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2009年9月28日 (月)

ひろさちやの「狂い」のすすめとポケットに仏さまを読んで

 書名が面白そうなのでひろさちやの著作を図書館で借りて読んだ。初めに「『狂い』のすすめ」を借りて読み、次いで「ポケットに仏さまを」を借りた。

 この2冊は、大体内容は同じである。同じ材料を使って見た目や味付けを変えた料理のようなものである。元になっているのは、仏教思想でそれにキリスト教や他の宗教をちょっスパイスとして入れてある感じだ。

 釈迦の教えをやさしく説いたものだと思えばいいのかもしれない。

 ひろさちやの書物の特徴は、やさしい文章である。前にも書いたが、文章をやさしく誰にでも分かりやすく読みやすく書くことが出来る人は素晴らしいと思う。

 ひろさちやもその1人に挙げることができよう。

 ところで、彼の幾つかの論点の中から「努力をするな」を取り上げたい。日本人は「努力」というコトバが大好きで、小さい頃から耳にタコが出来るくらいに教えられたきたに違いないと言う。その通りである。

 日本人は、「頑張れ。」「倒れるまで頑張れ。」「頑張れば誰にでも出来る。」などと言う。

 私も、仕事柄教え子たちに頑張ることを教えてきた。頑張る=努力する→よい結果が得られる。今売れっ子の茂木健一郎も勝間和代も努力することの大切さを説く。

 それに対し、ひろさちやは「努力なんていらない。仏もそう言っている。」というのだ。世間がどう言おうと気にするな、頑張る必要は無いと言う。

 これを読んでいて、ふと竹中平蔵のことを思い出した。彼は、小泉内閣の大臣になった頃、その著書(幻冬舎刊)の中で、「努力したものが報われるのは当然だ。」と言っていた。あのアメリカのウオール街の貪欲な連中と同じことを言ったのだ。「非正規社員やフリーターやアルバイターなどは努力が足りないからそうなってので自己責任である。」と言った。

 あの頃口を開けば、みんな「自己責任」と言っていた。そこでいう努力とは、頑張るとは、会社のために尽くし業績をあげるとか、高級公務員や研究者として業績をあげるとかいうことであって、一般の人がいくら頑張っても、努力をしても、それは努力や頑張りとは評価されないのであった。

 石川啄木の「働けど働けどなお我が暮らし楽にならざりじっと手を見る」に詠まれた働くことは頑張りとは評価されないのだ。

 ひろさちやは、努力は人それぞれにより異なるから世間で一律の物差しを使って測るべきではないと言っている。

 最近、香山リカの「しがみつかない生き方」という本が売れているようだ。本屋で立ち読みをしたら、どうやらひろさちやのような論点で書いているらしいことが分かった。キャッチフレーズは、「勝間和代になるな」であるが、自分らしく自分を大切にして生きなさいと言っているのだと思った。ひろさちやがいう世間の物差しで計らない生き方である。

 ひろにしろ香山にしろ、世間的な、大臣が偉いとか社長が偉いとか高級官僚が偉いとか、逆にフリーターや派遣社員などはダメ人間だとかいうような考えを持つなと言っているのだ。

 自民党・公明党内閣のときに、指導要領が改訂され、1~2割程度の指導的エリートとその他の労働層に分ける教育に変わった。8割以上の人間はどうでもよいとされたのだ。派遣社員などは人件費ではなく、資材などと同じ物として処理されていることからも明白である。

 努力や頑張りが認められるのは一部のエリートだけということの間違いに気がつき騙されないようにすることが大事である。

 「狂い」のすすめ(集英社)

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コメント

長いコメントを有難うございます。
おっしゃる通り必要になり興味を持てば勝手に努力をするものですし、それはいわゆる努力とは違うと思います。自然体でいいのですよね。環境をつくってやればいいというのはまったくその通りです。
それから、釈迦の教えは平等思想です。現存の仏教は釈迦の教えから外れてしまってますね。

 わたしも「努力しない」は賛成です。自分の子どもたちをみていて、「チョット努力すればもっと良くなるのに」と思うのですが、思うだけで、それを口に出すのは控えています。
 10年ほど前に、物事の出来る、出来ないは「努力ではない」ということを ヒッポの会からまなびました。ヒッポの会というのは、多国語を話そうという会です。たまたま誘われて参加しました。そこで「赤ちゃんは言葉の勉強をしない」ということを学びました。
 私は自然体が好きで、「自分の置かれた環境の中から自然に学んだものが自分の力となる」と考えています。
 お父さんが日本語を教えないから、子供たちが日本語ができない、と、いつも妻からなじられますが、日本語のない環境の中で日本語を覚えろというのが無理だと思っています。
 「好きこそものの上手なれ」といいますが、興味をもって取り組んだ事には精通し、熟達します。努力の必要は全くありません。熱心に取り組める環境を作ることが先ず必要です。
 就職試験に合格させないで、「働かない、働く気がない、努力しない」というのは大間違い。まず、同じ条件が設定されてから「努力」が云々されねばなりません。
 私は仏教は知りませんが、「仏様の」とおっしゃっていることは、平等思想であると解しています。
 いつも長くてすみません。
 ららさんは、朝起きて一番にあけてみます。
 その時、いつも新しいのがでてくるので、感心しています。

 名古屋城の石垣は立派ですが、大きな岩だけでは組み立てられません。小さな石ころを埋め込んで崩れないように支えています。それぞれが大事な役割をしています。
 ひろさちやは、「世間の物差し」を捨てろと言っています。何かと比べる物差しで駄目にされているというのです。そして、仏の物差しを持てと言っています。

友達が「瓦の裏にお用がある」と言った事があります。彼女の郷ではよく言うそうです。屋根の瓦は頼もしく美しいが、それを固定している裏がなければ成り立たない。
アンソニー・クインが主演した「道」という映画のなかでジェルソニーナという頭が弱いが心の美しい相棒に粗暴な大道芸人が「道端の石も必要なのだ」と言ったように憶えています。
大道芸人が「お祭りに行って金を稼ごう」と言った所から少し落ち着いて来た心が狂いだし、相手の言っている言葉が全く解らなくなり荒野のなかで芸人と別れる。美しい心には金という言葉が耐えられなかったのだろう。
竹中元大臣は金と名誉を追っ掛けることで、汚い罠も掛け、小泉元首相共々人気失墜し非難されています。
人はみんな平等で、自分らしく生きて行ければ幸福です。

長いコメントを有難うございます。仏教に関心を持っておられたのですね。
私の仏教観について30日のblogに載せます。
私たちがこうしてあるのも、貴女がおっしゃるようにみなに生かされているのだと思います。縁起ですよね。全ては縁によって生じているのだと釈迦は言っているようです。

(v^ー゜)ヤッタネ!!仏様のお話は大好きなんです。カラオケ歴より長いお付き合いです・生まれたときから母の影響を受けていますので、先日の中日新聞に連載されていました親鸞は読んでいましたし、五木寛之の本は色々読んで感銘しました。大河の一滴は愛読書で大切にしてます。

23歳の時に夫と結婚しましたが、世間の人は私は子供に恵まれませんでしたと伝えると淋しいですね・・・とか、後をどうするの?とか色々心配されました。時の流れのままに来ただけですから何も心配もしなければ、寂しさも感じませんと言えば嘘にになりますが、一つだけ言えますのは仏様の教えが支えになっているなと良く思います。

それは私をこの世に産み出して育ててくれた父と母の教えと嫁ぎ先の父・母の教えに学校で教えていただいた先生や友人等たくさんの人によります。20歳頃より私は東別院に出入りして友達にもたくさん恵まれ、最後は独りなのだ!と言う信念を心に刻みました。今は98歳の義母と72歳になった夫と私より年上になった牡犬との生活をエンジョイしております。

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