私とマジック―②清水先生のマジック
私のマジック習得は清水先生からの個人指導であった。そこにあるとき坂野さんという人が加わり一緒に教えてもらうことになった。この方は個人事業主であったが、第一線からはリタイアしておられた。マジック歴は長くてときどき先生のところに出入りをしておられたのだ。
先生のマジックは、高木重朗氏や布目氏など名古屋マジシャンズクラブが招聘した講師のものであったが、高木氏のものが中心であったと思う。高木氏は教えたマジックの道具を「清水さん、お作りなさい。」と言って、先生が製作するのを許しておられたという。それで作った道具はいつも高木氏のところに送っていたと聞いた。
とにかく、マジックの道具を作ることで知られていて、小さなものから大きなものまでほとんどのものは自分で作るか特注で部品を作らせて組み立てておられた。中華セイロやビール瓶プロダクション、がっくり箱・・・・等々何でも作られた。小物の場合数多く作って、人にただで上げることもよくあったようだ。
手品の材料はいつも原価で分けていただいた。作るのに大変だと思うのだが、労賃は無視しておられた。
先生はよく演技を頼まれていたので、そういうときには助手としてついていった。先生の演技はゆうなれば格調の高い楷書の演技であったと思う。真面目に基本に忠実に演技をされた。ところどころで間を置いて観客を見て演技をすることやわかりやすい演技を大事にされていた。それはおそらく高木氏の指導がそうであったのでは・・・?と推測する。
最近の演技は、エンターテイメント性が重視され、華麗でスピード感のある演技が多い。先生の終わり頃には、スピードのある演技が増えていたように思うのだが、「あんまり速くて何をやっているのかわからんときがある。」というようなコメントをされたのを聞いたことがある。
私が手品を習い始めた頃は、今よりもマジッククラブが多かったように思う。金山の市民会館中ホールや芸術創造センターや出雲会館や一宮や岐阜や・・・・と先生が見に行かれるところにはくっついて見に行ったものであった。
そうした中で、高木氏、布目氏、沢氏その他のアマチュアマジシャンのレクチャーを受ける機会もあった。また、先生のところにはいろんなマジシャンがよく出入りをしていた。先生が作った道具を分けてもらうという目的もあったようだ。
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