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2009年10月 2日 (金)

祈りとお賽銭とご利益―私の仏教観③―

 神社に行ってお参りするとき、お賽銭を箱に入れ、太いロープの垂れ下がった鈴を鳴らして、二礼二拍手一礼をしてお祈りをする。

 どこで読んだのか忘れたが、お賽銭箱に入れるときコインを投げると音がするが、それは神様に、「確かに入れましたよ」と知ってもらうためだそうだ。鈴を鳴らすのは、神様に「参拝に来ましたよ」と伝えて神様にお出ましを願うことで、拍手はやはり音で神様に伝えるのだということであった。大変面白い話だと思った。

 日本の神様はおおらかで明るくてあからさまだ。お金を堂々と要求し、それによって願い事をかなえてあげると言うのだから。

 神様が願い事を適えてくれるかどうかは定かではないし、金額の多寡によって差があるのかどうかも定かではない。それでも人はご利益を求めてお賽銭を上げてお祈りをする。

 人間は欲望の塊だから金のある人はお賽銭にコインではなくお札を使う。正月の初詣は神社のかきいれどきである。 もっと金がある人や身分の高い人は、昇殿が許されて記帳をしお祓いを受ける。神社では、確実に差別を取り入れているのだ。

  お願い事をするときは、「○○高校に入れますように。」とか「株で儲かりますように。」とか「ガンが治りますように。」などと具体的に祈る。そして少し安心感を得るのだ。

 ひろさちやはそのような祈り方を「請求書の祈り」と呼んで否定している。私も同じ考えである。

 もし神様が存在するとして、神は全ての人々に平等に対処されるはずだから、お賽銭の多寡や身分によって差別をするはずが無いと思っている。それなのに参拝し祈る人は、自分だけがよいように、自分の願い事をきいてもらえるようにという下心で祈るのだ。

 一番ひどかったのは、戦前である。天皇を現人神に仕立てて「国家神道」とし、神風特攻隊を作ったり、全国の神様を総動員したりして国民を戦争に駆り立てた。兵隊の命を鴻毛よりも軽しといい、他国や民族をさげずんで戦ったのだ。戦争に負けたのは当然である。神様なんてまやかしであることが証明されたのだ 

 その事実を敗戦によってはっきりと突きつけられ日本人はそこから学んだのかというと、多くの日本人は何も学ばなかったのだ。だから靖国の亡霊がいまだに闊歩しているのだ。

 溺れる者は藁をもつかむといい、鰯の頭も信心からというから、何を信じようと自由である。ただ靖国のようにそのことで他国や反対する人々まで巻き込んでもらっては困るのだ。

 ところで、神様には神という偶像が存在するが、仏には偶像は存在しないことはこれまでに述べたとおりである。私は、心のもちようの問題で一切の偶像は否定する。だから長野善光寺のように、寺院にお賽銭箱が置いてあったり、振鈴があったりするのはおかしいと思うし、ご本尊と称する仏像が置かれているのもおかしいと思う。

 仏様と呼び偶像化するから仏が神と同じ物になってしまっているのだ。徳川幕府の政策で神仏習合が行われたので、神も仏もいっしょくたである。

 寺院は堂々と金を集め、ご利益があると言って善男善女を平気で騙している。私に言わせれば釈迦の教えに背くもので恥ずべきことである。

 いわんや葬式に100万円~数百万円を要求したり、法事に何万円も要求する仏教は本当の仏教ではない。

 釈迦は、全ての物欲を捨てることを教えられたのだ。

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コメント

ご祈祷をしたり、訳のわからないお経を読んだりして金儲けをするやり方は、ひろさちやもインチキだと言っています。
 ひろさちやの本はわかりやすいです。

賽銭箱や仏像等は偶像崇拝のシンボルと思いますが、やはりお金では買えない命と言いながら交通事故やトラブル等ではお金で解決したり、お金で少しでも気持ちが治まるならば・・・と言うのも
生活してゆく限り仕方が無いのではと諦めている自分に気がつきます。昨日図書館でひろさちやのお念仏とは何かという本を借りてきました。
読みましたら感想を書きます。

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