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2009年10月 8日 (木)

葬式仏教・お経・戒名―私の仏教観⑨―

 日本の仏教が葬式仏教になっていることは誰の眼にも明らかなことである。お通夜、葬儀、初七日、それから毎週法事があり、四十九日の忌明けまで続く。その後も一年忌、3年忌、7年忌と法事がある。その他に彼岸、盆、命日などがある。

 通夜と法事は大体30分、墓経や盆の訪問経は4分程度の読経である。

 このお経が漢語で書かれたものをお経独特の抑揚をつけて読まれるのだ。聴いている者には何のことやらチンプンカンプンである。ただひたすらに有難がって聴くのである。

 「経」とは縦糸のことだという。釈迦の言葉を集めたと言われる経には、覚えやすいように作られた詩偈と「如是我聞」に始まる形式がある。その後経典はいろいろと修正されたり追加されたりして大部のものになった。

 葬儀で読まれる経は宗派により異なるが、大抵は漢語のものが多くて、中には日本語のもの(例えば、曹洞宗では、修証義)が読まれても文語で極めて難解である。

 お経をよく分かる日本語にしたらどうかという意見に対し、有り難味がなくなるからという反対が仏教界に多いと聞く。

 釈迦は、葬式をやれともましてお経を読めとは言っていないはずだ。経の内容は仏教における真理や生き方を教えるものである。それが大昔から祈祷にも使われるようになり、厄払いや平安無事を祈るものともなった。

 経のそのような使い方はおかしいと私は思う。

 そして今や経を読むことは坊主の特権となり、30分の法事なら6万円以上、葬儀なら50万円以上が相場と言われるようになった。チンプンカンプンの経を読むだけでとてつもない金額の実入りがあるのだ。寺や坊主の収入源は経を読むことによるが、それに対して宗教法人としての特権が加わって税金が課せられないのだ。坊主丸儲けとはこのことである。

 私の知人にお経のテープを買ってきて法事を済ませている人がいるがそれでよいと思う。何も高い読経料を払って坊主に頼むことはない。

 もうひとつおかしいと思うことがある。それは戒名である。仏教で葬儀をすると必ず檀那寺から戒名を貰うことになっている。宗派によって違いはあるにせよ、身分の高い人や金のある人には院号がつき、それから最下位の信士、信女まで何段階かの位がある。戒名は現代では金額によって決まる。最低の信士でも40万円が相場といわれる。死んでも貧乏人は戒名すらもらえないのだ。

 戒名というのは、何時頃誰が作ったのかは知らないが、戒律を教えられることにより、与えられる名である。本来は生きているうちに悟りを開いて戒律を授かる授戒を行って貰うのである。いわば仏弟子となった証明書である。

 生きているときに、本人の自覚のもとで戒名を受けるのはいいが、死後本人も知りようが無い名前を貰っても意味がないのである。

 戒名も所詮は寺の金儲けの手段なのだ。

 戒名はなくてもいいのだから生前に拒否をしておく手もある。

 戒名が金と結びついている現状についても釈迦が知ったら驚き悲しむことであろう。そういう釈迦の教えに背く現代仏教は仏教とは言えないのである。

 葬式仏教のまやかしが知られてきたからかどうか、最近では宗教に依らない葬式をする人が増えているという。また、遺骨・遺灰についても散骨をする人が多くなった。チベットでは鳥葬といって鳥に遺体を食べさせているが、自然の摂理にかなっている。中国でも散骨をする人が多いようだ。それでいいのだと思う。

 墓石にも戒名がなく、自由な発想のものが増えてきたとTVで放送していたのを見たことがある。墓石ではなく樹木葬というのもある。ゴビ砂漠で砂漠に土盛りをしただけの墓を見た。そのとき感動をしたのを覚えている。砂漠の墓は風移動した砂で埋まってしまうであろう。自然に還るのである。

 

 

 洋型墓石 寿陵型

 

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宗教」カテゴリの記事

コメント

 朝日新聞でも誰かが書いていましたが、お経は現代語に訳すべきです。ひろさちや辺りに訳してもらうとよいかもしれません。

最近では、有名人でも内輪でお別れの会をする程度の人が増えているようです。墓碑異名も戒名でなく好きな言葉とか名前とかがいいですね。

 以前友だちに誘われ教会に行ったことがある。
 教会では、聖書をも基に牧師さんがいろいろな話をされる。聖書は日本語で書いてあるので、読んでわからないことや疑問に思ったことを質問することができる。
 しかしこのように一般大衆が聖書を読めるようになったのは、宗教改革以降である。それまでは聖書はラテン語で書いてあったので、一般大衆は聖書が理解できなかった。
 ルターが聖書をドイツ語に訳して、ようやく聖書が広く大衆にも理解されるようになったのである。
 お経を聖書のように大衆が読めるようになったら、それについて質問したりしてもっと理解を深めることが出来るだろう。

法然院に谷崎潤一郎夫妻の墓が有りますが、寂の一字がきざんであります。法名など彫られていなかったと思います。法名は有るようですが。
法然院には文化人の墓が沢山ありますが、生前の名前が彫られているのが多いような気がします。
この頃密葬で済まし、後、偲ぶ会を生前親しかった方が寄ってするのも多いようです。
命日も親族が集まってお墓に参り会食しておわる場合もあるそうです。
近所の人が「私達の教会は信者が集まってお葬式をしてくれる」と言っていたのを思い出して尋ねてみると「それは幹部だけだそうで、私も葬式のこと考えて見ないとと考えていたところです」といっていました。寺と檀家が一帯になって家族のような付き合いの時代はそれなりに意義が合ったのですが、今の様なら寺離れするのも当然かも知れません。

 自分の存在を主張することを自己表現と言いますね。blogもその手段のひとつです。人はそれぞれ持って生まれた才能(脳の働き)があり、違っています。ですから、自分に与えられた才能によって自己表現をするわけです。
 それについて、世間では、優劣をつけて評価しますが、仏教ではそれはしませんね。その点ではひろさちやと同じ考えです。

昨夜台風が東海地方にちかずいてくるとテレビで見ていて、台風のような天災も神代の昔から発生して繰り返して現代にまで途切れることなく繰り返されています。人の死もどんな立派な人でも貧しい人でもやってくる事実です。生きた証を画として残す人あり歌として残す人あり・・・そのような願いを上手く利用する職業もあるのは仕方の無いことだと思います。本にして自分の生き様を残したい人も多々あります。この世に生まれて生きたのは大河の一滴だと思うのも自由だと思います。この世に生きたと言う証拠の欲しい人は色々な形で残そうとするのでしょうね。

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