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2009年10月10日 (土)

民衆教化と念仏について―私の仏教観⑪―

 古代から、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代・・・といつの世も、人間は不安や苦にさいなまれていたと思う。それは天皇や貴族や豪族のような富貴の人だけではなく、一般の民衆も同じであった筈だ。

 天皇や貴族や豪族などは高僧や僧侶の教えを受けて仏に救いを求めることが出来た。古くは聖徳太子が仏教に帰依したことで有名であるが、華厳宗、律宗など奈良時代の仏教も、平安時代の天台宗、真言宗などの仏教も富貴の人たちの支持を集めた。天皇は譲位をすると院を名乗ったがこれも仏教と関係があると思われる。いつの頃からか連れ合いを亡くした女性は等しく尼となった。

 彼らの中で財力がある者は、土地を寄進し大きな仏閣を建立した。また疫病や不都合があると僧に祈祷を頼んだ。そしてひたすらに無事な生活を願ったのだ。

 では一般の民衆はどうであったのか。彼らとて悩みや苦しみは同じように持っていた。というよりも地主や貴族や武士などから四公六民とも六公四民ともいわれる厳しい年貢などの公課を課せられて貧しい生活に喘いでいた。おそらく毎日が苦に満ちた悲惨な生活であったに違いない。

 そうした民衆は学問もなく仏の教えを知るすべもなかっただろうと思われる。その民衆を救うべく立ち上がった僧が現れたのだ。それが空也であり、一遍であり、法然であり親鸞であったと思う。

 彼らは民衆の中に飛び込み、民衆を教化した。文字も知らないであろう大衆に仏の救いを教えるに当たって、「南無阿弥陀仏」の6文字の称名を教えたのだと思う。

 もともとは阿弥陀経にもとずく教理であるが、そんな難しいことを言っても始まらない。それで、誰にでもわかるように極楽という素敵な浄土があって、そこには阿弥陀如来がおられて全ての人を救おうとしておられる。阿弥陀様に救ってもらうには、ひたすら念仏を唱えておすがりをすればよいと教えたのだと思う。

 これは単純明快な方法である。とにかく信じることなのだ。信じることによって救われるのだ。救われるとは、現世の苦しみを和らげ極楽浄土に往生できることを楽しみにして生を全うできるのだ。

 釈迦の教えは大変難しく、苦しみから救われる(悟りを開く)のはちょっとやそっとのことではできないし、第一学問が必要である。出家をして修業をしてそれで得られるかどうかということである。そんなことを毎日の農作業で精一杯の人たちには無理である。

 しかし、苦を逃れ、心の安らぎを得たいと思うのは当然である。その民衆を救うよすがとしての念仏は非常に適切であったと思う。

 「南無阿弥陀仏」と朝な夕なに唱え、いつか阿弥陀の浄土に往生して苦のない生活を送ることを楽しみにして生きるのだ。

 今でも「南無阿弥陀仏」を称名してお寺に参る善男善女は多い。おそらく難しいことは知らなくても単純に信じているのではないかと思う。ひろさちやはとにかく信じることだと言っている。

 私は、これまでに書いてきたように極楽浄土は信じないし、大乗仏教からはけなされようと原始仏教の釈迦の教えがよいと思っている。

 でも、釈迦も述べたように、救い(涅槃、悟り、心の平安・・・)の山に登る道はひとつではないのだから、どの道を選ぼうと個人の自由である。修行の道、哲学の道、禅の道、念仏の道・・・・。ただ、大事なのは、欲得を離れ、他を貶めず、騙さず、怒らず、妬まず、争わず、慈悲の心で、縁によって受けた生を楽しみ死を待つことだと思う。

※化野念仏寺

 

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コメント

その通りだと私も理解しております。民衆を救うために阿弥陀仏を信じて頼りなさいというのは、非常に明快な教えであると思います。
 それはそれで私はその原点に立ち戻って欲しいと思っています。
 宗教者は一切の報酬を求めるべきではない、ボランティアであるべきだと私は思います。

難しい仏教の教えをわかり易くして広げられたのが空也・一遍・法然・親鸞聖人との事は良くお話を聴きに行きますと出ます。一文不知の尼入道にも良くわかる念仏だよ・・・と母がよく申しておりました。南無はお任せします。という言葉で阿弥陀仏にすべてをお任せします。薬師如来にすべてをお任せします。と言うことを先日図書館で借りてきましたひろさちやの本の中で再度確認しました。

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