死後の世界はどうなるのか―五木寛之
五木寛之と香山リカの対談「欝の力」(幻冬舎)を読んでいたら、P.298から面白いことを言っていた。「死後の世界はどうなるのか」ということについてである。
五木は、「死後の世界」が大事だという。彼は浄土真宗だと思うのだが、浄土教では”浄土”へ行くと言っている。キリスト教では”天国”である。彼が講演の時に受けた質問を紹介している。
「母は若くして亡くなったが、自分は今70歳を過ぎている。浄土に行ったら自分の娘のような母がいることになる。それでお前年取ったねと言われてしまうのではないか。」
「黒人は黒いまま天国に行くのか。身体障害者はそのまま天国に行くのか。」
「もう一つの問題は、歳を取ってから死ぬことが多いから、天国や浄土は老人ホームみたいなところだという説があることだ。また、死んだら成長が止まるのか。止まらないなら何千歳という人がいることになるので、老人の過密状態だ。」
五木は、小学校などで児童、生徒が亡くなったときに、「○○君は天国に行きました。黙祷しましょう。」などと言っているが、”天国”はおかしいと指摘している。キリスト教の考えだからだ。
いったいキリストでは天国をどのように描いているのだろう。浄土教では花が咲き乱れ鳥が歌い、よい香りがして仏様がいるところで永遠にそこで生きると描いているようだが、死んだときの姿、身体のままで生きるということなのか?その辺のことはわからない。
五木によると、ブータン仏教では、輪廻転生であるようだ。だから昆虫や植物など何に生まれ変わるかわからないが生まれ変わるのだという。それで一切の殺生はしないのだそうだ。
俳優の丹波哲郎はあの世のことをいつも言っていたが今はどこでどうしているのであろう?
スピリチュアルの江原敬之は、テレビで死んだ赤ちゃんのメッセージを伝えると言ってしゃべっていて、途中で赤ちゃんが喋るのはまずいと思ったらしく、「霊界に行っても成長して話せるようになったのですよ。」と言っていたと、香山は紹介している。これだけでも霊界スピリチュアルというものがまやかしであることがわかるが、信奉する人が多いようだ。
五木によると、親鸞は「死んだら川に流せ、魚の餌にしろ。」と言ったそうだ。とすれば、死後も同じ形で浄土に生きるとは信じていなかったことになる。
つまり釈迦も含めて誰も生前に死後のことを知ることができなかったし、死後の世界を生き返って伝えることできないのだ。死んでみなければ、魂として生きるのか霊として生きるのか、現世の恨みつらみを抱えたまま生きるのか、そうではなくて極楽浄土で何の悩みもなく生きるのか、完全に消滅してしまうのか・・・・。誰にもわからないのである。
五木は、「死んだら虚無だというのは、怖いよね。」と言っている。彼にしてそうなのかと思った。「死んだら阿弥陀様が迎えに来てくださって浄土にいけるのだと自己催眠をかけられる人はジタバタしなくてそれなりに幸せだと思う。」とも述べている。それはその通りで阿弥陀信仰は一つの安心パスポートなのだ。だから五木もひろさちやも信じるのであろう。
しかし、私は死後の世界があり、そこで現世のままの姿で、もしくは霊となって恨みつらみ悲しみ苦しみを持ち続けて生きるという方がもっと怖い。何もなくなって完全消滅というのがさっぱりとして一番いいと思う。
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コメント
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千の風を葬式で配る人がいて坊さんが慌てたとか、千の風が売れて墓石業者が慌てたという話を確か五木さんが紹介していたと思います。
投稿: らら | 2010年3月 4日 (木) 09時54分
maronだんがおっしゃるように原子に帰るのでしょうね。そしてまた何かの物体を構成するのでしょうか。そういう意味での輪廻転生はありそうです。人としては死んだらそれで終わりというのが一番さっぱりしていると思っています。
投稿: らら | 2010年3月 4日 (木) 09時49分
「千の風」という歌を初めて聴いた時は、いい歌だと思った。でも何回も聴いているうちに、だんだん違和感を感じるようになった。全く空想の世界の話で、リアリティが感じられなかったからである。
「人は死んでも、人の心の中で生き続ける。」この言葉のほうがリアリティがあり、好きである。
だから、いろいろな人と接し絆を大切に生きている。
投稿: takao | 2010年3月 3日 (水) 22時08分
私は死は原子に返ることだとおもっています。
エジプトの王の墓のように再び蘇る時、もしくは死後の豪奢な生活の為か様々な副葬品があっても、ミイラになった王の肉体に魂は返らない。
子孫にDNAは受け継がれ続けても個人の死は、死をもって完結すると思っています。
だから生を精一杯生きたいと思っています。 地獄も天国もこの世に有り、せめてこの世をみんなが幸福に生きられるようにと思います。
生と死、境を異にしても生きている人の心に残って対話する時もあるでしょう。
投稿: maron | 2010年3月 3日 (水) 21時31分