東区文化の道にある堀美術館に初めて行った
先日、maronさんのblogを見たら、「針生一郎が選んだ愛知60年代の現代美術展」に行ったことが書いてあった。興味を引いたので見に行きたいと思った。会期は11月3日までであった。それでインターネットで堀美術館について調べ、2日に出かけた。
地下鉄桜通線の高丘駅で降りた。駅に降りて降車駅を間違えたのかと思った。車道の駅とそっくりなのだ。慌てて駅名を探したが、改札口辺りには何も表示がなかった。それで駅長室に入り尋ねたら、高岳駅に違いないが、車道駅と同じ造りかどうかは誰も知らなかった。
改札からかなり遠い2番出口を出て地図を思い出しながら歩いた。インターネットの地図は分かりやすそうだったのでメモだけしてポケットに入れていた。それが大変な間違いで、どこにあるのか分からなかった。道行く人に聞いても知らなかった。ある洋菓子屋さんで聞いたら、堀美術館は知らないが、目印の太閤なら知っていると言った。そちらの方に歩いて行ったら、大光寺というお寺があった。これは大変なことになったと思いながら,なおも聞いたとおりに歩いて行ったら、豊田佐吉の館があり、その前に地図が出ていた。
それを見て行くと太閤があった。和食の大きなレストランであった。レストランといえば、その辺りには和・洋の洒落たレストランがいくつかあった。
やっと堀美術館に着いた。静かな道沿いにあるこじんまりとした美術館であった。駐車場もあった。
中に入ると受付の人が、「ノートに名前だけでも書いてください。」と言った。住所と名前を書いた。入館料は1000円と書いてあるのに、無料だったので尋ねたら、今日と明日は特別に無料だということであった。
展示室に入って行くと、狭い展示室の周りがガラス張りになっていて、その中に画を展示しあった。小さな字で書いた説明があったので懸命に読んだ。針生氏と名古屋のかかわりや60年代の前衛美術の作者とのことなどが説明してあった。60年代と言えば、安保闘争の後であり、ベトナム戦争があった頃である。その頃の気鋭の若手画家の才能を針生氏が見つけて育てたようであった。
針生一郎氏は、この展覧会を企画しながら、5月に亡くなられたという。その遺志を守って展覧会を開いたそうだ。
作品の脇にある作者名と題名を書いた札の字が小さすぎて読めないのが残念であった。展示は、1階と2階にあった。
maronさんのblogに出ていたノロ燐さんという人の作品は人物であるが色が鮮やかで細かい写真のようなものが描いてあって目立っていた。
仏壇を模したような作品を見て老婦人が「恐いわね。」と話していた。
作品は、どれも技量のあるもので、画想も表現力もすぐれたものであった。50年前に作られた作品だが今の時に光輝いていた。10月末にトリエンナーレが終わったばかりであるが、そこで見たつまらない作品を思い出して、こういう作品が取り上げられなかったのを残念に思った。
私がいる間は、鑑賞者が少なくて殆ど独占をしてゆっくりと鑑賞できた。
出るときに、受付にいた人と話をしたら、その人は、作者の一人で山田彊一さんという人であった。一階の展示室の正面の大きな4作品がその人が描いたものだと言っていた。私も眼に留まった作品であった。
トリエンナーレについて話したら、山田さんもblogで批判していると言っていた。
« 柳昌会第5回吟詠大会を聴く | トップページ | 北方4島は日本の領土、ロシアは強盗の論理だ »
「文化・芸術」カテゴリの記事
- 昭和生涯教育センター祭りでミニ コンサート(2023.09.27)
- 毎日展(2023.08.23)
- 2023春の院展(2023.04.16)
- 音楽劇「人形の家」を観て(2022.11.17)
- 毎日書道展(2022.11.13)
ノロ燐さんの作品を見たとき、押し絵のは別として、どう見ても写真のように見えたのですが、写真のように描く技巧をお持ちなのかと思って見ました。実物が散逸したのは惜しいことです。maronさんのblogのお陰で新しい眼が開かれ嬉しく思っております。
投稿: らら | 2010年11月 3日 (水) 20時46分
ノロ燐さんの作品を観ていただいてありがとうございます。
彼女は纐纈敏郎氏の夫人で奇才と言われる夫との対立を避けるためか押し絵で表現するようになり、その頃の作品にもすばらしいものがあり、彼女の作品のコレクターで嵐山に嵐山美術館を建てて展示していた人がありました。
凄い財産家でしたが破産して彼女の作品の行方はわからなくなりましたが、実物その者のような美術印刷があり、展示されていました。
彼女は外国の賞も取って益々活躍しています。
私のブログの最初のころ2005年4月に嵐山美術館という題でかいています。
投稿: maron | 2010年11月 3日 (水) 19時47分