子ども時代の夏の過ごしかた―夕涼みと電力―
「節電」の夏で思い出すのは、子どもの頃の夏のことです。戦争中は、灯火管制が厳しいものでした。私が住んでいた南紀は、本州の最南端串本を目指して飛来したB29が、名古屋や大阪方面に行く通り道になっていましたから、灯火管制は特にきびしくて、我が家では小さな豆電球1つの周りを黒い布で囲っていました。
マッチの燃えカスでも上空からはよく見えると言われて、みんなは明かりにはとても気を使っていました。そんな風でしたから、「節電」などは全く関係ありませんでした。
それに電気製品といえば、アイロンとラジオぐらいでした。そのアイロンも戦時中はほとんど使いませんから、電気を使うのは灯火の他には、ラジオを聞くぐらいのことでした。
戦争が終わるまでは、夜でも空襲警報のサイレンが鳴ると近くの防空壕に入りました。いつも緊張していたせいか、暑い夏をどのように過ごしたのかは覚えていません。
戦後は灯火の制限がなくなりましたが、60Wの電球をつけて暮らしました。それでも、よく停電があったように思います。突然明かりが消えて、点灯を待っていました。
戦後の夏は、夕方になると、お湯を沸かしてたらいに入れて、行水をしました。それで汗を落としてさっぱりとしました。夕食が済むと外へ出ました。近所で縁台のあるうちが縁台を家の前に出して、近所の人がみんな集まって夕涼みをしました。
夕涼みには団扇が必需品でした。団扇で自分に風を送ったり、蚊の襲来を追い払うために使われました。時には、近くの田んぼは行って蛍を捕まえることもありました。飛んでいる蛍を団扇で叩いて落とすこともありました。
捕まえてきた蛍は虫かごに草と一緒に入れて光るのを楽しみました。時には蚊帳の中に放して楽しむこともありました。
夕涼みの縁台では、近所の大人たちが会話を楽しみました。子どもは何かをして遊ぶか、男の大人が指す縁台将棋を見ることもありました。
夜になると、太平洋の方から海風が吹いてくるので、外は涼しかったのです。夕涼みは毎日9時半頃まで続きました。その間は家の中の明かりは使いませんから自然と節電になっていました。
扇風機がある家は、友人の医者の家ぐらいでしたから、夏は団扇で過ごしたのです。
夕涼みが終わって家の中に入ると、むっと暑さをかんじたものです。家の窓や戸は開けてありましたがやはり暑かったのです。寝るときには、蚊帳を張らなくてはばなりません。蚊帳の裾をそっと上にあげてすばやく頭から潜り中に入りました。蚊帳の中は風が入らないので暑かったのです。
布団の上にゴザを敷いて寝ました。布団に直接寝るより寝やすかったのです。寝るときは半身は裸でした。布団などは着ません。団扇を持ち込んで扇いで風を起こしたのです。
日本の電力は、水力発電が中心で石炭がそれを補っていたと思いますが、家庭で使う電力はたかが知れていました。ですから十分に賄えたのだと思います。
そのころから比べると、現在の日本の電力使用はべらぼうに多いことがわかります。エアコン、冷蔵庫、扇風機、電気洗濯機、電子レンジ、IHヒーター、テレビ、パソコン、電話、明るい照明、ステレオ、DVDレコーダー、乾燥機・・・・・。電力を使うことばかりです。
一度、戦後の状態にする日を設けてみたらどうでしょう?一気に使用電力は減ると思います。
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