憲法9条を守る活動を貫いた旧友の遺稿―⑨―
(10)岩田澄男先生の話
私が最も尊敬している先輩の先生の話をさせていただきます。
岩田澄男といわれます。中学校の美術の先生です。もう10年以上も前に亡くなられたのですが、若い頃、戦争中になりますが、岐阜県の恵那の農村の先生でした。
当時、中国の東北部に日本が作った「満州国」という国がありました。もっとも世界のほとんどの国から認められなかったのですが・・・。
ここへ日本全国から「満蒙開拓青少年義勇軍」という若者を送り出すことになったのです。ひとりの若者が「農民と兵士」という二つの役割をするのです。8万6千人送り出し、2万4千人が死んでいます。
形の上では希望者を募るということですが、実際にはそれぞれの村へ人数の割り当てが来るのです。それを果たすために中心的な役割をしたのが学校の先生でした。
軍国教師であった若い彼は、先頭に立って教え子の家を回り、親や教え子を説得し、満州へ送り出したのです。しかし、全員が生きては帰ってきませんでした。こんな辛いことはなかったとのことです。
戦争が終わってから、彼は1軒1軒を回って謝罪をしました。何度も何度も何年もかけてです。農家の玄関を入ると、そこは土間になっています。彼は土の上に正座し、頭を地面につけて謝罪をしたのです。でも、1時間たっても、2時間たっても返事は一言もなかったとのことです。
そのときの気持ちを、彼はこう言いました。
”なあ、野崎君、その時殴られるなり、蹴飛ばされたりしたら、どんなに気持ちが安らいだことだっただろう。でも、誰もそうしてはくれなかった。ただ畳の1点をじっと見つめたまま、一言も声をかけてもらえなかった。一時間たっても、2時間たってもだよ。
月の煌々と輝く田舎道をとぼとぼと帰って行く時の僕の気持ちが分かるかい。”
”僕は決心したんだ。その後作られた「日本教職員組合」(日教組)、この組合が掲げたスローガン《教え子を再び戦場に送るな!》、これを命を懸けて守ることにしたんだよ。”
彼は、それを実行しました。世が世だったら、校長か教育長になっていてもおかしくないと言われていた人です。しかし、あらゆる誘惑や脅迫を刎ねつけて、一生を平教員で終わった人です。
名古屋にもこんな凄い先生がいるんだ!!その話を聞いたときの私の感想です。《よし、この先生の後をついて行こう》と思ったのですが、とてもじゃないですが、足元にも及びません。でも、そういう先生に出会っただけでも幸せだったと、今でも思っています。
―つづくー
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