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2009年10月 7日 (水)

悟りと心の平安―私の仏教観⑧―

 釈迦は、究極の心の開放としての涅槃の境地に達する道を説いた。涅槃は悟りとも言われ、悟った人は仏とも称せられる。

 では、どんな人がその境地に達せるのか?

 釈迦は、仏教の真理を知り、それを正しく(八正道)行えば悟りを開くことができると言った。小乗仏教では、釈迦が言ったように出家をして修業を積むことにより可能であると考える。

 それでは在家の一般人は悟りを得て平安な心で生きることはできないのであろうかという疑問が湧く。それに対して大乗仏教の考え方が現れ、誰でも可能であるとした。そのための道筋は宗派によって異なる。

 釈迦の時代と違って、現代はさまざまな誘惑に取り囲まれており、またいたるところにストレスが待ち受けていて襲い掛かって来る。そうした状況の中で悟りを開くことは至難である。修行をするに当たっていろいろな荒行をする人もいたし、今もいるが、現代という世の中はまさに修行の場であると思う。

 金が欲しい、いい大学に入りたい、いい会社に入りたい、いい家に住みたい、いい伴侶に恵まれたい、出世したい、おいしいものを食べたい・・・・・・。こうしたさまざまな欲望を払って心の平安を得るのは容易ではない。しかし、釈迦が説いたように欲望への執着を離れてみることにより心の安らぎが得られるのではないかと思う。

 心の働きは脳の働きである。先日の茂木健一郎がキャスターを務めた奇跡の脳のTV番組で彼がそう言ったが、私も同じ考えである。脳の働きだからf-MRIとか光ポトグラフィで観測が可能になった。

 例えば、私が初めの頃のblogで紹介した「脳にいいことだけをやりなさい(茂木健一郎訳)などもその一例である。

 その中で紹介され結論されていることから考えてみると、釈迦が説いたことは脳科学の面から見てもよいことだということがわかる。

 私たちは凡人だだから心の平安を得ればよいのだ。それには釈迦の教えを学び生きる上での助けとすることもよいのではないかと思うのだ。

 ひろさちやなどは悟りを得る(仏になる)のは無限大の過程だと言っているから肩肘はらずに、それこそ「ポケットに仏様を入れて」でよいのではないかと思う。

 

 釈迦如来像

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宗教」カテゴリの記事

コメント

 教員の間にうつ病が急増していますが、役所勤めでも会社勤めでも増えているようですね。うつ病は脳の中のある部分(忘れました)が冒されることがわかってきたそうです。それに環境の影響があるのでしょうね。
 人間の欲望について、ひろさちやはうまい説明をしています。自然的欲望と奴隷的欲望に分けています。喉が渇いたとき水を飲むと渇きが収まります。腹が空いたときご飯を食べると満腹します。そのようなのを自然的欲望と言っています。それに対して金が欲しいとかいい暮らしがしたいとか言うのは際限なく欲望が膨らみます。やりたいことをやりあらゆる欲望を満たしてもまだ満たしきれないと言うのがそれで、奴隷的欲望と比喩しています。
 自然的欲望のところでとめておかなければいけないのですね。

今朝中日新聞の記事の中に役所勤務の人達に心の病が増えている・・・と言う記事を読んでました時に、ふっと私の妹の長男が春頃から夏にかけて2回目のうつ病を発症して困っていると言うのでいろいろと参考になる本を薦めたりテレビでうつ病の番組をやっていると電話して教え、どうしている?と時々メールしたりしていたら9月になって勤務に戻ったとのメールを妹から受けほっとしたのですが、やはり今日の悟りと心の平安のようにありとあらゆる欲望を満たした甥の生活の中にも心の平安が無かったようです。会話ののない携帯電話とパソコンという現代社会には無くてはならない心が休まらない物を前にしてたくさんの人達が心の病とも闘っていかねばならない時代なんだ!と老婆心ながら宗教心も大事な心の薬として必要だとおもいます。

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