« 憲法9条を守る活動を貫いた旧友の遺稿―③― | トップページ | 大カン迎!菅首相の浜岡原発停止要請 »

2011年5月 7日 (土)

憲法9条を守る活動を貫いた旧友の遺稿―④―

 (5)「9条の会」と活動

 話をもとへ戻します。

 このような社会情勢の中から、「9条の会」が生まれているのです。人間一人ひとりには思想・心情の自由がありますが、それを乗り越えて『9条を守ろう』という一点だけで結集された組織なのです。

 ここではいろいろな活動ができます。私のような年寄りでこんな身体になった人間でも、自分の戦争体験、私の場合は「名古屋大空襲」で1週間に2度殺されかけたことをお話すること程度しかできませんが、これも『9条を守る』活動のひとつかなあと思ったことです。

 (6)「名古屋大空襲」の話

 ちっぽけな体験ですが、そのことに触れてみたいとおもいます。

 1945年3月、当時わたしの家は、中区の東別院、ここの南側を東西に走る100メートル道路のちょうど南側に当たるところにありました。

 あの道路のところは住宅が密集していましたが、強制立ち退き命令が出たため、住民は退去し、建物はすべて壊されました。

 戦車がやってきてバリバリを建物を壊したり、兵隊たちが柱にロープを掛けて引き倒しあう光景を二階の窓から見ていました。

 壊した後に1軒に1つずつ防空壕が作られました。地面を掘り板を渡し、その上から土を被せるといったものです。ここで「東南海地震」や「三河地震」を体験しています。

 さて、3月12日の深夜だったか、ねているところを母から起こされました。”今夜はいつもと違って変だ。危ないから防空壕に入りなさい。”という指示です。

 ラジオからアナウンサーの声が繰り返し聞こえました。”中部軍管区情報、東海道地区、空襲警報発令”。なぜかこの言葉は鮮明に記憶しています。

 兄たちと一緒に防空壕に何時間入っていたでしょうか。父がやってきて、”ここは危ないから子どもたちだけで逃げろ”と、長兄に命じていました。

 両親というより大人は勝手に逃げることは許されないのです。消化作業をしなければならないのです。といっても効果はまったくないのですが・・・・。

 私の家の周辺はまだ燃えていないのですが、別院の建物はすでに燃えています。屋根と太い柱だけが残って、ゴウゴウと音を立てながら揺れています。台風のような強い風が吹いていました。火の粉というより火の塊が地面をゴロゴロ転がったり、ビュンビュン飛んで来ます。

 どうして防空頭巾を被るのか、このときやっとわかりました。”前を見るな、下を向いて走れ”との兄の命令です。それぐらい危ないのです。

 長男が先頭に立ち、次男が姉と私の手を引き、三男と四男が下着などの衣類が入った乳母車を引いて走るのです。

 ―つづく―

|

« 憲法9条を守る活動を貫いた旧友の遺稿―③― | トップページ | 大カン迎!菅首相の浜岡原発停止要請 »

戦争と平和」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 憲法9条を守る活動を貫いた旧友の遺稿―④―:

« 憲法9条を守る活動を貫いた旧友の遺稿―③― | トップページ | 大カン迎!菅首相の浜岡原発停止要請 »