心の状態を指すのであり、たんなる年齢の若さではないと言うことで同意できます。だから、幾つになっても「青春」足りうるのであり、私も常に青春(心の状態)を失ってはいけないと思っております。

 先生は、「年を重ねることで人は老いるのではない。理想を無くすことで人は年老いていく。」と言っておられます。

 また次のようにも指摘しておられます。

 「年齢は、皮膚に皺を刻むが、情熱を失えば魂に皺を刻む。」と。

 皮膚に皺を刻むのは避けられないことです。どんなに美人でも、加齢とともに皺を刻みます。ただ、ケアの仕方で森光子のように皺を少なくしている人はいますが。魂の皺は誰の目にも見えません。しかし、なかなか示唆に富んだ表現です。

 優れた作家や芸術家には100歳になってもみずみずしい感性の人がいます。そういう人は魂いに皺が少ないのでしょう。

 私は、「想像力」も付け加えたいと思います。想像力は創造の源であるだけでなく、他者への、或いは未来への思いやりや労りや慈悲にもつながるものだと思うからです。

 坂本先生は、サミュエル・ウルマンの詩の一部を引用されたした。

 人は、信念と共にあれば若く、疑惑とあれば老いる

     自信と共にあれば若く、恐れとあれば老いる

     希望と共にあれば若く、失望とあれば老いる

        ―つづく―

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2011年8月30日 (火)

TAMC会長坂本圭史氏の講演「趣味と人生 人生にリセットはない」―①―

 名古屋華マジカルグループでは、8月27日にビラ・マリーンで合宿をしました。メーンは、東京アマチュアマジシャンズクラブ会長で、流通問題評論家の坂本圭史氏をお招きしての講演でした。

 坂本先生は、これまでに800回以上の講演を全国でしてこられたということです。この日の講演のテーマは、「趣味と人生 ~人生にリセットボタンはない~」というものでした。

 このテーマは、これまでに、三笠宮寛仁殿下の御前の他に、豪華客船飛鳥Ⅱのクルーズで3回、マジックを交えて講演され大変に好評であったそうです。

 先生は、6枚のレジメと資料を用意して来られ、これだけ話すと最低でも90分はかかりますから最後まで話せるかどうかはわかりませんと前置きをされました。

 マジッククラブの合宿で参加者のほとんどはアマチュアマジシャンばかりですから、マジック論を中心に、趣味の重要性について話し、その中で、身の回りのものを使って、誰でもできる簡単なマジックについても触れるということでした。

 まず、時代がどんどんと変わっていくと言われ、従来の常識が通用しない、つまり、昔の常識は、今の非常識のようなところがあると話されました。先生は、長年イトーヨーカ堂の役員をしてこられ、その後は、流通問題評論家として活動しておられますので、そういう方面から見て感じられたのかと思いました。

 人生を90年としてみると、三つのポイントがあると言われました。

 第一期 (20年) 出生から就職まで・・・・・充電期

 第二期 (40年) 就職から退職まで・・・・・奉仕期

 第三期 (30年) 退職から終期まで・・・・・収穫期

 この人生の区分については、別の分けかたと捉え方をする人もいますが、先生はこのように捉えられているということです。

 90年は時間にすると、78、8400時間。

 仕事をする時間は、一日10時間として、10、0000時間。

 生理的必要時間(睡眠、食事、トイレ、入浴・・・)32,8500時間。

 自由な時間35,9900時間。つまり、自由な時間は、仕事をする時間の3倍以上あるというのが先生の計算です。

 人生の第3期には、仕事をする時間はゼロとすると、生理的必要時間の10,9500時間を差し引いて、15,3300時間。」つまり、仕事に使った時間の実に1.5倍の自由時間が残っていると言うのです。

 仕事時期に、働き蜂として仕事一筋に生活をしたとしても、リタイアー後の自由時間をどう使うかが大事で、その人の人生が決まるのだということです。

 坂本先生は、退職後は、趣味のマジックなどを生かし、それまでの経験で得た知識をもって講演活動を続けて来られたということです。リタイアー後に自分のやりたいことをやって充実した時間を持つことが大事だし、こんな楽しい時間はないと話されました。

 そうは言っても、先生はお父さんの坂本種芳氏の影響で子どもの頃から手品に親しまれ、学生時代も仕事期もずっとマジックを研究してこられたのです。2兎も3兎も追われたのでしょう。私のようにのんべんだらりではなかったのだと思います。

 ―つづく―

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2011年8月29日 (月)

オルガン奏者吉田文さんのコンサート案内ー②―和の響き

 吉田文さんが主宰する「オルガンの秋」が始まります。五反城のカトリック教会(下の写真)が主会場になるようです。詳しくは、下記のURL:をクリックすると出てまいります。

 

 
 このたび、「名古屋オルガンの秋20111・和の響き」を開催するはこびとなりました。
 今回のシリーズは、西洋の教会という場で育まれたパイプオルガンの響きと、日本古来の和の響きとのコラボレーションをテーマとして据えてみました。
 新しい響きの発見、また現代の日本という東洋と西洋が入り組んだ社会の中に生きる私たちの音楽や存在について改めて向かい合う機会でもあり、そして、心に優しくひとときの憩いの時でもあるように願っております。
 勿論新しい試みだけではなく、従来通りの伝統的なパイプオルガンの作品も充分にお楽しみいただけるプログラム構成となっていますので、ご安心して足をお運び下さい。
 チラシはこちらからダウンロードできますのでご高覧頂ければ幸いです。
 「みんなで弾こう、パイプオルガン!」のお申し込みはこちらからできます http://www.pippo-jp.com/aya/organ/workshop_2011.html
 また、東日本大震災への復興支援プロジェクト第二弾としまして、「みんなで創ろう、オルガン曲!」というものを考えてみました。
 
 これは、みなさまから「音の素材」を一口500円以上で募り、集まりました「素材」から、名古屋オルガンの秋実行委員であるトーマス・マイヤー=フィービッヒが一つの作品を紡ぎ出す、というものです。
  音符を素材としたものの他にも、「ことば」を素材とすることもできますので、楽譜や音楽の事をご存じない方でもご応募して頂く事ができます。
 多くの方の思い、考え、祈りが、ひとつの祈りの音楽・響き=調和となり、被災地へと届くことを願っております。頂きましたチャリティーは全額カリタス・ジャパンを通して被災地へと届けられます。
  「名古屋オルガンの春2011」では総計210.800円のチャリティーを頂きました事の御礼のご報告と共に、今回もみなさまの多数のご参加を、心よりお願い申し上げます。
お申し込みはこちらからできます http://www.pippo-jp.com/aya/organ/compose_2011.html
      
                      吉田文
  五反城カソリック教会

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2011年8月28日 (日)

やっぱり人気NO.1か―NHK鈴木奈穂子アナウンサー  

 ニフティの検索ページの「検索急上昇」のリストに鈴木奈穂子がトップに出ていました。クリックしてみると、NHKアナウンサー鈴木奈穂子さんの人気が急上昇しているという記事などがありました。

 私は、NHK朝のニュース「おはよう日本」に出ている鈴木アナウンサーが、あるとき美人だと感じて以来、ずっと観察を続けてきましたが、左右の眼の形、大きさが同じで、パッチリと大きく、顔の形が楕円形で全体に整いすぎている感じです。

 ニュースは必ず見るので、その度に鈴木アナウンサーに見とれています。

  NHKには、鈴木奈穂子アナウンサーとそっくりな首藤奈知子アナウンサーがいます。首藤アナウンサーは鈴木アナウンサーの前に朝のニュースを担当していました。とてもよく似ているので、交代した最初は2人の区別がつきませんでした。

 そのうちに別人だと分かるようになりました。そして、鈴木アナウンサーが好きになりました。

 彼女には美人なのにいやみがありません。つまり親近感が持てるのです。そういうところが、人気が上昇する秘密のようです。

 インターネットで調べてみると、おじさんたちに人気があってアイドルとなっているそうです。見ていると癒されるとか。

 芸能界の大御所の明石家さんま(私は彼が大御所かどうか知りませんが)が、「大好きだ。再婚したい。」と言ったとかで、それがさらに人気をあげることにつながったということです。

 さんまが言ったからというのは、気に入らない。そんなお墨付き?はどうでもよい。

 NHK製作スタッフは、「彼女のニュース原稿読みの確かさと伝える力にある」と言っているそうです。 

 ニュースを担当すると、それまでと態度が変わってしまう人がいます。青山アナウンサーなどがそうです。その点鈴木奈穂子アナウンサーは自然体なのがいいと思います。

 インターネット情報では、年末の紅白に抜擢されるかも・・・・と出ていますが、そんなことはどうでもいいことです。

 朝のニュースの癒し系で十分です。

 私は、以前は森田美由紀アナウンサーが好きで、ニュースを見るのがいつも楽しみでしたが、偉くなったのか出なくなり残念に思っていました。

 久し振りに注目するアナウンサーができました。

小さい写真は、首藤奈知子アナウンサー

NHK待望の美人アナ! 鈴木奈穂子

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2011年8月27日 (土)

情けない民主党代表選挙―小沢氏だけがやけに目立つ―

 「菅首相辞めろ」と菅下ろしの嵐が吹き荒れていたのが、民主党代表選挙に注目が変わった。野田氏の代表選出馬が早かったが、前原氏が出馬を決めたことによって情勢が大きく変わった。前原本命と新聞は書いているが、結果は見るまで分からない。

 この半月余り、目立つのは、小沢氏である。党員資格停止でひっそりとしていたのが、俄然代表選の中心人物としてクローズアップされてきた。

 立候補予定者がこぞって”小沢詣で”をするからである。小沢詣での目当ては120名という大グループを擁している小沢氏の支援が雌雄を決すると考えてのことである。

 元はといえば、先の衆議院議員選挙の時、幹事長として新人立候補者を支援し、当選後は小沢氏がその議員たちを取り込んだことにある。小沢氏は、数こそ何より大事と考え行動をしたのであった。

 その小沢氏の恩顧に感じ入る陣笠議員たちは、小沢氏の援助がなければ次の選挙での当選は危ういから小沢氏の傘の下にいるのだ。

 小沢氏は、自民党時代田中角栄氏の下で学んだ手法を存分に駆使して民主党内で最大のグループを形成し、睥睨している。

 また、かつて議員を辞めるとまで言っていた鳩山前首相も小沢氏と手を組んで何やら画策をしているらしい。鳩山グループ30名と小沢グループ120名の力を生かしたいというのであろう。

結局、26日夜九時のNHKニュースによると、鳩山氏の斡旋で、小沢鋭仁氏と海江田氏が手を組んで海江田氏に1本化し、小沢氏も海江田氏を支持することになった。

 これで、親小沢vs脱小沢の対決が鮮明となったわけだ。小沢氏は、負け犬には乗らない人だそうだから、海江田氏を支持したのは勝算があると見てのことだろう。

 どの候補も、挙党一致で難局に当たりますとか、身命を賭してことに当たりますとか、抽象的なことを決意をして述べている。聞きたいのは、具体的な政策である。しかし、肝腎の政策についてはほとんど見えてこない。

 東日本大震災の処理をどうすすめるのか、原発の処理をどうするのか、原発に今後も依存するのか、それらのための金をどう捻出するのか(増税や国債の発行をどうするのか)、外交問題をどうするのか・・・・・などなど重要な課題が山積しているのに政策が示されていないのだ。

 民主党で代表選に名乗りをあげている人たちは、”どんぐりの背比べ”だと朝日新聞に書いてあった。どの人を見ても安心して菅首相の後を任せられるとは思われない。

 そうかと言って自民党に戻るのは・・・?これも嫌である。せっかく長年の自民党政権から抜け出したのだから。

 それにしても、民主党に期待した多くの国民の期待を裏切ってばかりの民主党にはうんざりである。

 民主党の地方議員たちは、民主党のイメージダウンを怖れているということだが、今度の代表選でのイメージダウンは避けられない。これまでの反省もなく相変わらず同じ轍を踏んでいるからだ。

 新しい代表が決まることは間違いないが、誰になったとしても菅さんと同じ道を歩むことになるであろう。そして日本の政治はますます不毛となるに違いない。

 

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2011年8月26日 (金)

おかしな夢

 私は、毎晩夢を見る。 夢というのは、後で思い出そうとしても絶対に正確には思い出せない。それに夢の中で場所や出来事が思っても見ない方に変わってしまうので余計に思い出すのが難しいのだ。

 先日は、おかしな夢を見た。どこかのグループと旅行に行ったのだ。それは多分近くマジッククラブの合宿があるのでそういう夢になったのかも知れない。

 泊まったのは、とても素敵な木造の古いが高級の旅館であった。旅館の玄関やフロントもピカピカに磨かれていた。仲居さんはもちろん和服である。

 そんな旅館に宿泊して、なぜか便意を催しトイレに行きたくなった。旅館にはトイレが2箇所あった。もちろん立派なトイレである。

 ところが最初のトイレは誰かが使用していた。それで仕方なく長い廊下を歩いて別のトイレに行った。でも、そのトイレはなぜか風呂場であった。おかしいなと思いながら戻った。

 トイレを探したがわからない。外に出るとちょっとした商店街があった。どこかの店にきっとトイレがあるだろうと探したら、誰かが商店街の共同のトイレがあると教えてくれた。

 そこへ行くと、後から来た女子学生が追い越して先に入ってしまった。やむを得ず他のトイレを探したらある商店のトイレがあった。

 ほっとしてトイレに入ったが、何と野外の便所でまわりは草原であった。商店街が突然草原にかわるのがいかにも夢である。しかも、便所には木の板が覆ってある。それをめくると、大きな壷が埋めてあった。中に誰かがしたらしい便がこびりついていた。

 仕方がないので、その上で何とか用をすまそうとするのだが、便意はあるのになかなかでないの。そのうちに、次の人がやってきた。困ってしまってあせると余計に出ない。そうこうしているうちに目が醒めて夢だとわかった。

 精神分析学者のフロイトは、夢について次のように言っているそうだ。

  夢の素材は記憶から引き出されており、その選択方法は意識的なものではなく、無意識的である。したがって一見すると乱雑な夢の内容においても無意識に基づいた統合性が備わっており、さまざまな出来事を一つの物語として連結させるものである。

  それにはさまざまな狙いがあるが、一般的には夢とは潜在的な願望を充足させるものである。つまり夢は無意識による自己表現であると考えることができる。(Wikipedia)

 いったい、私の夢はどんな願望の充足なのであろうか?

 

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2011年8月25日 (木)

常盤幼稚園第2回同窓会でマジック

 3日連続となったマジック・ボランティアは名古屋市立常葉幼稚園の同窓会に招かれました。昨年の第1回同窓会に出演した縁でした。

 女性のMさんと2人で行きました。常盤幼稚園は、あおなみ線の小本駅のすぐ近くなので今年はあおなみ線を利用しました。

 昨年はとても暑い日でしたが、今年はやや温度が低いので助かりました。13時半過ぎから始まりました。幼稚園の先生も3名招待されていました。常盤小学校に進学した児童が35名ぐらいと10数名のお母さんたちが参加しました。

 メーンイベントは、マジックショーでした。

 まず、私から演じました。演目は、この前道徳でやったものとほぼ同じ物でした。低学年の子どもたちは大変元気です。その子達に語りかけながら演じました。お手伝いの要るマジックには希望者を募って成るべく同じ子にならないように気をつけてやりました。

 10種類ほど用意をしていったのですが、30分ぐらいかかりました。最後の2つは省こうと思ってみんなに聞いたら、やってというので最後までやりました。バラエティに富んでいましたが、やはり同じ人が30分もやるのは子どもには長いと反省をしました。

 私の次にやったMさんは、宝塚の男役を思わせる白のタキシードで華麗な演技をしました。花を主題にしたマジックを披露し、最後は大きな花を出してアッと言わせていました。時間は短かったのですがひきつけるマジックでした。

 記念写真を撮ってから、子どもたちにマジックを教えることになっていましたが、ほとんどの子どもは遊びに散ってしまい、5,6人の子が残りました。その子たちに面白い紙を切るマジックを教えました。

 また、用意していった掌の上で曲がる紙を見せて、欲しい子にあげました。とても喜んでいました。

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2011年8月24日 (水)

第29回昭和区の福祉まつりに出演

 今年第29回目になる昭和区の福祉まつりに「おべんとうばこ奇術研究会から出演した。

 会場は、メーン会場として講堂が使われ、サブ会場として6階の会議室が使われた。おべんとうばこ奇術研究会からは両方に出演した。

 私は、サブの6階のやや広い会議室の方に出た。私たちは午前の最後で、その前に人形劇、タオル劇場、歌と紙芝居、琴と尺八の演奏でつるの恩返しなど多彩であった。

 中でもタオル劇場は、人形劇団もぐらによって演じられたのだが、目の前でタオルを使って白鳥やアヒルやカモなどを作り、それを動かすというもので大変ユニークであった。

 琴と尺八の朗読劇はカメ尺八研究会の演出であったが、これも物語によくあった演奏で興味深かった。

 おべんとうばこのマジックは、82歳のSさんのカードの色変わり、Oさんのミルクがテープに変わるマジック、新人のAさんのリングとロープの後、私が、薔薇カード、紐とリング、シルクハットとウサギをやった。

 みなさんは当然とても上手にやり、子どもも大人も不思議がっていた。私のマジックもとても好評で、特にシルクハットとウサギは子どもたちにも大受けであった。

 私の後はHさんがカッププロダクションをやり、最後に92歳の大矢先生が手作りのマジックを5つほど披露された。司会者が、「天皇陛下の前でマジックをやられた方です」と紹介した。観客と共に楽しむマジックを目指しておられ、そのエピーソードを話しながら演技をされた。

 講堂のステージの方は、午後にベテランのHさん、女性のNさん、Hさんが出演した。Hさんは、スプーン、ミルクジョッキ、米と水などを巧みにえんじた。女性のHさんは花やシルク、清水さんに譲っていただいた大きなカップをきれいに磨いて新品同様にしたものから大きな花を出した。Sさんは、これも清水さんから譲ってもらったビール瓶プロダクションに工夫を加えて演じた。それぞれ舞台衣装を着て動きやいくつもの工夫の見られる素晴らしい演技で観客の大拍手をもらっていた。

 とり立てて珍しいマジックではないのだが、演技の仕方で新鮮に見えるので大変勉強になった。

 福祉まつりには、高校生や施設の利用者なども多数参加していた。廊下を利用した展示物やお土産もあった。アンケートに答えてタオルとストラップをもらったが、それまでのストラップは古いのですぐに取り替えてた。

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2011年8月23日 (火)

白猫シーサー

 我が家の近所で白猫の子供が生まれて数ヶ月たちました。可愛い子猫はいつの間にか親離れをして独立しました。幾つになってもパラサイトする人間と違って、その点は感心します。

 独立してからどこへ行ったのか定かではありません。でも、近辺にいる3~4匹の白猫にうち、1匹がやや小型で余り人を怖れないので、ひょっとしたらそれが子猫かも知れないと思うこともあります。

 我が家の自動車の下でねそべって甘えた素振りをしたり、顔をぬぐっているときもあります。

 以前は、白猫たちは毎朝近辺に出没していたのですが、最近は見かけたり見かけなかったりです。今朝は、ウオーキングの帰り珍しく近所の家の道端に座っていたので、急いで家に帰ってキビナゴを持って行きました。

 白猫は逃げて行ってしまいました。見るとそれはどうやら親猫のようでした。尻尾が長いからです。しばらくすると別の猫が来ました。それは尻尾の短い人懐こい猫でした。

 持っていたキビナゴを見せると、近寄ってきましたが、用心していました。それで近くに投げてやると、まだ用心深そうにして食べ始めました。近くで親猫の方が羨ましそうに見ていました。

 食べ終わったので、もう一匹のキビナゴを見せると、今度は近寄ってきました。そして、左手で私の指を触り取ろうとしました。びっくりしましたが、爪は引っ込めて触ったので柔らかい感じでした。

 鼻先に突きつけてやると、咥えようかどうしようか迷っていましたので、地面に落としてやると用心深そうに食べ始めました。「おししいだろう?」と話しかけてやりました。

 私が帰ろうとすると、後を付いて来ました。まだ欲しいのかも知れないと思いました。

 家に帰って雨戸を開けていたら、白猫が門柱のところに乗っかって座っていました。まるで白猫のシーサーでした。我が家の門柱にはときどき白猫がシーサーのように乗っかります。

 キビナゴを持って出て行くとあの人懐こい白猫でした。キビナゴをまたあげて、写真を撮ろうと思い、家に戻ってカメラを持って行きました。幸いまだそこにいました。キビナゴをもう一つあげて写真を撮りました。

 あの子猫ではないような気もするのですが、人懐こいので可愛いです。もし、野良猫になるのなら人懐こくなるべきだと思いました。

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2011年8月22日 (月)

交流センター道徳でマジック―教え子に会う!―

 20日に、名古屋華マジカルグループから交流センター道徳の高齢者一人暮らしの集いに出演をした。暑い時なので、食事会はしないということであったが、余興としてオカリナグループと共に招かれたのであった。

 オカリナグループは、高年者鯱城学園の終了者で構成されていた。この日は8人ほどが演奏に来たそうだ。

 最初に交通安全指導員のお母さんたちの交通安全の話があった。会場には地区を担当する指導員が制服を着て6人来ていた。

 その後に、オカリナの合奏があった。童謡や荒城の月など馴染み深い曲を演奏した。全員合唱としてオカリナの伴奏で、虫の声、里の秋、故郷を歌った。最後にグループのテーマミュージックだというエーデルワイスを演奏した。

 オカリナの演奏を生で聴くのは初めてという人もいた。誰でも親しめるきれいな合奏であった。

 オカリナの演奏の後、I さんと私が紹介され舞台に立った。会場は教室二つ分ぐらいの広さでちょっとしたステージがあった。

 最初に私は、ひょっとして誰か縁故者があるかもしれないと期待して「45年ぐらい前に道徳小学校にいたことがある。」と話したら、何と交通指導員の一人が手を上げて、「私、担任してもらいました。」と言ったのでびっくりした。

 演技をしながら誰だったか思い出そうとしたが、どうしても分からなかった。終わってから聞いたら、2年生の時と5年、6年で担任したことが分かった。名前を聞いてすぐに思い出した。そして、彼女の小学校2年生の頃の顔が目に浮かんだ。「下の名は、たしか平仮名でSちゃんだ。」と思い出した。そう言うと「嬉しい!」と喜んでいた。 

 ところで、マジックの演技は、ロープと紙に書いたロープの絵のコラボから始めた。観客は、意外な展開に驚いていた。

 五本のロープ、薔薇カードも驚きの声が上がった。リンゴとバナナは、教え子を指名してストップをかけてもらった。りんごがバナナに変わるのが不思議そうであった。

 クラブで教えて貰ったカードの予言をちょっと改良して演じた。これも好評であった。

 シルクハットとウサギは意外性があちこちにあるので驚いていた。最後の部分は笑いを誘った。

 いつのまにか結構時間が過ぎていた。心配になって、「もうここらでやめましょうか?」と聞いたら、「心配しないで続けてやって下さい。」と言ってもらえた。それで次の、箱がロープから抜けるマジックをやった。大変驚いていた。

 さらに交通指導員さんから3名のお手伝いを頼んでロープとリングをやった。教え子には首にロープを掛けて貰った。ひとりの指導員さんが、「何か言い残すことは無い?」と言ったら、彼女は「交通安全を守ってください。」と答えたので大うけであった。私は、「最後まで職務を全うしていますね。」と言った。

 ロープは首にからむことなくすっとはずれた。

 私は、時間が気になったので、また、「もう、やめましょうか?」と言ったら、「面白いからもっと続けて。」という声があがった。それで気を強くして紐とリングを演じた。最後に改めをしてもらったらどこにもタネがないので不思議がっていた。

 被っていたトルコ帽で最後の演技となった。卵が出て来るのが不思議そうであった。「ゆで卵をつかってるのよ。」などという声が聞こえた。

 私一人で30分も使ってしまったようであった。

 締めくくりは、Iさんのお得意のシルクと花を使ったマジックであった。レパートリーをふやして、ワインの入ったグラスを出し驚かせていた。

 器から大きなバネ毬と長いシルクを華麗に出したフィナーレでは大喝采が起こった。Iさんの演目はステージ用で練れたものなので流れがよく、とても優雅であった。また、BGMに韓流の歌を取り入れたのが女性の観客には大好評であった。

 教え子とはゆっくりと話す時間がなかったので、名刺を渡し再会を約束した。いいことがあったし、気分よく帰途についたが、途中で忘れ物をしたことを思い出した。Iさんが連絡を取ってくださって、夕方受け取りに行くことになった。

 忘れものをするようでは・・・・と心配になった。Iさんと、お互いに声を掛け合って確認することが大事だと話した。

 

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2011年8月21日 (日)

事実は小説より奇なり―「最後の絆」

 終戦記念日のフジテレビ特別番組「最後の絆ー引き裂かれた兄弟」を録画しておいて見ました。終戦関連の特別番組の映画やドラマは、「母べえ」と「硫黄島からの手紙」も見て、それぞれに感動しました。でも、「事実は小説より奇なり」という言葉がありますが、このドキュメンタリ・ドラマはまさにそうでした。

 沖縄の名護に住んでいた東江(あがりえ)さん一家には、長男の盛勇さんと次男の康治さんと他に弟妹がひとりづついて6人家族でした。

 日米開戦前に、長男の盛勇さんは海軍兵学校に入るつもりだったのですが、母親のカマドさんが反対し、諦めてアメリカに単身で移住しました。そのとき、母親は、「命は宝(ぬちどぅたから)という言葉を言って聞かせました。父親の盛長さんは、「どこにいても沖縄がお前の故郷だ。」と話しました。

 その母は、まもなく病気で早世します。

 戦争が激しくなり、中学生であった弟の康治は、16歳で「鉄血勤皇隊」という少年兵の組織に招集されます。この鉄血勤皇隊には沖縄中の中学生が1400名も徴集され790名が命を落とすことになります。

 一方、兄の盛勇さんは、アメリカ軍に徴兵されます。そして、しばらくしてアメリカに忠誠を誓って情報部に入ることを要請されます。苦渋の決断で参加を決意します。

 戦争はますます激しくなり、硫黄島は玉砕し、アメリカ軍は沖縄に上陸します。沖縄陥落まで80日ほど前のことでした。アメリカ軍はまたたくまに本島を制圧していきます。

 住民は洞窟に隠れたり、密林に隠れたりします。兄弟の一家はやんばるの森の山奥に逃げます。

 弟の康治は、やんばるの森を守ります。親友の山之端さんが目の前で銃弾に倒れるのを見ますが何もできません。そしてアメリカ軍と銃撃戦をする中で右胸に貫通銃創を受けます。友人や親切な古謝さんという女性に助けられます。この女性は康治さんが死のうとするのを生きなくてはいけないと話して止めます。

 康治さんは、友人にかつがれて父親たちの隠れ家にたどり着きます。

 兄の盛勇さんは、沖縄行きを志願して沖縄戦に参加しました。ひとりでも多くの人を助けられたらという思いからでした。

 沖縄陥落の2日前に、あるところで少女の姉妹に出会います。それは近所の大工の娘たちでした。何とか救い出したのですが、少女たちは脱走します。

 ところが、姉妹は盛勇さんの一家がいるところをたずねて、盛勇さんに会ったことを父親に話します。それで父親は命がけで山を降りてアメリカ軍のところに行き、そこで長男の盛勇さんに会うことができます。

 盛勇さんは、弟を救いたいと思いますが、それは最後の掃討作戦の数時間前のことでした。大急ぎで父親の案内で弟妹たちの隠れ家に向かいます。 

 そこで弟の康治さんに会いますが、彼はアメリカを憎んでいました。兄は母親の言った「命どぅ宝」ということを思い出させます。それで康治さんと兄は抱き合いました。

 膿が200ccも出るような大重傷の康治さんはおそらく米軍のペニシリンのお陰で命を助かったのだと思います。

 その後兄はアメリカに戻り植木屋になり留学生の世話をしました。弟の康治さんもアメリカに留学をして教員になり、名護に大学をつくりました。そしていつも「平和」が大事だと言い続けているそうです。

 兄の盛勇さんが92歳で沖縄にやってきて沖縄の学校の慰霊祭で弟の康治さん86歳と久々に会うところで終わります。

 このような奇跡的なドラマが実際にあったことを初めて知りました。兄弟が長生きをしていることも驚異です。特に重傷をおった弟の生命力には驚嘆です。

 戦後66年も経ってやっとこういうドラマが映像化されたのは、兄弟が長い間話さなかったからのようです。戦争のトラウマの深さを思いました。

 

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2011年8月20日 (土)

オルガン奏者吉田文さんのコンサート案内①―ブランチコンサート―

 名古屋の生んだオルガン奏者吉田文さんから今秋のコンサートの案内を頂きました。

 いろいろありますので、まずはブランチコンサートを案内いたします。

 第1回目の前回は、リクエストによってポピュラーな曲も取り上げとても楽しいコンサートでした。

 ブランチコンサートなので、45分と時間は短いのですが、内容は期待できると思います。

 今回はリクエストでどんな曲が出て来るかも楽しみです。

  なお、チケットは手数料を取るプレイガイドもありますのでお気をつけください。芸文センターは大丈夫です。

 以下は、emailの一部を転載致しました。詳細は、リンクの「オルガンの秋」でも見ることができます。

 次回の愛知県芸術文化センターコンサートホールにおける「名古屋オルガンの秋presentsブランチコンサート」は、9月14日(水)10:45より(プレ・コンサートは10:30より)開催されます。
 
 愛知県が世界に誇る名器で、今回はバッハ作曲のバイオリンソナタをオルガン用に編曲した作品にて、壮大なバッハの宇宙をお楽しみ頂けます他、おなじみの小フーガト短調も演奏いたします。
 
 多くの、多くの方にお聴き頂きたく、また私個人としましても心よりお勧めしたいプログラムでもあります。
 
 是非、皆様お誘い合わせの上お越しいただけますよう、深くお願い申し上げます。
 
 チケットは、二宮音楽事務所(052)505-0151、チケットぴあ、その他市内のプレイガイドで扱っております他、インターネットでも受け付けておりますので、是非ご利用下さい。
 なるべく多くの方に名古屋から発信するパイプオルガンの魅力を知って頂きたいと思っております。
 みなさまのご知人にも、メール転送やブログなどで是非ご紹介頂ければ大変有り難く存じます。
 末筆となりましたが、厳しい暑さが続きます。みなさまくれぐれもご自愛の上お過ごしくださいませ。
 
 秋に、お元気な皆々様方にお目にかかれますことを、心より待ち望んでおります。
 
  「名古屋オルガンの秋実行委員会」代表 吉田文
 

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2011年8月19日 (金)

曽野綾子著「老人の才覚」を読んで―②―

 曽野綾子氏が日教組嫌いであることは、昨日書いたが、老人の使う言葉が貧困になったのも日教組教育のせいだと言いたいようだ。「老人の使う言葉が極度に貧困になった」という項(P.25)で、作文教育が行われなかったせいだと次のように書いている。

 「何でもかんでも権利だとか平等だとか、極端な考え方がまかり通るようになってしまったのは、言葉が極度に貧困になったせいもあると私は思います。言語的に複雑になれない人間は、思考も単純なのです。」

 と、書いてその原因として3点を挙げている。

 一つは、読書をしなくなったこと。

 二つ目は、漫画やインターネット依存。

 そして三つ目に、作文教育がきちんとされなかったこと。

 漫画やインターネット依存がコトバを貧困にしたのかどうかについても異論があるところであるが、ここでは、作文教育について取り上げたい。

 「言葉が貧困になった原因は、作文教育がきちんとなされてこなかったからです。自分の心の中にあるものを整理して、書き写すという技術がないと、表現力が豊かにならないばかりか、確固とした自分というものを作っていけない気がします。」と述べている。

 そして、礼状を書けない、一流大学を出た官僚でもつまらない文しか書けない。敬語を使えない・・・などと書いている。

 「読まない、書かないから、微妙な考え方や話ができない人が多くなりました。祖父母も親も教師もそれが恥かしいことだと教えなくなった、というか教えられなくなった。」と書いている。

 戦前、多分小学校2年生の時だったと思うのだが、「綴り方読本」というのがあり、綴り方を書く宿題が出されたことがある。全く書けなくて父母に相談したがお手上げであったことを覚えている。

 でも、戦前でも日本には綴り方教育の歴史があって、心ある教師によって熱心に綴り方教育が行われたことを後に知った。ただ、私の近辺には、教科書を与えておいて真似をしろという程度のことしか行われなかったのだ。

 戦後は、いわゆる型にはまった(つまり小国民教育としての)綴り方教育から開放されて、作文教育が全国で盛んに研究され実践された。その中ですぐれた表現力をもつ才能が開発された。(東北の山彦学校などとか信濃教育とか・・・・)

 私が小学校、中学校の頃は、不幸にしてそういうものとは無縁であったから、作文は苦手であった。ただ、読書はしていたし、新聞を読んでいたから、ある程度の文章能力は身について、卒業論文も書くことができた。

 教員になってからは、作文教育、読書教育、読解教育、音読教育など、総合的に国語教育に力を入れてきた。

 日本中の学校で、作文教育は熱心に行われたことを知っている。

 曽野氏は、いったい何を根拠に作文教育が行われなかったというのであろうか。

 今から10数年ほど前からだと思うのだが、入学試験の筆記試験が作文能力や表現能力を阻害しているという反省から、作文などの論述試験が重視されるようになった。つまり、作文教育を疎外したのがあるとすれば、やはり、入学試験に問題があったのだ。

 同じようなことは、英語教育にも指摘することができるがここでは扱わない。

 曽野氏が言うのは、日常生活での礼状を書くとかちょっとした手紙を書けなくなったと言いたいのだと思うが、それは作文教育のせいだとは言えない。日常生活上のコトバの使い方や礼儀などの躾けの問題がからむからだ。

 家庭教育の貧困化は確かに見られ、それが地域教育(コミュニティ)の喪失と相俟ってさまざまな対人関係上の問題が進行したのだと思うのだ。

 

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2011年8月18日 (木)

曽野綾子著「老いの才覚」を読んだが―①―

 作家の曽野綾子さんが著した「老いの才覚」という本が広く読まれていると聞いて、図書館に借りる予約をしておいたら、やっと順番が回ってきた。申し込んでから5ヶ月以上かかった。相当人気があるようだ。

 読み始めて、幾つかの点で?と思うところがあった。その一つは、

 「戦後の教育思想が貧困な精神を作った」(p.23)で、「戦後、日教組が、何かにつけて『人権』『権利』『平等』を主張するようになりました。その教育を受けた人たちが老人世代になってきて、ツケが回ってきたのだと思います。」

 と書いて、権利ばかりを主張し、遠慮というものがないという老人の例をあげて、「『損をすることには黙っていない』というのも、日教組的教育の欠陥です。」と言っている。もともと人間は本能的にがめついのだから、わざわざそういう教育をする必要などないのだというのだ。

 彼女は、日教組を頭っから毛嫌いをしているようだ。アカというコトバは使っていはいないが、かつて戦争反対を唱えた人びとや、資本家に反対をして労働者の権利を主張した連中に、アカというレッテルを貼ったのと酷似している。

 つまり、日教組=悪(アカ)という考えが植えつけられているのだと思う。

 そもそも基本的人権は、戦後日本国憲法に明記された、人間としての当然の権利である。現人神としての天皇を先頭に立て、戦線を拡大していった戦前の政治や社会や教育の反省の上に、戦後の民主主義があるのだ。

 子どもや弱者や農民や労働者やなどが自分の生存権を主張するのは、その権利が抑えられて実現できていないからのことであった。人権も平等も権利も法律に書いてるからそれでよいというものではないのだ。絶えずそれを点検し、正していかなければ獲得できないし守れないものなのだ。

 「子どもの権利条約」批准されたのだって僅か17年前だったではないか。(1994年発効)

 戦後、経済成長ととlもに一家の働き手である男性は、家庭をかえりみずひたすら会社のために働くことを余儀なくされた。また、子どもは進学競争によってゆがんだ勉強を強いられて正常な人間性を高める教育から遠ざけられた。

 物を大切にせず、使い捨ての風潮が広まった。そして自己中心的な考え方も蔓延した。

 その後バブルがはじけて、失われた20年が続いているが、その中で今度は正社員が激減し、パートタイマーや派遣社員などの非正規労働者が急増した。不安定な雇用状態は相変わらず続いている。

 年収が200万円にもみたない貧困層が増加し、生活保護を受ける人たちも増加の一途である。

 その過程で校内暴力、学級崩壊が起き始め、家庭内暴力が増え、モンスターペアレントやクレイマーやキレ易い老人が増加していった。

 そうしたことはみな日教組のせいだと言いたいようだ。だが、私はそうは思わない。むしろ政治の責任であり、それに寄りかかって利益第一主義を進めてきた企業の責任でもあり、コマーシャリズムの俗悪文化を助長してきたメディアにも責任の一端はあると思う。

 

 

 

 

 

 

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2011年8月17日 (水)

トラブルは重なるもの

 ついこの間、自転車がパンクをしました。同じ日にもう一台の自転車のブレーキのワイヤーが断線しました。パンクは修理に行ったら、タイヤごと変えたほうがよいというので3980円で取り替えました。ブレーキのワイヤーはそのままにしてあります。

 それから数日して、今度は給湯器がこわれ洗面所やシャワーの湯が出なくなりました。暑い夏なので困りましたが仕方がありません。見積もりをしてもらったら、パロマ事件以後厳しくて、我が家の場合、外部につける必要があるので19万円だということでした。

 築40年以上の風呂なので、娘からはうるさくリホームするように言われていました。それでその見積もりも頼みました。お盆とぶつかって見積もりは盆以後ということでした。

 盆で娘夫婦が帰って来る日に、今度は、パナソニックの脱水洗濯機とダイソンの掃除機が動かなくなりました。まるで泣きっ面に蜂でした。

 パナソニックに電話をして相談すると、まだ延長保証があるようだから、購入した店に相談するように言われました。それでエイデンに電話をしましたら、すぐに手配をしてくれました。

 ダイソンの掃除機は、保証期間が過ぎていましたが、電気関係なので親切にも無料で直してくれるということで、宅配便を手配してくれました。

 洗濯機も掃除機もどちらもお盆にも関わらずすぐに修理をしてくれました。とにかく、どちらも生活必需品ですから、早く直してくれたのは大変助かりました。

 風呂場のリフォームの見積もりは、盆休み明けにできましたが、予想より高いので保留にして、もう一つ相見積もりを取ることにしました。ところが盆休みですぐにはできないということでした。盆休みも会社によって日にちに違いがあるからです。

 いつも感じることですが、トラブルがおきると不思議にいくつか重なっておきるものです。以前にボーズのステレオが故障した時に、ビデオデッキが壊れてしまいました。今回もまさしくその通りになりました。

 ところで、仮に風呂のリフォームをすることになりますと、出来上がるまでの間、銭湯に行かなければなりませんが、この頃は銭湯が廃業してしまい、近所にはなくなりました。○○の湯というのを探していくより他はないようです。

 

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2011年8月16日 (火)

有料老人ホーム慰問演奏をして思ったこと

 お盆の14日、私が所属する昭和男爵コーラスから、八事の有料老人ホーム、グランダ南山に慰問演奏に行きました。

 この慰問演奏のために7月以降3度の特別練習をしました。当日も、午前中は生涯教育センターでリハーサルをし、午後に車に分乗して施設へ行きました。

 この施設は、以前にも行ったことがあり、今回は2回目でした。入居者がどのくらい変わったのかはわかりませんでした。

 とても暑い2時20分頃から、大広間で演奏をしました。伴奏楽器が無いので団員のNさんのキーボードとアンプをお借りして持ち込みまました。

 歌うところはとても暑くて汗がだらだらと出ました。後で聞くと私だけではなかったそうです。

  私たちは、明るく軽快な「高原列車は行く」をオープニングに歌い、次に、とてもきれいな「水色のワルツ」を歌いました。

 3曲目は、男性合唱曲の小学唱歌「海」をアカペラで歌いました。アカペラで歌うのは初めてでした。

 次に、「ふるさと」を会場のみなさんと一緒に歌いました。団員の一部が会場に入り一緒に歌いました。

 4番目は、伊藤久男が歌った「山の煙」で、これもきれいな懐かしい曲です。5曲目は、ガラりと雰囲気を変えて「東京ブギウギ」を身体を動かしながらリズムに乗って歌いました。

 最後は、これも有名な「夜明けの歌」を歌いました。

 その後、会場の皆さんと、「高原列車を行く」「水色のワルツ」「夜明けの歌」を歌いました。

 施設の人の話では、音楽関係の慰問が多いということでした。私たちの合唱も以前よりは進歩しているはずなので、きっと楽しんでいただけたことと思います。K先生の素敵な伴奏で、指揮者のK先生の表情豊かな指揮に乗って楽しく歌うことができました。

 この有料老人ホームは、ベネッセが経営しているものですが、聞くところでは、名古屋で最もプレスティージャスなホームだそうです。

 帰りにパンフレットを貰って来ましたが、私のような貧乏年金生活者には逆立ちをしても利用することができない施設でした。ちなみに、入居金ゼロで毎月払いをしますと、最低が46万円、中が69万円、最高が90万円になります。

 「わがクラブで、もし入れるとしたら・・・・・AさんとSさん・・・・ぐらいかなあ。」とよからぬ想像をしました。

 世の中には、そういうところで余生を送って人生を終えられる人もいるのだと思いました。

 東京でケア・マネージャーをしている娘に話しましたら、「特養に入ること自体が難しい。それに特養でも17万円ぐらいかかるから無理よ。お母さんの生活ができなくなる。」と言いました。(特養待ちが全国で40万人もいるのですから。)

 貧乏人は、野垂れ死にをするしかないのか・・・・・。曽野綾子さんは「老いの才覚」の中でもし、金がなくなったら野垂れ死にしたっていいと言っていますが、ほんとかなあ?自力で健康に生きて、ポックリと死にたいものだと改めて思いました。東京巣鴨の刺抜き地蔵に行った時、妻はお参りをしましたが、私はしなかったので、それにもあやかれないのかも?

 でも、ものは考えようですから、今のところ歌えるだけでも幸せと言うべきでしょう。

 

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2011年8月15日 (月)

66回目の終戦の日に

 この前にも書きましたように、私は、NHK朝の連続テレビ小説「おひさま」で、最後に陽子先生が担任した子ともたちと同じ年頃だと思います。

 戦争中は、小国民教育が行き届いていて、私たちは、「天皇」というときに、「天皇陛下」と言わなければならず、そのときには直立不動の姿勢で言うことを植えつけられていました。

 学校の正門の脇に奉安殿がありましたが、畏れ多くて近づいてはいけないことになっていました。

 私は、家で取っていた朝日新聞を子どもの頃から読んでいました。あの大本営発表を信じ、戦果を喜んでいました。

 陽子先生の安曇野の有明国民学校では、竹槍の練習をしていましたが、竹槍練習をやった記憶はありません。高学年生たちは、木剣や竹刀などを使う練習をしていたように思いますが。

 私は、運動神経が鈍くて、今にして思うととても軍人にはなれなかったと思うのですが、当時は将来は海軍士官になりたいと憧れていました。親友の前田君の兄が海軍士官で紺の制服に短剣を挿している写真があり、それを見ていつもカッコウ良いと思っていました。

 両親にも、将来結婚する時には、海軍士官として結婚すると話していたくらいです。

 私は、「のらくろ」という漫画を近所の友人から借りて読んでいましたが、その中でのらくろが高いところにある板を渡る訓練の場面がありました。それを見て自分にはとてもできないと思っていました。でも、軍人になるつもりでいました。怖いもの知らずなのですね。

 4年生のときに終戦になり、それから66年。幸い一度も軍隊に行くことはありませんでした。日本は平和憲法をもち徴兵制度を廃止して、建前としては軍隊もなくなったからです。

 これは私にはとてもありがたいことでした。もし、もう7年くらい早く生まれていたら、きっと戦争に駆り出されていたからです。そうなると私のような者は毎日上官のピンタを食らったに違いありません。

 この66年の間に、世界では、朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、アフガン戦争、中東戦争、アフリカでの多くの民族戦争、コソボ戦争・・・・枚挙に暇がないくらいの戦争が行われました。

 人びとは平和を願っていても、戦争に巻き込まれます。そして罪もない人びとが犠牲になり傷病をおったり死んだりします。街が破壊され、生活や文化が失われます。人間はどうして愚かなのかと思います。どうしてこれまでの戦争の歴史から学ばないのかと思います。

 各国は、軍事力を増強するために相変わらず多額の軍事関係の出費をしています。中国も航空母艦を持つようになりました。

 兵器や爆弾もますます破壊的になりました。もし、その金を文化的な建設的な方面で使うならどんなにか人間の暮らしがよくなるだろうと思うのですが、それができないことを悲しく思います。

 私は、これからも平和を願って行きたいと思います。ひとりの声は小さくても世界中で声を上げる人が増えて行くことが大事だと思うのです。

 

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2011年8月14日 (日)

誰でもできるカードマジックを始めて1年

 以前にも書きましたように、私がマジックを始めたのは45歳の頃で、近所の清水先生というアマチュアマジシャンが誘ってくださったからでした。

 私の師匠の清水先生は、NAMC(名古屋アマチュア・マジシャンズクラブ)という名古屋で一番古くてプレスティージャスなマジッククラブの会員でした。当時先生は75歳ぐらいで丁度今の私の年齢でした。

 その頃、NAMCには有名なアマチュア・マジック研究家の高木重郎先生が講師としてきていました。その先生がレクチャーで使ったマジックの道具や材料を全部清水先生が作っておられました。

 先生は道具の清水として名を馳せておられたのです。

 ところがカードマジックはほとんどおやりになられませんでした。カードマジックは同じNAMCに、後に知り合う大矢先生というカードとクロスアップの研究家がおられました。

 清水先生は、「私はカードはやらない。見ているだけ。」と仰っていました。そういう関係で私も道具マジックを専門に教えていただいたのです。

 それから28年ほど経ち、清水先生の娘さんの主宰するマジッククラブに参加しました。そこで大矢先生と知り合うことになったのです。

 先にも書きましたように、大矢先生は、93歳の今も現役で毎日カードの研究を続けておられます。先生に教えていただいてカードをいくつか覚えることができました。

 そこで昨年の8月始めに私は一大決心をしてカードマジックを覚えることにしました。

 私が所属する名古屋華マジカルグループにも、カードマジックやクロスアップマジックのテクニックの素晴らしい人がいます。その演技を見るたびに凄いテクニックに魅了されます。でも、この年になってテクニックのあるカードマジックは無理だろうと思いました。

 そこで大矢先生に、「記憶力低下に挑戦してカードマジックを覚えよう思い、覚え始めましたがどう思われますか?」と相談をしました。カードマジックでもやさしい誰でもできるマジックがあることを知ったからです。

 すると先生は、「カードマジックは物凄い数の種類があって易しいマジックもたくさんあります。私は、歳をとってテクニックのあるものよりみんなで楽しめるものがよいと思うようになりました。」と話されました。

 それで私も勇気百倍して、「よし、易しい誰にでもできるカードマジックをもっと覚えよう。とりあえず10種類だ。」と決心しました。

 若いときと違って記憶力の低下はどうしようもありません。ですが、記憶力低下に抗うには反復練習しかないと心に決めました。そして易しい誰にでもできるカードマジックを探して行きました。

 大矢先生に教えていただいた、「ある、ない」や「どれかな」などや図書館の手品本で見つけた「Aの出現}などやクラブのカードマジシャンHさんに教えていただいた「ジェニミツインズ」など、セットのいらない、デックやパケットでやれるマジックを先ず覚えました。

 初め5つが、次に10になり、15になり、少しずつ増えて行きました。覚えると機会を見つけて人にも見せるようにしました。マジックを知らない人は、私がやるような簡単なカードマジックでも驚いてくれます。

 大矢先生の教えに従い、見せるマジックではなくて、共に楽しむマジックを心がけています。

 そのうちに「蘇武牧羊」を改良したカードマジックを考えたり、13枚のカードだけでやれるマジックを集めたり、改良したりしました。現在、13枚のカードだけでやれるマジックは一般向きに13種類集めてマニュアル化してあります。テクニックを要するものも入れると16種類あります。これは常に携行しています。

 1年経ちましたが、これまでのところ50種類のカードマジックを集めました。でも、数が増えると、反復練習することが減っていつの間にか忘れています。50種類を忘れないようにすることはこの歳では至難の技です。

 大矢先生も清水先生も素晴らしい記憶をしておられますが、若いときからやっているので身についたのだと言われます。

 今になるとカードマジックを敬遠していたのが惜しまれます。大矢先生にもっと早く知り合うチャンスもあったのですから。でも今更グチっても仕方がありません。これからも易しいカードマジックを忘れないようにしていくことが大事だと言い聞かせています。

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2011年8月13日 (土)

「2度と原爆を使ってはいけない」と言った占領軍司令官

 先日放送されたNHKスペシャル「二度と原爆を使ってはいけない―ナガサキをみた占領軍司令官」を録画しておいたので見ました。

 原子爆弾が長崎に投下されてから1年後に長崎の占領軍司令官として赴任したビクター・デルノア陸軍中佐の話でした。長崎の惨状をつぶさに見た彼は「2度と原爆を使ってはならない」と言ったのです。

 アメリカ陸軍の司令官でありながら、そこまではっきりと言ったことに感動しました。

 彼は、第2次世界大戦の末期にナチスドイツを倒すべく連合軍の一翼を担ってフランスに上陸します。戦車隊の指揮官であった彼はナチスドイツ軍を撃破しながら進む間にナチスのホロコストの凄まじさを目撃しました。

 長崎の原爆の被害を見て、彼はナチスのホロコストと原爆投下は同じことではないか・・・・と気づいたのです。

 司令官として在任中に彼は、石田雅子さんという少女が書いた原爆体験の手記を出版できるようにと努力しました。当時GHQは原爆に関する一切のものを出版したりすることを禁じていました。それを敢えて上層部に具申して何とか出版できるようにしようとしたのです。

 また、彼は長崎の原爆式典を昭和23年に許可しました。以来、66年目の今年まで毎年平和記念公園で核兵器廃絶が世界に訴えられて来ました。その礎を作ったのでした。

 彼が長崎占領軍司令官として在任中の昭和23年に、娘のパトリシアさんが生まれました。彼は、長崎の教会を描いた1枚の油絵を生涯大切にして座右に置いていましたが、死ぬ前に娘のパトリシアさんに「この絵を貴女が持つときが来た」と言って絵を託しました。

 63歳になったパトリシア・マギーさんは、父のビクター・デルノアさんの長崎への思いを確かめるために夫と共に長崎にやってきました。そして父を知る人や原爆関連の場所を訪ねます。

 NHKスペシャルは、その娘さんの長崎訪問を横糸にして描きました。パトリシアさんは、最後に絵に書かれた教会を訪ね、父が彼女に託した思いを深く知りました。

 「原爆は二度と絶対に使ってはならない」という思いを引き継いで伝えることを決心します。

 番組の中で、東京裁判のときに、日本軍の無差別爆撃を連合軍が裁かなかったのは、もし、裁いたら米軍による日本の都市への無差別爆撃や広島、長崎への原爆投下に矛先が向かうことを怖れたからだとマサチューセッツ工科大学のジョン・ダワー教授は指摘しています。

 原爆はホロコストだと気づき、以後原爆に反対を貫いたビクター・デルノアさんのような軍人がアメリカに一人でもいたというのは嬉しいことです。

 

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2011年8月12日 (金)

隔世の感―カメラの発達―

 本を探していて、古いアルバムを見つけました。表紙も写真を貼った紙もボロボロです。それを見ていましたら、小さい写真がたくさん貼ってありました。2cm×3cmぐらいの大きさです。

 私が、高校生の時に、スタートカメラという玩具のようなカメラが売り出されました。私は、それまでカメラが欲しかったのですが、高くてとても買うことができませんでした。いったい幾らだったのか忘れましたが、思い切って買ったことを覚えています。

 掌に入るぐらいの黒っぽい色をしたカメラで、多分単眼かせいぜい2枚レンズだったように思います。

 そのカメラで、弟妹や近所の人や友だちなどを写しました。現像はカメラ屋に出したのだと思います。 もちろん、白黒写真ですが、今でも鮮明なのは現像がよかったからだと思います。

 「スタートカメラ」で検索をしてみましたら、幾つかのblogが出てきました。中には鮮明な風景写真を載せているのもありました。

 スタートカメラの写真もありました。懐かしい写真です。値段は500円ぐらいだったと書いてありました。私はカメラをどうしのかは覚えがありません。誰かに上げたのかも知れません。

 その後、神宮前にあったカメラ店で、2.5、m×3cmぐらいのカメラを買ったことがあります。このカメラは長い間もっていたのですが、誰かにあげてしまいました。

 叔父からローマの休日に出て来るライタ型のカメラを貰ったことがありました。これは一度も使いませんでした。

 大学生の頃は、叔父に貰ったラジオのような形をしたカメラを使っていました。このカメラは、友人に貸したのですが、友人が亡くなったのでそのままです。

 あれからウン十年。カメラの進化は大変なもので、いつの頃からかデジタルカメラになりました。

 最初に買ったカシオのデジカメは普通のカメラと同じ大きさで6万五千円もしました。液晶画面は35mmでした。

 その次に買ったのは、レンズが出ないミノルタのデジカメです。

 次は、カシオのデジカメでこれは530枚も撮れるので愛用していましたが壊れてしましました。そのときに、同じカシオのデジカメを買いましたが更に進化していました。

 そして今年の5月頃に衝動買いをしたのが、カシオの570枚撮れるカメラです。これは以前にも書いたことがありますが、1秒に40コマも撮れる優れものです。

 デジカメに到るまでに、途中ではいわゆるフィルムを使うバカチョンカメラを何台か買いました。これらは現存しています。

 カメラの進化は本当に隔世の感があり、デジカメのお陰で大変重宝をしております。

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2011年8月11日 (木)

核廃絶の意味―核兵器も原発も廃棄し地球上から無くすこと―

 核廃絶というコトバがある。私は原爆や核兵器を無くすだけでなく、原発も同じように核を作り出すのだから脱原発も核廃絶に含まれると思っていたら、どうもこれまでの使い方は、核兵器廃絶を略して「核廃絶」と言っていたということを知った。

 8月10日の朝日新聞朝刊「記者有論」というコラムで、広島総局の加戸靖史記者が「『原発は別』の意識を改めよ」と題してそのことに触れている。

 戦後の50年頃から原水爆禁止と言っていたのが、1973年に核兵器禁止を縮めて核廃絶というようになったそうだ。そこには原発は含まれていなかった。

 元広島市長の平岡敬さんは「核廃絶」は使わなかったという。原発も含まれるからであった。

 ところが今年3月11日の東北大震災で福島第一原発が大事故を起こし、6基の原発が全て壊れてしまい、放射能が漏れ出たことにより様相は一変した。安全神話が崩れて、国民の誰もが原発の事故による放射能の怖さに気が付いたのだ。

 京都大文字の送り火用として、津波でなぎ倒された名勝の松を岩手県からもって来て燃やすという案も、放射能がないという結果がでたのに反対されて実現しなかった。そのくらいみんなは放射能に過敏になっているということの証明であろう。

 3.11があって初めて原爆などの核兵器も原発も同じ核を使用することに気が付いたのだ。

 それまでは、Atom for Peace(原爆の平和利用)という美しい言葉に惑わされてきたのだ。私も含めて。「安全だから心配ない。」「地球環境に優しいエネルギーだ。」「他のエネルギーより安くできる」という宣伝を叩き込まれて信じてきたのであった。

 故森滝市郎氏は、「核と人類は共存できない」と言い、平和利用も含めた核の「絶対否定」こそが氏の思想の真髄であったと加戸記者はいう。森滝氏はまさに先見の明があったのだ。

 地球上にいるのは人間だけでなく数多の動物や植物などである。つまり生きとし生けるものがみな核とは共存できないのだ。その核を作り出し使用しているのは人間である。他のいかなる生物も核は作っていない。

 人間がどんなに罪深いものか。(キリスト教的な神に対する罪ではなく、命あるものを脅かすものとしての罪である)核は完全に廃絶すべきである。

 

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2011年8月10日 (水)

世界同時株安

 8日のニューヨークの株式市場は、634$という暴落をし10809$となった。それまでにもニューヨークの株価は下げ続けていたが、格付け会社スタンダード&プアーズ(S&P)がアメリカの国債の格付けをAAAからAA―に一段階引き下げたことが引き金となった。

 EUでイタリアやスペインに財政不安が生じ、ギリシャなど経済の不安定な状況があり、ヨーロッパも株価は大きく下げた。

 日本の株式市場もご多聞に洩れず、株式取引が始まる前にG7が共同声明をだしたにも関わらず、一昨日は日経平均が220円も下げた。そして昨日も470円も下げる場面もあった。2日間で約700円下げということになる。

 日本の証券会社のトップの野村證券の株価は、リーマンショック以前の高値2200円から7分の1の316円になってしまった。軒並みに非常に安い水準にまで下げた。

 オバマ大統領はダウが530$ほど下げた時点で、「一格付け会社の格付けごときに振り回されてはいけない。アメリカの国債はAAAである」とメッセージを出したが、お構いなくダウは下げ続けたのであった。

 アメリカ人は株に投資をしている人が多いので株価値下がりの影響を受けて消費が弱くなるというコメントがあった。

 モーニングサテライトでは、ニューヨーク株式取引所から掘古氏がコメントをして、「世界はこの前のサブプライム問題から学んでいない」と述べた。それはサブプライム問題の債権に対して格付け会社がAAAの評価をしていたことを指す。

 つまり、格付けなんていい加減なものであることを学ばなかったのかと言うのだ。私は、あの問題以後その点をblogで2、3回指摘してきた。

 アメリカ国債の評価AAAにしろかなり意図的な政策的なものであったのだ。

 別の格付け会社ムーディーズが日本国債の格付けを下げる可能性を示唆した。円高で困っているのだから、さっさと格付けを下げてもらった方がよいのではないか?

 それはともかくとして、この混乱は当分続くという見方が広がっている。世界株安を演出して儲けたのは誰なのかは知らないが、誰か仕掛けた者がいるに違いない。迷惑を蒙るのは世界の経済であり、大多数の企業や市民である。

 

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2011年8月 9日 (火)

原爆と原発は同根―ナガサキ・ヒロシマ・フクシマ―

 今日は長崎に原爆が投下されて66年目の日です。先に、アーサー・ビナードさんの講演紹介で書いたように、アメリカはウラニウム型とプルトニウム型の核実験を行い、成功すると、1ヶ月も経ないですぐに広島と長崎に、その効果を確かめるための原爆を投下したのでした。広島にはウラニウム型の原爆を、長崎にはプルトニウム型の原爆を投下しました。

 あれから66年、原爆犠牲者や被爆者の人たちの苦しみは想像を絶するものであったと思います。そのあと、ビキニ環礁で第五福竜丸が死の灰を浴びて被爆しました。そしてこの3月11日の東北大震災で福島第一原発の原子炉が6基破壊されて放射能を撒き散らしています。

 Atom for Peace(原子力の平和利用)という美しい言葉に惑わされて、世界中の多くの国で原子力発電を推進してきました。でも、それはまやかしであるとビナードさんは指摘しました。

 ウランを使って核分裂を行うと、プルトニウムが産生されますが、それは紛れもなく原子爆弾の材料だからです。原子力発電の熱は核分裂を行うときに物凄い熱を出すのでそれを大量の水で冷やします。そのときの熱をたまたま使って発電しているだけだというのです。

 日本には54基の原子炉がありますが、そこで大量にプルとニウムつまり原爆の材料が作られ保存されているのです。

 福島第一原発の大事故以来、放射能による、空気汚染、海水や河や池などの水質汚染、土壌汚染、そこから副次的に農作物や魚介類やさまざまなものが放射能で汚染され大きな社会問題になっています。また、観光などのサービス業にも影響が出ています。

 かつて鳥インフルエンザが広がることが怖れられうがいや手洗い励行などが推奨されました。でも、放射能からの被爆を免れる道はありません。手洗いしようにも水が汚染されているかもしれません。ヴィールスは殺菌できますが、放射能は殺菌?できません。そして幾らでも拡散して行きます。

 東京の地下鉄電車で高濃度の放射能が検出されたというネットの記事もありました。

 国会での東京大学アイソトープセンター長の児玉龍彦教授の参考人発言は衝撃的で、福島原発事故ですでに広島原爆20個分以上の放射能が放出されたということです。

 原爆も原発も共に核利用で全く同じことですから、原爆反対だけではいけなかったのです。吉永小百合さんだけでなく、私も、ほとんどの日本人も今回の事故が起きて初めてその恐ろしさに気づいてのでした。

 広島の原爆式典では、広島市長も菅首相も脱原発と地球上から完全に核をなくすことへの発言が弱かったと指摘されています。

 上の人たちからの発言も大事ですが、私たち市民一人ひとりが核の恐ろしさを理解して地球上からの核の廃絶を目指す決意と行動が求められていると思います。

 ヒロシマ・ナガサキにフクシマを加えて、原爆と原発にノーといい続けることが大事だと思います。私たち自身だけでなく、地球上の全ての生き物や存在物のために!!

長崎平和公園・平和祈念像.jpg

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2011年8月 8日 (月)

不愉快な客

 寿司を食べたくなってスシロー熱田店に行った。いつものことだが金曜日のせいか5時半に行ったのにほぼ満席であった。でも、私はひとりだったのでカウンター席につくことができた。

 しばらくすると、右隣の席にウエートレスが中年の男性を案内してきた。他にも席があるのにわざわざ私の隣に案内するとは・・・・と思った。

 私は、回転寿司を食べる時、肉のものや鰻や軍艦ものは余り食べない。しかし、いろいろな種類のものを食べたいと思う。特にひかりものが好みで、マグロはそんなに食べたいとも思わない。

 隣の男性は、極上本マグロオオトロ一貫の皿ばかりを取って食べていた。しかも、全て注文していた。目の前に同じ皿が流れてきても見向きもしなかった。

 私も極上本マグロオオトロを食べてみようと思い、注文をした。しばらくすると、到着予告の音楽が鳴り、注文画面にオオトロ一皿と表示された。

 ところが流れてきた注文品は、オオトロ3皿が並んでいた。私は、上の席だったので当然私が先に取るものと思い一皿取ったら、隣の客が「それはオレのだ」と怒ったように言った。驚いて私は、「すみません。注文されたのを知らなかったものでしから。」と謝ったら、その男は私を睨んだ。

 その後は、折角の寿司が全く味気なくなった。早くその男が出て行けばよいのにと思ったが、皿を山のように積んでいるのになかなか終わらなかった。

 やっと勘定をしたのでホッとした。その男はオオトロばかりを22皿食べていた。

 帰りに支払いを済ませてから、店長を呼んでもらった。そして件の事情を話し、隣の客と同じ物がオーダーされたら、同時に流さないで欲しいと話した。当然注文の時間が違っているのに、同じ注文画面からの注文だからと同時に流すからこういうことが起きるのだ。店長は善処すると言った。

 それにしても、変な客である。普通に流れて来るのを食べないのはよいとして同時に来たものどれでも同じではないか。変な人間が増えているのかと嘆かわしかった。

 ところで、スシローは遂にカッパ寿司を抜いて全国一となったと店内に出ていた。帰るときには客が溢れていて納得であった。

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2011年8月 7日 (日)

客を不愉快にする中華レストラン”はまゆう”

 これまで私はよい印象に残ったレストランを取り上げてきたが、今日は初めて嫌な思いをしたレストランについて書く。

 名古屋の山手通り、地下鉄の「八事日赤前」で降りると、名の知られた中華レストラン”はまゆう”(浜木綿)がある。

 先日グループ13人で食事会をもった。続きの部屋2つに7人と6人に分かれて席をとった。

 コースの中華料理だからテーブルごとに大きな皿やボールに料理が盛られて来る。回転式のテーブルを回して自分たちの小皿に分けてとる。

 私たちは、飲み放題のコースであった。最初は常識どおりのビールで乾杯ということになった。ところが最初からビールをこちらの注文より多く開栓をして持ってきた。飲み放題とは言え無駄なことはしたくない。それに焼酎とか紹興酒とか他の飲み物も試したいのだ。だからそのことを指摘した。

 食事を始めると、料理が次々に運ばれて来る。ゆっくりと食べていられないし、話もし難い。それでウエイターに「料理はゆっくりと出すように」と伝えた。それなのに料理はどんどんと出てきた。それで別のウエイトレスにゆっくりと出すように言ったがやはり効き目がなかった。

 また、7人のテーブルに春巻きが6本で、ショウロンポウにいたっては3個しかなかった。そのことを言うと店の女性マネージャーらしきのが来て説明をした。説明を聞いてもサッパリ理解できなかった。

 盛りあわせの皿でも、鶏肉などの個数は4つしかなかった。

 たくさんあったのは、最後のチャーハンだけであった。

 もう一つのテーブルでは、ビールの空きビンが片付けられず最後まで林立したままであった。

 こんなこともあった。注文したウーロン茶が待っても来ないのでへんだと思って聞いたら、隣のテーブルに行っていた。

 中国人は日本人と違いゆっくりと食事をするといわれる。でも、こちらがゆっくりと出すように要求しているのに無視してセカセカと持ってくるというのはどういう態度であろう。

 中国語で、サービスのことを”服務態度”というが、”服務態度不好!”であった。

 次の日、他のグループの人たちと会食をしたときにそのことを話したら、やはり「はまゆうは持ってくるのが速過ぎる」とか「新瑞橋の店は逆に遅すぎて主人が怒ってしまった」とか「中が生のままのシュウマイを出された」など不満が出された。

 山手通りの”はまゆう”は結構客が多いように見受けたが、こんな客を無視するサービスでよくやっていけるものだと変な感心をした。

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2011年8月 6日 (土)

勉強なんてしなかった戦中戦後の子ども時代

 NHKの朝の連続テレビドラマ「おひさま」は、なかなか面白いので楽しみに見ています。作者の岡田恵和さんの脚本のつくり方がよいのだと思います。

 陽子先生は素敵な先生なのに校長から退職を打診されて結局教師を辞めることになりました。あのようなことが許されていたのかどうか、今なら不可能でしょう。

 陽子先生は、子どもたちを理解させる授業ができなくて悩んでいます。私は、丁度陽子先生が担任している子どもたちと同じ年頃に小学校にいました。戦後の混乱で担任の先生が変わったり、クラス替えがあったり、落ち着かないことでした。

 運動場はサツマイモ畑になっていました。そこで獲れたサツマイモがどうなったか誰も知りません。ただ、5年生の時に、仲のよかった前田君という級友が事故で亡くなったとき、クラスを代表して先生と葬式に行きましたが、遠いところだったので先生がサツマイモを2個くれました。弁当にしなさいということだったのです。サツマイモは学校の倉庫に蓄えてありました。

 終戦後は、復員してきた先生が何人かいました。4年生のとき終戦だったのですが、復員してきた若い先生に担任がかわりました。

 復員してきた先生の中に「鉄拳」とあだ名される若い教師がいまいした。あるとき掃除の時間に騒いでいたらその先生が来て、「廊下に並べ!」と怒鳴りました。私たち10名ほどが並びました。鉄拳が飛んでくると覚悟していましたら、注意だけですみほっとしました。その先生は私の父の教え子だったのです。私がいたので殴るのをやめたのだと思います。

 戦後まもなくはそんなありさまでした。

 陽子先生の学校は、戦時中も戦後も男女共学ですが、私たちは卒業するまで男女別学でした。

 陽子先生の受け持つ子どもたちは、昔の子どもの雰囲気をとてもよく伝えていて感心しています。私たちも粗末な服装でしたし、顔や手は黒っぽく汚れていて、青洟を出している子どももたくさんいました。

 男子はみな丸坊主でした。履物lは藁草履でした。卒業写真を見るとその様子がよくわかります。

 勉強は何をやったのか全く覚えていません。戦後最初は教科書に墨を塗ったことや新聞紙のような大きな紙に印刷された新しい教科書をもらって、家で糸でとじたことを覚えています。でも、その新聞のような教科書を使った記憶はありません。

 5年生か6年生の頃から「夏の生活」が作られて夏休みの宿題となりましたが、それをほとんどやらずに提出した覚えがあります。やらずに出したのは問題ができなかったからです。

 特に算数はひどいものでした。通分とか約分というのが全く理解できませんでした。算数の計算や文章問題は苦手でした。今なら落ちこぼれだったのだと思います。

 宿題をやらなくても先生は何にも言いませんでした。ただ、国語は何の苦労もしませんでした。漢字など数回書けば覚えられました。それは小学校一年の頃から家で取っていた朝日新聞を読んでいたからだと思います。

 5年生の時だったと思うのですが、あるとき先生の手伝いで図書室に入ったことがありました。そこで丹奈トンネルを作った話を書いた本があったので借りて読んだのが未だに忘れられません。本に飢えていたのですね。でも、何故か図書館は封鎖されたままでした。多分戦争中の本がたくさんあったからだろうと今になって思います。

 

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2011年8月 5日 (金)

必見!大迫力で感動の児玉龍彦東大教授の国会参考人招致発言

 児玉龍彦東京大学アイソトープセンター長の参議院厚生労働委員会での参考人承知発言は必見です。

 映像は16分30秒ですが、大迫力の発言をしております。下記のアドレスをクリックすると見ることができますので、どう

http://www.youtube.com/watch?v=O9sTLQSZfwo&feature=player_embeddedぞ。

 また、全文を起こした人がいて、次のアドレスで読むことができます。

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-626.html

 

 

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2011年8月 4日 (木)

アーサー・ビナードさんの講演から-③―「ここが家だ」

 アーサー・ビナードさんの講演でもう一つ心に残ったのは、第五福竜丸を題材にした絵本「ここがの家だ―ベン・シャーミンの第五福竜丸」(集英社、日本絵本賞)についての話です。

 第五福竜丸がビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で死の灰を浴びて被爆をしてか57年になります。ヒロシマ、ナガサキに続く第三の被爆として世界中の関心を集めました。

 このときの第五福竜丸が取った行動については、私は、ビナードさんの話を聞くまでは全く知りませんでした。大変恥かしいことです。でも、ひょっとすると日本人の多くは知らないのかも知れません。それは情報が正しく伝えられていなかったと思われるからです。

 私たちが知っているのは、23人の乗組員が放射能症に苦しみ、半年後には無線長の久保山愛吉さんが亡くなったという悲劇だけです。かわいそうな久保山さん、気の毒な乗組員という被害者の物語、犠牲者の物語が広まりました。

 しかし、第五福竜丸が日本に帰り着くまでに久保山船長の適切な判断と乗組員たちの取り組みがあったのです。そのことをビナードさんの話で知りました。

 ビナードさんは、「第五福竜丸は被害者の物語ではなく、勝者の大叙事詩だ」と捉えています。

 第五福竜丸は水爆という軍事機密に触れて「死の灰」を浴びたのだから、米国防総省が証拠隠滅の一環として、撃沈を考えるはずです。つまり第五福竜丸は米軍によって海底に沈められるかもしれなかったのです。それなのに、2週間かかって焼津に戻ってきました。消されないで生還を果たしました。これはすごいことだと話しました。

 それは経験豊かな久保山さんが即座に、米軍の軍事機密に遭遇してしまったと察知して、みんなに指示したからです。「船や飛行機が見えたら知らせるように。その時は焼津に無線を打って、自分たちの位置を知らせる。それ以外は無線は打たない」。米軍に無線を傍受されたら攻撃目標にされるとわかっていたのです。

 もし発見されてしまったら、焼津に無線を打って場所をしらせるつもりだったのです。戦時中、徴用船に乗った経験もあった久保山さんだからできたことだと思います。生き残るために何をしなければならないか心得ていました。

 さらに大事なことは、生き証人として、証拠品の「死の灰」を持ち帰ったことです。その結果、ビキニ事件が広く伝わり、原水爆禁止の動きが世界的規模で湧き起こったのです。

 ベン・シャーンが描いたラッキードラゴン(福竜丸)シリーズの絵に、ビナードさんが文を寄せて絵本にしたのが「ここが家だ――ベン・シャーンの第五福竜丸」(集英社、07年に日本絵本賞)です。

 ビナードさんはこう書いて警告しました。「ひとびとは 原水爆を なくそうと 動きだした。けれど あたらしい 原水爆を つくって いつか つかおうと かんがえる ひとたちもいる」

 私はこのエピソードを知って感動しました。それを絵本にしたビナードさんも素晴らしいと思いました。

 

 

 

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2011年8月 3日 (水)

アーサー・ビナード氏の講演より―②―

 アーサー・ビナードさんは、英語のCultureと日本語の文化について大きな違和感を持つと言いました。

 英語でCultureというと、何かいっぱい集まってうじゃうじゃしているイメージがあると言いました。オックスフォード英英辞典で調べてみましたら、次のような説明があり納得しました。

[GROWING/BREEDING] 

the growinng of plants or breeding or particular animals in orader to get a particular substannce or crop from them.

●the culture of silkworms

[CELLS/BACTERIA]

(biology, medical) a group of cells or bacteria,especially one taken from a person or an animal and grown for medical or scientific study ; theprocess of obtaining and growing these cells

●a culture of cells from teh tumour

●Yogurt is made from active cultures 

 彼は、ヨーグルト・カルチャーなどと言う例をあげていました。もともとCultureはCultivateと関係がある訳で、英和辞典では、耕作、栽培、飼育、養殖、培養、培養された菌というい意味もあります。広辞苑で調べるますと、日本語の「文化」にはそういうものはふくんでいないようです 

 彼は、”文化”はシンプルすぎると言いました。Cultureは生き物を育てる集合体だというのです。日本語の文化は「コトバが化けたもの」であり、英語のCultureは、「コトバが菌のような働き(発酵)をして作り出したもの」だと言うのです。

 発酵にも有益な発酵と有害な発酵があるように、言葉にも有害な腐ったものがあるから気をつけなければならないと指摘しました。

 そして、戦後最大の腐った言葉として、「原子力の平和利用」があると言いました。この言葉は、もともとアメリカのアイゼンハワー大統領が国連での演説で使ったもので、Atom for Peaceを日本語に訳したものだそうです。

 アメリカは戦時中に原子爆弾の開発を急ぎました。そして広島、長崎に投下する少し前に核爆発の実験を極秘裡に行い成功させました。

 

 トリニティ実験(トリニティじっけん、the Trinity test)とは1945年7月16日アメリカで行なわれた人類最初の核実験である。

この実験はアメリカ・ニューメキシコ州ソコロの南東48km(北緯33.675度、西経106.475度)の地点で行なわれた。実験場は現在ではアラモゴードに本部を持つアメリカ陸軍ホワイトサンズ・ミサイル実験場の一部となっている。トリニティ実験は爆縮型プルトニウム原子爆弾の爆発実験で、同型の爆弾が後に日本長崎県長崎市に投下された。この実験による核爆発は約20ktTNTの爆発と同規模のもので、この核実験を以ってしばしば「核の時代」の幕開けとされる。(下の写真を参照)

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E5%AE%9F%E9%A8%93

 この実験の後、「遠隔地の火薬庫が爆発したが死者、負傷者は出なかった」というたった50語のプレスリリースが出されただけでした。ビナードさんの話ではこのとき多くの被爆者が出たが闇に葬られてしまったそうです。

 広島に投下されたのは、ウランを使った原爆でしたが、先の実験で使われたプルトニウム型の原爆は長崎に投下されました。

 広島、長崎に原爆を落とす前に、日本政府からアメリカのトルーマン大統領宛に、戦争を終わらせたいという申し出があったことが、トルーマン大統領日記に記載されているそうです。当時、日本全土は通常爆弾による完膚なきまでの爆撃により日本は戦闘能力を失っていたのです。

 それなのにアメリカはあえて原爆の投下を行いました。それは実際に使用して効果を確かめるためだったと彼は言います。一般的には、戦争を一日も早く終結させるためと言われましたがそうではないのです。

 アメリカの都市爆撃と焦土化でさえ、非戦闘員の一般市民を巻き込む非人道的な行為ですが、それに実験のための原爆投下で追い討ちを掛けたのです。

 ところで、原子力発電の目的は何かと言いますと、軍事利用の隠れ蓑だとビナードさんは指摘します。どういうことかと言いますと、原子力発電で最初にウラン235を使いますが、それが原子炉の中で形を変えてプルトニウムがつくられるのだそうです。

 つまり、原子力発電は原爆の材料である核燃料(プルトニウム)を作ることを隠すために、あたかも原子力発電が主目的であるかのように平和利用と言っているのだと言うのです。

 7月31日に、広島市の国際会議場で開かれた母親大会で、吉永小百合さんは「『原子力の平和利用』という言葉をあいまいに受け止めてしまっていた。・・・・世の中から核兵器がなくなって欲しい。原子力発電所がなくなってほしい。」と訴えたそうです。このことを第一面で伝えた中日新聞の見識を私は買いたいと思います。

 私も、これまで「原子力の平和利用」という言葉に迂闊にも騙されて来ました。私の言語能力、情報リテラシイの未熟さに恥じ入ります。

 元に戻りまして、リナードさんは、「核アレルギー」という言葉は、反対者を落としめるコトバで、英語にはできないと言います。

 花粉アレルギーというと花粉に敏感な体質のことですね。つまり、アレルギーと言うコトバは、その人の体質が悪いということです。花粉は悪くないのです。それと同じで、”核”は悪くないのだということになるからです。

 和英辞書で調べますと、nuclear allergyと出ていますが。おそらく直訳なのでしょう。

 余談ですが、彼の話によると、ATOMというのは「超」とか「スゴイ」という使われ方をしているのだとか。アメリカにある超有名な飴の名は「Atomic Fire Ball」と言うそうです。

 

  ―つづくー

 

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2011年8月 2日 (火)

アーサー・ビナード氏の第37回国語教育研究会での講演から

 名古屋児童言語研究会主催第37回国語教育研究会で講演をしたアーサー・ビナードさんという人物について、恥ずかしながら、私は名前すら知りませんでした。従って、全く白紙の状態で講演を聞いたのです。いうなれば一読総合法ですね。(いや、一聴総合法かな?)

 このblogを書くに当たって、Googleの検索窓にアーサーと入れただけですぐにヒットしました。それほど有名な人だとわかりました。Wkipediaでざっと調べ彼についての知識を得ましたが、今はそれには触れません。

 彼は、講演の演題に書かれた、詩人、翻訳家、随筆家、翻訳家という肩書きを見て「肩書きが一杯付いていますね。でも私は『詩人』だと言っています。なぜなら詩人は全てを含むからです。」と、流暢な日本語で話し始めました。

 彼が若く見えたので日本語の能力に驚きました。講演が進むに連れて彼の日本語がイントネーションだけでなく、文章力、日本語の知識などどれを取っても普通の日本人をはるかに超える素晴らしい日本語能力だと知りました。完璧でした。

 後で調べて、彼は現在44歳ぐらいで、日本に来たのが1990年ですから、僅か20年ぐらいで完璧な日本語を身につけたのは驚きです。(尤も日本語に興味をもったのは大学時代後半だとか)

 在学中に恋人を追ってイタリアに行き、ミラノでイタリア語を習得したようですから、彼は語学の天才なのかもしれません。

 前置きが長くなりましたが、講演の題は「ことばネガネ」でした。」

 「ことばメガネ」とは、興味を惹く名付けです。その辺にも詩人としての言語感覚が働いているのでしょう。

 彼は、同名の「ことばメガネ」という絵本を大月書店から出しています。(1300円)その中身を紹介しながら講演を進めました。

 彼は、いきなり、「言葉を疑って使う」と言いました。「疑って使う?」と聞いて「?」と思いましたが、講演を聞いて納得がいきました。言葉はもの(事象)の一部しか表現していないということです。その向こうに大きな宇宙があると彼は言いました。

 彼は、講演のイントロの部分で、蛙の話をしました。何でも彼は蛙が大好きなのでそうです。子どもの頃おたまじゃくしから蛙になるのを観察するのが楽しみであったそうです。また、蛙になりたいとも言ってました。彼は、いったい何時を境におたまじゃくしから蛙になるのかと質問しました。

 おたまじゃくしが蛙になるときに後足が生え前足が生え、尻尾がちじんでなくなり蛙になるのですが、その境目は何時なのかというのです。

 おたまじゃくしは英語ではtadpoleですが、アメリカの半分ぐらいではpolliwogというそうです。面白いですね。

 そのおたまじゃくしですが、鰓呼吸をしています。それが肺呼吸に変わるのですが、そのときがおたまじゃくしと蛙の境目だと言いました。カエルはその瞬間をどう感じるのだろうと言いました。

 次に、私たち人間は、「ことばで世界を見ている」と話しました。どういうことかと言いますと、例えば、アメリカ人は”英語メガネ”を掛けているし、日本人は”日本メガネ”を掛けているということです。

  それぞれの言語のメガネで世界を見ていると言うのです。確かにその通りですね。

 私は、英語とほんの少し中国語もかじっていますから彼の言うことがよく分かります。英語のメガネを掛けて喋るときと、日本語メガネで喋るときでは、気持ちのもちようまで違って来ます。

 彼は、昆虫も大好きなのだそうです。子ども頃よく観察をしていたと言いました。

 「pillbugって何のことかわかりますか?」と質問しました。私は知りませんでした。でも、日本名を聞いてすぐに分かりました。ダンゴムシのことです。英語メガネでは、pillつまり錠剤に見えるのでそうつけたようです。日本人には、ダンゴに見えたわけですね。

 彼は、団子虫と聞いたき、とっても驚いたそうです。彼は、あの串に刺した団子を思い浮かべたのです。でも、私たち日本人は、ダンゴは必ずしもあの食べる団子のことだけではなくて、形が丸いものをダンゴということを知っています。ですから、ダンゴムシがちっぽけでも丸くなるとダンゴに見えるというわけです。

 彼は言いました。pillにしろ、ダンゴにしろ、その虫の極く極く一面しか表していなくて、その向こうにダンゴムシの大きな世界があることは分からないというのです。ホント、そうですね。

 日本語で”折鶴ラン”というのがありますが、英語では何と言うのでしょ?”Spider Plantsだそうです。その部分を絵本を手に読んでくれました。

 「となりの花屋さんの店先には、りっぱなはちうえのオリヅルランが置いてある。ぼくはいつもそれを見て、ほんとうに折り鶴がたくさんぶらさがっているみたいだなあと思う。でも、きょうは・・・・・・

 ずいぶんちがう。モゾモゾモゾモゾうごめいているような、足がなんぼんもあるような感じ。『あっ、クモが大集合しているじゃないか!』とぼくがさけぶと、おやじさんはわらった。『イエス!ライト!オリヅルランのことを英語ではスパイダープラントと呼ぶのであります』」

 この絵本は、竜二という少年が偶然に英語メガネという変なメガネを眼鏡屋の店先で見つけてお試し体験をするという物語なのです。

 オリヅルランが蜘蛛とは!そう言えばアメリカから輸入されたハナミズキという綺麗な花の木があります、私の大好きな花?です。この英語名は何とDog treeです!

 オリヅルランをいい、ハナミズキといい、日本人の感性のよい一面を表していますね。

 という訳で、「ことばメガネを掛け替えてみると見えてくるものがある」と彼は言いました。その通りだと思います。

 彼は、英語メガネと日本語メガネだけで一生書ききれないぐらいのネタがあると言っていました。

  ―つづく―

 

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2011年8月 1日 (月)

第37回国語教育研究集会(名古屋児童言語研究会)

 7月29日に、ウイル愛知で名古屋児童言語研究会が主催する第37回国語教育研究集会が開催されました。暑い夏の日なのに朝早くから、大勢の先生たちが参加していました。

 名古屋児童言語研究会は、全国規模の国語教育研究組織である児童言語研究会の支部として45年ほど前に結成されたものです。発展するに連れて夏休みに大規模な国語教育研究集会を開催するようになりました。当時私は事務局長といして骨を折りました。始めのころは隔年に開催していましたので、今年は37回目の研究集会ということでした。

 名古屋市に革新市長として本山元名古屋大学教育学部教授が当選した時、私たちは名古屋市の公会堂で研究集会を開き、本山市長に講演をして頂きました。全国から450名近い先生たちが集まった歴史的な研究会となりました。

 児童言語研究会の国語の指導法は、もともとは東京都立大学の教授であった国語学者の大久保忠利さんや横浜の奈良小、東京の先生たちによって提唱されたものです。

 「一読総合法」と言って、教科書の文章を読む時に、自分の頭を働かせて読んだ部分を膨らませていって最後まで読み終わったときに全体を理解するというやりかたです。

 一般に多く見られる読み方は、「三読法」と言って、文章を何度も読み、教師の発問に従って読んでいくというやり方です。

 それに対して、「一読総合法」は児童主体の読みです。教師が押し付けたり、強く介入したりはしません。あくまでも子どもたちが脳をフルに回転させて読んで行くように指導されます。

 文部省が指導要領を改定するたびに、指導方法を変えて右往左往する先生が多くいる中で、私たちは一貫して同じ指導方法を深め、発展させて来ました。背景には心理学や当時はまだ誰もかえりみなかった脳科学の研究成果も参考にしていました。

 その後脳科学は大きく発展をして来ましたが、その成果からも「一読総合法」の先見性が認められます。

 また、この間にコンピューターとインターネットが大きく情報世界を変えました。そこで求められているのは「メディア・リテラシイ」の重要さです。それにも早くから対応してきました。

 私が名古屋の夏の研究集会に参加したのは3、4年ぶりだと思います。丁度時間があいていたので、久し振りに後輩たちが頑張っている様子を見に出かけたのでした。

 講演には、アメリカ人のアーサー・ビナード氏を招聘していましたが、外国人を依頼するのは初めてだと思います。とても興味深い内容の話でした。 

 午後は、説明文の部会に参加しましたが、教員になって3年目の若い教師が実践報告をしました。周到に準備されていて、ビデオで見た授業は活気に溢れていて、深い読みをしていました。

 次は、アーサー・ビナード氏の講演の印象深い部分を書くつもりです。面白いですよ。

 ―つづく―

 

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