ごく普通のシニアが書いた「経験的外国語習得論」―②―
(二)外国語習得論
(1)外国語習得論を書く動機
上に書いたように、私は、英語会話と中国語を自分で勉強し、日本語を外国人に教えている。
3月23日に書店に行った時に、たまたま「外国語学習の科学」――第二言語習得論とは何か(白井恭弘著、岩波新書)を見つけた。第二言語習得論という副題に興味をそそられて買った。
それを読み終った後、自分の経験を踏まえながら外国語学習について考えてみたいという気持ちが沸き起こった。それでこれを書き始めたのである。
(2)言語習得の両面
言語の習得には、二種類ある。一つは母語の習得(日本では獲得という)と、もう一つは外国語の習得である。不思議なことに母語の習得には普通失敗がない。しかし、外国語の習得は殆どの人が大変に苦労をする。
言語の習得行為には、インプットとアウトプットがあると言われている。インプットは「聴く」と「読む」で、アウトプットは「話す」と「書く」である。
前掲の書によると、アメリカの南カリフォルニア大学のスチーブン・クラシェンは「言語習得は、母語も外国語も言語内容を理解することのみによって起こる」という「インプット仮説」を唱えたという。(p.94)彼はアウトプットは言語習得とは無関係だと主張したのだ。
赤ちゃんの場合、母親や周りの人々の話しかけによるインプットのみである。その内にインプットされて脳内に記憶されたものが喃語として発話されるようになる。文字を覚えて本が読めるようになるまではもっぱら聴くことによるインプットのみである。幼児期に母語の単語や簡単なフレーズの意味や発音、聴解、文の仕組み、文法、作話力などを自然のうちに身につけてある程度の母語を覚えてしまう。
残念ながら私は何歳までにどのくらいの母語を覚えるのかというデータを知らない。
(3)インプットとアウトプットの関係
ところで前掲の書を読んで啓発されたのは、「アウトプットはインプットの範囲を出ることはない」ということである。
これまでただ漠然と、言語の習得には、読む、書く、聴く、話すの四つの能力を高めることが大事だと思っていた。また多くの参考書にもそのよう書いてあった。だから言語の四能力を如何にして高めるかが鍵であると考えて実践してきた。
ところがこの本を読んで、先ず、インプットとアウトプットに分けて考えることが大事であると知った。そして、アウトプットはインプットした量の中でしか行えないということがわかった。
確かにアウトプットでは新しい言語を手に入れることはできない。ただできることはインプットしたことを強化し自動化することだけである。(自動化とは言語を無意識的に使える能力のこと)
その観点から言うと、アウトプットも大事であることが分かる。インプットによって対象言語の単語、慣用句(イディオム)とその意味、発音、発話法などをどんどん取り入れていくことができる。が、それだけでは対象言語を完全に習得できるわけではない。アウトプットによって定着を図らねばならないのだ。
(4)言語の無意識的行為と意識的行為
人間は遠い昔に言語を獲得した。今もアマゾンの奥地で原始的生活を守っているヤノマミ族は人口僅か150人程度のいわば絶滅危惧種であるが、彼ら独自の言語を持っている。おそらく狩猟や自然物採取や自然現象、彼らの宇宙観(シャーマニズム)、日常生活などに必要な言葉だと想像される。
我々現代人は原始人に比べると遥かに大量の言語を使うようになっている。しかし大事なことは、人間の活動には言語が非常に大きく関係しているということである。
人間の言語行為であるが、母語話者(ネイティブスピーカー)は、言語を操るときに日常会話などでは殊更考えることなく無意識的に行っている。生まれてから獲得した言語能力をいわば無意識的に扱うことができるのだ。
言語を使用する場合、意識的に使用する場面と無意識的に使用する場面がある。今私は文章を綴っているが、この作業は極めて意識的に行っている。そして、それを脇から見ているもう一人の自分(無意識)があるのだ。これは自然的(無意識的)に話す場合にももう一人の自分がいるのである。それによって発話の作業は絶えずチェックをされているのである。
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コメント
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以前にどこかで「辞書を引く前に頭で想像しろ」と書いてあったことを思い出しました。考えてみると、日本語の文章を読む場合でも分からない言葉が出てきたら飛ばして読むか、想像して読むかをしますよね。
文学の場合は想像力は大事だと思います。
投稿: らら | 2009年5月 6日 (水) 09時31分
私は軽い小説位は読むのですが、それも解らない言葉が出て来れば、想像逞しくして我流に理解するのです。辞書を引きもせず、クイズを解くように考えるのです。一寸した頭の体操です。
アウトプットの能力は皆無に等しいのですが、酷いブローキングで他はパーソナリティでなんとか?常に挑戦される貴方に敬服します。
投稿: maron | 2009年5月 6日 (水) 08時55分