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2010年3月

2010年3月31日 (水)

I LOVE DECOPON !

3月も終わりだが、この月は柑橘類がいろいろと出回った。普通の蜜柑、ポンカン、伊予柑、はるみ、ハッサク、清見、甘夏、デコポン、セミノール、金柑。そして輸入物では、グレープフルーツ、オレンジなどである。これから甘夏がピークになるという。

 これらの柑橘類の中で、私は、デコポンが一番好きである。皮が薄く、袋が柔らかくてそのまま食べられ、甘くておいしい。へたのところが少しふくれているのでデコポンというのだろうか。三宝柑というのが和歌山県の南部辺りの特産であるが、これは今では殆ど見なくなった。デコポンの形はそれに似ている。

 デコポンは、ポンカンと清見の掛けあわせでできた品種で、熊本県で作られたのだと聞く。そのため熊本産はDECOPONと表記されるが、他県ではそれは使用できないのだそうだ。商標登録をしてブランド化しているのであろう。

 DECOPONでもデコポンでも”でこぽん”でも、味には大差がなく、いずれもおいしい。今から五、六年前までは余り生産されていなかった。婿が知多の佐布里の梅を見に行ってデコポンを買っておいしいと言って、それ以来デコポンのファンである。

 私も毎年デコポンを買っているが、年々産地が増えてきたのは嬉しい。今年は

熊本だけでなく、愛媛、山口、和歌山、静岡など各地のデコポンを食べた。大きくて高いのは1個160円ぐらいしたが、一番安い小さいのは1個30円というのもある。

 ぼつぼつデコポンも終わりになるので淋しい。

デコポンとは、柑橘類の一種。日本国内で生産、販売されている。生産量の半分近くを熊本県産が占めており、全国統一糖酸品質基準を持つ日本で唯一の果物である。品種名は「不知火(しらぬひ)」。

目次

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概要 [編集]

「デコポン」は登録商標であり、不知火のうち一定の基準をクリアしたものだけがその名を使用することができる。寒さに弱い為、熊本県産を始めとした九州産が特に多い。熊本県では主に宇城、芦北、天草地域の沿岸部で、温暖な気候を利用して栽培されている。加温ハウス栽培されたものが、12月 - 翌1月、雨除け栽培ものが2月 - 3月露地栽培されたものが3月中旬 - 4月一杯まで出荷される。その後も、低温貯蔵されたものが6月上旬まで出荷される。

果皮は厚いが剥き易く、じょうのう膜も薄く袋のまま食べられ種もほとんど無い。日持ちも良く加えて糖度が高く食味にも優れる事から市場や消費者の支持を得、価格が低迷していた甘夏ハッサク等に代わる有望な中晩生柑橘として、平成以降急速に栽培面積が増加した。(Wikkipedia)

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2010年3月30日 (火)

遅過ぎた毒入り餃子事件の容疑者拘束

 メタミドボスという農薬が餃子に入って多くの中毒者を出した毒入り餃子事件は、中国政府が容疑者の身柄を拘束したということでやっと真相がはっきりとした。

 それにしても、2年というのは長過ぎる。動機がありそうな従業員の数が多すぎたという説明だが、中国の警察の能力が低いのか、それとも政治的な意図があるのか。

 最初は中国政府は、日本がやったのだ、中国は全く関与しないと言い張っていた。しかし、回収した餃子を中国国内で販売したことによって、中国国内でも多くの中毒者が発生し、やむなく認める方向に向かったようだ。

 中国国内の中毒者も政府のやり方の犠牲者と言うべきである。もし、中国政府が日本の警察の捜査を信じて厳正に対処していたら、そのようなことは起こらなかった筈である。

 中国政府は、餃子事件についての報道を規制した。だから国民は真相を知る事ができないでいた。今回の容疑者拘束についても、新華社が報じただけだと言われる。テレビも他の報道機関も黙ったままだというのだ。

 中国では、3月の中旬に18項目の報道規制を強化したと朝日新聞に出ていた。食品についてもその中に含まれている。

 餃子事件以後、日本では、中国からの輸入食品については買い控えが起き、輸入が激減した。その影響は今も続いている。

 私は、以前には、中国の蜂蜜、落花生、餡、野菜などをよくかっていたが、事件以後は買わなくなり、最近餡だけ恐る恐る買った程度である。

 食品店に行っても、中国の落花生や蜂蜜などは余り見かけない。やはり何となく不信感が残っているのだ。

 知り合いの中国人に聞いたら、中国からの輸入食糧は買わないようにしていると言っていた。中国人でさえ自国の食品を信用していないのだ。

 とは言っても、加工して他のものに混ぜられてしまえば分からないから、ハムなどの加工食品には中国からの輸入食品が入っている可能性がある。

 麻生元首相だったか誰かが安いものを買うから悪いのだと言っていたが、安いものしか買えない人びとが増えているのだから、そういう言い方はよくないと思う。 年収200万円以下の低所得の人たちは、やむなく安い物を買っているのだ。

 いずれにしろ、餃子事件をきっかけに、食品について見直すよい機会になった。その後、日本でも消費者を欺く商法が多く摘発されたが、これからも注意していかなければ、また誰かがやり始めるであろう。

 それにしても、「容疑者拘束」とはなんだろう?なぜ「逮捕」しないのか?この時期の発表といい、裏に中国政府の政治的意図が隠されているのではないか。

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2010年3月29日 (月)

嬉しい題名の本を見つけた

 図書館で、「日本人ほど個性と創造力の豊かな国民はいない」という題名の本を見つけて借りてきた。著者は、呉善花氏という韓国人でPHP研究所の発行である。

 外国人、特に韓国人が日本人を肯定的に捉えた応援の本を書くのは珍しいと思って借りたのだ。以前に江戸時代や明治の初めに日本に来た外国人の見た日本について本で読んで書いたことがあるが、著者もそれらの本をよく読んでいる。そして、日本に来た外国人が、日本人のよい点について眼を留めて肯定的に見ていると指摘している。呉氏自身も欠点を見るのではなく、よい点を見ることが大事だと述べている。

 前書きで次のように書いている。「私が注目してやまないのは、『私の国(および私の見聞きした諸外国)ではあり得ないことだ』という大きな異文化ショックとともに感受される、『心から敬意を感じずにいられなくなる文化の異質性』である。当時の西洋人が当時の日本に感じたのも、全く同じ性格の異質性だと思う。」

 「異文化理解については、『異質性を強調するのはよくない。それよりも共通性を見出して相互理解の道を開いていくのがよい。』ということがよく言われる。しかしながら、いかに異質的かという大きな驚き、殆ど理解し難いと思える強烈な実感、それらの心的な衝撃なしには、異文化理解への道が本格的に開かれることはない。とくに、深い敬意をもたらす異質感覚を徹底的に思い知っていく体験が、異文化理解の出発点には不可欠のものと私は思う。」(P.7)

 著者は、1983年に来日して以来日本に住んでいるし、おそらく日本語で書いたのだと思われる日本語の水準から見ても、日本についての理解は非常に深いし、多くの文献を渉猟しているようだから、著者のいう視点には納得ができる。

 私は、外国に住んだ経験がないし、外国旅行といっても観光旅行である。だから訪れた国の文化や生活などについては表面の印象にとどまる。大変残念なことだが致し方がない。後は書物を通じて知るぐらいしか方法がない。

 近年日本に来る外国人が増えているし、外国に行く日本人も増加している。お互いの文化が触れ合う機会が増えている。そんな中で著者の上記の視点は大事であると思う。

 いったい著者は日本をどう見ているのか、大変楽しみである。

 

 

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2010年3月28日 (日)

ひろさちやは、次々に本を出すけれど

 ひろさちやは、次々に本を出版する。これまで何冊書いたのか正確にはわからないが、500数十冊だと思われる。なぜかと言うと、彼が500冊以上と言ってから数年になるからだ。今年の1月からでも毎月2冊のペースで出版している。

 そんなことはどうでもいいことだ。書く意欲があって出してくれる出版社があるから出せるのだろう。

 問題は、彼が書く本の中身である。

 ここに、私の友人が送ってくれた最近の本の構成がある。友人は2年余り前からひろさちやの本を片っ端から読んでいるらしく、読んで大事だと思ったところをプリントアウトして送ってくる。

 さて、最新の本とは、2010年3月8日にPHP研究所から発行された「捨てちゃえ、捨てちゃえ」である。

 第一章 「こだわりを捨てる」

 第二章 「世間を捨てる」

 第三章 「欲望を捨てる」

 第四章 「自分を捨てる」

となっている。これを一瞥しただけで、彼のこれまで書いた本に書いてあることを、「捨てる」というカテゴリーでくくって焼きなおしただけだということがわかる。

 第三章には、「欲望」を捨てることこそが仏教の第一原理であるといい、「欲望」とは何でしょうと問いかける。そして欲望には際限が無いと説く。欲望とは、仏教の用語で「渇き」だという。充足することがないのだという。

 また、精神的な「希望」も欲望のひとつだという。全ての欲望は悪いのだと仏教では教えると説明する。

 しかし、それは「無欲」になれということではないという。「無欲」にはなれないのだという。だから仏教の言葉で言うところの「少欲知足」が大事だという。

 「欲望」を少なくして、感謝する心、足るを知る心を持つようにという。

 今ある自分、今置かれた状況に逆らわずに生きることだと説く。

 ところで、上に見てきた「少欲知足」が大事だというテーマはこれまでの彼の著作に何回も出ていることであって決して目新しいことではない。

 彼は、同じ事をちょっと味付けを変えて出しているだけである。彼は、釈迦と大乗仏教の阿弥陀信仰をもとにしているのだが、そこで説かれていることはそんな大部なことではない。僅かなことなのだ。

 それにしてもよくも次々と本を書くものだと思うし、出版社もよくも同じような本を出すのを認めるものだと思う。

 菓子で言えば、ピリ辛、ピリピリ、辛うま、カラパリ、パリ辛・・・・などとちょっと味と名前を変えて売るようなものである。これならどれだけでも作ることができる。

 彼の著作は、そんなものだと認識すべきである。

 

捨てちゃえ、捨てちゃえの画像

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2010年3月27日 (土)

日本一の杜氏・農口尚彦作の酒を飲んだ

 先日のNHKプロフェッショナルで日本一の杜氏、農口尚彦さんが取り上げられた。彼は、現在76歳で石川県の鹿野酒造の杜氏をしている。これまでに「現代の名工」に選ばれ、「黄綬褒章」を受章している。また、品評会の金賞を25回も獲得しているという。

 番組では、彼の酒造りへの姿勢、情熱を伝えていた。酒は雑菌が入り難い冬季に仕込まれるが、その期間酒蔵に泊まり込みをする。そして夜中にも何度も起きて発酵の状態などをチェックする。一年の半分は家族と離れて過ごすので、家族はたいへんである。

 農口さんは、裸で仕事をしているが、酒室の中は40度にもなるので暑いからだ。その体はがっしりとして丸みを帯びて黒く光っている。50キロ以上のものを持つことがあり、撹拌も大変な力仕事だからだ。酒造りには体力がいるのだ。

 よい酒を造りたい、酒造りにはこれでよいという限度がないと彼は語る。麹を酒米にふりまいて発酵が始まると微妙に温度を調整する。米を手にすくって口で味を見て状況を判断するので歯がなくなり入れ歯なのだそうだ。

 番組の後半は、本年の酒の仕込みであった。最高の酒を目指していろいろと工夫をして納得がいく酒を仕上げる。心の中では密かに引退を決めていたという。

 定年で杜氏を辞めた後、請われて今の会社に入り、76歳まで勤めてきたのだ。辞めたら買った新車で奥さんと日本中の温泉を回ってみたいのだそうだ。

 私は、農口さんの造った酒を飲んでみたいと思った。HPで調べたがわかりにくい部分があり、どこか酒屋で探そうと思った。

 昨日、酒スーパーに行って探してみたら、1本だけ「常きげん、山廃仕込み純米酒」が残っていた。それを買い求めた。一升瓶で2850円であった。現代の名工・農口尚彦作というラベルが貼ってあった。

 店員に農口さんの造った常きげんのことを聞いたら、何も知らないと言った。NHKの番組で取り上げられたので有名になったと思っていたら、酒店も知らないとは意外であった。

 家に帰ると、早速封を切ってガラスのとっくりに入れた。色は濃い山吹色をしていた。匂いをかぐと酒のよい香りが鼻をくすぐった。口に少し入れて味わってみたら、ほわっとよい味が広がった。

 昔は酒は山吹色をしていたという記憶があるが、いつのころからか色がない酒が多くなった。味も匂いもアルコールの強いものが多い。同じ純米酒でもうま味のないものが多い。

 しかし、この酒は違った。まず色が見事であった。やはり、目、鼻、舌で味わえる酒であることが大事だと改めて知った。ただ、残念なことに私のような年金生活者にはそういう良い酒は買えない。今回はどうしても飲んでみたいと思って清水の舞台から飛び降りたのであった。

常きげん 山廃仕込純米酒

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2010年3月26日 (金)

「貧困大国アメリカ」(岩波新書)が教えてくれるもの

 友人が「貧困大国アメリカ」(堤未果著、岩波新書)を読んで凄い本だと言ったので私も読んでみたいと思った。図書館に行ったら最初の方があったので借りて来て読んだ。

 第1章 貧困が生み出す肥満国民

 第2章 民営化による国内難民と自由化による経済難民

 第3章 一度の病気で貧困層に転落する人々

 第4章 出口をふさがれた若者たち

 第5章 世界中のワーキングプアが支える「民営化された戦争」

 このどれをとってみても、2001年9月11日のWTSビルテロ以後、ブッシュの8年間でアメリカ国民が陥れさせられた状態を詳細に描き出している。発表されたデータを丹念に集め、一方でインタビューによる取材で現実を生々しく伝えている。

 この本に書かれていることは、単にアメリカの問題ではなく、日本でこの10年間に起きたことと重なるのだ。

 レーガン以来の「新自由主義経済」政索により「小さな政府」のスローガンの下に、規制が撤廃され、「国民の暮らしに関わる中枢機能の民営化が進められ、競争に負け転がり落ちて行った者たちを救う社会保障費が削減され」、その結果貧困層が拡大して行った。その貧困層に落とされた人たちを待っていたものは、

 第1章に書いてあるように、ジャンクフードに頼るしかない人びとの肥満化であり、第3章にあるように病院にかかれない惨めなじょうたいである。教育の分野でも、「落ちこぼれゼロ法」という聞こえのよい法律が実は嫌でも軍隊に行かざるを得ない状況を作り出すものであったことを暴いている。イラク戦争に行った兵士はそうする生きるすべがない人たちが多くを占めているのだという。

 第5章では、世界中から貧困の若者が集められて、劣悪な条件の下でイラク戦争を後方支援する民間会社や実際に戦争をさせられる民間の傭兵になっていることを書いている。その人たちはイラクで死んでも戦死者にはカウントされないのだという。闇から闇にまるで資材として葬られていくのだ。

 そこに浮かび上がって来るのは、国家ぐるみの「貧困ビジネス」である。新自由主義と「自己責任」で貧困層に落とされた人たちを民間の機関を使って軍隊に集めたり、民間の派遣会社に雇われるように仕組んで、戦争に駆り出しているのだ。これほど恐ろしい話は無い。日本の貧困ビジネスも酷いが、アメリカの貧困ビジネスは最悪である。

 私は、以前にも書いたように、ウオール街の貪欲な利益第一主義によってサブプライムローンが作り出され、リーマンショックでそれが破綻して、世界中を恐怖に陥れた罪は大きいと思っている。自由の名の下に飽くなき利益追求が、巨万の富を稼ぐ者とそれ以外の虐げられた貧困層を生み出すアメリカという国は、恐ろしい。

 そしてアメリカの新自由主義を信奉する小泉元首相と竹中元経済担当相によってそっくり日本に導入された。その結果が、高度成長期の終わり頃には「一億層中流」を謳歌したのに、「規制緩和」「民営化」「自己責任」などのキーワードの中で「過労死」「リストラ」の犠牲となり、「ワーキングプア」「ネットカフェ難民」「派遣社員」「医療崩壊」「教育格差」「ホームレス」などに象徴される憐れな状況を生み出したのだ。

 利益追求第一主義は、優勝劣敗の上に立っており、ごく一部の勝者と大多数の敗者を作り出すのだ。アメリカの10年と日本の10年はそのことを証明した。だから我々は政権交代を実現させたのではなかったか。

 そうであるならば、民主党政権が目指すべき方向は明確である。それなのに何をもたもたしているのかと言いたい。

 ルポ 貧困大国アメリカ II (岩波新書)

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2010年3月25日 (木)

顔の表情筋を鍛えて明るい表情にする

 24日朝のNHK「街角情報室」を見ていたら、表情を豊かにするために表情筋を鍛える方法を3つ紹介していた。

 一つは、特別に作られたCDの音楽に合わせて口を動かす方法で、ア、ウ、イ、エ、オの母音を発音するというもの。

 二つ目は、ガムを噛みながら鍛えるというもので、ガムはどんなガムでもよいが、口の中で噛む場所を移動させるのだそうだ。

 三つ目は、顔に特殊なマスクを装着するというもの。

 これを見ていて、ふと思った。私がやっていることも顔の表情筋を鍛えているのではないかと。

 私のコーラスグループでは、毎回歌う前に顔の筋肉をリラックスさせるために、目の周りや頬やおとがいの辺りをマッサージしたり、口を開けて口腔を広げたり、べろを出したりしている。また、眼を吊り上げて鼻の穴を大きくするというようなことをしている。指揮者は、いつも表情を大切にとアドバイスをする。

 私はそれに加えて、唇をつぼんだまま息が続く限り長く「ぶるぶるぶる」と口唇を震わせることや舌を上口蓋に反りあげることなどもやっている。その他に、口を大きく開けて百面相をすることもやっている。先日は、指揮者から舌の付け根が固いので、舌を上あごの歯の裏に当てて口を縦に開け「ロロロロ」と舌を動かすことを勧められた。

 毎朝気が付くとそうしたことをやることにしているが、それが顔の表情筋を鍛えることにもなっているのだとは知らなかった。

 その上コーラス仲間の歯医者さんによると、嚥下障害を起こさないトレーニングにもなるということだ。

 コーラスが顔の表情筋を鍛え表情を豊かにすることにも役立っているのは嬉しいことである。

 歌って表情を鍛えるCD  株式会社エーグル 075-950-4191

 ガムを噛んで表情筋を鍛える  ETERNAL  SMILE info@eternal-smile.jp

 装着して顔に負担をかけるマスク 株式会社ブランドゥ 0120-657-502

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2010年3月24日 (水)

駄目元で言ってみたら・・・OKだった

 私は、エイデンをよく利用するので、エイデンカードを持っている。そのエイデンカードの発行元がライフからセディナに代わるので迷惑のお詫びとして割引券をくれた。5000円に付き500円の割引である。

 先日プリンターを買い換えたことはblogに書いたが、その時に割引券を持っていくのを忘れていた。数日たってから割引券があることに気が付いたがあとの祭りであった。しばらくは凄く損をしたような気分が続いた。

 昨日エイデンに行ったので、駄目で元々だから1度聞いてみようと思って割引券を持っていった。丁度プリンターを買ったときの店員がいたので今からでも適用してくれるかどうか尋ねたら、「いいですよ。」と言った。「だけど領収書はお持ちですか・」と聞いたので、領収書を持っていないというと「いつでもいいから持って来て下さい。割引します。」と言った。

 それで片道20分ほどの道を家まで引き返し、すぐに領収書を持って行った。店員は領収書とカードでクレジットの支払いをキャンセルし、割引したクレジットの引き落としと領収書を作ってくれた。

 諦めていた割引券が使えて割引してもらえたので大変気分がよかった。何でも駄目元で言ってみることが大事だと思った。「言うだけただ」という言い方もある。

 ところで、近所の人が買ったエプソンの複合機702が3000円も安くなっていたので驚いた。家電製品やパソコン関係の製品は買って暫くすると値が下がることがよくある。タイミングよく買うことはむつかしい。

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2010年3月23日 (火)

オバマ大統領の医療改革かろうじて可決

 テレビニュースによると、アメリカのオバマ大統領が優先課題として推し進めた医療保険改革の法案がかろうじて可決された。これは民主党の長年の悲願であり、クリントン大統領のときにも否決されて実現できなかったものである。

 アメリカでは医療保険に加入していない低所得者が5000万人近くあるという。これは大変な数だと思うのだが、共和党は新自由主義の旗の下に医療分野も民間に委ねるべきだとしてきた。また多くの国民もそれを支持してきた。

 不思議でならないのは、アメリカという国は、自由を尊ぶが故に医療や教育などの分野まで民間に委ねて利益追求の対象とすることを許してきたことだ。イギリスや、ヨーロッパの各国では医療に関しては日本よりもっと公的なシステムが発達している。アメリカ人はヨーロッパやアフリカや南米やアジアなど全世界からの移民を中心に成り立っているのに、医療に関しては全く異なったシステムを持っている。日本のような公的な保険がないのだ。

  国民皆保険の公的医療保険に対して反対が強いのが不思議でならない。社会主義にするつもりかと反対側は言ったという。

堤未果氏の「貧困大国アメリカ」(岩波新書)には、詳細なデータを駆使してアメリカの医療制度について書いている。

 「政府は、『自己責任』(小泉政権下でよく言われた言葉だ)という言葉の下、国民の自己負担率を増大させ『自由診療』という保険外診療を増やしていった。」と書いている。「自由診療」は日本でも取り入れられた。保険ではやれない高度の医療を可能にするという名目のもとに導入された。

 自民党・公明党政権は、医療の分野でもブッシュに右へならえをしたのであった。日本の場合は、保険料負担率が3割に引き上げられた。アメリカでは、民間の保険会社に加入する国民が増えて保険会社が大きくなっていったのである。そして利益追求の医療がはびこるようになったという。

 保険会社は、利益を確保するために、何かと病院や医師の診療に厳しい査定をして保険の適用範囲を狭めた。それでアメリカでは、入院期間が非常に短くなった。私は、アメリカでは医療技術が進んでいるので入院期間が短くてよいのだと思っていたが、そうではなく、医療費が高額なために支払いが大変だから止むを得ず早期に退院をするのだということがわかった。

 私の知人のアメリカ人に歯医者を紹介したが、彼はアメリカでは医療費が高いので日本にいるうちに歯医者にかかったほうがよいと言った。何でも日本の13倍ぐらいかかるらしい。

 利益追求の病院経営では、目標を達成した経営者には多額のボーナスが支払われるが、そうでない場合は職を追われるのだという。

 儲けを出すためには、健康な人を保険に加入させ、病人は追い払うのが一番とされる。それに低所得層は高額な保険料が支払えない。だから本来保険を必要とされる人たちが保険から除外されてしまうのだ。「1度病気になり、会社で働けなくなると、高額な自己負担保険か、無保険者になるしか選択肢がなくなってしまう。」という。(P.p1)

 オバマ大統領は、無保険者をなくし、国民に医療保険の恩恵を与える仕組みを作るという改革をやろうとしているのだ。しかし、議会の議決は僅差で辛うじて勝ったという印象である。何でももう修正を余儀なくされているとか。

 今回の医療保険改革でも日本のような公的医療保険ができるわけではない。民間の保険に対する規制を強化して、貧困層でも保険に加入しやすくするというものだ。そのために向こう10年間で85兆円が必要と言われる。それでも、なお、無保険者が5%も残るというのだ。

 アメリカの貧困層のためにも、また堤氏によると、中間層までもが医療保険から見放される状況があるというから、オバマ氏の医療改革がよい方向に向かって欲しいと願うものである。

 また、日本では介護保険、高齢者医療、医師不足などさまざまな問題があ山積している。それらの問題を国民の要望に応える方向で早く改めてもらいたい。

 

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2010年3月22日 (月)

桜が咲き始めて―春を感じる―

 山崎川に沿って毎朝ウオーキングをしているが、数日前から雪柳が咲き出して日に日に花が多くなった。雪柳が咲くと次は桜が咲き始める。気象台の発表では19日に開花したということで例年より10日以上も早いようだ。民間の開花予想では一社が19日、もう一社が20日であったから、だいたい予想通りということになる。

 土曜日に山崎川を歩いたときには、チラと咲いているのがあった。でも、今週からまた温度が下がるので、今期の桜は長い間見られるという予想である。

 以前は桜の花が満開の前後に入学式があり、桜と新一年生は切っても切れない関係があったが、今年はどうやら桜の終わり頃になるようだ。桜が満開に近いとなんだか浮き浮きした気分になり、入学式を祝うには最高だと思うのだが、果たしてどうなるのか。気がかりなことではある。

 今は、こぶしやモクレンが満開で、真っ白な花や紫色の花を楽しませてくれている。モクレンとこぶしは花の形がよく似ていて紛らわしい。

 沈丁花も慎ましやかに花をつけて独特の香りを放っている。

 その内にレンギョウや山吹などが咲き始める。

 春は名のみの風の寒さや・・・・ではあるが、日ごとに春が深まっていくのは嬉しい。

 私が教えている中国から来た日本語学習者の女の子は、桜の花を見るのを楽しみにしている。中国のハルピンから来ているので日本のような桜はないそうで、早く桜を見たいと言っていた。

 「先生、桜の花びらで標本を作ってもいいですか?」と中国語で尋ねた。私は「ビャオベン」と発音したので、何のこと?と思って聞き返したら、ノートに「標本」と書いた。本の間に挟んで作るのだといったので、押し花のことだとわかった。「もちろんいいよ。」と言ったら、嬉しそうに中国の友達に送ってあげるのだと言った。

 27日には、みんなで名古屋城に花見に行くので楽しみにしているが、桜はどのくらい咲いているのだろうか。

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2010年3月21日 (日)

山陽・萩・津和野旅行―⑤―大雪の萩・津和野

 旅行も最後の日になった。5時20分頃に起床した。朝風呂に入ってゆったりとした。食事は7時と遅かったので、ロビーに行った。ロビーからは萩の入り組んだ海岸が眺められた。その内に同じツアーの人が来て、「いいながめだなあ。」と言って写真を撮っていた。

 6時50分ごろ、食事の場所に行くと、「もういいですよ。」と言ったのでロビーの人たちに知らせた。昨夜仕切られていた部屋が全部開けられて大広間になっていた。ツアーごとにまとまって食事をするのだ。

 朝食は和食で、腰のある蒲鉾や焼き魚やのりなどがついていた。朝食を済ますと部屋に戻り、遅れないようにと玄関に行ったがまだバスは来ていなかった。

 空は今にも降り出しそうであった。バスは8時丁度に出発して、松下邨塾に向かった。バスが走り出すと大きなボタン雪が降り出した。

 8時15分に邨塾に着いた。雪が少し積もっていて水っぽい雪を踏みながら歩いた。松下邨塾でガイドの説明を聞いた。吉田松蔭が蟄居させられた3畳の部屋や米搗き場も見た。松蔭は仕事をしながらもいつも勉強をしていたことや慕ってくる若者に教えていたことなどを聞いた。松蔭は再び江戸に送られ非業の死を遂げるのだがなんともむごいことだと思った。

 境内にちょっとした店があったので、そこで名物の夏みかんの砂糖漬けを買った。バスで斡旋したのと同じ800円であった。

 9時にバスは散策をする昔の面影の残っている地域に着いた。雪は更に積もっていて傘をさしても傘の上にすぐ積もった。ガイドの後について歩いて見て回った。晴れていたらゆっくりと見られただろうと思うのだが、みんなさっさと歩いていた。所々に夏みかんがなっている木があった。白壁の大きな屋敷や伊藤博文などにゆかりの屋敷もあった。バスガイドが「中に入りますか?」と聞いたが、誰も中には入らなかった。

 30分ぐらいで一回りをしてバスに戻ったが、歩きながら何度も傘の雪を落とさなければならなかった。

 次に、村田蒲鉾を見に行った。みんなは見なくていいと言ったが、無視された。添乗員としては、連れて行かなければならないのだろう。試食品を味わいながら見て回った。村田蒲鉾の蒲鉾は腰が強くておいしいことはおいしい。

 この日のお勧めは、ふぐの蒲鉾で1320円の籠が850円となっていたのでそれを買った。また、切り出しを1袋200円で買った。

 10時10分にそこを出発した。添乗員は峠を越えられるかどうか心配だと言った。雪はますます強く降り木々も山も雪を被っているし、ちょっと先は視界が不良で見えなかった。バスは前の車の轍をたよりに走った。

 12時ごろ、何とか津和野に着いた。バスの中で鯉の話や津和野の見所を聞いたがそれどころではなかった。バスを降りてすぐに昼食の店に入った。津和野での昼食は、予約で2300円の「琴」という料理を食べる人、850円の定食を食べる人、自分で探して食べる人に分かれた。

 私たちは妻の要望で「琴」にしてあった。「琴」を食べる人は3夫婦で、庭の見える座敷に案内された。料理は精進料理であった。驚いたことに他の二組の夫婦の夫はいずれも料理が得意だということであった。一人は家に何百冊もの料理の本を持っていると言った。こういうところで食べるのも勉強になるからだと言った。私だけが妻任せであった。

 食事が済むともう見て回る時間はなかった。店の人の勧めで店の前に溝の鯉を見た。1mぐらいの大きな真鯉であった。

 バスは12時50分に津和野を出発した。とにかく岡山発の新幹線に乗らなければならないのでそれが心配であったのだ。雪が降っているからか道路には自動車は殆ど見なかった。その内に眠ってしまったらしく、気がついたら六日市のI.C,であった。14時ごろになっていた。広島道路もとっくに過ぎていた。いったいどこで雪とサヨナラをしたのかわからなかった。雪は嘘のように降っていなかった。バスは快適に走った。

 吉和I.C.の辺りでは日が差していた。吉和I.C.で休憩をした後は岡山まで走った。17時40分ごろ岡山駅に到着した。新幹線は18時21分なので十分間に合った。結局、萩・津和野は大雪を見に行ったようなものであった。こんな大雪は私には初めての経験であったが、ハラハラしたバスも無事でよかったと思った。運転手や添乗員は大変であっただろうと思った。

 新幹線は岡山発のひかりで、乗車するとすぐに配られた弁当を食べた。ちょっとおごって1300円の百花繚乱という弁当をたのんであった。缶ビールを飲みながら食べた。列車はどれも10分余り遅れていたがもう気にならなかった。名古屋には8時40分頃に到着した。

 ツアーは一人4万円+入場料や食事3回分など6000円で合計4万6000円であった。

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2010年3月20日 (土)

山陽・萩・津和野旅行―④―秋芳洞・萩観光ホテル

 秋芳洞に閉館時刻後入れることになったが、その代わり入館料を50円余分に出して欲しいと言った。もちろんOKした。だから1300円のところが団体で1050円となった。

 秋芳洞には17時20分に着いた。添乗員が、「高齢の方がいるので出口のほうから入ります。」と言った。下りになるから楽だというのだ。入り口(本当は出口)に入ると長いトンネルが下っていた。最後の客らしい人たちが数人向こうから来た。それで私たちの貸切になるみたいであった。

 妻は秋芳洞には初めてであったが、私は3回目だった。しかし、逆に見て行くのは初めてであった。大石筍や石堆や両方が合体したものなど見事なものであった。高い天井の場所や2箇所の千枚田なども素晴らしい。途中からちょっとした滝があり水がとうとうと流れて川となっていた。この川は出口まで続いていた。

 ガイドさんが、要所要所にある説明器のボタンを押して説明が聞けるようにしながら案内してくれた。

 私は、国内も海外も幾つかの大きな鍾乳洞を見たことがあるが、秋芳洞は立派なものの一つだ。外に出ると少し暗くなりかかっていた。林の中を鍾乳洞から流れてきた川が流れいい景色であった。

 18時25分にバスが動き出した。秋吉台を通って萩へ向かうと言った。秋吉台に差し掛かったときは外はかなり暗くなっていた。台地は一面雪で覆われていた。その中の道をバスは進んだ。

 19時30分に萩観光ホテルに着いた。このホテルは高台にあり、海に面していた。私たちは6階であった。部屋に荷物を置くとすぐに食事の部屋に行った。オプションの料理を注文した人たちとそうでない人たちに分かれていた。

 料理は、「ふくづくし」であった。山口では「ふぐ」のことを「フク」というらしい。きっと縁起をかついでそう言うのであろうと思った。薄く切ったふぐの刺身、天麩羅、吸い物、煮物、茶椀蒸しなど・・・全てにふぐが入っていた。追加の料理を注文しなかったが量は十分あった。隣の席の奥さんが食べないものまで頂いた。

 食事の後売店を覗いて土産物を買った。試食品が出ていたので都合がよかった。

 浴場は、海が見える大浴場で、こちらは何度入ってもよかった。前日の広島プリンスホテルとそれほど差はなかった。

 部屋は和室でトイレと便所と洗面所がついていた。入浴後自販機でビールを買うことにしたが、ここの自販機には、何と発泡酒や第3のビールまであった。それでちょっとけちって500ml缶270円の第3のビールを買った。

 第2日は、雪で大渋滞にあって一時はどうなるかと思ったが、何とか予定をこなせてよかった。

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2010年3月19日 (金)

山陽・萩・津和野旅行―③―厳島神社・錦帯橋

 第二日は、夜中に目が覚めて暫く眠れず、寝直しをしたので6時5分に起床した。顔を洗ったり荷物のまとめなどをして、6時45分に23階の展望食堂に行ったら、すでに満席であった。もっと早く来るべきであったと後悔をした。

 朝はバイキングであった。パンとご飯から選べるようになっていた。私はご飯をメインに選んだ。展望はいい場所だが、あいにく霙が降っていた。和食のところに豆腐やだいこおろしや卵焼きなどは無くなっていた。後でコーヒーを取りに行ったときにも無くなっていた。ヨーグルトも無かった。たった15分の違いで無くなるのはちょっとひどいと思った。

 出発が8時だと思っていたら、7時50分に電話があり、7時50分出発だと言った。急いでバスに行くと、みんなが揃っていた。添乗員から「昨日、出発時刻を変更したでしょう。」と言われた。恥ずかしかった。5分遅れて55分にホテルを出発した。

 宮島に向かう道路は大変な渋滞であった。3車線の道路が車で身動きが取れないくらいであった。高速道路までに1時間以上かかった。広島市内はマツダの地元だけあって自動車が多いのだろうと思った。ところが後で分かったのだが、雪と出勤時間とに加えて交通事故があったようであった。運が悪かったのだ。

 港に着くと、丁度フェリーが出る時刻であった。船室に入り一番前の席に座ったら、動き出してみると最後尾の席であった。

 厳島までは約10分でフェリーはとても静かに動いていた。桟橋を出ると、案内の鳥居屋のユニホームを着たおばさんが待っていた。すぐに霙の中を傘をさして歩いた。私の傘は、悪天候を予想していなかったので、おまけに貰った小さな折り畳み傘であったが、無いよりはましであった。

 海岸に大鳥居が見え、左手の丘の上には五重塔が見えていた。鳥居などの写真を撮りながらついて行った。

 厳島神社は満潮時には水の上になるそうだが、この日は干潮の時刻で干上がっていた。

 赤い回廊を回って見たが、霙が降って寒いのでみんなは記念写真は要らないと言った。平清盛が建てたというが世界遺産になったし、観光地としては今に役立っている。

 早々に切り上げて、土産物の鳥居屋に入った。「お茶ともみじ饅頭が用意してあります。」と言った。もみじ饅頭は半分に切ったのが2種類あった。店内にもみじ饅頭を作る器械があり動いていた。お茶を飲んでから土産物を見て回った。試食品があるのでそれをつまんだ。妻は何やら買っていた。

 帰りのフェリーは、本当の先頭に座席を取った。でも天気が悪いので視界はよくなかった。バスに乗る前にトイレを済ませて置くようにと添乗員が強調した。11時45分にバスが動き出して、次の目的地の岩国に向かった。

 岩国へは国道を通った。雪で高速道路が部分的に閉鎖されたのでやむなく国道を走ったのだ。暫くの間は、反対車線が凄く渋滞していた。ところが、その内にこちら側の渋滞が始まった。

 錦帯橋の川原にバスを停めて昼食のレンストランに入った。二階から目の前に錦帯橋が見えていた。岩国名物の押し寿司とうどんであった。量は少なく、岩国寿司もガイドの説明ほどの味ではなかった。上に岩国の薄く切ったレンコンが1枚載っていた。

 昼食後錦帯橋を渡るのだが、添乗員が雪で足元が悪いのでやめたい人は申し出るように言った。私たちはせっかく来たのだから渡ることにした。渡橋料は一人300円だが団体割引で250円であった。アーチ型の橋は見た目には美しいが渡るとなると晴天の日はともかく雨天やまして雪の日は大変である。錦帯橋の辺りはとても静かなところで橋が景色の中心になっていた。

 霙のべた雪が橋の上に積もっているし傘をさしているので、びくびくしながら橋の欄干の傍をゆっくりと気をつけて歩いた。のぼりはよいのだが、くだりが危険であった。何度もつるっと滑った。真ん中辺で、後ろを歩いていた同じツアーの女性が滑って転げ落ちた。幸い怪我はなかったようだ。対岸の山の上に岩国城が見えていた。

 何とか渡りきると公園があった。その傍に100種類のソフトクリームを売る「むさし」という店があったが、寒いので買わなかった。帰りも気をつけながら歩いた。何とか滑らずに往復できてほっとした。

 岩国を出ても高速道路は熊毛I.Cまで閉鎖されたままであった。国道9号線だったと思うが、渋滞というより停滞であった。一時間かかってもまだ岩国市内であった。途中の山道で小便を我慢できない人が何人かあって、バスから降りて反対側にある店にトイレを借りに行ったが、バスは止まったり、動いたりしながら前に進んだ。でも、遅いのでトイレに行った人たちが追いついてまたバスに乗ることができた。

 分岐点を過ぎると、走り出したので、途中のコンビニの前に停めてトイレを借りた。添乗員が、「何か一つでいいから買ってあげて下さい。」と言った。私はガムを買って、妻は水やお菓子をかってトイレを借りた。そこからは遅れているので秋芳洞までノンストップで行くと言った。コンビにのトイレを借りたバスは3台目だったそうだ。添乗員が近くのガソリンスタンドでもトイレを頼んだら、かんかんに怒って断られたそうだ。

 15時40分に出発をした。16時にやっと熊毛I.Cにのった。添乗員が携帯で連絡を取り、秋芳洞は17時半までに行けば中に入れてくれることになった。果たして行けるかどうか心配であった。

 

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2010年3月18日 (木)

山陽・萩・津和野旅行―③―お好み焼きとホテル

 18時に平和公園を後にして、今日の夕食の場所に向かった。大きなビルの5階にあるお好み焼き街で自分の好きな店を選んで広島風のお好み焼きを食べるということであった。

 そこはワンフロアが全てお好み焼きの店であった。暖簾に店名を書いて大きなステンレス鉄板の屋台が並んでいた。19時40分までに食べ終わって集合ということで、一人1000円の食券をもらった。不足分は各自が払うのだ。

 妻と私はまず一回りしてどんな店があるか様子を探ることにした。客が一杯の店や一人も客のいない店もあった。値段は店によって100円ぐらい違うようであったが、味については食べて見ないと分からない。一回りして同じバスの客がいて、「大根おろし無料」という店に入った。メニューを見たが分からないので、店長お勧めのものを注文した。

 一人1350円だったが、妻は牡蠣を別に注文した。4個で450円であった。私は生ビールを注文した。

 広島風お好み焼きは、まず薄くて丸い形のタコスのようなものを焼く。別にキャベツを大量に焼く。その後肉や貝などの具を焼く。それを一緒にしてその上に卵を焼いて載せる。出来上がるまでに15分か20分ぐらいの時間がかかった。

 最後にサービスのネギと大根おろしをたっぷりトッピングして出来上がりだ。それをヘラで幾つかに切り分けてお皿にとって食べるのだ。

 味はけっこうおいしかったし、見た目より量もあった。店の名は「そぞ」と書いてあった。店長に意味を聞いたら、ギリシャ語で「目覚める」というのだそうだ。

 食べ終わってまだ時間があったので妻とまた一回りした。妻は「私たちの店が一番汚いわね。」と言った。他の店は鉄板がピカピカのところもあった。全く客が入っていない店にも客が入っていた。えらいものだと思った。

 ただ、1350円かかるのに、食券が1000円分しかくれないのはケチっていると思った。せめて1200円ぐらいは配るべきである。

 ホテルに向かうバスの中で、入浴について質問が出た。1回入浴の券はついているが、2回めからは幾らかかるのかということであった。添乗員が確かめて、「入浴券は2150円だそうです。」と言った。添乗員も知らなかったらしく、驚いていた。私たちももちろん驚いた。いったいどんなに豪華な浴場だろうかと思った。

 その夜のホテルは、「グランドプリンス広島ホテル」であった。23階もある大きなホテルでフロントのある一階は中国の高級ホテルのような感じであった。コンビニがあったので、5個入りもみじ饅頭を買った。部屋は洋室で部屋もきれいで、海が見えて眺めがよかった。

  部屋に入り荷物を置くと、20時半だった。入浴時間は22時までなのですぐに風呂に行った。 

 浴場は、洗い場が一人ひとり区切られている部分もあった。大浴場と外に露天風呂があった。他にはジャグジー風呂がついていた。しかし、2150円もするとは思えなかった。露天風呂は寒いので入らずにジャグジーに入って体をほぐした。

 部屋に戻ると、自動販売機に行ってビールを買った。500ml缶が470円であった。

 もみじ饅頭を食べた後ベッドに入った。

 

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2010年3月17日 (水)

山陽・萩・津和野旅行―②―広島

 福山サービスエリアでトイレ休憩をしたあと3時45分に出発し一路広島に向かった。添乗員の話では、広島には平和資料館の入館時間ぎりぎりに着くようであった。私は、広島の平和資料館を見ることも今回の旅行のメインの目的の一つであったので、少しでも早く着いて欲しかった。

 広島平和公園には17時に着いた。途中大田川にかかった橋を渡るとき、原爆ドームが川岸に立っているのが見られた。

 バスを降りて公園へ歩いて行った。「原爆ドームの写真はこの辺りから撮るといいですよ。」とガイドが叫んでいた。空はどんよりと曇っていた。

 平和公園を歩いて行くと火が燃えていた。形は両手の掌を表しているのだとガイドが言った。更に行くと原爆慰霊碑があった。「慰霊碑と火と平和資料館と原爆ドームが一直線上になるように設計されています。」とガイドが言った。素晴らしい設計だと思った。

 折鶴の碑を見た。今でもたくさんの折鶴が届けられているようであった。

 それから平和資料館に入った。17時20分ぐらいになっていた。18時閉館なので時間は余りなかった。中がどうなっているのか知らないので急いで見て回るより仕方がなかった。説明を読むのはポイントだけにして見て回った。妻が「以前に来たときには実物の展示があったのだけど・・・」と言った。それは第二部の展示館にあった。

 これまで写真やテレビや映画などで見た、原爆によって破壊された品々が展示されていた。ボロボロの服、ひん曲がった鉄製品、ガラス瓶、壁、仏像などどれも原爆の凄しさを物語っていた。原爆の生き証人であった。また、生き残った人が描いた被災当時の絵も展示されていた。

 私は、この歳になるまでまだ広島に行ったことがなかった。一度は行きたいと思っていたのだが、なぜか実現していなかったのだ。ただ、映画や写真や本やテレビや展覧会などで原爆のことには絶えず関心を持って見ていた。高校生の頃には「原爆ゆるすまじ」の歌が広がって、私もよく歌ったものであった。「ああ、許すまじ、原爆を、三度許すまじ原爆を、世界の上に・・・」の歌詞どおりに心の底から鎮魂と平和への願いの気持ちを込めて歌ったものだ。三度地球に原爆が落とされるようなことが絶対にあってはならない。

 アメリカに行ったときに、スミソニアン博物館で投下された原爆と同じ物を見た。大きな爆弾でこれが原爆かと思った。よくこんな残忍な兵器を作ったものだと思った。スミソニアン博物館にはナチスドイツのホロコストを告発したホロコスト博物館はあるのに、原爆の悲惨さを伝える展示はなく、原爆とエノラゲイが誇らしげに展示されていることに納得がいかなかった。

 つい先日、長崎の高校生がアメリカに行き、原爆の悲惨さを向こうの高校生に伝えたということをテレビで見た。アメリカの高校生も大人も原爆の被災については何も知らないだけなのである。だからノーベル平和賞を貰ったオバマ大統領にも是非日本に来て広島や長崎を訪れて欲しいものだと思った。

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2010年3月16日 (火)

山陽と萩・津和野旅行―①―姫路城

 1月だったと思うのだが、新聞に、「姫路城・広島平和公園・錦帯橋・厳島神社・秋芳洞・萩・津和野旅行」の募集が出た。主催は「クラブ・ツーリズム」であった。

 姫路城は4月から修理に入るので無効5年間は見られなくなるのだという。私は、姫路、広島、岩国には行ったことがないのでこの機会に是非行ってみたいと思った。妻に話すと、妻は姫路城、錦帯橋、秋芳洞、萩、津和野は見たことがないというのでツアーに申し込むことにした。

 出発日は、3月8日にするか11日にするか迷ったが、3月8日(月)発の方にした。これが旅行を大きく左右するとは夢にも思わなかった。8日発のツアーでは大雪に見舞われさんざ苦労をさせれれたが、もし11日発を選んでおれば晴天の快適なツアーになったのであった。

 3月8日はアッという間にやってきた。朝、7時に家を出て集合場所の名古屋駅には7時半には着いた。集合時刻は8時15分なので駅の中を歩いて暇つぶしをした。

 7時50分頃に添乗員の原口さんが来た。手続きをして暫く待った。参加者らしい人たちがどんどん増えていた。

 今回のツアーは、新大阪までは新幹線で行くのだ。8時47分のこだまに乗車した。妻は「新幹線に乗るのは久しぶりね。」と言った。本当にひさしぶりであった。

 新大阪に着くと、バスに乗り換えた。バスは岡山から来た両備バスでガイドは若い女性であった。これから3日間そのバスで移動をするのだと言った。

 10時15分にバスが動き出した。車内で弁当が配られた。バスに乗っている間に食べるようにということであった。私たちには丁度ブランチの時刻であったのですぐに弁当を開いて食べた。弁当は余りよいものではなかった。

 10時45分に中国道にのった。高速道路は遮璧があるので景色が眺められないところが多かった。11時50分ごろ姫路城の駐車場に着いた。ガイドさんは「ここからだいぶ歩きますよ。」と言った。初めて見る姫路城は青空に小さく見えていた。

 お堀の水は満水であった。橋を渡って門をくぐった。入場料の一人540円は自己負担であった。少し行くと、お城は近くに聳えていた。カメラを右手に持ってよいアングルがあればシャッターを切ることにした。

 観光客は途切れることなく続いていたので、果たして天守閣に登れるのかちょっと不安であった。細い道、幾つかの門を抜けて少しずつ登って行った。城までは随分あった。昔の藩士は大変だっただろうと思いながら歩いた。

 城の入り口で履物を脱いでスリッパに替えた。1階から順に見て行った。城の中は思ったより広かった。3階だったかに太い柱があり、西の柱、東の柱と説明板が張ってあった。随分と太い大きな木を使ったのだと感心した。

 そこからは階段が狭く急になっていた。やっと天守閣に着いた。西の窓から順に写真を撮りながら一回りした。姫路の街が眼下に広がっていた。姫路城の構内は名古屋城とは比べ物にならないぐらい広い。西の丸も残っていて美しかった。

 降りる途中広場があったので写真を撮るためにそちらに行った。本当は上る途中に行かなければならないのだが、登りのときは時間が心配で行けなかったのだ。係りに大目に見てもらって広場に行くと、目の前に天守閣があった。

 降りる途中は時間を気にしなくてよいので、よいシャッターポイントがあると写真を写した。姫路城は本当に姿が美しい。白鷺城とは誰が付けたのだろうと思った。

 城の前に「高田の馬場」というそぐわない名の土産物屋があったので入った。試供品を幾つか口にした。妻は佃煮か何か買っていた。

 バスに戻ると、ガイドさんに、「往復約5000歩だったよ。」と教えてあげた。

 13時半に姫路城を出発して次の目的地、広島に向かった。

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2010年3月15日 (月)

安藤日出彦・50+15名古屋空襲墓標展

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 朝日新聞や中日新聞でも取り上げられていたが、安藤日出彦広告デザイン専門学校理事長の「50+15名古屋空襲墓標展」を見に行った。同展は「平和資料館ピースあいち」の三周年企画展として開かれたものである。

 私がボランティアをしている愛知国際プラザの何人かに”ピースあいち”に展覧会を見に行くと言ったら、みんな「ピースあいち?そんなの知らない。」と言ったので驚いた。ここでボランティアをしているくらいだから当然知っていると思っていたのに意外な答えであった。

 ボランティアとその後の勉強会が終わってから出かけた。平和資料館は地下鉄一社駅で降りて北に向かって真っすぐに歩いて行くと、信号で三つ目の「よもぎ台」交差点のところにある。わかりやすいのだがやや遠い。

 資料館に入っていくと、ちょうど講演が始まるところであった。土曜日の午後に講演があるのは知らなかったが、よいタイミングであった。席を探してふと見ると従姉がいた。四日市からはるばるとやって来たのだ。彼女は安藤日出彦の姉である。だから安藤は私の従兄弟である。隣の席に座って講演を聞いた。

 彼は、幼少のころの戦争体験から語り始めた。終戦時に10歳であったのであの恐ろしい空襲や学童疎開なども経験しているのだ。展示されている絵の中に彼の住んでいた家が描かれているのがある。家は鶴舞公園の近くにあり、私も訪ねて行ったことがある。狭い二階建ての家で二階に彼の父のアトリエがあり、階下は母親の床屋になっていた。その家と近所の商店を描いたのである。

 空は燃え盛る炎と火の粉、サーチライトが交差していて、家の前を何故か銃を担いだ軍隊が行進をしているという構図である。商店が並んでいるので店の看板が描かれ彼の父の「安藤洋画研究所」という文字も見える。

 名古屋では画家に安藤幹衛と安藤邦衛がいて、彼の父は邦衛の方である。若いころパリやアメリカに留学をして絵を学んだ画家であった。私は、伯父から荻須高徳や前田青邨や杉本健吉の話を聞いたことがある。

 彼は、画家は戦争中は生活が困難でそのため母親が床屋をして生活を支えたのだということを話していた。

 彼は、子供のころは軍国少年で将来は軍人になりお国のために尽くすことを考えていたと話したが、それを聞きながら私もまったく同じであったなあと感慨深く思い出した。

 学童疎開は、その頃「挙母」(ころも)と言っていた今の豊田市にある寺に行ったそうだ。そこで3月19日の名古屋大空襲の夜、名古屋の方角の空が真っ赤に燃えているのを眺めたという。先生が「あれは名古屋が燃えているのだよ。」と言ったという。子供の目にはその赤い空がとてもきれいであったという。

 私も子供のころ住んでいた新宮の町が空襲されて炎上するのを防空壕から首を出して見ていたが、空から落とされる焼夷爆弾をきれいだと思った経験がある。きれいだというのは絶対に許されるべきことではないのだがそう感じたことを思い出す。

 彼は、全国で空襲による被害で亡くなった犠牲者の名前を刻んだ作品を作っている。この展覧会では名古屋空襲での被害者6200人のうちの一部を展示してあった。黒い背景に渦模様がありそこに一人一人の名前を丁寧に彫ってある。黒はフランスでは明るいイメージなのだと言った。渦は縄文文化を象徴するものだそうだ。26枚の板に一人ひとりの名前を刻んだので腱鞘炎になってしまったという。

 一人の参観者が、自分の3歳の妹が目の前で爆弾にやられた死んだ話をした。何とも言えない原体験である。その妹の名前が刻まれているのを見て感激したを話した。沖縄や広島では戦争犠牲者の名前が永遠に残るように石に刻まれたり、記念碑に収められたりしている。名古屋では彼の手によってその仕事がされたのだ。

 彼は、コソボやイラク戦争やアフガニスタンなど世界各地で戦争が相変わらずなくならないことに触れてその度に戦争をなくし平和を願って作品を作って来た事を話した。また現在憲法9条をテーマとした作品を制作中であることも明かした。

 3階で開かれている展覧会には、名古屋空襲の日付を記した変形の作品が展示されている。それらの作品を見て、絵画という形で戦争を告発し、人類の平和を願うことの素晴らしさを思った。平和資料館の館長さんが言っていたが、「私にはそういう絵の才能がないからそういう表現手段をもっているのが羨ましい。」というのには私も同感である。ただ、いくら表現手段を持っていても、それを使ってやろうという感性がなければ駄目である。

 私は彼のライフワークに心から敬意を表するものである。

 

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2010年3月14日 (日)

プリンターが突然壊れ、買い替えることにした

 旅行から帰って次の朝、ハガキを印刷しようと思ったら印刷できなかった。何度試みても紙を送らないので調べてみたら、印刷位置を決める部品が一部欠落していたのだ。旅行に行く朝に印刷した時には何ともなかったので不思議でならなかった。

 仕方がないので、錦通り伏見の交差点北角にあるキャノンのサービスセンターにプリンターを持って行った。

 調べてもらったら、他にもカートリッジが駄目になっているから交換しないといけないと言った。料金は7350円かかるという。新しいのを買うとすればこういうのはどうかと言って通常のプリンターMP470と複合機MP550、MP560を勧めてくれた。

 どうしようか迷った挙句、しばらく預かってもらうことにした。ショールームを通る時、メインにMP640が置いてあった。ちょっと説明を聞いたら更に上位機種の複合機であった。その時には夢にもそれを買うことになるとは思わなかった。

 その足ですぐに大須の九十九電機に行った。店員をつかまえて、候補機の説明を聞いた。聞いてみると複合機のMP640がよさそうであった。無線、有線のランもついているし、DVD,CD印刷や両面印刷も付いていた。どこまで勉強してくれるのか尋ねたら、通常のMP470が13000円、MP640が23500円だと言った。その他にも5年保証には金がかかると言った。ただポイントが10%つくと言った。一度エイデンにも行ってみた方がよいと思って家に帰ることにした。

 心の中では、もし、エイデンが九十九より安ければ買おうと決めていた。エイデンに行くと、店員にMP640の説明を聞いた。そして値段を尋ねたら、21800円なら売ると言った。5年保証も付いているのでエイデンで買うことにした。

 結局、高い買い替えになったが、新しい機能も欲しいし、例によって衝動買いの病気がおこったようだ。

 無線ランはまだ使っていないが、これでノートパソコンも使いやすくなると思った。

 夜に苦労して設定をし、翌日朝早速知人のダンスパーティの写真を印刷した。印刷スピードが速くてきれいに印刷できた。

 CD面にも印刷したが、CANON EASY PHOTO PRINT  EXを使ったので以前と同じやり方であった。

 今度はスキャナーが付いているし、コピーもできるので楽しみである。

PIXUS MP640 多彩な機能がうれしいハイパフォーマンスモデル。

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2010年3月13日 (土)

社交ダンスパーティを初めてみた

 知人夫婦がスミヤダンスツタジオで社交ダンスを習っていて、先日、そのスタジオが春日市のホテルで13周年パーティを開いた。写真を撮って欲しいというので、バカチョンデジタルカメラしか持っていないと言ったら、それでいいというから引き受けた。

 生憎の雨であったが、JR春日井駅からはリムジンバスがあった。JR中央線を使用して春日井に行くのは初めてであった。鶴舞駅から230円、わずか14分で行くという。本数も多いし、名古屋市内と同じ便利さではないかと思った。

 春日井駅に着くと出口が分からずに戸惑った。みんなについていったら南出口であった。引き返して北口の改札を出たが、出るときに駅員に案内表示が何もないのではじめて来た者には不便だから改善するように言っておいた。

 駅前は大変広くていったいどこで待っていればよいのか分からなかった。他の人も分からないようであった。

 ホテルに着くと、手続きをして中に入った。大きな部屋の入り口側に沿って丸いテーブル席がAからLまで12並んでいた。私は、Kのテーブルであった。暫くすると赤い素敵なドレスを着た知人がやってきたので、座る席を決めた。

 ホールでは、何組かの人たちが踊っていた。自由に踊る時間のようであった。みなそれぞれに女性はブルーや黒や赤などの薄い華やかなドレスを着て踊っていた。男性はタキシードであった。

 来ている人たちはみな踊る人とは限らないようで私のように踊れない人もいるみたいであった。フリータイムは長く、1時間近くあった。

 その内にご主人が現れた。黒のタキシードをぴたっと決めていた。

 2時からショータイム。

 第1部は、ミニデモンストレーションでまだ経験の浅い人が踊るのだそうだ。途中ティータイムを挟んで、後半も同じであった。ティータイムの間は自由に踊ることができる。第1部は22人で、一組の夫婦以外はみな先生が相手をしていた。一組1分半程度踊りを披露した。フロアを約1周程度で曲がカットされていた。

 第一部を第二部の間にもフリータイムが設けてあった。

 第2部は、アマチュアデモンストレーションで,レベルの上の人たちが踊った。こちらは踊る時間も長くほぼ1曲だった。最初に小学校一年のお嬢さんが主催者のお父さんと踊ったが大変上手で驚いた。

 2番目が知人ご夫婦でタンゴを踊ったが、私は写真に集中しシャッターを押し続けたので踊りの方はわからなかったが、周りの人の評はとてもよかったようだ。

 11人踊って、フリータイムがあり、その後10人が踊ったが、こちらも相手は先生たちであった。男性には女性の先生、女性には男性の先生がパートナーになっていた。

 そのあとプロの先生たちのデモンストレーションがあった。さすがに見ごたえがあった。

 5時からは、ディナータイムでフランス料理のフルコースで、柔らかいビーフやポタージュスープなどが出た。このホテルのシェフは上手でよい味だった。

 6時過ぎから最後のプログラムのプロショータイムがあった。先生たちがそれぞれ夫婦やカップルで踊ったが、社交ダンスというよりショーダンスだった。主催の角谷氏は夫婦ともダンスの先生なので二人で見事な踊りを披露した。

 私はこれまでこういうダンスパーティは見たことがなく、こういう世界もあるのだと眼が開かれた。フリーのダンスタイムがあっても踊れないので指を咥えてみているだけであった。阿波踊りではないが、同じアホなら踊らにゃソンソン・・である。

 踊るものは、ワルツ、タンゴ、フォックストロット、ジルバ、サンバ、ルンバなどだが、上手な人になると、ただステップを踏むだけではなく手や足や体を使って表現をしてアッピールしていた。なぜかマンボはなかった。

 参加者は、殆どが高齢者で、みな生き生きとしていた。定年後あたりからダンスを始める人が多くダンス教室も乱立気味らしい。社交ダンスは健康にも良いし、姿勢が良くなると言っていたが、私は運動神経がないし、社交ダンスは無理だと妙に納得をした。定年になっていろいろと趣味の世界を広げている人があることを知ってよい勉強になった。

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2010年3月12日 (金)

ベトナム・カンボジア旅行⑮―農家―

B.農家のくらし

優しい岩田さんは、バスに乗る時に女の子からブレスレットを201$で買った。安いと言えば安い。

帰り道も来る時と同じがたがたの道を走った。両側には農家が続いた。緑の木立の中に農家が続いた。農家はニッパ椰子の葉で作った高床式が多い。井戸があり釣瓶井戸のところとポンプ式のところとがあるが、概して家よりコンクリート製の井戸の方が立派なのはどこかの援助かもしれない。風呂はなくて、井戸端で体を洗うのだそうだ。便所も無く、大人は木陰に土を掘り埋めるが、子供は垂れっぱなし。

電気はまだ来てなくて夜は石油ランプの生活だ。米が作られているが田んぼは雑草のような感じで極めて効率の悪い栽培法のようだ。工夫をすればもっと収穫を挙げられるのではないかと思う。他には、トウモロコシ、スイカなどを栽培している。こんな所にも時々立派な木造ペンキ塗りの家があるのが不思議だ。何か収入があるのであろう。

C.捨てたのに

ホテルの続く街並みに来るとホテルなどがイルミネーションで飾られている。農村とは対照的だ。

この日は、一日中歩いたので足が痛かった。レストランに行く頃は足を引きずっていた。

2000ごろから、夕食。NEW BAYONレストランで食べた。さつま揚げ、野菜炒め、ポーク炒め、ココナツカレー、岩のりスープ、ごはん、コーヒー、フルーツで皆さんの評判はよかった。

ホテルの部屋に帰ると、小島さんが朝ゴミ箱に捨てたはずのシャツ2枚がきちんとたたんであった。靴下も戻してあった。カンボジアの人から見たらこんなにいいシャツをどうして捨てるのだろうと思ったに違いない。私は、「カンボジアの人は貧しい人が多いので上げたらどう。」と言った。結局、私がそのことを英文で書いて添えておいた。私は、駅トピア(名古屋駅前商店街)がカンボジア救援の物資や金を募集するので何回か協力をしたことがある。カンボジアの学校では謄写版を欲しがっているというので手持ちの謄写版セットを寄付したこともある。

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2010年3月11日 (木)

ベトナム・カンボジア旅行⑭―東メイボン遺跡―

この日最後の見学場所は、東メイボン遺跡サンセットを見るのだ。智ちゃんが、「皆さんを見ていると本当に疲れたという感じですが、もう一息頑張りましょう。」と言った。ここは階段を登って行かなければならないのだ。上まで登ると、西の方に視界が開けていた。サバンナに似た平地が広がり、はるか地平線が見える。

そこへ小島さんがポリスとなにやら楽しそうに英語で話しながらやってきた。聞けば、階段を上がる時に、カメラを持ってくれたりして親切にしてくれたのだそうだ。そして、警察のエンブレムの入ったパス入れを見せて買わないかと言ったのだと言う。小島さんはデジタルカメラで彼の写真を取りe-mailで送ってやると言ったら買えとは言わなくなったという。

彼を紹介された。私は「世界で有名なスズキだ。」と言うと、彼はよく知っていると言った。彼の名はKIMLUONだと言った。英語で話していると私にパス入れを見せて3000円で買わないかと言った。いかにもコピーくさいのだが本物で年に2回貰えるのだと言った。「どうして警察官がそんなことをできるのか?」と聞いたら、「カンボジアでは警官の給料は月に20$ぐらいでとても給料だけでは生活できないのだ。」と言う。それでパトロールをしながら物を売っているらしい。私は、彼の腕を捉まえて「お前を逮捕する。」と冗談を言ったら笑っていた。

彼は、もとTUKTUKのドライバーをしていたのだが警官に転職したのだという。ドライバーの方が給料はよいという。どうして替わったのか聞くと、どうやら物売りの魅力に惹かれたらしい。実際、偽パス入れを買う人もいるようだ。仮に2000円で売れても給料よりはよいから月に2,3個売れたら大した稼ぎになるだろう。彼の英語は発音がよくなかなかのものなのでいつ勉強を始めたのかと聞いたら、3ヶ月前だと言う。そんな短期間でこれほど話せるはずがないと何度もいったが、3ヶ月前からだと言い張った。パトロールをしながら話しかけて練習を重ねているようだ。小さな声で「韓国人はフレンドリーじゃない。」と言った。会話はできるようになったが、読み書きはさっぱり駄目だとも言った。

そこへ少年が近寄ってきた。「英語を話すか?」と言うので、話すと答えると、「アンコールワットが見えるところを教えてあげる。」と言って塔の上の方に行った。はるか彼方を指さして「木と木の間にすこし見える。」と言った。よく見ると小指ぐらいの黒い影が見えた。アンコールワットの塔頂だ。それで私は周りの人に教えてあげた。

その後、塔の裏に私を連れて行き塔の中を見よと言った。そこには祭檀があった。1$と言ったので、私は、ようやく彼が親切な訳がわかった。もういいと言った。そこへ先ほどのKIMLUONが来て少年を追っ払ってくれた。少年は残念そうな顔をして去っていった。その後、また夕日が見える塔の所に戻った。POLICEKIMは他の日本人をつかまえてパスいれを売ろうと話しかけていた。

暁さんや岩田さんは写真を撮り、中神夫人は小島さんの双眼鏡アンコールワットの方を見ていた。双眼鏡で見ても小さなものであった。そのうちに夕日が沈み始めた。それでシャッターを何枚か切った。暁さんのオリンパスの方が綺麗に撮れていた

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2010年3月10日 (水)

ベトナム・カンボジア旅行⑬―アンコールトム

 

6)第5日

A.アンコールトム

545起床。

800出発。アンコールトムへ行く。アンコールトムというのはトムが「大」と言う意味で、アンコールは「都市」と言う意味だそうだ。総延長12kmの環濠と城壁に囲まれた中をアンコールトムという。農村地帯の赤土の道を約2時間走ってアンコールトムの南大門に着く。近くには観光客を乗せる象が数頭いた。門前に向かって右側には目を大きく開けた頭部が並び、左側には目を閉じた頭部が並んでいる。バスが南大門を通る時ボディが壁にすれそうであった。それでわかった。バスが小さいのは、この門のせいだと。

BAYON寺院はアンコールワットと同じ王によって建てられた。全部でクメール時代の州と同じ54の塔がある。ハスの花があるので仏教だとわかる。190の観音の顔があるがカンボジアの観音は男である。京唄子そっくりの顔があった。壁には中国に攻められた時、湖で戦ったことを表した叙事詩の壁画が残っている。耳たぶが長いのはクメール人。

次に、BAPHUONというヒンズーの寺を見た。  

ライ王テラスヒンズー寺院跡 基台の壁に象の浮き彫りがたくさんある。またガルーダの浮き彫りもある。ガルーダは日本に来て烏天狗になったといわれる。嘴は天狗そっくりである。ここから入って、ピミャナカス神殿に行く。これもヒンズー天上寺院である。

物売りの子供がまとわりついてくるが注意すると所々に縄が地面に張ってありそこからは出てこない。 物売りの縄張りが決めてあるのだ。妙に感心した。

昼食は、日本料理ということで、「月のにじ」というレストランに行った。何でも藤原紀香の命名だという。看板には「創作日本料理」と書いてあった。便所は2階に二つしかなく、英語でPlease don’t throw away into bowl.と表示がしてあった。小島さんが「なんじゃこの英語は。」と言った。アンコールワットビールが3.5$はよかったが、幕の内弁当はお粗末で、芋などの煮ころがしはまあよいとして、小さな人差し指大のトウモロコシのフライ、小エビのフライ、その他訳がわからない日本?料理であった。

日本人のスタッフが男女二人いたので、「これを日本料理と言っては誤解を招くよ。」と言ったら、「材料が少ないですから。」との答え。私は、「そんなことはない。いっぱいいろんな食材を見ましたよ。」と言うと、今度は、「創作料理ですから。」と苦しい言い訳をした。「それは言い逃れだ。」と言ってやった。このレストランには皆さんが納得できなかった。

昼食後、クッキーの館へ行った。クッキーとベトナム胡椒を売っていた。クッキー6$、胡椒5$と日本並みに高かった。

次に、昨日変更したOld Marketへ行った。市場には様々な店があり面白かった。食品の場所では、何と柿も売っていた。ベトナムのみかん、小さなりんごもあった。野菜は、ピーマンは巨大だが白菜、大根、人参などは小さかった。肉はむき出しでバーに吊るして売っていた。中国と同じだ。魚は川の魚が多いように思った。衣服の店、土産物、装飾品、帽子、バイク、金物、陶器・・・・いろいろあった。カンボジアシルクを売っているところを通りかかったら、女の子が声を掛けてきた。シルクのスカーフ(と言っても長さが約2m、幅が80cm)を「30$安いよ。」と言った。手にとって見ていると、27$にすると言った。私は、手織りかどうかを尋ねた。縁を見れば引っ掛けたところがあるし、糸を切ったあとが裏に見られるから本物の手織りだと言った。機械織りを出してきて比べて見せてくれた。機械織りは確かに綺麗だ。愛知万博のときに手織りの実演をしていて、織り上げるのに1ヶ月かかると言っていた。8000円で売っていたので買いたいと思ったがあいにく持ち合わせが無くて買えなかった。それで本物なら買いたいと言う気持ちはあった。15$と言って財布の中を見せた。15$入っていた。しかし、別のところに入れた1$紙幣も見られてしまった。それで20$、18$と値段を下げてきた。16$まで来て譲らなかったが、私は、行きかけると、近くにいた母親らしき女と顔をしかめて15$でいいと言ったので買った。名前を聞いてついでに写真を取らせてくれと言うといいと言った。女の子は、Roaさんという名だった。このスカーフは手織りかどうか心配なので暁さんに聞いたら、「私はわからないが深見さんは織物をしているからわかるかも。」と言った。深見さんに尋ねると手織りのようだねと言った。彼女ももう少し大きいのを500円でかったらしい。ちなみに次の日に行ったショッピングセンターでは同じものを最初80$だと言った。小島さんは腰が痛いので休んでいたという。

その後、タップロム寺に行った。そこは、廃墟となっているが、塀にガジュマルが根をまとわせているとても珍しいものが見られるのだ。ガジュマルの木が塀の上に根を下ろし木が成長するにつれて根を下に伸ばしていったものらしい。他にもあり、これから成長しようというものもあった。この珍しいものを観光の売り物にするためにこの遺跡は残しておくのだそうだ。

 走っている自動車、駐車している自動車を見ていて、ナンバープレートのない車が多いことに気付いた。ウェイさんに尋ねると、カンボジアでは右ハンドルの車はナンバーがとれない。そのため右ハンドルの日本車などはナンバーがもらえないのだと言う。しかし、シェリムアップの中なら無許可で乗れるのだそうだ。それで無許可の車が堂々と走っているのだ。無許可だから税金も払わなくてよいのだろう。優秀な日本車がナンバーをもらえないと言うのはいかがなものかと思った。

次に行ったのは、バンティアイスレイ寺東洋のモナリザというのが見られると言うので楽しみにしていた。行ってみると、かなり離れた建物の入り口の両側に二つの高さ50cmぐらいの浮き彫りの像があり、左側の像が東洋のモナリザなのだそうだ。遠くて肉眼でははっきりしない。小島さんの双眼鏡で見てみたが何となく微笑んでいるようであった。

他に3基の塔が建っており、中央はヒンズーのシバ神を表し他の塔もヒンズーの2神を表すのだそうだ。1937年に修復されたという。尼寺でもある。

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2010年3月 9日 (火)

ベトナム・カンボジア旅行⑫―アンコールワットへ―

F.アンコールワットへ

3時半に出発していよいよアンコールワットへ行く。朝と同じ場所にバスを止めて橋を渡ってワットに入る。アンコールワットは12世紀にスールヤヴァルマン2世によって建てられた。ヒンズー寺院であったがのちに仏教に改宗した。石造りの巨大な建物である。三重の回廊と5基の塔をもつ。取り分け高い塔が素晴らしい。

第一回廊にはヒンズーの「乳海攪拌」という浮き彫りの図がある。塔や周りには東西南北の直線の廊下があり周囲は回廊になっている。中には仏像などはない。多分盗難にあったのだろう。壁面に浮き彫りの叙事詩の彫刻があるだけである。部屋というほどのものはどこにもない。ウェイさんに尋ねたら僧侶は別の所に住んでいて通ったのだという。

第三回廊と呼ばれるところから60度の急峻な階段があり塔に登れるようになっている。登るのはまだよいが下りるのが大変で下を見ると目が眩む。鉄の手すりを伝っておっかなびっくりで下りた。下に残った小島さんはそれを逐一カメラに収めていた。

 この素晴らしい建造物はアンコールトムと共に建てられたのだが、それに費やした時間と費用と労力はいかばかりなものであったかと思った。建造を命じる王はよいとして労力を提供させられた貧しい人々は大変であったと思う。また、石組みを計算してデザインして作り上げた建築家は大したものである。アンコールトムの方は破壊がひどいがアンコールワットは幾多の戦争を潜り抜けて何とか残っているのは嬉しいことだ。カンボジア内戦の時にポルポト派はアンコールワットを盾として戦ったというだけによく残ったものだと思った。

 タイのアユタヤにあるワットプラシーサンもビルマ軍に破壊されたが日本の東大寺、比叡山などどこでも戦いは文化的建造物を破壊する。自然災害によって破壊されるのはやむを得ないが最近でもアフガニスタンのバーミヤン遺跡のように戦いによって人為的に破壊されるのは残念でならない。世界中から多くの観光客が訪れることができるのも平和だからで、平和こそ大事だと思う。

夕食は、レストランKOUREN。大きな屋根の半野外で舞台ではアプサラダンスが730から830まで行われた。バイキング式で食物の種類は一番多かった。カンボジア式お好み焼きとたこ焼きがお勧めだと言うことだが別に美味しいというほどではなかった。たまねぎのフライとサツマイモのフライが美味しかった。アンコールワットビール大瓶4$。アプサラダンスは金色の大冠をつけた女性がゆるやかに、しなやかに踊るもので、タイやバリ島などの踊りとよく似ている。東南アジアでは共通したところがあるようだ。

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2010年3月 8日 (月)

ベトナム・カンボジア旅行⑪―クルーズ―

E.クルーズ!?

入り江になった川に着くとクルーズの船に乗り換えた。船と言っても、座席はおんぼろで壊れかかっているし、エンジンはヤマハの中古で物凄い音を立てる。一応屋根はついていてカンボジア風屋形船だ。水洗トイレらしきものも備わってるが、ロータンクの蓋は取れていた。泥水の川を進む。

マングローブの林の前に、両側には水上生活者の船の家が並ぶ。大きいのから小さいのまで様々である。家は開けっ放しなので中の様子がよく見えた。ハンモックで昼寝をしている人や大勢集まって遊んでいるところもあった。

水上生活者は高床式よりも生活程度が高いように見受けられた。ウェイさんの説明では、水上生活者は3万人ほどいて、50%はベトナム人だという。電気はなく、発電機で電気を起こすかバッテリーで電気を得ている。テレビのある家も多い。水は陸から買ってきて料理などに使う。洗濯は川の水でする。

水深は6mぐらいで、乾季になると湖の水が三分のぐらいに減り陸地に変わるので直播で米を作るのだそうだ。普段は漁業で生活をしている。一番水が引くのは4月で、湖のはるか沖合いに目印の塔が立っており、そこまで水が引くのだと言う。移動には10日ぐらいかかるそうだ。川には物売りの舟も見かけた。また、店の船もあったし、学校やレストランやキリスト教会の舟もあった。学校は体育館を持っていたが、これは日本のODAで作られたものである。

湖は琵琶湖の6倍もあるとかで、はるかプノンペンから高速のボートが客を乗せて飛ぶように進んできた。最先端の船と化石の船が同居している。

帰りに船上の売店に立ち寄ってトイレを借りた。水洗トイレだが水は出ず、用便は川に直接流す。驚いたことにそのトイレの真下で若者が泳いで仕事をしていた。

船に戻ったら小船で子供が4人来て手を出して「1$」「1$」とせがんだ。長谷川さんにもらった飴を持っていたのでそれを上げた。カンボジアでもベトナムでもバスがとまると必ず子供や物売りが集まってくる。子供は殆どの場合、縦笛を2本で1$で買ってくれと言う。他に竹のおもちゃも売ろうとする。同行の岩田さんは気が優しいい人らしく、「可哀想なのでつい買ってしまう。」と言いながら、笛や玩具や腕輪などを買っていた。

このクルーズは水上生活者を見に行くだけで食事も土産も無く3500円は如何にも高かった。長谷川さんは「こんなの500円でいい。」と言っていた。11名乗せて船の取り分はいくらか知らないが生活レベルからすると仮に半分としても約二万円になるから、大変よい収入になる。それにしてもあと半分をガイドと旅行社で分けるのか?

クルーズもどきから帰ると一旦ホテルに戻って休憩をした。部屋を開けようとしたがキーが働かない。いくらやっても駄目だった。隣の部屋の暁さんがフロントへ電話したらと言ったので電話しようとしたがつながらない。そこへ従業員が通りかかったのでマスターキーであけてもらった。その後は何事も無かったようにキーが使えた。

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2010年3月 7日 (日)

中国はバブルなのか?!

 4日朝のテレビ東京経済ニュースを見ていたら、中国の広州では今求人難なのだと報じていた。どの会社も求人に必死で、給料を多くして何とか人を集めようとしているがなかなか厳しい状況だという。

 リーマンショック後の世界金融恐慌で中国もご他聞にもれず、打撃を受けて、都会に出稼ぎに来ていた労働者は大量に解雇された。それが今や求人難とは!不思議でならないのは、以前に雇っていた人をどうして雇わないのかということである。その人たちと連絡を取って再雇用をすれば生産工程にも慣れているしいいと思うのだがどうなっているのか分からない。

この点に関しては、昨日のNHKニュースによると、沿海部から遠い農村から来ていた人たちは、居住地の近くで働きたいという人が多いこと、それに政府が農村部振興策をとっているので、働くところができてきたことを挙げていた。沿海部から戻ってきて欲しいと求人に来た人が、「給料を何倍にしても嫌だと言われ困っている。」とぼやいていた。

 いずれにせよ中国の工場生産は再び活気を取り戻してきたようである。

 今日、歯科で待っている間に週刊朝日を見ていたら、中国はバブルで何時はじけるか分からないと書いてあった。何でもサミットで菅財務相が、そのことについて発言したら誰も異議をはさまなかったのだとか。

 中国では、金が余っていてそのために金が不動産に流れ、不動産バブルが起きているらしい。もし、中国のバブルがはじけたらドバイの1000倍もの大影響を世界に与えるという人もいるそうだ。もし、そんなことになったら大変である。日本などぶっ飛ばされてしまうであろう。

 はじけるのは上海万博が終わって暫くしてからだという。

 しかし、中国政府は日本のバブルから学習をしているし、体制から命令いっか規制をかけて回避できるという説もあるようだ。

 今開かれている全国人民代表大会では、内需拡大路線を強調している。内需拡大によって、成長率8%から9%を目指しているのだという。昨日のテレビでは、内需拡大のために農村部の消費拡大に努めているのだそうだ。そのためにスーパーをどんどん造っているらしい。農村の人たちも前よりは生活がよくなったと言っている場面が放映された。

 中国は近い将来にアメリカを抜いて世界経済を牽引するようになり、元が基軸通貨になるだろうという人もいる。

 バブルが突然はじけるのか、それとも順調に発展して世界のリーダーになるのか、誰にもわからない。

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2010年3月 6日 (土)

小さな庭にも春が来た

 この頃雨が降る日が多い。一昨日も一日中雨粒が落ちたりやんだりしていた。気温も20度を超える日があるかと思うと、一昨日のように10度を割った日もある。昔から三寒四温というが、その通りである。春が来たということであろう。

 朝、庭に出たら木瓜(ぼけ)に可愛い桃色の蕾が膨らんでいた。我が家の木瓜はもう何十年も庭にあるのに、手入れが間違っているのか木が成長せず、逆に小さくなってしまった。

 今年はもう駄目だろうと思っていたら、何と蕾をつけたのだ。感激をした。いとしく思った。近所に実に立派な木瓜の木のある家があり、毎年花を一杯つけているが、その花よりもいとおしく感じた。

 自然界はちゃんと季節を知っていて、時節が来ると花を咲かせたり、芽吹いたりする。ふと眼を転じたら、鉢植えの中にも小さな芽が出ていた。1度枯れてもう駄目かと思っていたブルーベリーも緑色づいてきて、もうすぐ芽をつけそうである。

 水仙だけは何故か葉のままで時期が来たのに花をつけない。大王グミは葉を落としてあまり時間が経ってないのに、新しい芽を一斉に吹いた。

 小さな小さな庭だが、春の息吹を感じることができ嬉しい。

 植物が時期が来ると芽を出したり花を咲かせたりするのは植物の中にある体内時計の働きによるものらしい。

 NHKのプロフェッショナルで体内時計の研究をしている若き研究者を取り上げていたが、体内時計は脳にあるのだと思っていたら体のあちらこちらにあるということであった。その元締めが脳にあるらしい。

 植物の場合は、脳がないのだから幹や茎などに点在しているのだろうか?興味深いことではある。

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2010年3月 5日 (金)

「進化しすぎた脳」から―脳の地図は変わる―

 電車の中で「進化しすぎた脳」(池谷裕二著、ブルーバックス)を読んでいたら、興味深い話があった。P.80の「脳の地図はダイナミックに進化する」という項に次のようなことが書いてあった。

 「生まれつき指が2本つながったままの人がたまにいるが、そういう人の脳を調べると5本目に対応する場所がない。それは、生まれてから指が5本の人には5本に対応する脳地図ができ、4本しかなかったら、4本に対応する神経しか形成されないのだ。

 脳の地図は、かなりの部分で後天的なものだ。脳の地図は脳が決めているのではなくて、体が決めているのだ。

 くっついた指を手術で切り離して、5本にすると、5本の指が使えるようになる。そして調べてみると、わずか1週間で5本目の指に対応する場所ができている。

 脳というのは、1回地図ができあがったら、それで固定されてしまうのではなく、入ってくる情報に応じて臨機応変にダイナミックに進化しうるのだ。

 例えば、交通事故で手を失ってしまった人の場合、失われた手に対応していた脳の部分はどんどん退化して行く。」

 体に対応して脳の中が変化するということだから、私たちが体を使うことによってそれに対応した脳の部分がどんどん広がっていくのだろう。運動選手などはそれぞれのスポーツによって使う身体の部分が異なるが、それぞれ脳の地図も違っていることになる。私のように、ウオーキングしかしない人間は、その他の運動能力は退化する一方である。

 野球のマスターズで、往年の名選手が出てくるが、張本氏のような打撃の神様でも今では形無しである。単に歳をとったからだけではなく、打撃の練習をしていないからであろうと思う。

 ピアニストは腕と指が、バイオリニストは腕と弦を押さえる指が対応する脳が発達しているに違いない。

 その他、運動の感性とか音楽の感性といったものも、練習や実践の中で鍛えられそれに対応した脳の地図が出来上がって行くのだと想像する。

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2010年3月 4日 (木)

第2回市民会館シニアコーラス交歓発表会

 3月3日、ひな祭りの日に、名古屋市金山にある中京大学プルニエホールで、第2回の市民会館シニアコーラス交歓発表会が開かれた。

 昨年が第1回で、シルバーコーラスとつけたネーミングが不評だったので、シニアコーラスに改称したのだそうだ。

 今年は19グループが参加し、昨年より3グループ増えた。それで13時半から始まったのに17時過ぎまでかかった。それでも一団体の出演時間は7から8分であった。中には図々しくもう少し長くやったグループもあったのだろう。それで時間が押したのだ。

 私たち昭和男爵コーラスは、4番目だったので、朝8時45分に現地集合であった。ヨーグルトとスナックと伊予柑だけ食べて出かけた。

 控え室は昨年と同じ9号室であった。

 9時半ごろに、舞台稽古が7分間あり、動きの位置取りを中心に動きの確認をした。プルニエホールの舞台は2度目なのに舞台裏など昨年のことはすっかり忘れていた。

 その後、すぐに隣の音楽プラザで練習をした。20分ぐらいであった。係りが時間を厳しくチェックしていた。

 10時20分ぐらいに終わってそれから12時半の集合まで2時間余りもあった。私はブランチを食べるのに丁度よいと思ってアスナルに出かけたが、どこも11時からであった。それで金山駅のレストラン街に行ったが、そこも11時からであった、暇つぶしをして嘉文に入った。選べるランチというのを食べた。刺身とカサゴの煮つけを選んだ。おいしかった。

 ゆっくりと戻ってもまだ12時前であった。控え室は暑くてみんなほてった顔をしていた。

 12時半から、隣のオーロラホールのホールで練習をした。練習をしているのは我々だけであった。

 13時50分に係りが呼びに来て舞台裏に入った。混声合唱ルーチェが歌っているのが聞こえた。なかなか上手であった。

 次が我々で、いよいよ本番が来たと思うと緊張をした。アナウンスがあり、Hさんを先頭に舞台に上がっていった。指揮者は、我々をリラックスさせようとニコニコしていた。ブラームスの子守歌から始まった。夢中で歌ったが、舞台の上では隣の人の声が余り聞こえないので、まるで独唱をしている気分でちょっと不安を感じた

 ヴォカリーズは壇を下りて横一列になり動作をつけて歌ったが、歌がおろそかになり難しかった。でも、2番に入ったら手拍子が起きたので嬉しかった。

 出船、遥かな友へを歌ってあっという間の7分間であった。

 自分たちの歌を聞くことができないので、歌いぶりがどうであったかはわからない。懸命に歌ったつもりだが緊張感はまぬがれなかった。ミスもおかした。しかし、大きな舞台に立って人前で歌う緊張感はまた別の意味でよいものである。私は今回で第九で2回、交歓発表会で2回、計4回の舞台経験をした。いずれも高齢になってからのことである。

 シニアコーラス交歓会には西三河銀の鈴合唱団のように100名もの団員のところもあった。また、東海市からは、大きな合唱団が二つも参加していた。東海市は文化度が高いのだろうと思った。

 終わってみれば、アッという間のことであったが、市民会館のスタッフの力添えによってスムーズに楽しく歌うことができて感謝している。

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2010年3月 3日 (水)

死後の世界はどうなるのか―五木寛之

 五木寛之と香山リカの対談「欝の力」(幻冬舎)を読んでいたら、P.298から面白いことを言っていた。「死後の世界はどうなるのか」ということについてである。

 五木は、「死後の世界」が大事だという。彼は浄土真宗だと思うのだが、浄土教では”浄土”へ行くと言っている。キリスト教では”天国”である。彼が講演の時に受けた質問を紹介している。

 「母は若くして亡くなったが、自分は今70歳を過ぎている。浄土に行ったら自分の娘のような母がいることになる。それでお前年取ったねと言われてしまうのではないか。」

 「黒人は黒いまま天国に行くのか。身体障害者はそのまま天国に行くのか。」

 「もう一つの問題は、歳を取ってから死ぬことが多いから、天国や浄土は老人ホームみたいなところだという説があることだ。また、死んだら成長が止まるのか。止まらないなら何千歳という人がいることになるので、老人の過密状態だ。」

 五木は、小学校などで児童、生徒が亡くなったときに、「○○君は天国に行きました。黙祷しましょう。」などと言っているが、”天国”はおかしいと指摘している。キリスト教の考えだからだ。

 いったいキリストでは天国をどのように描いているのだろう。浄土教では花が咲き乱れ鳥が歌い、よい香りがして仏様がいるところで永遠にそこで生きると描いているようだが、死んだときの姿、身体のままで生きるということなのか?その辺のことはわからない。

 五木によると、ブータン仏教では、輪廻転生であるようだ。だから昆虫や植物など何に生まれ変わるかわからないが生まれ変わるのだという。それで一切の殺生はしないのだそうだ。

 俳優の丹波哲郎はあの世のことをいつも言っていたが今はどこでどうしているのであろう?

 スピリチュアルの江原敬之は、テレビで死んだ赤ちゃんのメッセージを伝えると言ってしゃべっていて、途中で赤ちゃんが喋るのはまずいと思ったらしく、「霊界に行っても成長して話せるようになったのですよ。」と言っていたと、香山は紹介している。これだけでも霊界スピリチュアルというものがまやかしであることがわかるが、信奉する人が多いようだ。

 五木によると、親鸞は「死んだら川に流せ、魚の餌にしろ。」と言ったそうだ。とすれば、死後も同じ形で浄土に生きるとは信じていなかったことになる。

 つまり釈迦も含めて誰も生前に死後のことを知ることができなかったし、死後の世界を生き返って伝えることできないのだ。死んでみなければ、魂として生きるのか霊として生きるのか、現世の恨みつらみを抱えたまま生きるのか、そうではなくて極楽浄土で何の悩みもなく生きるのか、完全に消滅してしまうのか・・・・。誰にもわからないのである。

 五木は、「死んだら虚無だというのは、怖いよね。」と言っている。彼にしてそうなのかと思った。「死んだら阿弥陀様が迎えに来てくださって浄土にいけるのだと自己催眠をかけられる人はジタバタしなくてそれなりに幸せだと思う。」とも述べている。それはその通りで阿弥陀信仰は一つの安心パスポートなのだ。だから五木もひろさちやも信じるのであろう。

 しかし、私は死後の世界があり、そこで現世のままの姿で、もしくは霊となって恨みつらみ悲しみ苦しみを持ち続けて生きるという方がもっと怖い。何もなくなって完全消滅というのがさっぱりとして一番いいと思う。 

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2010年3月 2日 (火)

白内障の手術を受けるために

 2年ほど前から右目の白内障がひどくなり、本を読むときや文字を書くときに不便を感じるようになった。長い間手術を受けるかどうか迷っていたが、ついに受ける決心をした。かかりつけの眼科医は手術をしないので、有名な杉田眼科への紹介状を書いてもらった。

 杉田眼科は私が学生の頃既に有名であった。10時ごろに病院についた。驚いたことに病院の中は患者で溢れていた。戸惑っていると、女の係員が初診かと尋ねてきたので、紹介状を渡した。保険証なども渡したら、そこの椅子に座って待っているようにと言った。

 本を読みながら待っていると、時々名前が呼ばれていたが、私の名前が出てこないので不安になって聞きに行ったら受け付けていますと言った。紹介状があるので初診の記入は要らないということであった。

 暫くして名前を呼ばれた。係りと一緒に2階に上がり、そこで事前の問診を受けた。それから椅子に座って名前が呼ばれるのを待つように言われた。2階は視力、眼圧などの諸検査をする場所になっていた。そこも患者で溢れていた。

 やはり本を読みながら待っていると、11時過ぎ頃にやっと視力検査に呼ばれた。パソコンのモニターのようなものの奥に一箇所に切れ目がある検査の形が一つ現れその向きが変わるたびにどちらが切れているかを言うのだ。

 それが終わると、また暫く待って眼圧を調べた。

 次は、3階で医者の診察であった。3階に行くとそこも患者で溢れていた。診察室は8箇所あった。部屋の前に受付番号と待ち時間が表示される仕組みになっていた。

 30分ほど待って簡単な診察を受け、次にまた検査に回された。今度は眼底写真や瞳や目の大きさなど6項目ぐらいを器械を使って調べた。

 その後また診察室に行くと、13時20分以降に来るようにということであった。それで松坂屋に行って北海道展を見て回った。北海道展は大変な賑わいで人気の程がわかった。

 13時16分頃に戻ると、私の名が呼ばれた後であった。少し待って診察室に入った。どんな視力にしたいかなどを医者と話し合った。

 それが終わると、10分余り待ってから、手術についての説明を受けた。どのように手術するか、危険性などについて丁寧な説明があった。普通は10分ぐらいだが、最初の手術がうまくいかないと次の段階の手術があり時間がかかるということであった。

 中に入れるレンズも見せてくれたが、瞳ぐらいの小さなもので両側に引っ掛けるところがついていた。

 手術待ちの人が多いので早くて4ヶ月先か5ヶ月先とのことであった。手術は朝早くから一日やるのだそうだ。手術日の予約をして会計で金を払ったら、3時近くになっていた。

 聞くところによると、杉田眼科は全国から患者が来るという。だから混雑しているのだと思った。

 

 

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2010年3月 1日 (月)

女子パシュート銀メダル―おしい2/100秒差の惜敗―

 昨日朝、NHKニュースお早うニッポンをつけたら、女子パシュートでポーランドと対戦し決勝に進出したと伝えた。それで銀メダル以上が確定した。暫く見ていたら、もうすぐ3位決定戦と決勝戦が行われると言った。運よくライブで見られるのでそのまま見ていた。

 3位決定戦が先にあり、事前の予想をくつがえして、ポーランドがアメリカに勝ち3位を勝ち取った。

 いよいよ決勝戦だ。パシュートで勝って金メダルを取るといいなあと思いながら見た。それは日本中誰もの思いだあっただろう。

 相手のドイツは、世界ランキング4位で3位の日本の方が上なので期待が持てるが、連戦で疲れているのが気になった。

 スタートの並び方は、日本が走る順に一列、ドイツはばらばらであった。スタートして日本チームは徐々にドイツを引き離して行ったが、鐘がなった後のドイツの追い上げが素晴らしく、接戦となった。ゴールしたときは、3/100差で日本が逆転されていた。

 後の公式発表では、2/100に訂正されていた。日本チームは一生懸命に走ったのに僅差で負け、待望の金メダルを逃した。

 チームワークよく走った、穂積雅子選手、小平奈緒選手、田畑真紀選手には心から銀メダルおめでとうと言いたい。金メダルを取れなかったのは運としかいようがない。彼女らの健闘によって、パシュートという競技種目が注目された。これは大きな功績であると思う。

 冬のオリンピックと言えば、フィギュアスケートが大きく取り上げられ、注目されたが、それ以外の種目でもみな頑張っているのだ。

 これでバンクーバーオリンピックでの日本の金はなくなり、残念ながらアメリカの経済学者の予想がまたもや当たったことになる。

 次の写真は、折り紙が好きで大変上手な、知人のYOさんの作品。折るのが大変むつかしかったそうである。1枚の紙でこんなものも折れるのかと感心する。

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