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2009年10月 1日 (木)

釈迦は神を造らなかった―私の仏教観②―

 仏教寺院には、仏像が安置され崇拝の対象となっている。日本の寺院の中には神仏混淆のところがあり、神様も祀られている。

 だから仏教と言えば何か偶像を信仰するものと誰でも思っている。子どものときから疑うこともなくそう信じている。

 日本人は、お寺に行ってお賽銭を上げそこに安置されている仏像に手を合わせて祈る。また、神社に行けば、振鈴を揺さぶって到来を告知し、お賽銭を上げてその神社の神(そのご神体がどんな姿または形をしているか誰も知らない)に祈る。

 イスラム教では偶像崇拝を禁止している。ただ祈りの建物があるだけだ。

 釈迦が誕生したインドはヒンズー教がありさまざまな姿をした神があった。しかし、釈迦は、神もしくはそれに類するもの(造物主など)を造らなかった。

 したがって、仏像を造ってそれを礼拝の対象にするということもなかったのだ。これは後世の仏教指導者(多分最初はインドで)が創造したものである。それどころか釈迦は自分を供養の対象にすることも求めなかった。死ぬ間際に釈迦が説いたのは、「自灯明・法灯明(わたしの死後は、自分自身を灯明とし法をよりどころとせよ)」(ひろさちやによる)であり、「人能く法を受け、能く法を行ずれば、これすなわち名づけて如来を供養すという」(長阿含経)だという。

 東大寺の大仏、タイには大きな金の寝釈迦像、敦煌の石窟にも巨大な釈迦の石像がある。これらも釈迦が入滅してから遥か後に造られたものである。

 釈迦が説いたのは、涅槃ー心の平安ーであり、どうしたらその境地に至れるのかであったから、神や仏を造らなかったのは当然のことでもある。

 釈迦以前からインドでは、修行をして仏になるということが行われていたという。釈迦自身も全ての人間は仏になれると言っている。「大般涅槃経」には、「一切衆生、悉有仏性」と書かれている(仏教入門p.18)という。覚者、知者となれば仏陀となれるのだが古来稀であった。人間には煩悩が多くて悟りを開けないからである。※ひろさちや著の「50歳からの仏教入門」によると、「一切衆生、悉有仏性」は大乗仏教の真髄であるという。

 大事なことは神や仏という偶像崇拝に頼ることなく、自分自身の心の持ちようを正して仏になることなのである。

 釈迦が偶像崇拝を排したことは賢明であったと思う。いや、本当の仏陀になったからそれが出来たのだ。

 私は、釈迦の教えの根本に立ち戻って、まず、このことを考えてみることが大切であると思っている。

 ミャンマー最古の釈迦像

 

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