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2011年7月10日 (日)

子どもの手伝いも労働であった

 長男であった私は、戦時中も戦後も、家族の中で子どもながらに働く戦力として期待されていました。

 当時、食糧難でしたから、父はつてを頼ってあちらこちらにちょっとした畑を作る場所を探していました。

 父の教え子の1人で、和田という家が大きな山林持ちでした。最初に借りたのは、山の梅林でした。段々畑のようになっていて、梅の木が植えてあり、梅の木の下のちょっとしたところで作物を栽培したのです。

 麦、トマト、ナス、キュウリ、サツマイモ、大根などを育てていたのを思い出します。11月頃麦の芽が10cmぐらいになると、麦踏をしました。草履の足を横にして麦を踏んで行きました。そうすることにより強い麦が育つのだと知りました。

 トマトを植えたときに、脇芽を摘み取るのでしたが、それが分からないので父にこっぴどく叱られたことがあります。

 父は、この山のことを「和田の山」と言っていました。山へ行く途中に和田のビワ農園があり、ビワがたわわになっているのを見ましたが、食べることはできませんでした。梅も同じです。梅がなっても取ることはできませんでした。

 この山には、ちょっとした小川があって、そこには沢蟹やイモリがいました。イモリは気持ちが悪いので触りませんでしたが、沢蟹は可愛いのでつかまえました。

 大人になって、あるバーに行ったときに、沢蟹が出されて食べたことがありますが、そのとき初めて沢蟹は食べられるのだと知りました。食糧難のときになぜ食べなかったのだろうとも思いました。

 サツマイモは、遠くの山の木が切り倒されて、禿山になったところを開墾して栽培しました。開墾は大変でした。山の斜面に幅が1mぐらいの畝を作るのですが、斜面なので平らにはならないのです。

 農家に頼んで分けてもらったサツマイモの苗をさしました。さすところには、灰を入れて水をやらなければなりません。その水が大変なのです。何しろ山の上ですから湧き水のあるところまで行って汲んでこなければならないのです。

 この山の畑は一番遠いところにありました。8月15日の終戦の日、この畑に行く予定になっていました。私は嫌でしたが仕方がありません。ところが、学校から帰ってきた父ががっくりとしていて、「今日は畑には行かない。」と言いました。戦争が終わったので力が抜けたのでしょう。私は、畑に行かなくてよいので嬉しかったことを覚えています。

 苦労して作ったサツマイモは、貴重な食糧でした。先日も書いたように、父は、棒秤を作って、それで量って食べました。そのくらい貴重だったのです。

 家から山のトンネルをこえて山の反対側に行くと、熊野川が流れていました。その川原の砂地にも落花生やサツマイモなどを栽培しました。そこへ行くのも大変でした。おんぼろのリヤカーに肥料などを乗せて父が引き、私が後から押して山を登るのです。

 帰りには、川原で流れ木を拾って積んで帰りました。燃料の薪が不足していたからです。落ち松葉を山で集めるのは私や母の仕事でした。

 熊野川に行くのは、楽しみなこともありました。それはキリギリスなどを見つけることでした。

 国民学校1年生の頃から、畑仕事などをやらされましたので、自然に鍬や鎌の使い方、作物の作りかたなどを覚えました。このように当時の子どもの手伝いは、農家の子どもでなくても、労働が伴うものであったのです。

 

 

 

 

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コメント

 戦前を経験した人はもう少なくなりました。語らなければならないのかも知れません。

カテゴリーから 想い出 を 拝見しています
戦時中 戦後 あの時代の経験者 体験者が 少なくなって着ている現代かなぁ。
現代の日本では 考えられない事実ですね。
ゴムの靴 わらじ はだしの人もいたとか 聞きます。衣食住。スポーツ 文化 ~
日本史研究会(名前検討中

私が知るところでは、昔の老人は人生で蓄えたいろいろな智恵を持っていました。高等小学校しか出ていないのに、生活に大切な知識・技能・判断力などを身につけてましたし、俳句を作るとか碁や将棋が強いとか、漢文が読めるとかそういう教養も持っていました。そこへ行くと私たちは弱いと思います。自力で生きていくすべを獲得して来なかったからでしょう。

曽野 綾子さんのベストセラー「老いの才覚」には近頃、歳の取り方を知らないわがままな老人が増えているのは大問題だと書いてあります。なぜそうなったか?その原因として、基本的な苦悩がなくなった時代
(現在)が老いる力を弱くした。とあります。
望ましいことではありませんが、昔は戦争があり、食べられない貧困があり、不治の病がたくさんありました。(中略)よく「日本は経済大国なのに、どうして
豊かさを感じられないのだろうか」といわれますが、
答えは簡単です。貧しさを知らないから豊かさがわからないのです。今日も明日も食べ物があって当然、
水道の栓をひねれば、水が飲める。飲める水を使って
お風呂に入り、トイレを流している。昔は日本人も水を汲みに行ったり、薪を取りに行ったりしてましたが、今ではそういう生活が当たり前になった。もともと人間が生きるということはどういうことなのかを全然知らない、おめでたい老人が増えたのです。(後略)こういう私も戦前戦後の食糧難の時代の記憶が殆どないおめでたい老人の一人になっています。
ブログ子の今日のお話は曽野 綾子さんの老いの才覚の一節にまことにぴったり重なるものがありました。

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