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2009年10月 9日 (金)

仏教は釈迦の原点に帰るべき―私の仏教観⑩―

 これまで9回にわたって私の仏教観を述べてきた。私が思うことは、仏教は釈迦の原点に帰るべきだということである。

 イスラム原理主義とかキリスト原理主義とか言われ、原理主義は何か悪いことのようにとられる場合もある。イスラム原理主義はシーア派のように反アメリカだし、キリスト教原理主義はブッシュ政権支持の中枢であったからだ。

 私が理解する限り、釈迦の説いた仏教は、この世についての見方、悟りへの道筋、人間の生き方を示したものである。その人間観は貴賎・貧富・賢愚・障害などに関係なく人はみな平等であるとする。また、争いをなくし平和を希求するもので平和主義である。

 釈迦の教えに従えば、他国を侵略したり、罪無き人を殺したり、他の人の物を盗んだり、人を騙したり、自分だけの利益を考えて行動したり・・・・することはない筈だ。だから、アフガンやイラクの悲劇も起こらないし、北朝鮮による拉致も起きないし、偽装問題も起きないし、何よりもウオール街の貪欲が引き起こした世界金融恐慌も起きなかった。

 釈迦の教えに従えば、他の人に温かい心をもって接するであろうし、他を押しのけて自分が前に出ようとする競争主義に陥ることもない。だから、ひろさちや流に言えば、金銭や出世や会社の奴隷になるとも無いのだ。

 このストレスの多い現代において、うつ病などの心の病を患ったり、自殺をしたりすることも無いかもしれない。また、生活習慣病などにかかることもないであろう。

 悟りを開き仏になった僧侶(寺院)は金儲け主義に走り、葬式仏教になることは決してない筈だ。僧は人々の心を救う先頭に立って人々の尊敬を集めるであろう。

 仏教の各宗派は、釈迦の原点を物差しとして自らの宗派のありようを見直すべきである。

 良寛とまではいかないにしても、欲望を解脱して慈悲の心をもち、心の平安を説いてもらいたいものだ。

  

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宗教」カテゴリの記事

コメント

 Ninjaさんのお父上のような生き方は尊敬に値します。本当の宗教者の中に入るでしょう。
 私自身は、無神論なので神は否定します。
 ひろさちやは、タイやミャンマーなどの小乗仏教は出家して自分が悟りを開くので個人主義だと批判しています。それに対し大乗仏教は、宇宙そのものを仏として、それを信じることにより誰もが救われると言っています。
 私が言いたいのは、堕落した仏教者の姿です。タイはどうだか知りませんが、日本の仏教はみておられません。

 ららさんの仏教観を読みながら、父の日記を復刻しています。
 私の父は自ら基督教の伝道者としての生涯を送りました。おっしゃっていた高僧とは全く対照的に世俗を捨て、地位を捨て、名誉を捨て、財産を捨て、清貧な生活、ギリギリで生きる生活でした。
 神、キリストが崇められるために、そのために生きるという活き方でした。
 父の思想は、人間は神のためにある、人間は神の奴隷である。原始基督教にかえり、世の一切のものを犠牲にして、聖い義しい生活をすべきである、という思想です。それを貫いた事は、尊敬すべき事です。が、
 クリスチャンの弟は、個人としてそういう活き方もあってもいい、だけど社会常識に欠落するものはいただけないと批判しています。
 そんな家庭に育った私がクリスチャンにならなかった理由は「人間は神のためにある」という点でした。
 私は無宗教。神も仏も信じていないし、よりどころにしていません。 
 神は人間のためにあるのか、人間は神のためにあるのか、基督教はそのどちらなのか、両方なのか。仏教はどうなのか。等々、宗教についてきいてみたいことはいっぱいあります。
 ららさんの記事を読み返して、またかんがえてみたいと思います。

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