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2011年1月14日 (金)

JR高島屋で「親鸞展」を見た

 昨年12月に、Fさんから親鸞展のチケットをもらいました。なかなか出かける時間がなかったのですが13日にようやく出かけました。

 会場はJR高島屋の10階にある催事場でした。行ってまず驚いたのは、凄い人出であったことです。入り口から大変な混雑でなかなか見ることができない状態でした。

 ただ、助かったのは、展示がわかりやすく設営されていたことです。それで説明を読みながらじっくりと見ることが出来ました。

 親鸞は9歳のときに出家をし(というか家庭の事情で寺に預けられた)90歳まで生きたということは知りませんでした。あの時代、90歳まで生きるのは大変な長生きですが、奥さんの恵信尼も85歳まで生きていますから大したものです。

 親鸞展を見て一番心に残ったのは、親鸞が阿弥陀如来像ではなく、掛け軸に自分で書いた「南無阿弥陀仏」という名号を信仰の対象としたということです。おそらく阿弥陀如来が全ての衆生を救済し必ず極楽浄土に往生させるという教えを堅く信じたからなのだと思いました。親鸞にとって、仏像はどうでもよかったのだと思うのです。

 姿は見えないけれど「南無阿弥陀仏」と唱えれば往生できるということが大事なのです。会場には次の言葉が大きく書いてありました。

   本願力にあいぬれば

   むなしくすぐるひとぞなき

   功徳の宝海みちみちて

   煩悩の濁水へだてなし

 功徳とは阿弥陀如来の慈悲と智恵です。

 天台宗の僧として、千日回峰などの厳しい修行をしたであろうと言われる親鸞が天台宗の修行の中で得心が行かず外に出ます。そこで法然に出会い、その教えに共鳴をしました。

 法然は後鳥羽上皇の怒りに触れて追放されますが、親鸞も同調者として追放されます。そして北陸から新潟のほうに行き、その間に豪商の娘と結婚します。これは僧の身でありながら妻帯した最初だと言われます。そのためか浄土真宗では以後妻帯をするようです。また、親鸞が追放の間散切り頭であったので、多くの真宗の僧は今に至るまで頭髪を伸ばしているようです。

 親鸞は追放を許されてから関東地方に教えを広めて多くの同調者を得ました。説明によりますと435名もいたということです。しかし、彼自身は弟子を採りませんでした。押しかけの自称弟子を同行として認めただけでした。それも立派だと思いました。

 後に真宗は天皇などの権力と結び巨大な宗団となり今日に到っておりますが、果たして親鸞の望むとところであったかというと大きな疑問があります。彼の本当の信心からすると、民衆を救うことが目的であって、権力の庇護を受けることは考えなかった筈です。

 私は、法然や親鸞の阿弥陀信仰に賛同するものではありませんが、南無阿弥陀仏を唱えることで誰でも往生できると説いたことの功績は認めます。

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宗教」カテゴリの記事

コメント

親鸞も法然もひたすらに南無阿弥陀仏を唱えることで阿弥陀如来が往生をさせてくださるという分かりやすい教えです。鎌倉時代から明治までの農民には大変有難いことであったと思います。

自力・他力が毎月1回のお寺での座談会でもよく取り上げられますが、真宗聖典には74歳の親鸞様が解り易い言葉で書いて見えました文章を昨日読んで見ました。

 展覧会によりますと、親鸞自身は、晩年は京都で質素に暮らしたようです。関東を布教したときにも自然に教えを乞う人が集まったということです。
 法然と共に迫害を受けたのですから、親鸞自身は権力とは距離をおいたものと推察します。
 後には本願寺はご承知のように天皇家ともつながりましたね。
 今年は親鸞750回忌だそうで、それで全国を回っているわけですが、親鸞や法然の原点に戻って欲しいと思います。

南無阿弥陀と唱える事で衆生を救おうとした親鸞の教えはやがて権力と結びつく事になるのですね。
無量の光明の仏に帰依しますと唱える事で安心を衆生が得て生きる事を願った親鸞ですのに。

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