出家とブッダと悟りについて
ブッダというと普通は釈迦のことを指すが、インドでは釈迦以前から出家をして苦行によって聖者になろう(悟りを開こう)とする人たちが存在した。
出家とは、家を捨て家族を捨て世俗の生活を捨てることである。だから例えば初期ジャイナ教では衣さえ捨てて全裸で生活をした。それほどではなくても、毛皮、木の葉、ぼろ布などの衣をつけていた。(ちなみに釈迦像の耳たぶに穴があるのは出家以前にイヤリングをつけていた穴だそうだ。)
食も乞食をするか、野生の草、木の実、木の根などをとってそのまま食べた。寝るときは岩の穴とか大きな木の陰などで寝たようだ。
現代の我々から見れば、想像を絶する、動物のような生活をして悟りを開こうとしたのだ。
以下、「仏教誕生」をもとに概略を書く。
「この時代に解脱した者(覚者)はブッダとか阿羅漢と呼ばれて数多く存在した。彼らは沙門という非バラモン系の出家で、紀元前6世紀以降ガンジス川中流域に現れたという。保守的バラモンの文化圏は、ガンジス、ヤムナー両河にはさまれた両河地方で不安定な小麦などを生産する部族連合国家であった。
それに対してガンジス川中流域は肥沃で安定した米などの穀物の豊かな収穫があり、交易が盛んで商業や手工業が興り、次々と都市が発生した。こうした富をバックに強大な国家ができた。才覚とチャンスがあれば誰でも富や権力を手に入れることができる、いうなればインディアンドリームの地となったが、保守的バラモンはそした中流域を忌み嫌った。
こうした社会的状況を背景として、ヴェーダの宗教からはずれた、沙門という主受けの思想家が次々と現れて、数多の教団が生まれたという。そうした風潮からバラモンの中にも後のヒンドゥー教につながる「沙門バラモン」が出現した。
この地域が無為徒食の大量の出家を養っていけるだけの経済力をもっていたからこそであった。」
生活に困ってではなく、わざわざ出家をして聖者への苦行の道を選んだのだ。そして心の解脱を得てブッダとなろうとした。それにしても、難行苦行をしてでも解脱をしたいという心境は理解しがたいものである。古代のインドにそういう人たちが輩出したことはインドという場所と民族の特異さなのかもしれない。
釈迦は、出家ではなく、「家出」だと言うのは山折哲雄氏である。当初は家出をしたと解釈している。それも一理があるかもしれないが、結局は修行の道に進んででいる。
「釈迦は、最初は「禅定」(瞑想)によって、解脱を求めようとした。当時の修行法は、禅定と苦行の二つであった。しかし、苦行の方が一般的であったようだ。
釈迦は、禅定によって解脱をしたアーラーラ・カーラーマの元に行った。それは「この世はおよそ存在するものはない。空空漠々だということを瞑想体験によって知るということであった。しかし、それが解脱につながるとは思えないのでそこを辞した。
次いで、クッダガ・ラーマブッダのところに行き、「非想非非想処定」(それがあるがままに受け入れる)を教えられた。
これらの教えは禅定の最高境地である「三昧」(心が全く不動になった状態)を解脱としたようだ。それで釈迦は、彼らには次なるものとしての「智慧」の獲得が欠如していると見た。老、病、苦という心を苦しめるものを滅ぼすものとして、当時行われていた「苦行」を選び、「苦行林」に入って激しい苦行をしたのである。非常に激しい行としての、止息と断食をした。その結果釈迦は骨と皮の状態となった。そして、どんな苦行にも耐える心を持つまでになった。
しかし、それでも苦しみを起こす心をなくし、平安な心を得るということにはならないことに気付いた。苦行では智慧の獲得はできないと気付いたのである。
そこで青年時代に体験した禅定(瞑想)によることこそ解脱にいたる正しい道、智慧を得る最善の道であると確信したのだ。
苦行林を出た釈迦は、禅定を達成するために体力の回復に力を注いだ。そして、ネーランジャラー河のほとりのアシュヴァッタの大樹の下に座して禅定に入った。そこでゆるぎなき智慧を獲得し、ブッダとなった。ブッダとは「目覚めた人」のことで、「覚者」「仏」「仏陀」という。
後にこの地をブッダガヤといい、大樹を菩提(目覚め)樹と呼ぶようになった。
ブッダはたくさんいたが、釈迦以後仏教が隆盛となると、ブッダは尊敬をこめて釈迦のことを指すようになった。」
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