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2009年2月 3日 (火)

私を音楽に関心を持たせてくれた3人-1-

 私が音楽に関心を持つようになった上で大きな影響を受けた人が三人いる。一人は、小学校の高学年の時の担任で、後の二人は中学、高校時代の友人である。

 小学校4年の夏にあの忌まわしい戦争が終わった。我が町熊野の新宮市にもB29から焼夷弾が落とされ、市街地のかなりの部分が焼かれたし、終戦少し前の南海大地震でも市街の中心地が全焼するという被害を受けていた。

 そんな中で私の小学校は幸いにも被害を免れた。

 新宮市というのは、当時は「陸の孤島」といわれていた。何故かというと、大阪、和歌山から紀勢線で8時間ぐらい行った熊野川の河口平野にできた小さな街で、そこから1時間ほど行った木の本町(今の熊野市)で鉄道が行き止まりとなっていたからである。

 しかし、新宮市は熊野の一角にあり、神武天皇の東征にもでてくる、神話にも関係ある古い歴史の街である。

 私の小学校は、千穂小学校といって、神倉山という謂れのある山の麓にあった。サッカーの日本代表のロゴに八咫の烏が使われているが、我が小学校の校章も八咫の烏であった。神倉山が八咫の烏の伝説に関係していたからである。

 戦災と震災を免れた千穂小学校の講堂は、震災時に仮設住宅代わりに使われたこともあって黒くくすんでいたが、何百人も収容できる施設として貴重なものであった。

 講堂の椅子は木でできたベンチであった。ステージが付属していた。今から考えると大変お粗末なものであったが、その頃としてはいいものであったに違いない。

 その講堂に時々東京から一流の音楽家が来て演奏するようになった。時期は前後するが、記憶を辿ると、藤原義江、砂原美智子、福井というバイオリニスト、真夏の夜の夢を演じた歌劇団、など、ピアニストやバイオリニストや声楽家が陸の孤島まで来たのだ。

 なぜ、あの時代にあんな陸の孤島までクラッシックの音楽家が来たのかはわからないが、私の想像では、新宮には文化人がいたのだと思う。そういう人たちが呼んだのではないかと思う。

 私の担任は、正木健先生(後に日本体育大学教授)といって、新制高等学校を卒業したばかりの先生であった。

 この先生は、百円ショップで売っているような帽子を被って、放課後などにはよく歌を歌っていた。今でも覚えている歌は、「フニクラフニクラ」「オールドブラックジョー」である。

 講堂でコンサートが開かれると、昼間は私たちも見ることがあった。夜の講堂のコンサートを殆ど聴きに行ったが、そうした影響を受けたのが正木先生からである。クラッシク音楽に最初に目を開かせてくれた人と言っていい。

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コメント

有難うございます。
私の故郷、新宮はいいところでした。今はすっかり変わってしまいましたが。熊野川の流れは変わらず、山紫水明のよいところです。

昨年紀伊半島を1周しました。とても楽しい旅で紀州は良いなと思いました。
ブログに勝浦、白浜と言う題でかきました。
新宮へは寄りませんでしたが、何時か行きたいと思っています。

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